魂 の 独 立 記 念 日

 

(No.1)

ああ...目を閉じれば思い出す。魂の独立記念日!
 
 

初めに。

法華講員の方と話してよく思うのは、平成3年に、多くの学会員は、まるで「日顕よりも池田先生の方を正しいとして池田先生に付いていく事を選んだ」かのように思っていることだ。
 
それは違う。

当時の学会員に池田先生がどうかなど全く論外であった。全く比較など無かったと言って良い。

ほとんどの学会員は、ただただ、日顕の行状に失望し、呆れ果て、挙げ句の果てに最後に自由になった事を実感しただけだった。

一方的な言いかただと思われるかも知れないが、それが実情である。

わずか数年後には、多くの学会員の中には、
「あっそう言えば、平成3年に日顕宗と離別したっけ。忘れてたー。」
というような見解も自然と出るようになっていった。

ああ。だが、私は忘れない、あの魂の独立記念日の年。
 

しかしその年を説明するには、もう少し当時の学会員の実情を説明したほうがよいだろう。

最初にお断りしておきたいことは、ここでは教義でどうなっているかの説明ではなく、ただ当時の会員の実情
だけをありのままに説明したいと思っていることだ。

当時の学会員には、「法主は仏法で一番偉い人」であった。
尊敬していたと言ってよい。しかし。

その厳密な教義上の位置付けの他は、およそ特別な期待は無かったと言っていいだろう。

学会員の意識に重きがあったのは、法主がどれだけ偉くて特別な人間なのかといったことではない。
普通の誰もが抱いたりするのと同じように、どうやったら不幸な人に自信を付けさせられるのか、社会にうずくまりそうになっている人を主体性を持った人生にさせてあげられるのか。
どうやったら、絶望している人を、その環境から実際に立ち上がらせることができるのかであった。

実際にその人を幸せにすることが出来るのかといった「現実での格闘」に最大の重点が置かれていた。
それは、そこにこそ信仰を持続していく意義があるからだ。

その中で、実際に一人一人を激励し、困難な局面で具体的な指導をされていった池田先生に人望が集まるのは当然のことであった。

池田先生は、何も偉いから人望が築かれたのではない。
まず、ここをわかってもらいたい。
ここがわからないと学会の組織など、永久にあさっての方向を探るばかりで理解できないだろうと私は思う。

例えば池田先生から実際に深く激励された人々のその数がなんと多いことか。
私が転々と所属してきたどこの地方の小さな組織単位にすら先生から激励された人が何人もいた。
その中には、先生に会うためにと無理やり強引に押しかけたとか、待ち伏せて会った人も多かった。
そういった人にまで先生は徹して激励されていたようだ。 

いったい他のどんな組織を比較にあげればこの実態を想像をしてもらえるだろうか。。。
学会を支える中心者の活動量というかその配慮は尋常のレベルではない。
中心がここまでするのかと思うほど行動しているが故に周辺が感化されて動くのだ。

例えば。
近代看護の創立者であるナイチンゲールが語るには、彼女の圧倒的な人望は、近代的看護の確立という偉業が世の中に評価されたからではないと言う。
ただみんなが寝静まった深夜に、ランプを持って、何kmも離れた夜の病棟を一つ一つ見て回って寝ている患者たちの様子を一人一人と毎日見て回ったそのことだけにあるという。

実際に行動している部分に触れることで感化されて、初めて人望は築かれる。
これが歴史の必然だと私は信じている。
人を突き動かすのは学識ではない。行動である。
つまり、池田先生はその行動を通して自然に慕われていったと言える。  

では、法主についてはどうだったろう。

池田先生とどっちが偉いと聞かれれば、当時の学会員なら迷わず、「そりゃ猊下に決まってる」と答えただろう。「猊下は仏法上の師匠だ」とか、そういう風な解釈で理解していた。
大聖人から唯受一人として順番に法を伝えている、だから尊いんだと、どの学会員もそう認識していた。
学会員こそはその法を伝えているということを誰よりも尊く信じている自負心を持っていた。

だが。

 しかし私はそういった教義上のドグマ(強迫的制約)は、人の意識をとどこおらせることはあっても、真に人を主体的な行動に突き動かすには、まだ理由として足りないものだと思う。
そういった観念で信じるだけでは実はまだ表層的であってそれだけでは浅いものであると思うのだ。

ところが。
ではどう仏法上の師匠足り得ることのできる人物なのかと掘り下げることがなくても、自信たっぷりに納得していたものだ。
それでは学会員の認識は表層的なものに終始していたのだろうか。

確かに猊下の話を聞いてもなにか感銘するような話を聞くことは無かった。
だがそれはそれでもよかったのだ。

学会員は表層的な理由ではなく、もっと深いところで、法主を尊い存在だと認識していたと思う。
つまり実際に人々を救うその意義に関わっている部分こそを理由に重んじていたのではないだろうか。

つまり法主自身がなにもしなくても学会がその存在意義を持っていたからである。
法主が何もしていなくてもだ。(というようなことは実は牧口先生の草創期から認識されていたことだが)
「そんな学会を見守ってくれているんだ」というだけで尊い存在であると信じていた。
(「見守ってるだけで」というのがミソであるが。)
現実に、民衆を守る働きに連なっているからこそ尊いのである。
そんな猊下であると信じていたから、当時の多くの学会員が命がけで守ろうと思ったのだ。

これについては堀日亨・法主自身が「学会を取ったら日蓮正宗には価値的なものは何も残らない。(趣旨)」
と述べてきたとおりである。

繰り返すが、猊下の立場が尊いからその立場を尊敬していたのではない。
人々の幸せのために奔走するする「そんな学会を見守ってくれている」から、想像を逞しくして尊い猊下だと多くの人は思っていたのだ。

私達とは違うけど、法主はきっと厳しい修行をしていて、私達の知らない活動をされているのだろうと。
でもそんなことは別に知らなくてもよかったのだ。
学会がそうなんだからとそう想像していたのだ。

だから反面、誰でも宗門の指導層である僧侶たちには実際に不可解な思いをした事が多々あったものだ。

今から考えれば噴飯ものの話が多いのだが。
例えば、葬式だ。僧侶を呼ばなければ成仏しないなどという教義は本来仏教には存在しない。
にもかかわらず多くの儀式の強要とそれに関わる金額(ご供養)の授受。

そう、思い出せば、葬式といえば学会員は車で迎えに行かなければならなかったのだ。
御車代をきちんと渡しているにも関わらず、さらにこちらの車で寺まで迎えに行かなければならなかった。
この時点で2重取りでわけがわからないのだが全国どこでもそうだったようだ。
その車も軽自動車だと文句を言われるし、冷暖房が弱く車内が暑くても、ことごとく文句を言われた。

何故。。。今から考えれば僧侶の方々は吹き出しそうなお人柄だった。
そう、実際、人格に寄せる期待は皆無であったことは間違いない。
すぐに文句を言うし、どちらかというと人格的には冷酷な部類であった。

はたまた折伏で苦労して入信する人を連れていくと、その人に向かって学会批判をとうとうと述べる無神経さ。
それによって学会員にはどれほど無慈悲な人間像に写るか想像できないわけはないはずなのだが。

住職婦人など(そもそもなぜ威張っているのかよくわからないが)とにかく傲慢不遜であった。
ともかく修行も外交も何もないのに権力の位置についているのだから、自然にそうなるのだろう。
なにかとすぐ怒って、権威的な言辞で信徒を愚ろうすることを当たり前と思ってるあの雰囲気。
世間知らずというか、人情の機微がまるでわからない人々ではあった。

ではどうしてそんな僧侶たちを許して、いや、頭を下げていたのだろうか。。。。?
ここに現在の多くの青年層の疑問があるのではないだろうか。

その答えは、「それが日本人の宗教的慣習だったのだ」と断定しても非を唱える人はいないだろう。
日本人には「とにかく僧侶には頭を下げるもの」という抜きがたい習癖があったのである。
日本人ゆえなのである。
彼らはお経を唱えたりできる、修行した、特別な存在なのだとそう思われてきた。

普通に僧侶を見れば、「頭を下げるもの」という意識が確かに学会員自身の中にもあった。
宗門は、というか僧侶は学会の上部団体のようなもので、我々はそれに従うことが正しいのだと考えていた。
また学会とは違うのだから、あれやこれやと内部のように批判するのもひかえられていた。

つまり、そういった僧侶の実態を多少は知ってはいても、そう簡単に変わらないのが日本人としての強烈な習慣の恐ろしさであったと言えよう。






(No.2)

平成2年(1990年)、12月のことだ。

それは、暮れも押し迫った28日だった。世間では慌ただしい時である。
何故そのような時に重大発表をするのか不可解なことである。

学会の池田先生が、法華講の役職を全面的に失ってしまった。

27日の宗門の宗会での決議だそうだが、学会に知らされたのは郵送であったのでさらに後日だ。
突然だったのだ。

当初、これは単なる制度の改正による罷免であると発表されていた。
しかしこのようなやりかたはフェアではないなと誰もが思った。
宗門興隆の功労者がなぜ、事前にも事後にも一切連絡もなく、ただ紙切れ一枚で通告されていいものか。
さらに不可解なことは、宗門が本人に連絡を届けるよりも先に週刊誌に連絡していたことだ。


誰にでもわかるような陰湿なやり方である。
何が気に入らなかったというのか。
このような事を公けにやっておきながら、実は静かに反省を求めただけと強弁するのだから、あまり社会性を重んじていないと思われても仕方あるまい。

最初はまさかそんな子供だましな理由ではないと想像していた。
ところが宗門の藤本総監が、ずっと後でそう強弁しだしたのには恐れ入った(笑)。
実は人にわからないように反省を求めただけで、さらりともとの役職への復帰もあったのだと。

いったい。
その前にきちんとした話がなければならないではないか。
なにしろ本人には後にも先にも一切、御教示どころか、連絡すらなかったのだ。
法華講員は自然と「その前に法主から何かの指摘があったのではないか。」と想像を逞しくしてみせるが、事実は何もないのだ。

学校の先生が普通の生徒に突如、停学通知だけを送ってみせたりするだろうか?
ただその先生の陰湿な気持ちだけが生徒に伝わるだけだろう。

会社の社長が、社の掲示板に「制度変更のため一旦キミは社長の資格を失った」という会長命令の張り出しを見たら、どう思うだろう。優しさをかんじるだろうか。
やられらたとだけ思うだろう。それ以上に陰湿さ感じるだろう。

それが宗門のやりかただったのだ。誰しもそう感じざるを得なかった。
 





(No.3)

平成2年暮れから平成3年初頭にかけて

そのことを末端の私たちが聞き及んだのは12月の30日頃だった。
驚いたが、宗門のことであるし、どうせまた嫉妬した僧侶がいて猊下が誤解したんだろうぐらいに思っていた。
多くの人がそうだったろう。
学会員はこういったことには、(日常の僧侶の態度からすでに慣れて、)極めて冷静だったのだ。
しかし、上の方の幹部は、ぼくらには直接に訴えはしなかったがとても憤りを感じているように見えた。
婦人部長が直接、宗門に電話して「なぜこのような処置がするのか」と詰問したとか、いろんな伝聞を聞 き及ぶにつれ、学会は今回の事態をただならぬように受け取っていることがわかった。

それですぐ正月になったので、宗門ではどのような話になっているのか聞けると考えて、その年は日頃から見 知ってる数ヵ寺を回ってみた。
(地方の学会員さんは日頃から寺に行くという表現を不可解に思うかもしれないが、都市圏では住宅状況や交通状況から、勤行をしに来る私のような学会員でお寺はいつも賑やかだったのだ。
また、同様に交通状況から、地方のお寺では人であふれている姿はまず見受けられないが。)

ところで当時の学会のお寺に対する態度は、大変に礼節に満ちたものであった。
少し話はそれるが、学会が攻撃的なニュアンスになったのはいつからだったろうか。
今となっては記憶が定かでない方も多いだろう。
ここで断わっておきたいのは、それはこの正月よりもずっと後のことなのである。
 
後述するように、年明けに学会から抗議的な意味あいを持つ質問状が宗門に次々と届くことになる。
その内容を見ても学会の態度は冷静そのもので、礼儀正しく、実に紳士的であった。
学会が詰問調子で攻撃的なニュアンスになるのは少なくとも 4月以降のことである。

例えば創価新報などでもこの問題を早くから取り上げていたが、多くの人に記憶に鮮やかなあの宗門問題が“連続で1面”をかざるような調子になるのは、ずっと何ヵ月も後のことなのだ。
池田先生のスピーチなどで宗門問題が取り上げられるのは、さらにずっと後のことである。
学会はこの年の当初、宗門攻撃に会員を煽ろうとはしなかったといってよい。

余談になるが、初っぱなから日顕が「お粥をすすっても...」と泣き出して学会攻撃の調子をあおったのに比べれば、学会と宗門の対応は間違いなく大人と子供くらいの差があった。
日顕は悲壮な言辞で煽っておきながら自分は遊興で温泉旅行に行っていたのだから話にならない。

