別冊宝島「ゲイのおもちゃ箱」より
1992年12月発売


[Wednesday News]について-1

 

"Wednesday News" No.3 20/April/1984 A3 size

 

 今手元に、昔僕が出していたニューズ・レターがあります。1980年4月20日の発行で、「ゲイについて、何か知ってる?」と大きくタイトルが入って、ゲイに関してのQ&Aが載っています。これが今回みなさんにご紹介しようと思っているウェンズデイ・ニューズの第3号です。
 当時、僕はTBSラジオで放送していたスネークマン・シヨーの水曜担当のパーソナリティをやっていました。水曜以外は、あのいわゆる有名なスネークマン・ショーなんですが、水曜日だけはウェンズデイ・スペシャルと銘打って、ゲイである僕がゲイのリスナーめがけてON AIR! ちょっと鬼っ子的なプログラムだったんです。

 ウェンズデイニューズ(以下WNと記す)は、この番組から生まれたものです。実は、その第3号に載せた「ゲイについて、何か知ってる?」という文章は、その前の年に宝島本誌に書いたものの転載なんです。今、別冊とはいえ同じ宝島でゲイの本を一冊まとめていると思うと妙に因縁めいたものを感じます。それにしても、13年前にこういうものを書かせてくれた宝島の先進性に拍手を送ります。(ゴマスリスリ)

 今また、このWNを読み返してみると、文章がこなれてないし、なんだかぎこちないので、恥ずかしいです。それに、妙に頑張ってるって感じが前面に出てて、少し照れてしまう。当時の僕はアメリカのゲイ・リブのモロ影響下にあったので、どこか使命感に燃えてるところがあったんでしょう。ただうれしいのは、今読んでも内容そのものには納得がいくという点です。基本的なところで、今でも僕は、あの時と変わらない意見を持っています。その意味において、このWNの3号は今でも立派に通用すると思います。

 しかし、13年前に書かれたものが今でも通用するというのは、ゲイを取り巻く環境があまり変わっていないともいえるワケで、これはちょっと悲しい話なんですけどね。

 読者のなかに、このWNを知っている人はまずいないと思うので、結溝長い文章なのですが全文載録してもらいました。ひとまず読んでみてください。これは僕の原点です。そのうえで、今僕がどんなことを考えているかを知っていただくと、この別冊宝島をまとめている大塚隆史の人物紹介になるんじゃないかと思ったのです。この企画は、一種の自己紹介のつもりなんです。

 実際にWNを読み進みながら、その事柄についてとか、それに関運する事柄について順に書いてみます。WNと含わせて読んでみてください。

(このWEB上では、本来の構成を生かすように1992年に書いたもの1980年に書いたWNを交互に載せていきます。区別するために文字の色を替えてあります)



 

●ゲイについて何か知ってる?

 

ゲイとはなんですか?

 ゲイとは、性的な意味で同性に魅かれる人のことです。当然、男も女も含みます。人によって、同性愛者、ホモセクシュアル、ホモ、レズビアン、レズ、オカマ、男色家、変態性欲者と、ニュートラルな意味あいのものから、非常に強い軽蔑を含めたものまで、呼ぴ方はさまざまですが、そういう風に呼ぱれてしまっている対象全部がゲイなわけです。どういう名前で呼ばれようと、実体そのものには何の変化もないのですが、性的な意味で同性に魅かれる人が自分自身を呼ぶのに、医学用語や否定的な意味を含んだ言葉ではなく、あるがままの自分の性質を積極的にとらえた言葉を必要とし、使い始めたのがこのゲイという言葉です。

 これは、アメリカのゲイたちによって使われ始めた言葉なので、日本ではまだそれほど一般的ではありません。日本のゲイたちの間でも、この書葉を使う人は少ないようです。日本のジャーナリズムでもそのあたりはまだ混乱していて、たとえぱ同じ雑誌の中でアメリカの話をするときはゲイを使い、日本の話をするときはホモとか同性愛を使ったりしているようです。この言葉は、誰かの押しつけで使われるようになるべきでないのはもちろんですが、さしあたって日本では、積極的にとらえた代わりの言葉がないのとアメリカのゲイたちの長い間の戦いとその成果に敬意を表して、ぼくはこのゲイを使っていきたいと思います。

 また、ゲイに対応する、『性的に異性に魅かれる人』を指す言葉として、ストレートがあるのですが同じ気持からこのストレートを使っていくつもりです。ゲイ自身でさえ、つい普通の人とか正常な人とか言ってしまいがちですが、これはゲイが普通でない、異常だという意味を言外に含んでいるので、使わないようにすべきだと思うのです。

 これだけ言葉にこだわるのも、その人の意識と使う言葉は相互に作用しあうものだからです。いまゲイにとって、またもちろんストレートにとっても一番必要なのはゲイに対して意識を変えていくことなので、これはぜひ押さえておかなけれぱならないポイントなわけです。


