【5月28日(木)】

 書くのを忘れてたけど、横溝正史賞の司会はTBSの進藤晶子アナだったんでした。くそー、デジカメ持ってけばよかった、と思ったことである。

 3時半、半蔵門の川喜多メモリアルビルで「ねじ式」の試写。うーん、「ゲンセンカン主人」では、石井輝男もけっこうふつうの映画とるようになったじゃんと思ったけど、「ねじ式」はいきなり暗黒舞踏(笑)。「別離」「やなぎ屋主人」「もっきり屋の少女」とつないで、最後が「ねじ式」。機関車はどうするんだろうと思ったらミニチュアでした。「ぽきん。金太郎」の老婆が清川虹子(笑)
 わたしは高校のころ出た小学館漫画文庫の『紅い花』『ねじ式』でようやくつげ義春にハマった口なんですが、さすがにこのへんの作品はコマ単位で覚えてるので、映画自体は退屈でもけっこう楽しめたかな。もっきり屋の少女はつぐみなので、テロメアおたくな人も必見。くそー、杉作J太郎ゆるすまじ(杉作は、ちよじのおっぱいをいじる男の役で出演)。
 考えてみると、『ねじ式』は、国産作品としてはもっとも読まれ引用されたシュールリアリズムかも。しかしなぜブロバリン100錠。

 代々木に移動して、6時から「ひつじや」で恩田陸独立記念宴会。新潮社、角川、講談社、早川書房、幻冬舎、集英社、徳間書店、文藝春秋、祥伝社など各社編集者が30人ほど集合。竹内祐一がいるのは本人だから当然として(笑)、なぜか福井健太と日下三蔵もいる。山口雅也氏もゲスト参加で、このへんはワセミスラインですか。
 メンツ的には文壇パーティで珍しくない顔ぶれなんだけど、着席なので不思議な感じ。なんとなく各社の席ができるところはスタ誕決戦大会ふう(笑)。オレのまわりでは竹内パーティのFF対決、横溝賞パーティの我孫子・茶木対決が話題でした。
 あとは新潮社組(退社予定含む)がけっこういたんで、最近の社内事情とか昔話とか、『小説新潮』最新号の新本格特集(まさか小新に喜国さんのイラストが載る日が来ようとわ)の話とか。そこに宇山さん@講談社文三がまじったりしてわけわかんない。

 えんえん10時ぐらいまでひつじ料理を食いまくり、残った20人近くがそれから徒歩で新宿・梟門に移動。爆発的に眠くなったので、午前3時半タクシー帰宅。


【5月29日(金)】

 1時半起床。雨の中、ミストラルまで出かけて、2時からSPA!の取材。エロス・コミックスのManga Eroticaな話なので、トーレン社長に回答させてオレは通訳。

 6時、神楽坂のフレンチレストラン、ル・クロ・モンマルトルで、「古沢嘉通のバベル新人賞受賞を祝う会」。編集者10人ぐらい、SF系翻訳者が10人ぐらい、その他が10人ぐらいの合計29人。
 バベル新人賞っていうのは、雑誌『翻訳の世界』が毎年やってるベスト翻訳書アンケートの投票結果をもとに選ばれる賞。今回、ベスト翻訳書で『火星夜想曲』が二位に入り、まだぎりぎり39歳の古沢さんに新人賞の受賞資格があると見なされたわけですね。訳書が30冊以上あっても新人なのがこの世界。というか、SF系の翻訳者は業界の非主流なので新人に見えやすいってことかも。
 まあなんにしても、昨年のベスト海外SFを訳したことで新人賞をもらったというのはめでたい話で、あとは『火星夜想曲』がもうちょっと売れればなあという愚痴は古沢さんの得意技だ。
 ちなみに新人賞の賞金は10万円。授賞式のための交通費・宿泊費は一切でないので、古沢さんはなんと目白のフォーシーズンズに二泊(33,000円×2)、往復の飛行機代で賞金を男らしく使い切った模様。パーティのシャンパン代負担とか考えると赤字でしょう。まあでも新人賞は一生に一度だからな。オレも奮発して、西葛西のディスカウント酒屋「ほとだ」でいちばん高かったフランスワインをプレゼント。いや、といっても、主力は千円以下のチリワインという店なので全然安かったけどさ。
 今回の宴会幹事は古沢嘉通に指名された三村美衣で、会場は神楽坂を外堀通りからちょっと上がって右に入ったところ。家庭的なムードだけど、料理はなかなかよかったす。
 古沢席はホール中央の四人掛けのテーブルで、周囲は内田昌之・妻(ゆき)、塩澤快浩・妻(博子)、嘉藤景子と新婚の人妻でかためる構成。
 が、しかし、古沢さんが挨拶のため席を立ったとたん、かわりにするっとその席についたのが白石朗。あろうことかこのおやぢ、一次会終了後、約20人が二次会に流れた隙をついて、内田妻と塩澤妻を神楽坂某所に拉致。
 二次会から三次会のカラオケに流れる段になっても戻らず、妻の安否を気遣う塩澤SFM編集長は、白石朗の潜伏先をさがして、神楽坂をえんえん一時間放浪しつづけたのだった。
 ようやく白石組がカラオケボックスに合流しても塩澤はもどらず、今度は夫をさがして妻が出発したと思ったら、塩澤がひとりでもどってくるという「きみの名は」状態。そうこうしているうちに塩澤夫妻は終電を逃してしまい、夫婦ごと西葛西に拉致されて四次会のカラオケに突入したんだけど、さんざん白石朗に飲まされた塩澤妻は激しく酔っ払って自転車蹴飛ばすわ、諸悪の根源の白石朗は、「あー、眠くなっちゃったな」とボックスで寝込んじゃうわ、本阿弥さやか嬢はわれ関せずとひたすら石井竜也系の曲を歌いまくるわ、いやたいへんでした。