学会のほうでは真剣さがあった分、安心感に満ちていたといえる。
この年の11月に最後、破門される直前の時の秋谷会長のスピーチでさえ、会員を攻撃的な気分にはせずに緊張感を除こうとしていたものだった。
このときの秋谷会長の冒頭の発言は確か、「宗門問題もついにパロディー化してきました。」だったと思う。
宗門が次々と墓穴を掘る姿をパロディーだと的を得て評したのだ。
普通なら感情的になってもいいところだが実に冷静だったのだ。

話を正月のお寺に行ったときのことに戻したい。
宗門側からの『罵倒』が、いつ始まったのかといえば、もちろんこの1月の最初からいきなりである。
宗門の全面的な罵倒の攻撃調子はいきなりここで始まったのである。
 
信仰のために人々が集まったその席上で僧侶からなされたのだ。
僧侶たる者が正式な席に座って指導する話の内容は、思いつきではすまされない。
だがその意識がないせいか、彼らがやすやすと手の平を返し信徒を非難する姿はあさましかった。

まず、誰よりもお寺の僧侶の口調が攻撃調になっていたのだ。
数ヵ所の寺でトーンにかなり落差はあったが、どのお寺でも以前とはまるでうって変わった態度であった。
それは、どの寺でも1月初頭より日が追うにつれ激しくなっていった。

この間まで「池田先生...」と最大限に誉めたたえていたにもかかわらず、あまりにも手の裏を返しすぎだった。
私など、信用していたのに虫けらのように裏切られた思いで、聞いてて涙が出てきた。
そういえば、あの時、その年の1月1日付けの大白蓮華の紙面に掲載されていた猊下の説法も池田先生の功績を最大限に誉めていたのを思い出した。
空々しい内容であった。
私は、その日から宗門側の文書がお寺で直接手に入るので個人的情報収集のためにそれを読むことにした。

しかし、それでもこのときはまだこの宗門の問題はトーンは低かった。
多くの学会員もまだ、“嫉妬した僧侶がいてそれに騙されて猊下が誤解したんだろう”ぐらいに思っていた。
多くの人はおそらくそうだったろう。私もそう思っていた。

そういったわけのわからない正月を学会員は迎えさえられたのであった。






(No.4) 

平成3年 1月

一方、学会の見解は、年が明けて最初の、つまり1月4日の聖教新聞で初めて公表された。
この日の聖教新聞で、学会員は噂ではないきちんと整理された事情を知ることができた。

主に1面のほんの一部と5面に記事が載せられているだけだったが、それでおおよその経緯はつかめた。
まず、直接に問題にしているのは昨年12月末に宗門が突然に変更した宗規についてである。
その変更とは、

 1. 名誉会長以下12名が法華講での資格を突然に喪失したことと、
 2. 管長(法主)の批判をした信徒は除名処分となる、

ことで、これは今までの経緯からいって、誰もが不可解な思いを抱くぞと。
無理に総講頭に就くようにさんざんお願いしておきながら、今さら首切りとはなんなのだと。
(※聖教新聞ではそんな礼を失した言い方ではなかったが、要約するとそういうことである。)

また批判すると除名処分にするというような規則をつくってるのは、話し合いの解決を是とする仏教を信仰する僧侶としてはあるまじきことでもある。

聖教には、ただ客観的に宗規の変更に至ったのには一つの事情があったことが述べられていた。

簡単に経緯を説明すると、平成2年の11月にあった第35会本部幹部会の席上での池田先生の発言が今回の直接の原因らしい。

これが有名な、いわゆる『11.16のスピーチ』である。

このスピーチについて宗門がひそかに怒り、秋谷会長に録音テープ(←実は改ざん品)の存在などをチラつかせていたようだが意味不明で相手にされなかったようだ。
それで「お尋ね」の文書を、突如として秋谷会長の下に送りつけたのが、スピーチから1ヵ月たった、12月の半ばごろになってからだった。(←この日にちは未確認。)
突然、秋谷会長の下に届いたそうである。

これが有名な宗門のいわゆる『「お尋ね」文書』であった。

この「お尋ね」文書に対しての学会の対応が気に入らないためにさらに突如として為されたのが、今回の発表された資格の剥奪だったのだ。

以下、その経緯についてもう少しだけ詳しく述べたいと思う。

宗門が送りつけた「お尋ね文書」は、主に「11.16」の先生の実際の発言から、意図的に内容をわい曲した出所不明の偽造されたテープから起こした文章をもとに数点の発言をとりあげ、教義違背であると完璧に決めつけた詰問状であった。
これまたいきなりなのだが、こういったことがおかしいと思う人は宗門にはいないのだろうか。

なにしろ事実とは違う偽造された文章をもとにした非難であったので、もともと誤解であるから、学会はこれに対し、最初から書面による回答といったものではなくて、直接の話し合いを要望した。

誤解だと思えば誰だってそうするだろう。それこそが普通の人間的な優しさなのだ。
文書で回答すれば、ちょっと誤解しただけでは宗門もすまないではないか。

しかし、宗門はこれを一切拒否(なぜだ?!)し、まるで用意していたかのように、次にいきなり取った処置が年末の池田先生の罷免だったわけである。

と、ここまでなら、「11.16」のスピーチこそが宗門問題の論点なのかと思えるが、その後、宗門の主張は大きく崩れさり、宗門はこれを中途半端に撤回してしまうのであった。

つまり宗門は最初から大きくつまづいた。

もし、名誉会長にぬれぎぬを着せるのなら何かもっと、一般の信徒にはわからないとか、あるいは当事者だけしか知り得ないようなそういった高度な問題で罪状をあげれば、もっとみんなを騙せたのだ。

なにしろ当時の宗門は、今からは考えれないような権威をもっていたのだから。
礼儀正しく、「あななたち一般の学会員には分からないだろうが、学会の上層部はおかしいところがある。」
みたいなことだけ言っていれば、やみくもにそれを信じる人も多かったかもしれない。

しかし、この「11.16」のスピーチはなんと同時中継で全国の会館に流れたものなのだ。
つまり僧侶は知らなくても、当日はそれを全国の学会員が聞いていたものだからたまらない(笑)。
明らかに宗門の言いがかりであって、当日聞いた実際の先生のスピーチとは全然んんっ、違ったものであることは誰にでもわかることだった。
また、普段、学会内で為される指導ではありえない内容でもあったのだ。

宗門側の主張では、たとえ、どれだけ録音状態が悪かったとしても、前後の意味からも到底、取り違えないようなセリフに置き換わっていたのだ。
意図的に改竄(かいざん)されたテープに基づいたとんちんかんな宗門のいいがかりであった。

一例をあげれば、折伏についての具体的なスピーチで、先生の、

 『工夫して折伏する以外ないでしょう。ね。日淳上人が一番よくわかっていますよ。』

の発言が、「お尋ね文書」では、

 『工夫して折伏するのがないでしょう。ね。日蓮正宗でいなかったんですよ。』

に改竄されていた。
その文章をもとに勝手に、これは僧侶を冒涜したとか言ってるわけである。

また、同時中継で笑いがあった箇所なので私もよく憶えているが、先生の

 『どうしたら折伏ができるか? ただ朝起きて、「真言亡国・禅天魔(笑)」、 法を下げるだけでしょう。』
 
と、話の流れから、時と場所と状況を考えずに「真言亡国・禅天魔」というような言葉を繰り返しているだけでは折伏は出来ないでしょうと、折伏の実践に即して論じたことが明らかな部分を、お尋ね文書では、 なんと、『…ただ朝起きて』の部分を抜いて、

 『ただ…、真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう』

とだけ文を切り取って大聖人の四箇の格言を否定したと驚くべき曲解をしている。

また、あるいは先生が日達上人を賛嘆する意味で日達上人のメッセージを紹介した、

 『私(日達上人)も人類の恒久平和のために、そして世界の信徒の幸福のために、猊下というものは信徒の、 幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。毎日毎夜。大御本尊に御祈念申し上げております』

とのセリフをどう曲解したらそうなるのか、「お尋ね文書」ではこの発言をもとに、

 『名誉会長は御法主上人に対して「権力」と決め付けておりますが、創価学会でいう「悪しき権威・権力と戦う」の「悪しき権威・権力」がなぜ御法主上人に相当するのか、お示しいただきたい』

と御法主上人のことを悪く言ってるように文章を継げ足してまでしてすり替えている。

だいたい、もし本当にそんな発言があったら、学会中がそのスピーチの日には大変なことになっていただろう。(笑) 
当日のスピーチは多くの会員が聞いてたし、そこにもし、もしもだ、僧侶を冒涜した内容があればおそらく誰も忘れられないだろう。しかし、もちろん、そんなことはなかった。

それでも宗門側の主張では、会員からの苦情の投書や電話が複数あったということであったし、また、テープは改ざんされていないことを複数から入手したテープから確認したということであった。
(余談であるが、この複数の投書やテープを仕組んだ犯人は山崎正友であるが、これをもっても宗門の情報源がいかにいい加減で、彼らが謀略を信じやすい体質であるのかがわかる。)

この宗門の主張にどれだけ正当性があったのだろうか。
だがここまで言っておきながら、後に、テープの間違いを認めて撤回するのだから、実にいい加減な非難だったのだということが、誰の目にも明白になってしまうのだ。

これによって宗門は、当初の学会を非難した理由を事実上、完全に失ってしまった。
これが後々まで引いたというか、理由が無いということが永久に歴史に残ってしまったのだ。

しかしそれでは困るらしく、この当初の非難内容が改ざんされた内容であることを全面的に認めてしまわずに改ざん個所の半分だけを“聞き取りミス”と認めて、体面を取り繕うとするのだから噴飯ものであった。

つまりその後、1月13日に宗門はこの「お尋ね」文書の主要な池田先生の発言に関する質問15項目のうち4項目についてその引用が改竄されていたことを認め、その質問を撤回し、謝罪した。
しかし、撤回して済む問題ではない。もちろん、改竄箇所は一部ではなく全部だ。
しかし、たとえ半分でも入手した文章が明らかに改竄されていた事実を認めながら、さらにその文章を信じてそれを根拠に批判がまだ有効だというのは常人の判断ではない。
宗門が改竄されたと認めた部分は、単なる間違いなどではなく、意図的に文章がねつ造されていたのだから。

それを宗門は、半分だけ取り下げて撤回するという非常にぶざまな態度に出たのだ。
しかも取り下げたまま一言謝罪しただけで事態全体に対することについては何の謝罪もなかった。

特に11.16のスピーチの中で爆笑を誘った、「ただ朝起きて「真言亡国、禅天馬」...」の箇所など、印象的なため1ヵ月たっても忘れるものではない。
そういった箇所までを改竄したのをもとに宗門が非難してきたから、誰でも「ありゃ、違う!」とわかったのだ。

こうして今回の自体についてあれこれと幹部指導など聞かなくても、多くの同時中継に実際に参加した学会員は、いつものことながら、

♪ テープを改竄して反訳した悪意のある人はともかく、宗門はなんて幼稚な誤解をするんだろう♪

と思ってしまった。

つまり、宗門のいいがかりは、これで根底から崩れたと言ってよい。
だから、その後、宗門が学会を破門するとき、この発端の事実をもって根拠とすることが出来なかった。
もちろん、他の何をも根拠に出来なかったのではあるが。

なんて大人げない姿であったろうか。
なんて中途半端な態度なのだろうか。
その責任の欠如した態度を見て、学会員からは憐憫され、宗門に理があるとは誰も思わなかったのだ。

しかし、しかしだ。
それでもこの時はまだ、♪ 猊下はなぜ誤解したんだろう♪ぐらいに思っていた。


ところで、この宗門の主張の一部を撤回し、一部謝罪した文書の中には、驚くべき表現が為されていた。

つまり「僧俗」が「本質的に皆平等である」と思うのがそもそも「慢心の表れ」だというのである。
全文は長文なのであげきれないが、まったく“あきれてみたい”かたには期待をはずさない内容である。

藤本氏(宗門の総監)は「仏法に即した本来的な差別が存して当然であります」と言ってはばからなのだ。
この主張は、聖教新聞紙上で古参の学会幹部から、さんざん御書や過去の歴史をもって破折されていた。

読んだ学会員はここでも誰でも正論が宗門にないことを思い知っただろう。
しかし、ああ、悲しいかな、ここが日本人であるがゆえ。
ここまでバカにされて言われて、それでも少しは、もしかしたら、藤本総監のいうことも僧侶の言うことなのだから正しいかもなあともちょっと考えてみたりもした、お人好しな学会員もやっぱりいただろう。

♪ やっぱり、僧侶と信徒は本質的に不平等。そんなものじゃないかなあ。♪
♪ どんなに理不尽でも、猊下が言われたことを、ほんのちょっとでも間違えてるかなあなんて思うだけで謗法になるんじゃないのかなあ?♪

と、理屈で理解はしていても日本人的習慣に引きづられる意識は根強く存在していたと思う。
多くの学会員も、この時点では、ただただ、


♪ 猊下はどうしたんだろう?♪

と思っていたのではないかと思う。    



 



(No.5)

