別冊宝島「ゲイのおもちゃ箱」より
1992年12月発売


[Wednesday News]について-2

 

ゲイは後天的なものですか? 先天的なものですか?

 分かりません。今のところ、ストレートがなぜ性的に異性に魅かれるのかが分からないのと同じように、なぜゲイが同性に魅かれるのかに答えられる人は誰もいないのです。それより問題なのは、こういう先天的か後天的かという疑問がでてくる背景にはゲイになってしまうのはなぜだろうという発想があるところなのです。それは、意識的にしろ無意識にしろ、なってしまう理由が分かるなら、それを防いだり直したりする方法があるに違いないという設定があるわけで、つまるところゲイであることは防いだり直したりするぺきことだという大前提から出発しているからなのです。

 なぜストレートになったかという疑問を持ったこともない人間が、「なぜゲイになったか」だけに疑問を持つことのほうが、よっぽど大きな問題なわけです。


「わかりません」。現在の時点で、このひと言が、この問いに対する最も重要で最も真撃な答えです。そして、この分野で答えくれるはずの科学者と称する人たちにいちばん欠けているのが真撃な態度です。どのようにして人間が他の人間に性的に魅かれるのかというメカニズムはまったく解明されていない分野で、責任を持って答えられる人などいないのが現状です。そんな状態だというのに、同性愛に関してだけは、少ないデータと大きな偏見に基づいて「すべてわかった」ような意見を発表する人がたくさんいるのはなぜでしょうか。歴史的に見て、一部のパイオニアを除けば、科学者といわれる人たちでさえ、その時代の価値観や道徳観から自由ではないのです。ビクトリア朝時代のイギリスでは、女性が性的快感を感じるのは病的なことだと治療の対象になっていたことがあったし、アメリカでは子どものマスターべーションが万病の元だと、多くの医者がその対抗策を商売にしていたことだってありました。今の科学者も、口では同性愛は別に異常ではないとかいいながら、研究対象を同性愛者に限っているなんて矛盾してると思いません? とにかく科学者のいうことを鵜呑みにしてはいけません。



 

ゲイば相手がゲイであることをどうやって見分けるのですか? 

また、好意を持った相手がストレートの場合はどうなりますか?

 正確に言えば、見わけ方などありません。自分はゲイかストレートかを100%見分けられると豪語するゲイもいますが、それは単にゲイとはこうしたものという、その人なりの思いこみに基づいて、他人の行動や趣味からそういう判断を下しているだけで、あまりあてにはなりません。

 ただし、今のように、ゲイは隠すべきことだとされている状況では、他のゲイと知り合いたいという、ゲイの欲求は非常に強く、もしその人がゲイなら、自分もゲイだと知らせたいと思うゲイも多いですから、そういうゲイ同士が偶然めぐり合えば、ストレートが見過ごしてしまうような、自分に注がれる視線などから分かり合うということはあります。それにしても、知り合いたいと思っていなけれぱそれまでですし、リトマス試験紙のようなものは存在しないのです。まして、週刊誌などが安易に作る“ホモ度テスト”など、あれほどあてにならないものはありません。

 もし、相手がストレートだったらどうするか、という問題ですが、これに対する対応も人それぞれだと思います。これほど、ゲイへの精神的抑圧が強い社会に暮らしていると、ゲイを嫌悪するゲイもでてきますし、男らしさのすべてを、女性に魅かれることとすり替えて考える(その逆もある)ゲイもでてくるので、相手がストレートでなけれぱ好きになれないゲイは、かなりいるようです。ゲイが異性の人とセックスするのが、なにも不可能でないのと同じように、ストレートでも同性とセックスすることも可能なので、場合によって、そういうゲイがストレートの人を相手に想いをとげることもあるでしょう。しかし、その場合、精神的なものまで含めた形で満足するのは、ほとんど不可能だと思います。

 ぼくもストレートに性的に魅かれたり、愛情に近いものを感じたりすることはよくありますが、それは気持の中だけのことにしておきます、たとえば逆に、女の人から性的な交渉を求められれぱ、迷惑だとしか思いようがないのですから…。

 よく、ぼくがゲイだと話しただけで、「おい、よせよ。俺はダメだぜ」などと言いながら、おしりを隠すストレートの男もいますが、そういう場合、逆に、こういう男は女と見れば誰かれかまわずセックスをしょうと挑みかかるんだろうと、内心バカにしながら、「大丈夫だよ。ぼくは面喰いだから」と応酬することにしています。これは、よくある誤解ですが、ストレートが異性なら誰でもいいとは言えないように、ゲイにもそれぞれ好もしく思えるタイプがあるのです。


 「わかりません」。現在の時点で、このひと言が、この問いに対する最も重要で最も真撃な答えです。そして、この分野で答えくれるはずの科学者と称する人たちにいちばん欠けているのが真撃な態度です。

 どのようにして人間が他の人間に性的に魅かれるのかというメカニズムはまったく解明されていない分野で、責任を持って答えられる人などいないのが現状です。そんな状態だというのに、同性愛に関してだけは、少ないデータと大きな偏見に基づいて「すべてわかった」ような意見を発表する人がたくさんいるのはなぜでしょうか。

 歴史的に見て、一部のパイオニアを除けば、科学者といわれる人たちでさえ、その時代の価値観や道徳観から自由ではないのです。ビクトリア朝時代のイギリスでは、女性が性的快感を感じるのは病的なことだと治療の対象になっていたことがあったし、アメリカでは子どものマスターべーションが万病の元だと、多くの医者がその対抗策を商売にしていたことだってありました。

 今の科学者も、口では同性愛は別に異常ではないとかいいながら、研究対象を同性愛者に限っているなんて矛盾してると思いません? とにかく科学者のいうことを鵜呑みにしてはいけません。



 

ゲイは差別されてますか?

