「今にして思う 『自由を我らに』の承知の上のウソ」 (歯痒末説 ver33.1)

 本当なら 「娯録」に書くべき内容かも知れませんが、論点が 経済の問題なので、この「末

説」の方に 書くことにしました。「自由を我らに」は 安さんが50年以上前に見た懐かしい映

画です。ルネ・クレールの演出で 当時、名画の再上映には 必ずと言ってよいほど選ばれた

ので、何回も見て 今も残る安さんのメモには、細かいカット割りまで 書いてあるくらいです。

 

 安さんが「娯録」で 「自由を我らに」を洋画のベスト3の トップに挙げた理由は、全体に洒

落ノメした流れるような演出と モノクロながら美しい画面と音楽、そして当時の社会的事象

を痛烈に皮肉った 客観性と先見性があったためです。         《末説一覧へもどる》

 

 内容的には 二人の囚人が刑務所からの脱獄を計って一人だけが成功し、フル・オートメー

ションの工場を造る経営者にまでなる。もう一人の男は 出獄するが、また微罪で追われるこ

とになり いろいろのアヤはあって二人は遭遇する。結局二人は 最後に、完成したフル・オ

ートメーション工場を従業員に譲り渡して 旅に出るシーンで終わりになる、といった筋です。

 

 途中の描写には 工場の労務管理が刑務所より厳しいのを描いたり、製作当時コーヒーの

相場が下がり コーヒーを海に捨てて下落を調整したのをモジッて、帽子の相場の調整に帽

子を海に捨て 帽子が海にプカプカ浮いているのを画ヅラで見せたり、いろいろとクレールの

イタヅラがあるのですが ここでのテーマは前記のオートメーション工場の処分の問題です。

 

 映画のシチュエーションでは オートメーション工場が完成する過程なので、まだ従業員がい

る段階で 工場の所有者の二人が逃げ出す必要が起きて、譲り受けた社員達が 毎日呑ん

で踊って暮らせるハッピーエンドになる訳です。初め見た時は 途中の覚めた皮肉な描写に

対して、あまりのハッピーエンドに 力が抜けたのを憶えていますが、それが時間が経つに連

れて 妙に心の何処かにシコリになって疼いてくるのです。

 

 我ながら鈍感な話しなのですが それが2度目に見た時にヤット判りました。これはルネ・ク

レールが 承知の上で仕掛けたウソだったのです。よく安手の反戦映画に 戦争の悲惨さを

描く手法が使われますが、これは逆に楽天的なハッピーエンドを見せて「ウソダァ」と思わせ 

「それじゃぁ ホントってなあに」と頭を使わせる仕掛けでした。それは 途中の描写とラストシ

ーンの描写の落差を見れば判ります。

 

 それにしても 60年も前に、ルネ・クレールは どういう経済の理想型を持っていたのでしょ

うか?。今ならば グローバルな市場主義だとか、ヘッジファンドの規模の拡大・横行などで 

(増田俊男氏の言う)「資本の意志」が人間を疎外して行く過程が、ある程度までは 素人にも

読める時代になりました。しかし この映画が造られた時代に、その仕組みを(誰にも 文句を

付けられないように)韜晦して見せるのは 相当に高度なセンスだったと思うのです。「娯録」

で例に引いた 内田吐夢の「限りなき前進」ですら、名作と言われながら これに比べれば大

分説明臭さが鼻につくのです。

 

 閑話休題。ここでの問題は この映画のラストシーンが、当時でも現在でも 放っておけばま

ず、フルオートメーションで余った従業員は クビになるだろうということ、だから映画のような

ラストにするためには 従業員の(厳密な言い方での)社員化が行われなければならないとい

うことです。それは単に 「従業員が株主になれば そういう形に出来る」という程度の問題で

はなく、「従業員が 経営に参画し、変転する経済情勢の中で 従業員自身の力で継続的に

革新を続けることが出来るか否か」の 問題なのです。

 

 今は 企業での価値が、株主にとっての価値の面ばかりが 強調されて言われます。しかし

それで出る知恵は、せいぜい前記の従業員の社員(株主)化までで それでは本当のハッピ

ーエンドにはならないと考えます。本当のハッピーエンドは 「金銭的に恵まれ 働かなくても

いいこと」ではなくて、「死ぬまで(病気の時の 経済的な心配無しに) 分に応じて働けること」

では無いでしょうか。そういう態勢造りに 必要なのは、資本基盤のモノの見方から 人間基

盤のモノの見方への転換であり、その転換を 現実のものにするには、それを支える社会の

仕組み造り 特に企業評価の尺度造りが不可欠になると考えます。

 

 具体的にはまず 例えば城功氏の「マジック八十システム」(「問題学誕生」日刊工業新聞

社刊)で、「その人の年齢と その企業に入社してからの社歴年数の和が、八十になったら

誰でも定(停)年になる仕組み」を 社会に普及します。もちろん始めは ある一つの企業内

に限っても実施できます。その仕組みを式で表せば 次のようになります。

 考え方 : 「その時点の年齢+在社年数=80」で 一応定年とし再就職する

 その企業で 働ける年数 : 〔80−(入社年齢)〕÷2=働ける年数

 試算 :             〔80 − 20〕 ÷ 2 = 30(年)  [50歳]

     :             〔80 − 50〕 ÷ 2 = 15(年)  [65歳]      

     :             〔80 − 65〕 ÷ 2 =  7(年)  [72歳]

     :             〔80 − 72〕 ÷ 2 =  4(年)  [76歳]