-おことわり-

文中では、煩瑣になるのでやむなく省略しましたが、実際にはここに挙げたやりとりの他にも、各種のやり取りがある旨をおことわりさせてください。
聖教新聞で発表される限りでも多くの質問状が宗門に送られ、またいろいろな抗議があったことは聞き及んでいます。
決してここに挙げたことが全てであるかのように考えられて、他所で主張されては全く困まってしま います。
そういう意味ではこの文章は使わないで下さい。

ここでは、学会員の破門に至るまでの「心の動き」がテーマなので、各種のやりとりのつながりの複合性を説明するのが趣旨ではないためです。

抗議書に至る経緯も、抗議書の種類も省略してわかりやすいように1本化しています。
また、各往復文書の日付けも、発行〜到着などに時間差があるために文書中の日付けには実際には1、2日の幅がありますが細かく記していません。

お願いします。    






(No.6)

一方、聖教新聞で個々の末寺住職の名が取り上げられるようになったのは1月20日からだった。

このような宗門批判が聖教新聞に掲載されるのは、多くの会員にっては、初めて目にするものだったろう。

学会のスタンスには心から宗門に良くなってほしいという真剣さがにじみ出ていたものの、それでも当初はそういった文章が載ること自体、驚きも少なからずあった。
が、また一方では、「ああこういう僧侶いるよ、確かに。」と言うに言えない個々人が実感してきた苦渋からすぐさま共感へと変わっていった。
学会員のどのような舞台裏を見てもそこに混乱は全くなかったと言ってよいと思う。
みんなあまりに冷静だったのだ。

最初は、群馬県、法勤寺の岸本住職だった。この頃、いきなり風聞と憶測だけを元に、信徒(学会員)の参
詣禁止と事実上の除名処分を通告してきた。

今回の問題のあおりを受けて、末端の会員がいきなり処分されてしまったのであった。

その会員さんは寝耳に水だったようであるが、ある日、お寺から一葉のはがきが届いたのだ。
これは「前略、あなたわ(ママ)....」で始まるわずか10行ほどのなぐり書きの後に大きな印鑑が押してあるだけ
というものであった。(しかもこの短い文章に誤字脱字が何個もあるのだ(笑)。)

また驚くことに、この寺の門には、除名にしたことなどをその信徒の実名を上げて張り出したのだ。
これには学会員も驚いた。そしてまた、「こんなことくらい平気でやるだろうな...」とため息もついた。

しかし、根拠もない勝手な憶測で信徒をいきなり処分したりして良いはずがなく、学会の抗議は熾烈を極めた。もちろん礼儀正しく「お伺い」という公開された文章でだ。
また、別の欄では、この住職の普段の背信行為についても言及していた。

その後、この岸本住職は、宗門側によりこの信徒の処分を取り止めるように言い渡される。
(だが、この問題はさらに後をひくことになるのであるが、ここではそういった事は省略する。)






(No.7)

平成3年 2月

2月になっても聖教新聞では宗門問題はやはりごく一部の取り扱いでしかなかったが、末寺住職の名前が次々に取り上げられるようにはなっていった。

まず「これでいいのか「正宗のお講」というコラムのシリーズだった。
これは、会員の中からも宗門僧侶があるべき姿に是正されることを願って大変な共感を呼んだ。
彼らがどのような考えを持っていようとかまわない。しかし、お講は、僧侶としての公式の場所である。
その意識があまりにも彼らにはないのだ。

最初は、岐阜県、経行寺の中尾住職であった。(以下、名前とかは重要でないので略すことにする。)

今回の問題を通して、大変に興奮したようすで机をバンバン叩きながら、信徒に対して何度も「馬鹿」呼ばわりしたようすが克明に記されていた。
また「聖書は私の愛読書の一つです」と何故か聖書をお講の席でえんえんと講議していたようである。

また別の住職は、さも学会員が大謗法を犯したかのように大声を張り上げ、「どうなってもいいんだね。ゴキブリに生まれようと何に生まれようと。」などのように暴言を吐きつづけた。

また別の住職は、学会員に対して「御法主が無理難題な事を言ってもすべて受け入れるのが正宗の信徒である。たとえ白いものであっても黒と言えば黒、白と言えば白である。」と強要した。

これ以上は煩雑になるだけなので省略するが、「以下同様」の一言である。
このような言いたい放題が公式の場から為されていたのは、当時、宗門の側からだけだった。
まじめな会員はただ嫌な思いをするだけだったのだ。それでもまじめにお講に行ったのだが。
 

その後の聖教新聞の連載は、確か、「これでいいのか塔婆供養」だったと思う。
これも先の連載と内容的には同様なので詳細は省略して簡単に紹介する。

とある寺では、塔婆を四十九日に7本かける7回で49本立てることを強く勧めらるとか、塔婆をうすく削り直して何度も使うのは化儀に反するのではないかとか、所化さんがイヤホーン付けて音楽聞きながらあぐらで塔婆を書いてる姿をよく目にするとか、そういった内容であった。

聖教新聞は僧侶の日常の行状にどんどん言及していった。
今、思いだしても驚きとともに色々な僧侶がいたことが脳裏を駆け巡る。

何千万もするゴルフ会員権をもってゴルフばかり精を出している僧侶。(多かったな。)
赤い高級スポーツカーを乗りまわす僧侶。
高級スナックにいりびたって女性の肩を抱いている僧侶。

こういった末寺レベルの住職には学会員も実際に面識があるわけで、宗門トップに対するような期待感のようなものもなく、せいぜい「あれっ、うちの住職だけの問題ではなかったのか。」といった程度の驚きであった。

しかし、日頃の怠惰を暴露されたことで失望したのではなく、この1〜2月のお講や信徒に対する行いで、宗門は信用を取り返せないほどの失墜をさせたのである。

忍難弘通してきた学会員からは一目で、「なぜ。ちょっと批判されただけで、あの陰湿な怒りかたをするのか。彼らは耐えて折伏なんかしたことがないんだ。そんなのが理解できる境涯とはずっとほど遠い所にいるんだ。」
と完全に見破られてしまったのだ。そしてあきれられてしまった。  
 


 



(No.8)

次にいよいよ一宗の中心者である日顕がいかにして信用を失墜させていったかを述べたいが、その前に、法華講員からの一般的な誤解を解いておきたい。

学会員は、当時、どういった情報ソースを持っていて判断していたのだろうか。
私は、当時の学会員の普遍的なメディアとしては聖教新聞しかなかったと言えると思う。

まず、学会員の情報源として「地涌からの通信」に触れよう。
これは、1月1日より毎日、発信者不明で、全国の末寺にFAXで送り付けられ続けた、いわゆる正体不明の投稿である。

創価新報などとともに、聖教新聞よりも時に一歩踏み込んだ内容で学会側にとって非常に有益な情報源であった。
後々には発行者など詳細は未公表のまま、小さな出版社から単行本として出版されたので、私のような普通の学会員でも目にした人は非常に多いと思う。
これは、怪文書的存在であるにもかかわらず、ただその情報の正確さだけで信用を勝ち得たものであった。
 
また、一般の学会員が知り得ないような宗門内部の情報や歴史の真実などをつぎつぎと白日の下に公表して
届けていった事により、どれほどの恩恵があったか言い尽くせない。

ただし、ただしである。

「地涌からの通信」が学会員に知られるのは、それはもうずっと後のことなのだ。
第1巻が発刊されたのが3月22日である。本屋にもまだ並んではいなかったと思うし、学会でもその存在はまったく評判は流れなかった。
もっとも学会本部とか幹部とかの実情は私は知らない。
首都圏の学生部ではずっと早くから目にしていたらしい。他の人はまた違うことを言うかもしれないが。

少なくても地方の普通の会員で「地涌からの通信」の存在を知る人は誰もいなかっただろう。
伝聞でその存在を聞いたのが早くても5月以降ぐらいが実情ではなかったかと思う。
会館にも置かれて学会出版物と並べて販売されるようになったのは、さらにずっと後のことであったことがいいたいのだ。

つまり、多くの学会員さんの思いを考える時、日顕が信用を『最初に』失墜させた時には「地涌からの通信」の情報は、まだ全然関係なかったのである。

それに近いことが、創価新報にも言える。

今では、日顕宗を破す新聞として右に出るものがないくらいその名を馳せているが、もともと創価新報は青年部だけの新聞なのである。
そのために、少なくても当時は青年部がいない家庭では、幹部であっても講読していない家庭が普通だった。

例えば聖教新聞の啓蒙運動でも創価新報がそこに含められる事なんかまず無かったのだ。
また、たとえ青年部が家族にいたとしても創価新報まで壮年婦人までが読んでいたかどうか筆者の感じでは疑問であった。

宗門問題において、創価新報の情報が末端の会員にとって、当初からどれだけ大切な存在であったかは強調し過ぎることはないが、その反面、末端の会員が広く注目するのには多少の日時が必要だったことも事実だと思う。

それに創価新報にも1月〜3月の頃はまだ宗門問題の記事も少なかった。
とはいえ、壮年婦人をも含めた座談会記事もあったし、もちろん、3月ころまでの記事は貴重であったのだが、それが即、末端に広く浸透していたかどうかは、微妙である。

少し自分の周辺だけを見て一面すぎるかもしれないが、1月当初は創価新報が末端の会員にそれほど『普遍的に』読まれていたわけではないと思う。

そして創価新報が圧倒的な量で本格的に宗門を攻撃しだすのは4月以降であった。
その年の後半くらいから号外なども出ていた。

壮年や婦人の注目しだす時期については異論があるかもしれないが、どちらにしても今の法華講員が想像して描くような聖教新聞以上の攻撃トーンの記事が創価新報の一面などで躍っていたわけではない。
 
その他のメディアとしては、1月に1、2回ある全国衛生同時中継がある。
これは幹部の話す姿が雰囲気まで分かるといった多大な利点があるが、事実そのものは聖教新聞に概ねそのまま掲載されているので、事実認識といったことについて特別な情報といったものはない。

また、各種のメディアよりも有効な、口コミが学会の伝統的な情報伝達手段であったが、こと、この宗門問題初期の猊下に関することは皆、慎重で、うわさ的なものは一切ながれなかったと思う。
そのようなあやふやものに関心を寄せる程、安易な問題では無かったのだ。みな冷静であったのだ。

だから法華講の人からは、日顕が信用を最初に失墜した時に、学会はいろんな特殊な情報で世論作りをした
と思われがちだが、実際にはごくシンプルで聖教新聞、(あるいは創価新報の)一部の記事の他は学会員には判断すべき情報源も特に無かったのである。
学会としては、ゆるやかでどちらかというとささやかな世論作りであった。

つまり、長くなったが、私の主張したいことは、特殊な情報ではなく、公開されている内容で、ごく一般的な常識的判断で日顕はまず最初にとてつもなく信用を失墜させ、そうして倒されていったというわけである。

(筆者は末端会員であるから、なにも全国の津々浦々の事情を知っているわけではないが、おそらく他の地域でも普遍的にそうだろうと主観で述べていることは断わっておいたほうがいいだろう。)
 


   
 


(No.9)

平成3年 2〜4月

「猊下はどうしてるんだろうか。」
「ただ静観されているだけなのだろうか。」
「そりゃ、もちろんお知りになってるだろうよ。」
「では、早く是正すべき僧侶の実態に気付いて、宗門を修正してもらいたいものだ。」
「本当にそう思う。なぜ宗門に何も言われないんだろうな。」

と、多くの学会員は不審がっていた。

学会の末端では、猊下について、何かに基づいた噂が流れることは、全くなかった。
軽々しい憶測もなかった。だがずっと不審がってはいたのだ。  

猊下に「お伺い書」が送られたのが聖教新聞で発表されたのは、2月28日になってからだった。
「日顕猊下の正本堂の意義についての一月六日、十日のご説法に関するお伺い書」がそうであった。

この「お伺い書」は、当時の猊下へ当てられたものであり、口調も当然ながら大変に礼儀正しい。
また誰でも理解しやすい平易な言葉で書かれており、質問の論点も明確である。
ただ長文であり、到底、ここにはその要点すら全部を上げきれないのが残念であるが、印象的な ところだけでも説明してみたい。

そもそも猊下は今回の問題が起こったこの1月の初頭から、公の場で学会を批判していたのである。
1月6日の教師指導会は、その中でも特に重要で、正本堂の解釈のことで学会を非難していた。

教義上のことで、従来の自分が言ってたことを一転させ、学会を一方的に非難しだしたのである。
いわゆる教義の変更というような問題ではない。

正本堂の意義については、宗内では統制されてきたことである。
それなのに、先師の解釈を反故にし、また自分が以前にいってきたことも無視し、正本堂を建設するに至った経緯までも改ざんして、一方的に学会がまるで一人で教義違背を行ったかのように中傷したことである。
しかもこの1月の初頭になって突然にである。

だいたい、自分が言ってたことを何の脈絡も無く急に反故(ほご)にして、ただ従って同調した学会を急に非難するなんてどう考えてもおかしい。 

日顕がこのような題材を選んで学会を非難したのはなぜなのだろうか。
その理由は、教義上の難しい内容であるので、一般信徒を煙りに巻いて学会を非難するのには丁度よいと思ったのだろうか。
それとも単に日達上人の御事跡を苦々しく思っていただろうか。
今も私にはわからない。思いつきとさえ思える。
何にしてもそこにはなんら正当な理由らしいものが述べられいてないからだ。

