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09/05/20
更新(初版) |
![]() 09/05/04 からむし織の里近く 春の昭和で考えた/ 以前からずっと気になっていた場所があった。 その地は、小中津川の宮原にある。 宮原の田圃(たんぼ)の中にある。 ![]() (石から気多神社方向を見る) その場所の田圃は宮原では高い場所になるのではないか。 湧き水を引いた小さな水路が山裾に沿って流れている。 その水が最初に分流する田圃は、その最高地の田圃となる。 山裾をぐるりと巡ると、沢があるようでもあるが ここより高い場所の農耕地はあとは畑である。 この田圃からは 小中津川の扇状地のほぼ全域を見渡す事が出来るのである。 見晴らしの効いたこの場所からは 両隣の集落につながるたった一本の道路もよく見える。 そこを移動する者は、 どこの誰か、村人か、行商人か、マレビトか。 この田圃に立てば 農耕作業の人々の姿も 彼等の作業の段取りの話も 彼等の今晩のおかずの話も 話をしている普段の声が聞こえるのである。 そんな事まで判ってしまう場所なのである。 現在では、非自然(人工)的騒音がこれらの声を掻き消してしまうので 時代設定は ずーっと昔の事じゃったぁ ということにしてもらいたい。 初めてこの村に立ち入る人が遠目に見えるのは 山裾から這い出してきたクマが 寝そべっているようでもある。 近づこうとする部外者を寄せ付けないための擬態。 ![]() (石からはげ山を見る。 平山郁夫氏は気多神社曼陀羅の構図にはげ山を取り入れた) 宮原の田圃の中にある、以前からずっと気になっていた場所。 お椀を被せたような形の岩が、あるのです。 お椀を被せたような形の岩が、あるのです。 (後で写真で確認すると、どうみてもこれくらい↑はありますね。 物理的事実自体を大げさに表現すると、本当の嘘になってしまいますので、 ガード心理が働いたものと思われます(笑)) あぜ道脇にあるのではなく田圃の中にあるのです。 田圃内での農作業の効率を考えると邪魔になる石です。 ずーっとずーっと昔の人たちでも、田圃を開墾するときに 岩の破砕方法や梃子の原理は経験則で知っていました。 それでも田圃の中に鎮座する岩、、、 その岩を残した意味を考えていたのです。 「要石(かなめいし)」 として、 同定してみようと思うのであります。 この石(岩)の名前は? 聞きそびれたままである。 初めて見たときには、勝手に「弘法石」と名づけていました。 いまは、「クマイシ」と名づけようと思っています。 「クマ」は「隈」であり「暈」であり「熊」でもあります。 ![]() (石から高舘山?を見る。 山裾と杉木立の隙間から山頂が見える仕掛け) 二十数年前の春先に小中津川の野原を散歩しました。 道路と川辺以外は雪の残る真っ白な風景の中に その岩の部分は雪が融けて まあるく黒い地肌を出していたのでした。 そのときからずっと気になっていた場所があったのです。 その地は、小中津川の宮原にある。 宮原の田圃(たんぼ)の中にあるのです。 不思議な 岩(いわ)の謂(いわ)れ を、迷想してみたのでした。 ![]() (日輪を背にして坐らせてみる/心地がよい) 奥会津昭和村も訪れられた、野本寛一氏の著作に『神と自然の景観論 信仰 環境を読む』(講談社学術文庫 4-06-159739-8)という本があります。 この中には、海上から自分の位置を確認する為の「山アテ」という山の話や、 海岸に表われる「アテ木」という神聖な松の話、そして、磐座(いわくら)と しての「要石(かなめいし)」の話が出てきます。 わたし(筆者)が知っていることは、これだけのことでした。 集落全体が見渡せる位置。見張り台。 鎮守の社の近くにある。ヨソ者が近づき難い形象。 気多神社建立時の方角を測る為の石。アテ石でもある。 高館山と権現山との狼煙(のろし)通信の中継点。 野本先生にも見ていただきたい磐座(いわくら)です(笑)。 注意:この石(小中津川某所)は、私有地の田圃(タンボ)の中にあります。 車は入れません。拝観施設ではありません。特に稲作期の立ち寄りはご遠慮するか、 近所の方にお断りの上で鑑賞してください。 |
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