【6月1日(月)】

 書くのを忘れてましたが、最近わりと気に入ってるのがSOPHIAの「ゴキゲン鳥」。オレ的にはこれってSF翻訳さんの歌だよねってことになってて、こないだの古沢新人賞宴会カラオケでも(古沢さんいなかったけど)古沢版の替え歌を歌ったのである。
「6畳1間の鳥カゴ」を「初版××の早川」、「10畳1間の犬小屋」を「初版××の扶桑社」に変更、あとは「渋谷」を「梅田」に、「最上階」を「SF Online」に変えて、crawlerをtranslatorにすればほぼ完璧。「幸せ」=増刷、Happy Birthday=バベル新人賞とか、追加オプションあり。
 オリジナルの詞(松岡充)の、
「限られた数の相手の中で/一生かけての大激闘/フタを開けりゃ脇役争い/人生ってこんなもんかな」
 がそのまま使えるところがポイントでしょう。でも堺三保はしゃぶしゃぶより焼肉が好きかも(笑)。
 ……って、「ゴキゲン鳥」知らないとさっぱりわかりませんね。すみません。


【6月2日(火)】

 茶木×我孫子論争その後。
 前回この日記で書いたことについて、6月2日付けのごった日記にていねいな回答がありました。
 というか、我孫子さんの主張の基本的な部分に関してはほぼ同意してるので、前回ここで書いたのは、「誤解される可能性のある部分を誤解して文句をつける」という、意図的な揚げ足とりみたいなもの。
「本をめぐるミステリ」に文句をつけたのは、それが「本好き」の意味の曖昧さを批判する文章のあとに置かれていたせいですね。「○○にはたまらない」のほうに(より大きな)問題があることを確認できればそれでOKっす。

「○○好き」と「○○マニア」の違いに関しては、程度の問題でしょう。というか、一般には「○○好き」の中に「○○マニア」が含まれるわけですが、「SF好き」とか「ホラー好き」と言った場合、「マニア」の婉曲表現(あるいは、より一般的な言い方)と見なす人もいるのでは。

『スクリーム』を「ホラー映画好きにはたまらない」と表現することはやはり無意味だと思うが、「ホラー映画マニアにはたまらない」という表現には十分意味がある。
 と言いたい気持ちはわかるにしても、それほど大きな差を認めない人も多いはず。

『名探偵の掟』は、「本格好きにはたまらない本格」でも、「本格マニアにはたまらない本格」でもないと思うけど、そう形容する人がいても不思議じゃない。ぼくの感覚では、どちらの場合も表現として「無内容だから悪い」のではなく、「無神経だから悪い」。見解を異にする読者がいるかもしれないってことに配慮しないのは想像力の問題で、もちろん、わざと配慮しない選択もありだけど、この言い方は確信犯じゃないでしょ。
 これは『死の蔵書』の「本好きにはたまらない本」もおなじこと。我孫子さんは「無内容かつ無神経」と言ってるけど、ぼくは必ずしも「無内容」だとは思わない――と、対立点を要約すればつまりそういうことですね。
「○○が好きな人がたまらない○○」には、「できのよい○○」はすべて含まれてしまうと思うのだが、そう感じるぼくの方が間違っているのだろうか?
 と我孫子さんは書いてるけど、「『死の蔵書』は本好きにはたまらない本です」というコメントを見て、「そうか、できのいい本なんだな」と自動的に思う人はそう多くないんじゃないか。少なくともぼくなら、「本好き」の心をくすぐるなにかがある(本が出てくるとか、作中作があるとか、作家の私生活が書かれているとか)と予想する。
 万一、「できのよい本」のことだと思う人がいたとしても、最低限の内容は伝達されているわけで、厳密には「無内容」じゃない……っていうのは屁理屈か(笑)。まあふつうの読者は、そこまで厳密に論理的に考えないだろうってことです。

「マッチポンプ」発言については、たんに、「これは本来あるターゲットへ向けての推薦であるはずなのに、自分がそのターゲットなのかどうかさえ分からないのだ!」とまで言うのは書きすぎじゃないかと指摘しただけのつもり。
 ま、ふつうに考えると書評欄なんか読むのは「本好き」に決まってるんだけど、女性誌や情報誌の場合、かならずしもそうじゃない。ジャーナリスティックな意味での話題作しか読まない読者がたくさんいる媒体では、「本好き」というおそろしく範囲の広い言葉でさえ、対象をある程度特定する効果を持つだろう。
「一行だけのコメントとしてこのように書いた人々も何人もいる」と言うけれど、この手のコメントはたいてい電話取材や口頭の取材を編集部がまとめるわけです。
「いやあ、ウチの読者はふだん本なんか読まないんで」と平気で口にする編集者(もっとひどい実例では、「ウチの読者、頭が悪いんで」とか言う人もいます)が、「ウチの読者」にとってきわめてわかりやすいコピーとして、「本好きにはたまらない一冊」という表現を採用してたりするんですね。
 そういう媒体の差を無視して、大量の「本好きにはたまらない」表現を蒐集し、並べて見せたところに我孫子原稿のポイントがあったわけで、「だれもかれも書いてるのとおんなじこと書いて恥ずかしくないの?」という効果はたしかにあった。
 じっさい、同種の表現が各所の書評で恥かしげもなく無批判にくりかえされる傾向はつねにあって、最近だと古川日出男『13』の書評には必ずといっていいほど「マジック・リアリズム」という言葉が使われているし、京極夏彦『嗤う伊右衛門』も、「鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を下敷きに……」と書きはじめる書評がやたらに多かった(オレ的には、どっちもまちがいだと思う)。
 お金もらって書評するなら自分でモノを考えて、ほかの人間が思いつかないような形容をしろ、というのは正論でしょう。ただし、媒体によってはそういうことを要求されない(むしろあたりさわりのないことを書けと要求される)ケースもある。茶木さんが腹を立てたのも、媒体が許す場所では自分なりの書評を書いたのに、それが許されない場所でのコメントだけを引き合いに出されたから、という理由が大きいのでは。