学会は当初、この批判に対して、抗議するかどうか躊躇していたようだ。(聖教にそう書かれていた。)
何にしろ、教義上の決定権は宗門にあるというのが通念だったし、明らかにおかしいとは思いつつも、法主という重要な立場からの説法なのだからと考え直し、その真意について理解できるように悩んでいたと。
したがってこれについては最初、お伺い書もださなかった。

ところが、ところがである。
ここでも宗門はこれについて勝手に訂正をしてしまったのである。
この日顕の説法が、1ヶ月後に宗門の機関誌、「大日蓮」に掲載される時には、説法がずら〜と載ったが、その中の池田名誉会長を非難した根幹部分の根拠について、猊下からの仰せがあったとして、訂正文が記載されてあった。

笑い話ではない。 

要点は、池田名誉会長が、昭和43年10月に三大秘法抄の文を引いて、「法華本門の戒壇たる正本堂」と明言したことが慢心で、それ以前に宗内の誰も「三大秘法抄の御文の戒壇」と「正本堂」を関連付けて発言しなかったと述べていたのが、記載された訂正では、やっぱりその前に日達上人の御指南があったので訂正すると記載されているのである。(他も同様のことなので略す。)

つまり正本堂の意義について池田名誉会長が、一番最初に意義付けをする発言をしたのは慢心であるとして非難していたが、そのまえに日達上人がすでに同じ発言をしていたので訂正すると言うのだ。

これでは、そもそもの説法そのものがなりたたないと言える。
第一、信徒をさんざん罵っておきながら訂正だけして謝りもしないもしないことが不可解である。
このような訂正を飄々と載せるだけで知らん顔をしていることに驚きを禁じ得ないが、当時の宗門の威圧的な態度はこんなのだったのである。

全く今から思えば良い証拠である。

これでは突然、先師の解釈を反故にし、また自分が以前にいってきたことも無視し、正本堂の意義を改変した事実だけを学会員に突き付けた責任はどうなるのだ。

ただ正本堂は本門の戒壇とするべきなんかじゃないという結論が、宙に浮いていることになる。
事実、話の根幹が崩れても、宗門はこの宙に浮いた話だけを振りかざしつづけることになる。

こういったいろんな宗義の変更と訂正について、学会はお伺い書を出したわけである。
(そんな質問は人間であれば当たり前で、ごくごく当然しごくだと思うが。)
そしてそのお伺い書が、広く聖教に発表されたのである。

この経緯を見て学会員はどう思ったのだろうか。

正本堂の意義についてそこで論じられていることに、教義上の論理展開にスムースに入っていけただろうか。

ごく客観的に捉えられただろうか。

冷静に、正本堂の戒壇の意義が、良いとか悪いとか猊下の心変わりで決まるように思えただろうか。

否!否!否!

きっと凍りついたように衝撃的に、宗門の無慈悲を感じただろう。

まず、なによりも頭に走ったのは、「猊下は宗内を堕落させてしまった僧侶についての対応に悩まれてなんかいなかったんだなあ」という残念な気持ちだったろう。

「猊下は宗門の問題を放置している。」
「それだけじゃない、学会の理解者ではなかった...。」
「いや、だが、どうなのだろう。。。もしかしたらそうかも知れない。」と。

このような一連の宗門のいいがかりに決算して、謝罪し、まとめるべき立場なのに、すでにいっしょになって学会批判していたことが、この時に証明されてしまったのだ。

残念であった。なにより今の宗門は、このままでどうなるのかと思った。
 

ああ、なんという無理解。ああ、なんという誤解。

「これは誤解か、それとも学会を理解していなかったのか?」
「学会を温かく見守っていてくれる猊下じゃなかったのか」と。
「どうしたら、わかってもらえるのか。」と。

あまりにも多くの学会員に、学会を理解していない無慈悲な態度を、悲しくも知られてしまった。

そしてその次に目を向けたのが、正本堂の意義の改変の事実そのものである。
これについては、ひどく無慈悲を感じた人から、そうたいして衝撃でなかった人までいただろう。
正本堂建設に携わったのは、もう20年も前の人々だからだ。

だから、そこに書かれてあったような詳しい正本堂についての経緯にどれだけの学会員がすぐに教義上から判断できたかは疑問である。

しかし、正本堂の建設にいたる過程は歴史的事実である。
どれだけの真心と希望を託してきたのか、それを如実に知る学会員にとっては、それを宗門がなんら理解してないことに、どれほど凍りつかせるような無慈悲を感じたことか。
 

ここで多くの言葉を費やす必要もあるまい。
正本堂は、本門の戒壇の未来の意義を含めて一宗を挙げて建設された。
宗教の根幹にかかわる建設物である。
その意義を宗門は大々的に宣揚してきたわけで、そのために多くの学会員も希望を託し、真心を込めてきたわけである。

何しろ末法の戒壇の意義を含む建設である。
御供養一つとっても、はんぱでは無かったことは想像に難く無い。

ある女性は結婚資金として溜めていた金額を全部、この御供養に変えてしまった。
未来の戒壇の建立に協力できるのだからと。

ある壮年は、自分のかわいい家族のためには残さず、なけなしの財産をはたいてしまった。
全部、仏法の興隆のためにと。

しかし、何をいたわる言葉もなく、一瞬にしてその意義を改変してしまった。

そう。何の信徒を思いやる言葉もなく、単に教義上の問題として、しゃあしゃあと言い出したのだ。
しかも、非難を以てしてである。
およそ、人の心を思いやる人であるのなら、考えられないことである。 

これに対する学会側のお伺い書はあまりにも明確であった。
日顕が先師日達上人の「本門寺の戒壇たるべき」という発言を未確定の意味を含むと弁舌したことに対して、日本の国語学の権威2人を連れてきて、猊下の方が完璧に間違いでしかないと明らかにしていた。

何しろ日顕が主張の根拠とした、その辞書を書いた国語学者らが言うのだからこれ以上に明確なことはない。
まとめると、

1. 勝手に辞書を引いてるが、猊下のいうような用法を説いている辞書など世の中に一つも無く、
2. 大聖人、日達上人の書かれた文章にもそのような用法はなく、
3. そうした用法の文は日本文にはない。

という痛烈なものであった。

日顕猊下の面目は、この時、音を立てて総崩れたといってよいだろう。

辞書など引いて得意がって言ってることが、ただの「いいがかり」だったのだ。
しかも「思いつき」程度の「いいがかり」で強弁する人だったのだ。

誰しも思っただろう。
このような「思いつき」や「いいがかり」で強弁する人が、このように最重要な事を左右する発言をしているのかと。
その周りには、誰も諌めたり、忠告したりする人すらもいなかったのかと。  

附記しておくと、後々の創価新報の漫画では、登場人物に、宗門に対して『微妙な感情が走った』のは、この猊下の「本門寺の戒壇たるべき」発言の経緯を見た時(4月)と語らせている。

が、それは温厚な人も含めて出来るだけ大勢の学会員の意見を含めようとした配慮からだと思う。
少なくても創価新報を読む青年層なら、この猊下への最初のお伺い書の頃の3月ごろにはすっかり『微妙な感情が』走りまくっていた。

4月には、多くの真面目に宗門のことを心配する会員にもすっかり不審がられている始末であった。

しかし、それでも学会員は宗門を「敵」などとは捉えていなかった。
なんとか良くなってもらいたいと、どれだけの学会員が心配したろうか。

しかし一方、宗門の方は学会員を憎み罵り、より陰湿な方向へと向かうことになる。


 
 

(No.10) 

また、この3月に宗門側では、池田名誉会長への各寺院の謝罪要求書運動も始まった。

各寺院からと言っても、本山で一括して決まったことで、とにかく懺悔しろというだけの無内容なものであった。
いったい、11.16の批判は誤りであったと訂正しておきながら、何を謝らせようというのか。
要求書を見ても根拠もなければ中身もない。ただ謝れという感情的なものである。
 
実際、謝罪要求書運動には各寺の住職も気乗りがしなかったようだ。
あまりに内容が無いのが、今回の宗門の対応に理がないのは、誰の目にも明らかなのだ。

それなのに宗門は恫喝すれば恐れ入って、事が収束するとでも思ったのだろうか。

「何故、これまでの経緯で学会が謝らなければならないのか?」
「どうやってヒイキ目に見ても、何ひとつ宗門に主張すべき理が無い。」

いや、おそらくは単に苦し紛れで、恫喝したかっただけなのだろう。
こういったことが良識ある人々にとっては、神経を逆撫でするもの以外にないことが全く彼等にはわからなかったのだ。
理不尽であろうと脅せば言うことをきくものだと。
信徒の心がわからない。。。。

まったく宗門の打つ手はこれ以降もずっとまずかった。
なぜか宗門はこの後も、学会員の神経を逆撫でするようなことを続けていくことになるのである。

改めて言うまでもないが、この間、善導などといったものは一切、無かった。 

そして日顕は、学会員の心配を他所に、学会員の切り崩しを法華講に命令する。
この年の初期に宗門側は、その命令を大号令で発していたのである。

学会員の切り崩し、つまり自分たちの直属信徒を増やそうという行為は、日顕自らが恥ずべきとして禁じきた行為であった。
それも何ら前言の撤回なく、それが指示された。
何の善導もなく、組織を移籍させれば事足れりだというのである。

私もたまたまはちあわせてその出陣式を隣りで目にしたことがあるが、ごく主観的に言わせてもらえれば、悠長なサークル気分的なものにしか見えなかった。
申し訳ないが、彼等に人々を幸せにしていこうとか、時代を切り開こうなどという主体性は感じられなかった。
もちろん実際にも彼等にはなにも出来ていない。
今現在を見回しても学会の組織を切り崩すなど、彼等にはほど遠い言葉であろう。

「学会員の切り崩しよりも、自分たちに、先に勤行や折伏ができるようにちゃんと指導すればいいのに。」 と思うばかりである。



 


(No.11)

今現在、一部の法華講員には、宗門は学会の破門まで1年も善導し、「破門まで様子を見た」との誤謬の憶測をなす人がいるのには驚かざるを得ない。

仮に皮相的に一連の経緯を学会と宗門の喧噪と捉えたとすると、宗門側の行動はあまりにせっかちである。

このように当初から「11.16スピーチ」を機に喧嘩を吹っかけてきたのも宗門であり、その後も僧侶の公式の場所での感情的な信徒への罵倒、そして重要な、正本堂の意義のいきなりの訂正など、いつもこと切れずに新しいネタで吹っかけ続け自滅したのは宗門の方からであった。

初期には学会側はいつもその問題を追求するという形で応戦していたに過ぎない。

♪ なぜに宗門側では、すでに初期の間に学会の切り崩しを法華講に命令していた。

さらに数カ月後には学会員は多くの寺院の前に、「学会員は参詣禁止。入るな!」といった趣旨の異様に感情的な立て看板を見ることになる。
このような経緯で「破門まで1年かけて様子を見た」と主張するのは全く信じられない意見である。

確かにあの時を知らない法華講員の方から見れば驚くべきことであるが、すでに学会は事実上、破門に近い措置をごく当初から受けていたのである。
破門などというのは、ある意味では単なる事実を形式で追認したに過ぎない言えるし、またその後の信徒籍の剥奪に至ってはまったく無意味としか言えない。

ここでは、宗門側の謀略ろするC作戦云々は述べる必要は無い。
それは、このようにあまりに宗門の一連の吹っかけ方が性急であることから、たとえC作戦云々といった根拠を全く度外視しても、これでは初めに宗門側に計画有りだったと思われ てもまったく仕方がないだろう。

それについては後に述べる。 

途中ながら、もう一つ付け加えておきたい。
これまでの経緯の間では、宗門から学会側との直接の対話を一切拒否したことである。
この事実も重要である。
決して学会側から対話拒否などはしなかった。

猊下も総監も、学会側が事実上抗戦を表明する以前から一貫して誰とも会わなかった。
何も突然押し掛けたわけではない。
例えば、平成2年の12月末に、学会では古参の牧口門下の副会長らが総監への面談を重役の早瀬に約束をとっていたが、当日に約束どおりに行ってみると反故にされた。

また実は1月の登山会に行かれた池田名誉会長にも例年あった面談は一切拒否された。
そう、1月に池田名誉会長は登山つまり宗門側に話し合いの機会を求めて本山に行っているのである。
その新年の登山会には例年用意されていた席すらなかったそうである。

以後、学会の主要幹部は、宗門側の発表によると「お目通りかなわぬ身」という身分になったのである。
この現代にである。(笑)
これ一つとっても、学会員がいかに理不尽な思いに耐えていたかがわかろうというものだ。
いったい当初から話し合いを希望し続けたのはどちらであったのか。 

ところで、もう一つ誤解を解いておこう。
学会員は、この1月からの宗門の僧侶たちの行態を見て忸怩(じくじ)たる思いを抱いたわけであるが、何もこの時、宗門の僧侶たちが、もともと短慮で人格的に問題があるとまで想像していたわけではない。