 この間題も「何を差別というか」によって話はずいぷん変わってきます。たとえば、アメリカでは州によって、成人間のホモセクシュアルな行為をはっきり禁じている法律が存在します。そういうところでは、ゲイであることが公になると、そのゲイはさざまな法の庇護を受けられなくなり、社会的に葬られることになります。それは明白に制度上の差別でしょう。また、キリスト教の多くは、やはりホモセクシュアルな行為を禁じているため、ゲイは神の摂理に反するものとして断罪されるわけで、これも差別です。

 さて、日本の場合ですが、法律上も宗教上も明白な差別はたしかにないように見えます。人によっては、そういうところから、日本にはゲイに対する差別がないという人もいます。はたして、そうなのでしょうか? ゲイに対する差別が法律で明文化されてない、なにか大きな権威がはっきりゲイを否定していない、だから差別がないとは言えないはずです。実は、たいした問題もないように見える日本では、目に見えない差別が空気のように意識されず、ぼくたちの生活をビッシリと埋めつくしているのです。

 なぜ差別が目に見えないのかというのは、ゲイであることが肌の色とか体の障害のように、目に見えるものではないからです。それは多くのゲイが、自分がゲイであることを見事に隠しおおしているから、また自分でも気づいていないからとも言えます。要するに、毎日を慎ましく暮らしている大多数のストレートにとって、ゲイは世の中に存在していないのです。すべてがそういう前提のもとに、人々は行動し話をするわけです。しかし、自分がゲイだと気づいた人間にとって、実は自分は存在するはずのない、もしくは存在してはいけない存在だと思い知らされながら生きていくことが、どんなに苦痛なものなのかお分かりですか? それを差別とは言わないのでしようか? 

 たしかに最近は、マスコミがゲイの中でもごく一部の人を取り上げてスターにし、ゲイとはこうしたものだと面白おかしく伝えてくれるので、そういう特殊な人はいるんだなと知っている人は多くなってきましたが、その人にとって、それは無視できる、全く自分の日常的な世界とは無関係なものとして切り捨てられるものでしかないのです。ゲイはどんな社会、どんな経済的な状態、どんな家族構成にも存在し、まつたく自分たちと同じように生活し、喜んだり悲しんだりする人間だという形では存在しないのです。

 自分の息子に男の子の恋人ができたとして、どこの親が、女の子の恋人ができたときのように、ほう、いつのまにかウチの子供もそんな年になったかと、内心喜んだりするでしょうか? どんな人間が、自分の母親がレズピアンだと知って、ああそうだったのと冷静でいられるでしょうか?

 ひとたび、ものの本を開けば、そこには科学的と称する物言いで、同性愛は未成熟な精神状態だとか心の病気だとか書かれている。とにかくこの世の中は、教育にしろ社会制度にしろ、すべてがストレートだけで構成されているという前提で成り立っているのです。どんなにいろいろな才能があろうとも、ゲイだと分かれば変態とかオカマという言葉でかたづけられてしまう。こういう状態を、ゲイは甘んじて受け入れなければならないし、またストレートからは、そういう状態に置かれているのが当然だときめつけられているのです。

 これを差別と言わないで、何を差別と言うのでしょう。今の日本は、ゲイに対する差別で満ち満ちているのです。


 現在、アカーというゲイ&レズビアンのグループが東京都を相手どって訴訟を起こしています。東京都が都の施設を同性愛者という理由で使用を許可しないのは不当な差別だと起こされた裁判です。(詳しく知りたい人は、飛烏新社から出ている『ゲイ。リポート』という本にその経緯が載っていますので、そちらをどうぞ)

 この裁判がものすごく大きな意味を持つのは、初めてゲイを差別するもののシッポを掴んだということです。このWNにも書いているように、日本ではゲイが姿を隠しているので、ゲイへの差別も見えにくいのです。ゲイが見えなくても存在するように、差別も見えなくても存在するわけです。このアカーというグループが府中青年の家でゲイとして姿を見せた時、相手もうっかり姿を見せたというところでしょうか。彼らはそのシッポをしっかり掴んで放さず、とうとう裁判という場にまで引きずり出してきたのですから、その功績は大きいと思います。このシッポをはやした大きな怪物が逃げていかないように、裁判の行方には注目していきましょう。

(この裁判は二審まで争われ、1997年9月に、「東京都がアカーに対して府中青年の家の宿泊を拒否したことは、全くの違法である」という判断が東京高等裁判所で下されました。1週間経っても都側が上告しなかったので、この第二審判決が確定し、アカー側の全面的な勝利で終わりました。なお、伊藤悟さんのHP「すこたん企画」に行くと、詳しい経緯が分かります。)

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