 という訳で 途中で病気になったり、数年間の長期の休暇を取った場合は常に 次に入社

した年齢から起算すればよいことになります。80歳から先は どうするって?。オウ 遣る気

がありますね。そういう方で ボケていない方には、是非とも コンサルタントをお遣りに なる

ことをお勧めいたします。

 

 そういう個人の人生の ワークシェアリング(就労)の枠組みで、次に考えるべきことは 社

会(企業)側のワークシェアリング態勢です。これからの日本は 当分労働力が不足しますか

ら、(他国の人を受け入れない というのではなく)他国の労働力の移入が無くても 自立でき

る、生産性の高い 社会(企業)の構築をまず考えようということです。他国の労働力の問題

は それを前提にしたグローバルな調整事項になります。その自立のイメージを 具体的に言

えば、企業間や職場間で随時に 「仕事の 遣り取り」や「労働力(作業者)の 相互応援」が行

えるような柔軟なワークシェアリング態勢を造り、それを「自律」的に運用してもらうために 信

頼性の高い「業(プロセス)・成果(リザルツ)の 評価システムを用意することです。

 

 評価システムでは まず基になる、目標としての 「生産性の定義」を行います。これはもう

安さんのことですから、言うまでもなく 「基本投入費原理による 総合生産性(IPII)」を使い

ます。IPIは「=[産出付加価値/(設備費+労務費)]」ですから 「仕事の 遣り取り」や「労働

力(作業者)の 相互応援」の、前者は IPIの分子に、後者は IPIの分母に、それぞれ 加算

・減算を行います。ソースの把握は 算出結果の活用面から、貸し借りの単位より 一段細か

い単位で行います。既に 算式を見て気が付かれた方もいると思いますが、当然に「設備の

貸し借り」も可能ですし また出来る限り行わなければなりません。その場合のソースの把握

は 貸し借りの「時間当たりの チャージ」に対応(乗算)する「時間単位」で行います。

 

 人間の働き方の枠組みと 業跡・成果の評価(=目標設定)の仕組みが固まると、ようやく

人間の仕事への取り組み方の 理想的なイメージが見えてきます。それは 「人間の 精神の

自由」を目指すものですから、それへ取り組む苦労の 多い少ないは問題では無く、それはあ

くまで 人間を精神の束縛から解放するイメージでなければなりません。社会や それを構成

する企業、そして更に その構成員である(ここでは社員でなく)従業員の立場で考えると、そ

の「自由の対象」である 「理念(筋道と狙う姿)や目的」については、その多様性から 別途

に論議されるべきものでしょう。従って精神(小さく言えば「判断」 少し拡大して「意思決定」)

の自由は 「方法」の範囲で発揮する極限を求めることになります。

 

 結論的に それは、「目的指示での 方法自主」の道です。その具体化は 既に他の末説

にありますので、ここでは その骨子を述べます。それは またもや基本投入費原理に依る、

(企業単位ならば)「指示目的を具体化するための 個別の総合生産性(IPI)目標の、自己申

告による 社内請負制」です。言い方を代えれば 「目的指示での 方法自主」とは、製造業な

らば 「製品の規格・仕様(その製品を どういう手順でどのように処理するかということ)」と、

「生産方法の設計・管理」の 前者は「組織での意思決定を主体に 従業員個人の恣意性を

抑制」し 後者は「組織の基準は 他に方法が無かったら こう造れという判断の拠り所と考え、

活かせる限り従業員の各階層の 自発性・自律性に依存」することです。なお前記の「管理」

とは 「規格・仕様の標準(守らないと 製品品質項目の結果が変わる手順)」を言います。

 

 最近は 盛んに、分社やカンパニー制 あるいは 部門の独立採算制や裁量労働制による

フレックス・タイム制や在宅勤務制からSOHO契約制などが行われますが、これらは 結果的

に形が変わるだけで、基本的にはすべて 前述の@「人間の働き方の枠組み」と A「業跡・

成果の評価(=目標設定)の仕組み」、そしてB「目的指示での方法自主の 仕事への取り組

み方」の3点カバー出来るものです。そして面白いことに(また 当然でもあるのですが) こ

のどれかが不充分である場合、その組織の活動やプロジェクトの成果が損なわれることには

多くの実例があります。 

 安さんが こんなことを長々と書いた意味は、世の中があまりにも 市場主義の流行・資本

の意志まかせ・(結果として)株主価値の偏重 等に毒されているとしか思えないからです。単

に 個々の企業単位の問題では無く、グローバルな社会思想としての「人間主義・人間の意

思の尊重・人間にとっての価値の再開発」が無くてはナラナイというのが 今の安さんの気持

ちです。そういう思いで この3点に絞った「望ましい 人間のイキザマのイメージ」なのです。

 

 こういうイキザマの枠組みに置かれたとき 人間はどのように反応するでしょうか?。こうい

うイメージが 安さんの「自由を我らに」のラストシーンになる訳ですが、これでは 面倒でイキ

苦しいという人には、親切な安さんは かのヒトラーの「服従し 考えないでいい自由」も用意

したいと思います。世の中には 「命令したくて ムズムズしている人」も居ますから、それと

組み合わせれば これもまた「それぞれの 人生」だと思います。これは 皮肉でも冗談でも無

く、多少本気であることは 歯痒末説 ver29.1の「安さんが確かめた 伝承のチェックリストとし

ての曼荼羅」を見て頂ければ判って頂けると考えています。

 という訳で 改めてルネ・クレールの慧眼に乾杯しましょう!。「自由を我らに」!

                                           《末説一覧へもどる》

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