彼らの社会性の無さが悪い面で出てしまったのだと思う。
さらに彼らがなぜそこまでと疑問に思われる方もいるかもしれない。
学会員が社会で結びついているのと同様に、彼ら僧侶も社会と多面的に結びついているはずだ。
しかし、重要なことは「弘教」では、実社会と結びついていなかったことなのだ。

僧侶と言えども、学会員と同じ風に家族を持ち、子供を育て、生活している。
地域社会との付き合いもあれば、小学校からの友人もいたろうし、テレビを付ければニュースを見、また流行も追っただろう。
ニュースといえば、この年には1月から勃発した湾岸戦争があり、彼らもテレビを見て同じように驚いただろう。

彼ら僧侶も社会人だったのだ。
しかし、それだけだったのだ。彼らは弘教で社会と結びつくことなど皆無であった。
だからこのような重要事に簡単に感情的な態度をとったのだろう。 

学会員は、いつものようにこの年にもやはり弘教に走っていた。

この年の4月には、統一地方選挙もあった。
宗門の問題を抱えながら、それでも必然的にさかんに外部に訴えていかなければならなかったのだ。
どこの外部の人が宗教間の喧噪を見て、快く話を聞いてくれるだろうか。
外部が心よく聞いてくれない話など、内部の非活動層の末端の学会員にだって同じである。

通常では対話がやりにくい状況ではあった。
それでも開票結果は、例年の水準よりは落ちたぐらいだから善戦したと言える。

聖教新聞の恒常的な啓蒙運動、折伏活動その他にみんな走っていた。
多くの人がそうだった。
筆者もこんな時こそ学会正義を訴えようと弘教に走った。
僭越ながら(言うべきではないかとも思ったが)当時の雰囲気を伝えるためだけに述べさせてもらうと、筆者はこの年、職場で、ものみの塔の活動家の友人と弘教を競っていた。
彼は私のことを批判したが、私は彼の良い友人でもあった。今もなつかしい思い出である。
具体的な張り合いがあることはいいことで、私は彼の批判も弘教も阻み、彼は去っていった。
結果、この年には仏法対話を始めた方で全くの外部の方、2人に入信していただくことが出来た。

学会の中で弘教をしていない人にはわからないが、そんなに簡単な話ではないのだ。
こちらの都合で入信してくれる人などは誰もいない(笑)。
言っておくが、弘教してたら、相手にもこっちの手の内など全てミエミエなのだ。

始めた動機はこちらの都合だったかもしれないが、唱題し、思いを重ねるごとにそうでは無くなってくる。
何故かは知らないがそうなるのが唱題の効果なのだろう。
最終的には、ただ相手の人の幸せにしたいという思いだけが他のなによりも最優先されてくる。
自分の人生を投げ捨てでも相手を幸せにしたいと思った。
組織の為などではないことは言うまでもないが、神や、仏とかの尊敬する対象の為でもなくなる。
仏や学会の為ではなく、一人の相手の幸せのためになってくるのだ。
相手に伝わるのも、所詮は、ただただ相手の人の為に幸せにしてあげたいという切実な思いだけなのだ。
そして10月と11月には、御受戒と御本尊を受けに行った。
宗門から解散勧告が出てようが知ったことではなかった。
弘教の歩みに宗門問題の喧噪などはまったく関係がなかった。

今にして思えば、たとえ一時でも、自分の人生を投げ捨てでも、一人の相手の幸せのためを思えるほど、純粋に昇華した思いを抱いて行動できた事は、返って、今は私自身のかけがえのない財産 になっていることに驚きつつも認めざるをえない。
強調しておくと、その経験とは、抽象的な存在のための喜捨の事ではない。
現実の一人の人間への果てしない思いである。
そして、このような昇華した思いと行動の経験が本来の僧侶とか宗教者に必要なはずなのであると思う。
 
そう経験させてくれる機会を用意し、また与えてまでくれたのが学会なのである。
またそういった経験は弘教でしか得られないと思うのは、学会員の共通のコンセンサスだと思う。
僧侶がお勉強や個人的な修行をすることが悪いとは言わないが、弘教しなければ衆生への慈悲など持てるはずがないのだ。
だから、あれほど簡単に心から民衆を侮辱してしまったのだ。  

そして、そういった弘教の真剣さが、宗門問題に取り組む姿勢の明暗を分けたのである。

信仰者としての学会員の振る舞いは、宗教的組織的な動機と同時に、弘教で社会から理解されようという強烈な動機とのバランスの中で決まる。
それにくらべ、宗門の僧侶は一方が欠如しているため、もう一方の宗教的な動機までがいびつに歪んだまま放置されてしまったのだ。

普通のレベルの学会の活動家であれば、どれほど良識ある振る舞いにと心を配っているかは知れない。
それでも団体であるかぎり、他の団体と同じような問題を引きずっているのだが。
しかし社会的横暴な振る舞いなど考えられないことである。
一方、宗門は公式の場においてでさえ感情的で扇情的な発言を繰り返していた。
またその行動も悪感情むき出しのものだった。

今も思い出す、あの多くの寺の前に置かれた学会員の参詣禁止の大きな立て看板や掲示。
いつの頃からだったろうか。
後で述べる添書登山のころまでにはまだ無かった。
記憶があいまいだが、学会員が添書登山など行かないと彼らがわかりだした頃からだったろうか。
寺院の側で信徒を冷淡に突っぱねていたのである。
あの時の文章が、いかに悪意さがにじみ出ており、幼稚な文章であったか。
しかし彼らにとって残念なことに、そもそも多くの学会員は行きたいとさえ思わなかった。
侮蔑的な看板のある寺院になど、いきたいと思う人があるわけがないということすら彼らにはわからないのだ。

今現在、多くの寺院の方で学会員が入るのを拒んでいるだろうか。
私の知る一つの寺では手ぐすねひいて大歓迎である。
(誰も来ないので困ったのであろう。)
彼らの行動が所詮、感情的な動機によって左右する証左であろう。
 





(No.12) 

平成3年 5〜7月

この5〜7月の頃について述べるべき大きな事実は、1つだけである。
7月1日からの学会の登山会の中止および添書(てんしょ)登山の開始である。
つまり学会と協力して行う登山は中止して、登山に行く人は寺院で書類にサインしていくことになるのである。

長く噂にはあったし、そうするだろうとも思っていた。
宗門はすでに3月16日に決定して、それを学会に通知していたようだ。
当初、円滑に移行するために学会と宗門で協議していく姿勢を見せたが、この件についても学会との話し合いの余地はないことを指し示すばかりであった。
聖教新聞がやむなく最初に報道したのは6月5日だったと思う。
 
どちらにしろ、宗門が決定して実行されるまでの期日はたった3ヶ月しかなかったわけである。

これがどれだけ大きな問題であったかはとても一言では書き尽くせない。
しかし、私がこれについて多く述べるのも僭越だと思うので簡略に記す。

そもそもこの登山は戸田先生が貧窮する大石寺が生き残りの為に観光場所として解放するのに反対して始められたものである。
当時、大石寺周辺には水源が無いと言われていたのを、ボーリングで水源を掘り当てることから始められた。まちがいなく学会によって始められ、本山内の輸送から警備まで学会員の支援によって運営されてきた。

その学会によって興隆した登山が廃止され、「もういいから末寺と本山に任せろ」と言うしろものであった。

登山会は多くの学会員が命を懸けて運営していた。
40十年もの間、ただひたすらに尽力してきた歴史を近年の人たちは知っているだろうか。
学会活動をあまり好意的に見ていない会員でさえも、その登山輸送に携わる輸送班、創価班らのメンバーの真剣さ、誠実さに感銘を受けた方は数えきれない。
これらの運営を何十年も無事故でやり遂げるのにはどれほどの人知を超えた思いがあったことか。

当然、登山の形式が変更になって大石寺へ行く参加者は激減してしまった。
彼らは、このような状態で人々が寺院で許可を受けて嬉々として登山にいくと思っていたのだろうか。
一般紙にまで積極的に広告を出していたところを見るとそう思っていたようだが。
あまりに人の気持ちを無視したものであった。
それが添書登山になって、参加者が激変したのに、さっそく事故を起こしたのは、あまりに情けなかった。
老齢の参加者で寺内で行方不明になり死体になって見つかったのは、その年か、次の年であった。
学会の運営時代には参加者が行方不明で亡くなることなど考えれなかった。

学会の登山は、観光旅行の運営とはまるで違う。
 
宗教団の行事は、時間的、体力的に余裕のある人が、気分もゆったり楽しみ気分で参加するのとは分けがちがうのだ。
多くの参加者の中には本当にさまざまな思いを抱く人が、登山へと集まってきていた。
悩み切って参加する人もいただろう。
またお年寄りも子供も多い。
参加したいがために最悪の体調の不備を押し隠して参加する人々も。
また、活動の最中、仕事の時間をぎりぎりに切りつめて疲れきりながら参加する人々。
いろんな事情の人が一堂に会しているのだ。
無事故を期すことがどれほど至難なことで、そのためにどれほど思いを廻らしたことか。
 
それが何十年も無事故で続けれたのは、単なる制度やマニュアルの受け渡しでできるものではない。
夜も昼も真心から登山者に思いをめぐらし続けている人達の存在あっての運営だったのだ。

それをたった3ヶ月余で、一方的に変更することに決めてうまくいくと思っていたのだ。

それにしても、また宗門がここでとった一つの行動が、学会員の神経をまた逆撫でした。
いきなり6月5日の一般紙の朝刊に添書登山に事寄せた学会員への広告を出した。

これがどれだけ恥ずかしいことか。
このような事を第三者のメディアで連絡せざるを得ないのは、全く信徒に対して今まで何もしてこな かった証左のようなものである。

これは登山に行きたい信徒が、学会幹部に邪魔されて登山に行けないのではと心配したからなのだろう。
まったく信徒の心情というか、人間の気持ちが理解できていなかった。
あいかわらず学会員を無知な奴隷のようにしか思っていなかったのだ。
学会員はそういう信仰を利用した宗門の態度に心底から怒っていたのである。

またいきなり第三者のメディアを使うことが、お互いの問題を不可避にし、軽蔑されるだけの効果しか持たないことが何故わからなかったのだろう。
何しろこの時にはまだ学会の破門へ至ることは決定的な雰囲気ではなかったのだから。

また一般の読者を考えても所詮、喧騒とは第三者からは軽蔑的にしか見られないものなのである。
それであれば結局、この広告には宗門にとっても何のメリットがあったのであろうか。
あるいは単に感情的なだけだったのだろう。
多くの学会員はこの日の朝刊を見て、宗門って本当に世間知らずだなと思い知った。  

さらにこのような登山の変更を、短期間で自分たちの気紛れだけで決めてよい問題ではなかったのだ。
ここでも重要なことは、たとえそれが宗教上の理由によることで不可避であったとしても、当然、社会的な配慮を為すべきだったことだ。
あらゆる話し合いを拒否し、関係者に何の配慮も無く、短期日で事を迫まったのでは、まさにわがままな子供の思いつきとしか思えなかった。

大石寺を信じて先祖伝来の土地を大石寺に無料で提供して自分たちはただこじんまりと土産売りの店をしていた人々へも、本山は彼らには何の社会的配慮も無かった。
路頭にまよおうが知らん顔だったのだのだからまさに恩を仇で返したのだ。
また、その他にも大石寺へいくバス会社は、登山変更によっていきなり大量の解雇をせざるを得ず、倒産し、その経営関係者は自殺した。
あまりに無慈悲な話であった。 

こうして7月には、普通の学会員は本山にも行かなくなってしまった。
学会員だって馬鹿じゃないのだ。嫌なのだ。馬鹿に馬鹿にされながら登山するのは。

そして、各末寺の池田名誉会長への謝罪要求書、そして次に来たこの従来の登山方式の中止で宗門との問題はもう単なる謝罪では済みそうない「予感」をもたらし始めていた。
なにしろ宗門の一方的な措置によって、口げんかなどの感を通り超してしまっていた。
学会員は社会的にも大きな傷みを伴ってしまった。

なにより。
ここまでの経緯で学会員が怒っていることが、全く宗門側には真に伝わっていなかったことだ。
あいかわらず従順な信徒であって、ただ“幹部”によって寺院参詣などが抑えられていると思っていたようだ。
宗門との間に横たわる深い溝と言えばこれほどの溝はないと思われる。 

平成3年当初からその後、何年たっても宗門や法華講員にはこれがわからない。
相変わらずである。
学会員たちが自分たちに付いてこないことに当初は驚き、学会員は学会に扇動されて考えなしに従っているとでも思っている。
また猊下と比べて池田先生を選んだんだとか。
...違うというのに。
「宗門と猊下」が単におかしかったから人心が離れたのだ。学会は関係ない。宗門の問題なのだ。
そして学会員は、社会人として当然にそれを怒っているのだ。
どうしても彼らは信徒を権威へ従属しているものといった構図でしかとらえられないのだ。  



 



(No.13)

平成3年 8月〜9月

8月に触れる前に少しまとめて説明しておきたい。

ここまで読まれた方で、「何故、日顕の芸者写真やシアトルとかの生々しい事件が出てこないのか」と不思議に思われる方もいるかもしれない。

思い出してほしい。それはこれから後の事だったのだ。
これまで説明したように宗門僧侶と日顕の信用は、まず4月〜5月の初期に失墜してしまっていた。
ここが大事なところなのだ。