 このWNのなかでは、「ゲイ=同性愛者」という定義で話を進めています。説明のなかでもレズビアンを含めていました。実は、ここには一つ問題があります。「ゲイ」という言葉は、ストレートに対して同性愛者という意味で使われながら、レズビアンに対して男子同性愛者という意味でも使われてしまうところです。このWNでは、かなり意識的に「ゲイ=同性愛者」(なんだかイヤな言葉ねえ)の意味に限定して使おうとしているけど、あちこちでホコロビも見えます。これは当時のアメリカのゲイ・リブ運動のなかでも混乱していた問題です。英語で「MAN」が男という意味にも人間という意味にも使われていることにフェミニストたちから異議申し立てがあったように、この問題にもレズビアンからの指摘があり、今では同性愛者総称(イヤな語感!)の場合にはゲイ&レズビアンと、必ず併記するようになったようです。

 現在、僕もゲイと使う時には男子同性愛者の意味で使うようにしています。この本のなかでも基本的にはそうしているつもりですが、「対ストレート」で使っていた「ゲイ」に相当する言葉を使いたくなった時には、レズビアンの人にはちょっと申しわけないと思いながらも、やはり「ゲイ」を使っています。

 僕はアメリカのゲイ・リブの息吹に触れて自己肯定できた人間なので、「ゲイ・プライド」というのがとても重要なキーワードです。ここで使われている「ゲイ」には、ストレートに対してのゲイとレズビアンの連帯が感じられて、僕は大好きなんです。「ゲイ」対ストレートという対立のなかで、常にストレートをからかってきたアメリカのゲイの伝統が、僕のなかにしっかり根を下ろしているので、そういう物言いもよくしたくなるんです。その時には、同性愛者とか異性愛者とかいう医学用語モドキは使いたくないので、「ゲイ」に替わるいい言葉が生まれるまで「ゲイ」を使い続けようかなぁと思っています。



 

ゲイのセックスはどのようなものですか?

 これはストレートにとって、非常にポピュラーな疑問らしく、「ねえ、男同士ってどうやってセックスするの?」とよく聞かれます。そういう場合、ぼくは「じゃあ、男と女ってどうやってセックスするの?」と逆に質間することにしています。これはなにも質間をはぐらかそうとしているのではなくて、その人にとって、当然のことと思われるセックスすることの意味をはっきりさせるためなのです。

 人によっては、子供を作るためだけがセックスすることだと言う人もいるだろうし、男性の性器を女性の膣の中に入れるだけがセックスだと言う人もいるでしょう。そういう答えが返ってきた場合は、ゲイはたしかにセックスをしていないと答えます。しかし、そうなれば、避妊をしているカップルもセックスしてないことになるし、男性と女性は単にきゅうりとコンニャクの穴に置きかえられてもいいことになってしまう。また、そんなものでしかないセックスをしていないことが、大きな損失だとは思えません。

 セックスするということは、そういう部分的なことでなく、お互いに、相手の体を自分の体全体で確かめながら、肉体的な快感(性的絶頂感でもその重要な一部です)と終わったあとの精神の解放感を得るための、総合的な行為だと思うのです。そういう総合的を満足感を得るのが、男と女の間でしか不可能だという考えが、いかにおかしいかは分かるでしょう?要するに、当事者の二人(もちろん、三人とか四人という場合もあるでしょう)が総合的に満足できればいいことなのであって、たとえその二人が、手をつないで寝ているだけで幸せな気持になれるなら、それに対して第三者がとやかくいう筋合いのものではないのです。世の中に、なにか本物のセックスがあると思いこみ、それをしていない人はすべて不幸で異常だと考えているほうが、よっぽど不幸で異常なのです。

 一つ付け加えますが、肛門を使ってセックスすることは異常でもなんでもなく、人によって大きな喜びが得られる方法の一つです。もちろん、当事者が納得し合ってさえいれば、男と女の間でも楽しめるわけです。よく、ゲイはみんな肛門を使ってセックスするものだと誤解している人がいるようですが、これも好む人と好まない人がいて、人によってさまざまなのです。また、男と女の問に本物のセックスが存在すると信じているストレートがいるように、よくゲイの中にも、肛門を使うことのみが本物のゲイのセックスだと思いこんでいる人がいますが、それも全く馬鹿げたことなわけです。


 セックスは当事者たちが好きなことをやりゃいいのであって、第三者がとやかくいう筋合いのものではないというのは、今もまったく変わっていない意見です。

 ただ、この文章を読むと「異常」という言葉にすごく反応しているのに気づきます。異常、異常と言われ続けて、どれだけ傷ついていたかがわかって切なくなるし、どこか「正常」の仲間に入れてもらいたいという気持ちも見え隠れしてて少し情けない気もします。

 現在のように、異常でどこが悪い、異常のほうがなにか面白そうなんていう時代を前にすると、この文章のパワー不足は否めませんね。



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