【5月30日(土)】

 2時過ぎに泣きながら起きて、3時、バベル・ビル@半蔵門で第8回BABEL国際翻訳大賞の授賞式。写真つきのレポートはSFオンラインに掲載予定。古沢さんの受賞者スピーチはSFマガジンに掲載される模様。オレ的には社長のスピーチが長くてけっこううんざりしましたが、まあ古沢さんが受賞したんじゃ、ちゃんと授賞式聞かないわけにもいかないからな。
 授賞式のあとは鶴屋八幡のティールームで一時間ぐらいお茶飲んで、5時半からバベルビルにもどって懇親会。関口苑生大兄が来てたので、茶木さんのその後な話を聞く。ほかにも内緒のうわさ話いろいろ。
 パーティ後、翻訳フォーラムの迎撃オフに出る古沢さんと別れて、半蔵門のカフェで一服。小浜、三村、塩澤、尾沢@朝日新聞、河野、上池に関口苑生とか、わりと謎なメンツ。仕事で昨日の宴会をパスした水玉螢之丞画伯が古沢さんにプレゼントの絵をわたしてからこっちに合流。嗣子ちゃんフィギュア(アボくんつき)の見本を見せてくれました。原型は香川雅彦さんで、海洋堂から近々発売予定。西澤保彦ファンはマストバイでしょう。

 解散後、FHONYAKU勢に迎撃されている古沢嘉通を冷やかしたりしつつ、ぶらぶら四谷まで歩き、小浜夫婦&水玉さんと一時間カラオケして帰宅。「プロメテウス」読みつつ爆睡。



【5月31日(日)】

 ごった日記の5月25日分で、我孫子武丸が。「本好きにはたまらない本」問題に言及している。
 前からなんとなく思ってたんだけど、我孫子さんは議論に向いてないのではないか。反論に対して持論をくりかえすだけじゃ議論にならないでしょ。挙げ句の果てに「もう少しものの分かる人だろうと思っていたぼくが馬鹿だった」というお決まりの捨てぜりふが出てくるようでは……。そもそも「平行線」になるのは、茶木さんの問題であると同時に我孫子さんの問題でもある。
 たとえば、「本好きにはたまらない本」という表現の是非は、「趣味の問題」ではなく「言葉に対する感性の問題」だと我孫子武丸は言うわけだが、こう言い換えたんでは、「感性の問題なら、けっきょく趣味の問題ってことだろ」という反論を容易に招いてしまう。「しょせん趣味の押しつけ」という批判に対する答えになっていない。
 ごった日記のこの回は、論理的にも混乱がある。
 「本好き」の意味する範囲が曖昧だからよくないと言いながら、

 そう、『死の蔵書』の最も短い的確な表現は、「(古)本をめぐるミステリ」。ここには何の曖昧さも、誤解の入る余地もない。賞賛の言葉は入っていないが、聞いただけでわくわくしてくる。