そして日顕の、禅寺墓問題や芸者写真問題や、かます発言、はてはシアトル問題などが次々と話題となったのは、主に10月以降であった。

この8〜9月にはすっかり日顕の信用も落ちていたわけであるが、それまで日顕の日常の振る舞いについての聖教などの記述はどんなものがあったろうか。
それを少し追ってみよう。 

ごく初期に学会の猊下へのお伺い書に、ブラックジャーナリストの段勲(だんいさお)に会ったかどうかとか、
「学会が崩壊しても、うち20万人でも宗門につけばそれでよい」という発言は本当にあったのかとかの質問が
ある。

またC作戦も早くから質問として登場していた。が、それらは「お伺い」の域を出ていなかったし、学会は聞いていただけであるから、それだけで事実とは到底言えなかった。

またそれを読んだ学会員も単なる疑問の域を出ず、それがどういう意味を持つかまでは判断しかねるところではなかったろうか。
もっとも宗門はこれに答えなかったが、これらは時を経てしだいに証拠が上がり肉付けされていくのである。

また、9月より以前に創価新報で登場した唯一の事件は、「20億円の豪邸事件」であったろう。
地下プール付きの日顕の豪華な隠居所が立つ計画が有るということであったが計画で取り止めになった。

他には筆者には思い出せない。
というかそういったスキャンダル的な記事は皆無ではなかったか。
つまり日顕にまつわる物的な事件性の面からの追求が始まったのは、主に 10月頃になってからだったと思う。 
つまり日顕が4月までの初期に落とした信用は、法主として責任感の無さ、教義に対するいい加減さ、無反省さ、幼稚さなどで、いわゆる純粋に教義的、法主的な人格の面での信用の失墜であった。

10月以前には、多くの学会員は日顕法主がどんな性格で、どんな生活をしているのか、人柄的な面がいかに法主らしからぬ人かは、実際には知らなかった。
主に10月以降の話題で、そういった人柄的な面が全面に伺えるような信用の失墜をしていくのである。

まとめると、学会員は何も日顕にまつわるスキャンダラスな一連の事件などに驚いて、日顕への信用を落としめたのではないのだ。
たしかに1つ1つの事件に驚かされたが、それはもう日顕に対する見方の「証明的」「補足説明的」な領域だったのだと言えよう。
宗門の問題が、日顕によってあきれた様相を呈していったとも言える。

すでにころがり落ちていった石が、砕けてさらに加速度を増していったようなものだったのだ。

 

8月に話を戻そう。
気になる方のために述べると、聖教新聞で「日顕御法主上人猊下が法要を営まれた...」などの行事の記述は7月を最後に8月以降にはついに見られなくなってしまった。

8月に重要なことも1点だけである。8月の最初のことであった。

 

ついに、ここで初めて日顕に関して宗門が「絶対性」を打ち出したのだ。

これは今までにないことであった。突然の暴論である。

「法主の絶対性」は、宗門の歴史をみても特異な時代背景で使われたことがあるだけの詭弁である。

♪ 法主が「戒壇の大御本尊と不二の尊体」

これである。藤本総監が学会の返答に困ってこう主張し出したのであるが明らかな邪義である。
おそらく道理で宗門は負けたから、何が何でも信徒を屈服させたかったのだろう。
それをさも学会と宗門との間の既定事実のように言いだした所がおかしかったのだが。

これを見た学会員はどう思っただだろうか。

法主の権威は現実の事実をもって失墜していたのあるが、それを無視して、たとえ宗門側の苦しい立場にたったとしても、率直に「おかしい」と疑問に思わざるを得なかった。

確かに法主は誰よりも偉いとも思ってきたので、大御本尊を大切にするように、それを護持する猊下を尊敬し大事にしなさいという意味あいなら飲み込めただろう。

しかし、よく見ると大御本尊と同じように尊敬して、しかも間違いがないのだと言う主張である。 

♪ ああ、宗門は、変わってしまった。(それよりもとよりこんなのだったのか?)♪

もちろんこんな発言は信徒支配の為に言ってるわけで、宗門の僧侶にだって猊下を大御本尊と同じに思っている者などいないだろう。
本当に信じていないから適当なことを言えるのである。

「教義」で、特定の人を最高に尊敬し、最初から鵜呑みにして信じるように義務付けられているのである。
早くその非に気が付くべきであろう。

ただ筆者の知る限りでは、法華講員でもそう信じて心から尊敬している人はいなかった。
法主の振る舞いや人柄を、大聖人と同じように慕っているわけではないからである。
教義で決まってるからということで信じるようにと努めている、あるいはそれ以下である。

しかしその教義がいかに底の浅いものであることか。
なにしろ平成3年発の偽作された教義であることをよく知るべきである。 

こうやって在家団体の学会のほうが教義に詳しく律儀であったが、宗門は教義をはずれてすぐに邪義を作り出す始末であった。
今現在になれば、彼ら僧侶の中でこの「戒壇の大御本尊と不二の尊体」などという法主絶対性をまだ肯定する僧侶はいくらもいないだろう。
このときに宗門が言い張った内容をいったいどうしてくれるのだろう。(笑)

ちなみにこれより前の大日蓮の6月号にも、日顕のことを「現代における大聖人さま」などと邪義で呼称している記述が何回も見られた。
絶対性の域までまで持ち上げた記述は、こちらの方が早かったとも言える。
しかし正規の機関誌とはいえ、こちらは信徒の名前で発表させているので少し物足りない感じもした。
やはり、藤本総監による正式な解答に述べられていた、8月の「戒壇の大御本尊と不二の尊体」となると宗門側の正式な公式発表なのだから逃げることなどできない。

こうして御法主への絶対的な信伏随従が宗門独自の見解としてスタートする。

そしてこの法主の絶対性はこの後、エスカレートしていくのだ。

この後の11月には、ついに、なんと百六箇抄で全てのことに「勝劣」を決めていくことになぞらえて、大聖人より今の法主が優先するという発言がなされたことが広く知られるに至るのである。
「あれっ?」というか、「あ〜あ」という感じである。

大聖人より偉いと言う。これ以降、これをもって日顕宗と呼ぶようになる。


この8〜9月頃にも、宗門の信用は回復することなく、急な下り坂であった。
詳細を挙げればキリがないのであるが、この頃の末寺の話題などに触れよう。

まず日比野住職(徳島市敬台寺)の学会員宅への「盗聴事件」が発覚したことが報道された。(発覚は7月)
警察の家宅捜査によって、住職の寝室から証拠品とテープも押収されたのだ。
自分とこの執事を疑った末の社会的犯罪である。
ここまで落ちたのかといった感じであった。

次には、道祖神ちゃんと呼ばれた理境坊の小川只道住職が登場する。
大石寺近くの道路整備にともなう「道祖神」の移動で、タタリを恐れた地元の要請に応じて厄払いを行い、御供養までもらってしまった。

また、末寺での御本尊の取り扱いの実態にも多く耳にした。(何月頃の話かは失念した。)

法道院のそばで刷り損じの御本尊が大量に道に落ちていたので驚いて拾い集めて届けに行ったとか。
御本尊をお返しに行くと、投げるように無造作に扱っていたとか。
ネズミの糞がいっぱいの段ボール箱に、御本尊が無造作に入れてあったなど。
またお返しされた御本尊は、いつも寺内の焼却炉で勝手に破って燃やしているとか。

宗門の僧侶は信徒には御本尊の大切さを強調したが、その実は、いかに信仰心が無く無神経 な扱いをして いたかに驚き、そして呆れた。

こうして9月も過ぎたころ、もう学会員から見た宗門の信用は壊滅的であった。

それでも宗門側の僧侶らは、学会員が「怒っている」ことに気付かなかった。
またはその実態を見ても正視しなかった。
学会員はおどおどしながら迷っているというのが、今も変わらぬ彼らに通常見られる妄想である。
 

そして、いよいよ、日顕の実態シリーズが始まったのだ。

まず9月30日に、禅寺墓事件が発覚したことを記したい。

この禅寺墓事件とは、これより2年前の平成1年に日顕が禅宗の寺(曹洞宗、白山寺)に自分の家の墓を立て直したことを、宗門があくまで認めようとしなかった事件である。
日顕は500万円以上もの費用をかけて題目を彫った大きな墓石を新調し、先祖供養に訪れている。

笑止なのは、日蓮正宗の寺がすぐ近くにあるにもかかわらず、禅寺に墓を建てたことである。
普通に言えば墓をどこに建てるべきかは、その人の宗教的な倫理観に左右されるので一概に云々できない。
しかし日蓮正宗の法主が破折もなく、他宗の寺内に墓を建てていたのではこれは問題であろう。

そして、その事実を糊塗(こと)しようとして、宗門側はさまざまに言い訳をした。
「その墓がある所は禅宗の寺域内ではなくその隣接地だ。」etc

「その墓は猊下が頼まれて好意で費用を出したにすぎない」etc、と。

そして、この事件は後々まで続く論争となったが、事実はすでに最初の報道で明白であった。
宗門からの反論は、取って付けたような子供騙しのものであった。
学会側はさらに次々と現地での証拠を出した。あまりにも明らかであった。

それに対し、事実を知らない宗門側の僧侶たちは、その禅寺に近い日蓮正宗の住職(広布寺)に、写真などを公表するなどしてどんどん反論をするように期待したが、現地の住職はただ黙したままであったようだ。
それが全てを物語っていた。現地からは反論などしようにも出来なかったのである。

学会員の心情としては、特段、日顕の墓の所在に興味があったわけではない。
(筆者は青年部なので壮年婦人とは感覚が違うかもしれないが。)
寺に墓を建てたのは何か特別な事情があったのかもしれない。
しかしそれを嘘をついてまで隠そうとした、そういった態度こそが問題なのである。

いったいどれだけの学会員がこの論争の行方の結末にまで興味を持っただろう。
だいたい宗門は反論の度に理由が変わるのがおかしいのだ。
学会員は早々に宗門の反論に三下り半を付けて、宗門には何の正義もないことを理解した。
 


 



(No.14)  

平成3年 9月〜10月

そして平成3年 9月〜10月(おそらく10月)には、それまでの日顕への印象を凌駕する出来事があった。

大半の学会員にとっては日顕に対しての最低の印象をさらに確定的に確信させる事件であり、また、何も知らない人、教義どころか聖教新聞にすら興味が無い人、あるいは、むちゃくちゃお人好しな方や、その他のあらゆる人々を、根こそぎ、日顕への軽蔑に駆り立てた出来事があった。

どんなにお人好しでも、いっぺんに目が覚めてしまったというものである。
「法主の威厳など、こんなものか」と。「こんな人格だったのか」と。

それが、8月29日に総本山で行われた全国教師指導会での日顕の指導であった。

♪ いわゆる、一世を風靡した有名な「カマシ発言」である。♪ 

最初に断わっておきたいが、この日顕の指導を収めたテープは、何も隠し撮りなどではない。
その点が実に可笑しいところでもあるのだが。

全国教師指導会の席上、各僧侶に持って帰ってよく聞いて使えと配付されたものである。
つまりこんなものを指導として正気で配付するほど、当時の日顕の判断力が狂っており、それを指導だからと真に受けて、鵜呑みに従った宗門各位の判断も尋常で無かったと言えよう。

この「カマシ発言」は、平成3年以前に学会員が心の奥底に抱き、期待していた、「法主の権威」を 完膚なきまで瓦解させるのに十二分であった。
あまりにわかりやすいので、今回に限り指導の中身を見てみたい。

日顕を知ってる人には懐かしい、あの闊達(かったつ)な喋り口調である。
知らない人には、世遊びばかりしている人がべらんめぇ調子を使ってると思えばわかりやすい。

以下、紹介する。 

まず最初に質問者(僧侶)が立って、次のような質問をした。
多少長いが、正確を期すためそのまま記す。
日顕は、この質問を受けて、途中でさえぎって怒りだすことになる。なぜだろうか。

さあ、みんなで、この質問者のどこが日顕の逆鱗に触れたかを考えてみよう。

= = = = = = = = = = = = = = = =

質問者:『私の所では、いま、脱会者はおりませんが、今この宗門問題に対しまして、きちんとこの掌握をして、お寺のほうについておられる方が、約百三十世帯おります。』

と、まず自分のところの現状を報告した。
 
そのまま質問は続いて、

『 その中において、この宗務院なり、きちんとした、この方針というか、公式文書といったら申し訳ないんですけれども、そういうものがない故に、そういうこの御理解をいただいておる、また、自分の信心をきちんともっておる方々が、この学会の幹部のミニ座談会というんでしょうか、そういう方々の集中攻撃を受けて、反対に信心がだんだん嫌になってくる。

 両方、この悪口を聞いてるのが嫌だから、「もとの信心にもどろうかな」というようなことが、往々にしてあるわけでございます。
 
 そういう中で、どうしても言われることが、この「宗務院の中にも、宗門の中にも後ろめたいことがあるんじゃないか。そのもちつもたれつで両方とも腐っておる。だから、この信心やんなってきたな」という方が徐々に増えてきていることも事実でございます。