「安易な一般化」については、誤解を招く表現でした。ここで言いたかったのは、「対象を曖昧にするような表現」程度の意味ですね。「論理として粗雑」と言ったのは、ひとつには、「エラーを指摘されてもそれがエラーだと気がつかない」という表現が、「エラーをエラーだと思っていない人」にとっては無意味だということ。もうひとつは、そもそも「小説を正しく読む」とはどういうことか、それが定義されてないこと。さらに、「言葉のニュアンスの違いも分からない人間」という言い方も議論の余地があるでしょう。「言葉のニュアンスの違い」に対する感じ方が、ぼくと我孫子さんではかなり開きがあることはすでに明確になってるわけだし。
 つまりですね、「エラーを指摘されてもそれがエラーだと気がつかないのは致命的だ。言葉のニュアンスの違いも分からない人間が、正しく小説を読めるはずもない」という表現は、「我孫子武丸の主張は客観的に正しい」ことを前提にしているので、これでは議論にならないでしょうってこと。反対派からは主観の押しつけだと言われてしまいかねない。
 とくに今回の場合、「パーティでの立ち話」を材料として、WWW上に発言の場を持たない茶木さんの言動を一方的に批判するかたちになってるわけだから、ウェブ上の論争の場合以上に、表現に対しては慎重になるべきなんじゃないかと。
「権力の行使」と言ったのは、「作家の方が書評家より立場が上なんだから、そんなに攻撃しちゃかわいそうでしょ」という意味もなくはない。でも、前々回にも書いたとおり、特定の書評を攻撃することまで「かわいそう」と言ってるわけじゃないっす。書評家は書評で特定の作品をけなしたり誉めたりすることで権力を行使してるわけだし、作家はどんどん特定の書評をけなしたり誉めたりすればいい。
 ただし前回ごった日記は、茶木さんのパーティの発言をもとに、「正しく小説を読めるはずがない」と、書評家としての能力(ついでに下読み委員としての能力も)を全否定するところまで行っちゃってるわけで、ごった日記を読んでる編集者がそれを鵜呑みにして、次の原稿依頼を控えるとかそういう事態になっちゃうとしたら、かなり現実的なかたちでの「権力の行使」になる。
 ……というか、じっさいにそういう事態が起きることを心配してるわけじゃないんだけど、「我孫子武丸は編集者に圧力をかけて気に入らない書評家を干そうとしている」みたいに思っちゃう半可通な人が出ないともかぎらないわけで、(これは『ベスト10』の原稿の後半部分についてもちょっと思ったことだけど)そう解釈される可能性がある書き方は避けたほうがいいんじゃないか。ってよけいなお世話だけどさ。
 もっとも、すべてが茶木則雄を怒らせて無理やり反論を書かせるための戦術だったという可能性もあって、だとしたらたぶん(「怒らせる」ことに関しては)目的をじゅうぶんにはたしてるんでノープロブレムですが。
 茶木さんもパーティで噛みついてないで、自分の持ってる媒体で正面から反論すればいいのに。いや、ここまでくると次は「隔離戦線」かな。今月のミステリマガジンに注目。


【6月3日(水)】

 7時、新宿東口の中華料理屋で雑破業を励ます会。といっても、SFオンライン組を中心に十人ぐらい集まって飯食うだけですが。
 しかし雑破業も、ゆんゆんパラダイスの書き直しばっかりで新作が全然出ないぞ。もうちょっと気合い入れて仕事していただきたいものである。
 雑破業とはひさしぶりなので、最近のアダルトコミック業界の話を聞く。ヒマがあったら金曜日のロフトプラスワンを覗きに行くかな。永山薫氏とは会ったことないし。

 家に帰って、アンダースン&ビースン『終末のプロメテウス』(ハヤカワ文庫SF)を読了。なんか登場人物多すぎでしょう。多視点のベストセラー形式を使うなら、導入はもうちょっとうまく書いてほしい。ありきたりのバイオハザード物っぽくはじまりながら、全然ちがう方向に行くのはSFっぽくていいんだけど、しかしSFで書いてほしい部分を素通りして、しょぼい戦いの話になっちゃうのはなあ。ポストホロコーストな世界で復興を目指しながら圧制と戦う話っていうと、まるで『スワン・ソング』か『ポストマン』。いやまあ、「紙か髪か」じゃ長編にはならないだろうけどさ。

 東野圭吾『探偵ガリレオ』は、物理学者が探偵。犀川&萌絵シリーズと共通する部分がなくはないが、むしろ「怪奇大作戦」かな。科学者探偵物だと、SFではシェフィールドの『マッカンドルー航宙記』ってのがありまして、これはミステリ読者におすすめ。『探偵ガリレオ』は、スケール的にはぐっと地味だけど、さすがに手堅い感じ。


【6月4日(木)】

 夕方起きてミストラルで仕事。
 恩田さんが取材のついでに、週末、京都に行くというので、オレもかねてより懸案の我孫子邸訪問のついでに関ミス連例会の山田正紀講演をのぞきにいくことにする。いや、起きるのが間に合えば、ですが。
 場所は京フェスでもおなじみの京大会館。なんかセミナーや京フェスが綾辻さんや我孫子さん呼んで、関ミス連が山田さん呼ぶんじゃ話があべこべな感じですが、相互乗り入れな時代ってことですか。
 しかしあんまりゆっくりもできない感じ。京都から先に足をのばすのは無理か。まあ新幹線で本が読めるからいいや。


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