 と書くのが典型的な例。ここで「古本」の「古」をカッコに入れてしまったのでは、それまでの議論がまったく無意味になってしまう。「本好きにはたまらない」の「本好き」が曖昧なのとおなじくらい、「本をめぐるミステリ」の「本」の意味も曖昧なのである。「本をめぐるミステリ」がOKで、「本好きにはたまらないミステリ」がダメだと言うためには、べつの理屈が必要だろう(『「本好き」すべてが喜ぶと確信できない以上、より正確を期すなら「本をめぐる映画」で十分』という理屈がそれにあたるのだが、ここでは力点を置かれていない)。

「本好きにはたまらない本」「ミステリ好きにはたまらないミステリ」という表現を無内容な「同語反復」とする論理もわかりにくい。
 我孫子武丸は、「本好きにはたまらない映画」というコピーなら「わざわざ文句なんか言わない」し、「少なくとも『本について描かれた映画』でさえあれば、おそらくコピーを書いた人間に腹を立てることはないだろう」と言う。
 だとすれば、「本について描かれた本」には違いない『死の蔵書』を「本好きにはたまらない本」と書くことがなぜいけないのか。
 映画で考えるなら、映画撮影の舞台裏が描かれたトリュフォーの「アメリカの夜」を、「映画好きにはたまらない映画」と評することはあるだろう。あるいは「スクリーム」を、「ホラー映画好きにはたまらないホラー映画」と書くことだってあり得る。この種の表現が無神経なのは、「同語反復」だからではなく、「××好きならだれでも必ず気に入る」という決めつけが内包されているからだ。

メタフィクション、メタミステリ、というわけではなくとも、「本をめぐる小説」というものはある種の人々の琴線に触れる。しかし、残念ながらそのある種の人々を「本好き」という言葉でくくるのは余りにも乱暴過ぎた。

 という結論も、同様に乱暴すぎるだろう。物理的な本なのか、情報としての本なのかが問題だったはずなのに、この文章ではそれがまったく区別されていない。
『死の蔵書』は古本がモチーフになっているだけで、そこにメタフィクション性はない。「本をめぐる小説」には、たとえば恩田陸『三月は深き紅の淵に』や笠井潔『梟の大いなる黄昏』、川又千秋『幻詩狩り』などのように、ある種の自己言及性(メタフィクション性)を持つ系統はたしかにあるけれど、それは本のソフトウェア的な側面が中心になっているものに限られる。
 もちろん、ハードとソフトが一体化したものが「本」である以上、「小説は好きだが本を買うのは嫌い」というような人は少数派だろう。だからこそ「本好き」という形容に問題を感じない人がいるわけだ。

 「本好きにはたまらない」というコピーについて、「本来あるターゲットへ向けての推薦であるはずなのに、自分がそのターゲットなのかどうかさえ分からないのだ!」というのも、考えてみればマッチポンプ気味。
 そもそも『'98本格ミステリ・ベスト10』の我孫子原稿は、『死の蔵書』に関する書評やコメントから、「本好きにはたまらない」と書いてある部分を抜き出してきて並べたものであって、たいていの場合、引用されなかった部分には、『死の蔵書』が古本業界関連のミステリだということが書かれている。したがって、「本好き」という言葉がどういう意味で使われているのか、読者にとっては一目瞭然。「自分がそのターゲットなのかどうかさえ分からない」のは、書評の一部分だけを切り出しているからに過ぎない。

 論証過程がこうも乱暴では、「(少なくとも茶木さんとは)まったく話が通じないことがよく分かった」と言っても、(少なくともぼくに対しては)説得力がない。
 前にも書いたとおり、「本好きにはたまらない」という形容が(一般論としてもそうだが、とくに『死の蔵書』に関しては)無神経であり、一種の「失言」にあたるという我孫子武丸の主張にはぼくも同意する。
 しかし、
「エラーを指摘されてもそれがエラーだと気がつかないのは致命的だ。言葉のニュアンスの違いも分からない人間が、正しく小説を読めるはずもない」
 というような決めつけは、たぶんそれ以上に無神経だろう。この発言は、論理として粗雑であるばかりか(安易な一般化をいましめた人が、安易な一般化をしちゃいかんでしょう)、作家サイドから書評家を攻撃することが一種の「権力の行使」にあたるという構造にも無自覚であるように見える。
 って、こう考えると、茶木さんも我孫子さんも頑固さにおいて似たもの同士かも(笑)。


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