 そういう意味で、できれば、こういう御理解をいただいている、また、そうやってこの大聖人様の信心をきちっと守っていこうという者を、守っていく指導をしていきたいと思うわけでございます。

 そういうわけで、やはり宗務院のきちんとした、この、そういう方々を教導していける方針なりを、この指示していただけるとありがたいなと思っておるんですが、その点、御理解をいただきたいと思いまして、ちょっと余計なことではございますが、御質問させていただきました。』
 
つまり、この僧侶は現状を報告して、自分の要望を丁寧に要請しただけである。

弱々しい信徒の中には、悪口を言われっぱなしで嫌気がさして、信仰に影響までしているので、学会からの攻撃を受ける信徒を助けるために何か武器をくれと言ってるわけである。

しかしそこで日顕みずからが早々と口をはさんだ。
日顕はそう怒ることでもないのに、聞いてるうちにだんだんと怒りが込み上げてきたようであったのだ。

 日顕:『なあ、おいおい、あのなあ、そこに立ってなさい。』

 日顕の語調はいきなりであるが、かなり厳しかった。

 ああ、初めて日顕のこの口調を聞いた信徒は、いったいどんなに驚き、どう思ったことだろうか。  

会話の続きである。後半、日顕はほとんど、♪罵声になっていた。♪

 日顕:『あのー、さっきから聞いてるとなぁ、あのー、そのー、信者がなんだって。だんだん学会からいろんなことを幹部から言われて、そしてそのまた、お寺の信心がイヤになってきて、少しずつまた、向こうのほうの考え方にもなったりするっていうようなことが出てきてるってんだろう。』

 質問者:『いえ、そういうことじゃなくてですね、信心がイヤになってきておる...。』

 日顕:『信心自体がイヤになったの?』

 質問者:『はい。結局、悪口をもう聞くのがイヤなんだという方が増えてきておるんです。』

 日顕:『何人くらい出てんの?』

 質問者『いちおう、今現状で私のところに名簿があるのが約百六十世帯ございまして...。』

 日顕:『百六十人脱会者がいるのか。』

 質問者『いや、脱会はしてはおりません。』

 日顕:『えっ?』

 質問者:『学会におりながら、お寺に、この...。』

 日顕:『脱会者じゃないんだね、それは。なんだ、脱会させなさいよ!脱会を君がさせるのが、君の、君の一番の責務なんだ!そんなことを質問する前にな、どんどんさっきのこの、ここに立った人のように、一人でもいいから脱会しなさいってやりなさいよ、それを。』

 質問者『はい。』

 日顕 『いいか!そしてその人が、二人でも三人でも脱会させていく。それが君の責務の方針なんだ。宗務院の方針もそのとおりなんだ。わかったか!』

この口調。思いっきり悪いイメージで読んでいただくと、そのままが事実である。
しかもこの内容。この時はまだ平成3年の8月である。初めから善導などありはしなかったのだ...。

日顕の罵声は続く。ひどく興奮していて、とても話には正義などない。

質問者『はい。ただわかっておるんですが...。』

日顕 『うん?そのなぁ、いつまでたっても学会にいるから、籍を置かしておいて、どうのこうの君がブーブー言ったってねぇ、そんなことは問題解決しないよ!それをはっきりしろ!いいか!

学会を脱会させて、君のところのお寺の信者にして、きちっとして、君がその指導教師として指導していくということなんだ。

まだ、法華講の結成はないにしてもだな。そういうことにおいて問題があるといことなら、あれだけど、そうじゃないなら、学会にいてどうのこうの、言いたい放題のこと言っているんだから。

信心が嫌になろうが、何しようがそんなことは関係ないんだ!君にとっては!

そんなこと、そんなくだらないことを言っておってはだめだってことを、頭から少しかましてやればいいんだ、そんな者に対しては。

そんなことを君がいちいち心配するのは、「他人のせん気を頭痛に病む」っていうんだ、そういうの。

わかったかい、よー!

だから方針は決まってるじゃないか、さっきから、宗務院で何回も何回も、ここへ二人、さっき出たのは何のためだ、えー!あれはだねぇ、みんなにこういうとおり、さっきの二人が、真剣に創価学会のあの狂った中から、一人でも多くの脱会者を出して、一生懸命やってんじゃないか!

それを君もやったらいいんだよ!わかったかい!』

= = = = = = = = = = = = = = = =

これで学会員を「お慈悲より導こうとされているんだ」などと法華講員に言われても。「なあ(笑)」という感じである。
どう聞いてもだ。とても高潔な人格を目指して修行する僧侶の発言には思えない。
そしてこの内容。学会員の信心が嫌になろうがどうなろうがくだらないことなんだそうだ。

何より軽蔑と焦りに満ちた、この声の調子。
これで猊下の人格が世に知れ渡ってしまった。
 
そしてこれでほとんどの人の目が衝撃的に覚めてしまったのだ...。

さらに、この可哀相な質問者はどうなっただろう。その続きである。

質問者:『ただ、あのー、すいません...、あのー...。』

日顕:『一人の脱会者もいないで、何が「ただ、あのー」だ!何だ、言ってみろ!ほら!』

質問者:『あー、ただ、...やめときます。結構です。』

日顕:『何!』

質問者:『あのー...、まー、あのー...、愚痴でございますので結構でございます。』

と、言いくるめられてしまうのである。
そして最後には、日顕に、脱会者づくりだけに専念することを『それをよく腹に入れろ!』と怒鳴られて終わりである。
ここはまだ平成3年の8月だというのに(笑)。

この「頭から少しかましてやればいいんだ」の発言は、学会員、というか常識的な信仰者たちの胸奥を十二分に揺さぶったのだ。

♪ 「な〜んだ。猊下って、こんな人だったのか。」っと。♪
♪ 「慈悲の振る舞いを目指して修行してるどころか、ただの怒りっぽいボケ老人じゃない。」♪
♪ 「な〜んだ、な〜んだあ」って。♪

センセーショナルなインパクトであった。
こうして「かます」は、その年の学会の流行語となってしまった(笑)。

もうこの頃になると、宗門も破門などをチラつかせてこようが、もうただの物笑いでしかなかったし、誰も宗門のある方には見向きもしなかった。
もはや宗門の問題は事実上の喜劇であった。

だが、そう思ってなかったのは、ただ宗門ばかりなのだが。
しかも破門などの措置で学会員が雪崩れ込んでくるとでも思ってたようだ(笑)。

あまりにも信徒の実情と、僧侶の高慢ちきな意識との間の溝が底が見えないくらいに深かった。

10月には、『天魔がゆく』という大変ヒットしたビデオも学会内で出回った。
とある青年部の有志が作ったとされる。

これは日顕宗の謗法について映像で訴えていて実に分かりやすかった。
誰もが一目瞭然である。しかも最初から実に面白い。ジョークもいっぱいである。

「提供 皆様の食卓に新鮮な カマス ホウボウをお届けする 無限会社 阿倍漁業」、
「提供 スカットさわやか 日本コラコラボーズ」

と、さっそく「かます」発言にふれて笑わしてくれている。阿部とは日顕の名前である。

そして数々の日顕宗の嘘とその実態を映像で紹介してくれた。

日顕に本山でかまされた人など、数々の証言。
日顕の墓が禅寺の横の共同墓地にあって、塀で仕切られているという宗門の嘘。
etcである。

そしてこのビデオの中でも衝撃的なのが、大石寺周辺に黙認されてきた謗法の実態である。
全くの他宗である、金毘羅神社や八幡神社に正邪混合で並べて安置されている正宗代々の猊下の板曼陀羅の実態を見て驚かない者はいないだろう。
何故、歴代正宗の板御本尊がわざわざ、神社に安置されているのか?
板本尊をもらった寺が退転して金毘羅神社になって鳥居でも立てたというのか。

つぎつぎ、つぎつぎと、これでもか、と言うほど謗法とごっちゃが写し出される。

そこの富士宮市半野地区は住民の9割りが大石寺の檀家である。
大石寺からは何の信心指導も無いという。でも御供養だけはいつも戴いてもらえるそうである。

そして最後にこのビデオは歴史的謀略、C作戦に触れている。(これについては後に述べる。)

これはもう一目瞭然である。
このビデオのインパクトがあまりに大きいので、日顕宗でもこれを真似てこれ以降、対抗してビデオを積極的に作りだすが、出来が全然違うといえよう。
日顕宗のは、まず何より陰湿さを感じさせ、しかも中身が無い。そして暗いのである。
さすがは折伏してこなかっただけのことはあると感心させられる。

10月の31日には、静岡県下で「日顕『猊下』の広布妨害の責任を明らかにするように請求する」署名運動が始められた。

そう言えば、この時でも聖教を見るとちゃんと日顕には(まだ)上人が付いていた。
ああ、学会はなんて礼儀正しいのだろうと感心させられる。(笑)

こうしてクライマックス前夜の10月は終わった。
 


 



 (No.15) 

平成3年 11月

まず11月初頭に、先にも触れたが宗門では「法主本仏論」の決定版となる発言がなされたのが公表された。
これが俗にいう

「顕本仏迹論」

である。

福田元書記が本山の行学講習会で講議したものである。しかもすごい邪義である。
前述(No.13)の、「大御本尊と法主の2つが信仰の根本」などと言う生易しいものでは無い。

なんと、百六箇抄の勝劣を引いて、大聖人より今の法主が優先するという発言に至るのである。

♪勝劣を決めるなら「大聖人が迹」で、その時々の「法主が本」であると。♪

ここで、「本」とは本体の意味で、「迹」とはその本体の影の意味である。

日顕宗と呼び捨てになったのは感情的な揶揄ではなく、教義的な必然でもあった。

 (それでもこの時はまだ「日顕法主」と敬称が付いていた。)

これでは、もう、大聖人より今の法主が優先すると主張するのでは「日顕宗」が妥当だろう。

もっとも宗門では、聞かれると今でも全てを無視して法主信仰の教義は無いとあわてて否定する。

察するに、僧侶達が法主を本当に尊敬しているわけではなく、信徒に威圧的に出る時にマヤカシのように使うためだけに存在する教義のようである。
卑怯な話である。
ただ信徒の隷属支配を狙うための教義など、もう信仰次元ではなくサギ以外の何でもない。 



ところで、個々の学会員が、日顕と呼び捨てにし、日顕宗と呼ぶようになったのは何時頃 からであるか。

何と呼ぶかは個々人の考え方の問題であるから基本的には自由なので、その時期には非常に幅があったように思う。
今、平成11年の現在でも年配の婦人の中には「日顕さん」と呼ぶ人もいる。
年配者は心やさしい。どのような悪人であろうと礼儀が何より大事なのだそうだ。

筆者は、青年部の一部では早くは5月にはもう呼び捨てにしていたのを耳にした。
正本堂問題のすぐ後である。
それは彼らのストレートな思いだったのであろう。
ただしその頃には、それをたしなめる壮年婦人も多くいた。

多くの人の口から公然と「日顕」と呼ばれるようになるのは、5〜9月ぐらいの時期ではなかったか。
それは異論のあるところだろう。筆者も多くの人を憶えてるわけではない。

ただ、聖教や創価新報などでそう呼ぶのは少なくても12月の破門よりずっと後であり、自由な立場にある「地涌からの通信」でさえ呼称をはずしたのは10月であった。

それを思えば、それよりずっと早くから個々の会員には呼び捨てにされていたこと、そしてその時期が非常に幅のあることから、強制でもなんでもなく、個々の会員の意志が強くありのままに反映されてのことであったことを述べておきたいのである。



 



(No.16) 

11月7日である。

宗門はついに、

♪「創価学会解散勧告書」♪

を創価学会に送付した。

先に述べた「顕本仏迹論」を学会が聖教に掲載した同じ日のことであった。

宗門は即日、それを一般紙には連絡しているのに、学会には黙って送付しただけである。
「おまえらより、世間一般の人が先に知ればいい」ということであろうか。
これだけとっても「ああ、陰湿だ」と思うのは筆者だけであろうか。

内容は、要は学会を解散しろということである。

「創価学会解散勧告書」の内容は、全文が学会でも報道された。長文である。

誰しもどんなものか興味をもつだろうが、読んでみて「なあんだ」という程度のものである。
一読して、さらっと忘れるようなのものである。なにしろ162箇所も誤りがあるのである。
この内容の概略をこころに留めていた人は、学会員、法華講員でもいないだろう。

創価新報では、わかりやすく整理して解説してくれている。わかりやすく言うと、

 1. 法主根本にしなかった。(するわけがない。)
 2. 学会設立時の3条件を守らなかった。(事実と違う。しかも大きなお世話。)
 3. 52年当時の反省を裏切った。(何を裏切ったか不明。具体的事実が無いのはなぜ?)
 4. 月刊ペン事件などで宗風が汚された。(裁判で明らか。世間知らず。)

である。全く中身がない。

みんなの心に残ったのは、「ついに宗門がやりおったか...。」「ほー。」「そうか、解散勧告を出したのか」「宗門はどうなるんだろうなあ。」etc...
という「解散勧告」出したという事実だけであった。

この「解散勧告」で、ようやく誰の目にも学会と宗門とが決別していくことが予想されるようになった。

この頃から破門が通告されるまで、緊張感は確かにあったが、それは神経質なものではなかった。

ナーバスなど程遠いという点で、当時、世間からも誤解されていた面があったようだ。

筆者の周辺では、どのような経歴の方か分からぬが、さぞかし神経質になっているだろうと、ここぞとばかり会館などに来て、見知らぬ会員を罵倒する人々もいたが、およそ見当違いもというものだった。

酔っ払いのような振る舞いで非社会的な行為に及ぶ人はいつの時代にもいるのであって、その人がどの団体の所属であるのかを憶測しても意味の無い話だろう。

こっちは余裕いっぱいで笑い合っていた。怒ってはいたが。

何しろ第一に、こちらには何も問題はなかったのだから。

学会は大きな安心感で包まれていた。

先のことは誰にもわからなかったが。
どうなるのだろうとは思ったが、大きい目で見て悪くなると考える人はいなかったろう。 

11月には各地での日顕の退座要求署名運動が広がった。

これに、署名したくない学会員はまずいなかっただろう。
何しろやりたかったのである。
あっという間に数百万を超え、年内には1600万人の署名になって送り届けられることになった。
(海外からの数百万も含まれている。)

全世界からとはいえ、あまりに多い数で圧倒されてしまう。
当時、学会以外の外部からも日顕は多大に顰蹙をかっていたのだ。

驚くことではあるが、宗門が軽蔑されいったのは学会からだけではなかったのだ。
その頃は、頼まれもしないのに、一部の右翼が街宣車で打倒日顕を標榜して本山あたりを右往左往していた。
そもそも日顕宗のスキャンダルの発端の多くは学会そのものではなく、全くの外部の中外日報から出ていた。
中外日報といえば学会批判も多く書いてきている紙面である。
その他、他宗から見ても、日顕宗の僧侶などただ威張ってただけに見えたことであろうし、署名する人はいくらでもいたのだ。

そしてその年の12月には日顕の下に送り届けられてしまったのである。
日顕が画策してたった1年後のことであった。、、、ああ、仏法の裁きは厳しい。
 


 



(No.17) 

前年の12月に手のひらを返すような事件で宗門が学会員を驚かして以来、今年の間中、学会員がどうしても深く実感しつつも考えざるを得ないことがあった。

「なぜ宗門はこんなに突然で、そしてその後も1つ1つがこんなに性急で強引であったのだろう。」

「なぜ、あんなに急いだのか。」「何の説明もなく。」「何の話し合いもなく。」

事ここに至るまで、宗門のやり方はまるで、始めに事ありきのようにしか思えなかった。
しかも何を急いでるのか、ただ性急に学会をなんとか切り崩そうとするものでしかなかった。
常識的には、そこに『何かが』あるとしか思えない。

この年の1〜3月をもう一度思い出してみよう。よく見て考えてほしい。

 12月暮れに、名誉会長の罷免。

 1月初旬に、正本堂の意義の変更。及びすでに罵詈雑言。

 3月半ばに、登山変更の通知(実行は7月)。そして学会員を退会させ直属信徒にする切り崩し開始。

その間、たった3ヶ月もない...。そして夏には「学会員お断りの立て看板」が立った...。

これをリアルタイムで見てきた人間には、宗門が何かを意図的にやったとしか他に思えないのだ。
 

しかもである。驚くべきことにだ。解散の勧告に至っのに何の正当な理由1つ、存在しないのである。

どんな法華講員に聞いても、解散、破門を通告した正確な理由を述べれる人はいなかった。

破門に至るまで、♪ 誰も知らない理由♪ なのである。
当事者も含めて。不思議なものである。

今も宗門側の誰かが学会の破門の理由を述べてくれるのだろうか!
ぜひ聞いてみたいものである。

そう言えば、解散勧告書にある事実の指摘も、すべて平成2年よりずっと以前の事件ばかりが列挙されていた。(月刊ペンなどの事件だが。)
変である。それでは今回の学会に手落ちがあったとかの主張がそもそも全く問題外ということだ。

要するにただ難クセをつけられただけである。
もし顔を伏せて黙っていたら、1月には「解散しなさい」とかバカバカしく言われてたのだろう。
 

先に挙げた1〜3月の項目の性急さをよく見て考えてほしい。

法華講員らが、意図的ではなく成りゆきの経緯であるとか、善導し尽くしての解散勧告だったとか、事態を無視して述べるのには、全くの空理空論であることが断言できる。

またこれをもって見れば、もしかしたら学会が誘導的にやったのかわからないとの外部からの非難をも全くもって否定せざるを得ない。

学会員は馬鹿ではない。
学会員だっていろんなことを考えるのだ。

自分の身近な人に理解を求めて社会の中で積極的に話していく学会員は、カルト団体がよくするように、組織外部の意見から閉鎖的状況を生み出し、よく知らない人だけに布教しようとするなどという世間知らずとはわけが違うのだ。

この断片的な1〜3月だけを見ても十分に結論にできる。

その間、学会側がやったことと言えば、

 1. 丁寧にただしはっきりと質問を出したことと、

 2. そして疑問点などを聖教等に掲載したこと、

 3. あとは話し合いを申し込んだこと、

のたった3つだけではないか。

それをまるで学会に陰謀があるかの意見には、まったく、「学会員を馬鹿にするなー!」としか言い様がない。

こんなもの誰がどう見たって、一連のことは宗門が積極的にやってるとしか議論の余地はない。
他にどうしようがあるというのだ。

あまりに決定的であるというか他に議論の余地があれば聞いてみたいものだ。
 


 
 



(No.18)  

ここでC作戦について触れたい。

始めから宗門の意志で何かを始めようとしたことは、揺るがしがたい実感である。

その宗門が当初から仕組んだとされる謀略の作戦名がC作戦である。
名付け親は他ならぬ日顕であるとされる。

聖教にも早くからそれについての問いただしや部分的な情報が開示されていた。
しかし、その当初は確たる報道が為されたわけではないので、実際には学会員にとってもそれをそのまま受け取ったかどうかは疑問であろう。

半信半疑のような常識的な認識ではなかったかと思う。
何かがあったのは確かだろうが、実態はよくわからず、ツウ向けの話題であったとも言える。

もちろん聖教などの学会側も、数々の耳にした傍証を宗門側に問いただしただけであるから、なんらその報道の姿勢に問題は無い。
通常の社会でも、信徒なら世間で耳にする疑いを、きちんとした根拠を挙げて宗門自身に問うことなどはごく健全な信仰上の行為であろう。 

そのC作戦の存在の傍証とは、

日顕が「C作戦は、あの野郎の首をCUTするという意味だよ。」と複数の僧侶に語ったと事や、
当初は名誉会長の罷免から1ヵ月で終わる電撃作戦であったと示唆する手記を宗門側の関係者が一般の雑誌に載せていたことや、
日顕の「学会が崩壊しても、うち20万人でも宗門につけばそれでよい」という発言は本当にあったのかとか、
なぜ平成2年12月の時点で、「もしものときは安心して宗門についてらっしゃい」とアメリカの学会組織の責任者に正式に伝えたのかとかであった。

そういった疑問を宗門に質問したのであったが、なしのつぶてであった。

そして宗門僧侶である福田毅道らが一晩泣き続けての予想によると、学会員は悲惨な地獄絵図を描くはずだったそうである。(笑)

1/3が退転し、1/3が本山に付き、1/3が学会に残るとか。

そして1月中にはすっかりカタがついて、僧侶らは温泉にゆっくり入れるだろうと言ってたのだから実に馬鹿馬鹿しい。
 

C作戦に至る概要についても、ごく簡単に話しておきたい。

そもそも平成2年の7月に、宗門と学会との定例の話し合いの場で、学会側は、最近の末寺僧侶のあまりの
綱紀の乱れをもう少しなんとか正してほしいと内々に要望したことが発端であるとされる。

これを宗門は認め、表面上は宗内に綱紀自粛を打ち出すが、同時にもう学会を切り捨てようと思い立ったらしい。
要は、宗門はお金も貯まったし、後は信徒を切り捨ててでも威張りたかったのだ。

それで、その12月に11.16の先生のスピーチにあらぬ言いがかりを付けて来た。
そして即座に学会の対応が悪いと、名誉会長ら役職をいきなり解任した。

...そして学会員は大いに動揺し、学会は謝罪をしてくる...予定だったのだ(笑)。

そして学会の事実上の支配まで、当初は1ヶ月ですべて終わるはずだったのだ。

C作戦が絶対にあったとされる背景には、C作戦という名前でなくても何かの謀略が存在しなければ、宗門の行動はまったく説明がつかなかったからである。

C作戦は、宗門のあまりの酷さへの実感であった。   



 



 (No.19) 

11月28日「創価学会破門通告書」が学会に送られた。

これもまた御書による根拠すらも示していない「破門通告書」であった。

最初から最後まで何の話し合いもぜず、ついに一片の通知を送りつけて破門に処したのだ。

個々の多くの会員は、それが報道されるよりも早く口伝えで聞いたことだろう。
完璧と言っていいほど、まったく動揺は無かった。

「ああ、そう。」「とうとうやりおったか。」としか思えなかった。
「それがどうした。」と。

学会は全体がずっと大きな安心感に包まれ、そして歓喜があった。

破門になって明るく喜んでた団体は他に無いだろうから、外部の人には想像しにくいかもしれない。

長い長い間、無意味に苦しめられていた重い鉄鎖から学会はようやく解き放たれたのだから。

どう見ても変な宗教が、自分から所を辞して去っていってくれたのだから。

こんなに安心できることはない。

またこの頃、誰が作ったともなくやたら色んな替え歌とかが流行ってた。楽しいものであった。

♪ 大好きだったけど〜学会いじめなんて、大好きだったけど〜悲しいプレゼント〜バイバイお寺〜♪

笑い飛ばされていたのである。
 

この時、宗門から永久に離れるのかどうか、個々の会員の中にはさまざまな憶測もあったようである。
今の宗門に魅力が全くないにしても、ずっと遠い将来、どうなるのかと。

青年部にとっては全くもうどうでもいい問題であったと思うが、年配者にとっては、毎月欠かさず大石寺に登山をするのを楽しみにしていた人までいたのだから関心が無いはずはなかっただろう。

しかしそれは、どの会員にもわからないことであった。
ただそういった登山を何より楽しみにしていた年配の人たちまでが、宗門をゆびさして積極的に批判していたことをもっと法華講員は知るべきであろう。

ただ筆者の印象としては、池田先生が破門直前に、宗門と学会の歴史の長さの違いが、数千年単位の時の経過で見れば、どちらもあまり変わらないようになると譬喩的にスピーチをされたことを記しておきたい。

結局、昭和50年代からの宗門問題をただ一言で説明するなら、

  1、当初は学会がいじめられていた。

  2、そして平成3年から宗教改革の運動に変わった。

本質的には宗門問題は、単に宗門による、宗門のほうの問題であったと理解している。

しかしそれを機に学会は古い鉄鎖から解き放たれ、大きく世界的な民衆救済の視野にたった行動を取れるようになった。

こうして。

やがてこの11月28日は「魂の独立記念日」と名付けられることになった。

その日以降の聖教の紙面や会合では、取り立てて騒いでるわけではないのに、押さえようもない歓喜が溢れ出ているのがひしひしと感じられた。
 


 



(No.20)(終了) 

追記

今から思えば、私には胸がすくような歓喜の思い出に包まれる一年だった。
誠実さゆえの長年にわたる苦しみを乗り越えて、その年に新しい出発に立った。

人の心ゆえ離別して宗門が衰亡の一途をたどるのを思うと少しさみしいけど。
あらかじめ用意した万全の準備も何もないけど。
歓喜に包まれた旅立ちだった。
ただ希望と責任だけがあって旅立った、まるで青年のようだった。

そういえば発端の宗門からの批判(11.16スピーチ)の1つがベートーベンの「歓喜の歌」を悪しきものとすることで始まったこともあまりに象徴的だった。(しみじみ)

法華講の諸氏は、今も日顕が来ると土下座して手を合わせているのだろうか?

土下座する者の前を悠然と歩ける者を不思議に思う日はいつなのだろうか。。。。

♪ 終わり ♪ 

読んでいただいた全ての方に。ありがとうございました。

 

 

※ これは1999年に妙観講の友人に請われて作りました。

(こんな長文にもかかわらず最後まで聞いてくれた彼には感謝しています。もちろん協力して盛り立てていただいた方々にはお礼の言葉もありません。)

それで、最近の日顕はどうなのかというと。
米国で僧侶としての出張中に売春にうつつを抜かしていたこと が、裁判所からしっかりと認定されていましたね。

米袋に遺骨を押し詰めては廃棄していたことも、最初はしらばっくれてたくせに、裁判の過程で全部バレてしまいました。(そもそも遺骨の扱いかたが常識からかけ離れすぎています。)

はたまた「3千万円を支給」ことも、他の嘘と同じように結局は裁判で明らかにされてしまいました。日顕の大勢の前でウソを平気で言えるお人柄っ て、。。。(笑)

事実はこうなんだと提供するのみです。

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