表紙の言葉


 
J'ai, quelque jour, dans l'Ocean,
(Mais je ne sais plus sous quels cieux)
Jete, comme offrande au neant ,
Tout un peu de vin precieux ...

いつだったか、私は、大海原に、
(どこの空の下だったかは忘れたが)
そそいでやった、虚無への捧げ物として、
ほんの少しの 貴重な葡萄酒を……

Paul Valery
『 Le Vin perdu 』
より

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19000〜19999

     

  • 『魅惑』Charmes 収録。安藤元雄訳。

  • 引用した部分は詩の冒頭で、ここでは海を虚無と云っているが、
    この詩の最後では、海はそこ知れぬ異形の姿を垣間見せる。
    それを踏まえた上で、中井英夫は、あの小説のタイトルをこの詩から採っている

  • 例えば、楕円曲線法で素因数探査をやるとき、何個もの曲線を試したあげく、
    結局、1個も素因数が見つからない、ということがある。
    また、ある桁数以下の素因数を持たないということを確かめるために、何日も計算機をまわすことがある。
    さらには、楕円曲線法では見つけることができず、何年後かに計算機の能力の向上故に、
    他の方法で素因数分解できてしまうことがある。

    このような目的のために費やす時間は、やはり虚無への捧げ物なのかも知れない。
    あまり、そうは思いたくないが。

    ('98/12/10)

 
当り前のことだが、やる必要がないことを無理してやる必要は一つもない。
それが実は、ユーザという立場に与えられている最大の自由なのである。
この自由を行使しない手は無い。
他人の言説や価値観に振り回されて
貴重な時間を浪費するぐらい馬鹿な話はない。

佐藤 良平
『LD・DVD論』
より

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18000〜18999

     

  • 『国際おたく大学 一九九八年 最前線からの研究報告』より。

  • 自分の時間は自分がやりたいことのために自由に使っていいはずである。
    ところが「自分がやりたいこと」というのが、実は本当に自分が前からやりたかったことではなく、
    何かのきっかけで、自分の外部から「やりたい」と思い込まされたことである場合がある。
    あとから振り返ってみて、何故あんなことにあれ程のめり込んだのか、と疑問に思ったら、
    それは自分の真の希望ではなかったと考えて間違い無い。

  • この著者も、しばらく前から、TVは見ないし、ゲーム、パソコン通信、インターネットもやらないような生活になったという。
    (ちなみにこの著者、もともとは漫画家だった)。

    「では、いったい何をやって時間をつぶしているのか」、と思うこと自体、すでに毒されている。
    これらは所詮娯楽であり、これらの娯楽がない時代から、人は有意義に余暇を過ごしてきた。
    そもそも、時間はつぶすためにあるのではない。特に、自分のための自由な時間は。

    ('98/11/17)

 
Il est l'heure de s'enivrer !
Pour n'e^tre pas les esclaves martyrises du Temps,
enivrez-vous; enivrez-vous sans cesse !
De vin, de poesie ou de vertu, a` votre guise.

いまは酔うべき時!
「時間」の奴隷として虐げられたくなかったら、
酔いたまえ、絶えず酔いたまえ!
酒にでも、詩にでも美徳にでも、お好きなように。

Charles Baudelaire
『Enivrez-vous』
より

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17000〜17999

     

  • 散文詩集『パリの憂鬱』Le Spleen de Patis 収録。安藤元雄訳。
    『悪の華』の冒頭で、「人間を虫食むもの、その名は『倦怠』」、というようなことが書かれている。
    しかしこの詩の「酔い」とは、外見上は気だるい雰囲気に見えるかもしれないが、
    内面は積極的に放蕩に身を任せよう、ということを歌っている。
    世紀末の今、この主張は傾聴するに値する。

  • …… 先週より風邪が治らず、ずっと薬を飲み続けている。
    今回もらった薬は、強烈な眠気を催すので、昼間起きていなければならないときは、強力な意志の力を必要とする。
    それでも、ともすれば考えが同じところを何回もめぐっており、阿片耽溺者もかくや、
    というような心境になってくる。こういう時は、無理をしないで寝るに限る。

    …… 自分は今、何を書いているんだろうか ……

    ('98/10/27)

 
「せっかくだが、遠慮しよう。
 あまりにも多くの古い思い出をかきたてられそうだ。
 それでは、もうそろそろお暇しなくては。」

 ヘゲドーンは悲しげにうなずいた。

「その気持ちはよくわかる。このわたしも、
 近頃はめっきり思い出に浸ることが多くなった。」

ジャック・ヴァンス
『最後の城』
より

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16000〜16999

     

  • 今、ジャック・ヴァンスの作品は文庫で読めるのだろうか?
    『竜を駆る種族』『大いなる惑星』等、

    異質な世界を異質なまま描く

    という作風は他の作家では味わえないものであり、sense of wonder に関しては決して裏切られることがない。
    また豊富な語彙と、独特の固有名詞が醸し出す雰囲気は、読む楽しさを盛り上げてくれる。
    (ただし、原書で読むと、読むペースが普段の半分ぐらいに落ち、やたら辞書を引く回数が多くなる)。

    出版のラインナップからは絶対外してほしくない作家の一人。

  • SF自体が陥っている今の状況を、このザンテンとヘゲドーンが代弁しているように思える。

    ('98/10/05)

 
 A. 数学的に『存在』が証明されてしまえば、それはもう確かに存在する。
    しかし、それはあくまでも一つの概念としてわれわれの頭の中にあるだけのことで、
    それを目で見たり、手で掴まえたりするわけにはいかんのだ。
    早い話が1という数の概念にしてもわれわれの思考が生み出した一つの抽象的な概念で……

 B. でもおじさん、あそこの時計にはちゃんと1という立派な文字がありますよ。
    あれは一体なんでしょう。

 A. あんなものは1という概念を表わす一つの標識に過ぎない。

佐武 一郎
『線形代数雑談』
 より

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15000〜15999

     

  • 日本評論社『リー群の話』収録。
    『数学セミナー』に連載されていた、「リー群の話」「線形代数雑談」といくつかの単発記事をまとめたもの。
    所謂、一般向けの解説書である(ただし、あまり初心者向けではない)。

  • 『存在』と云えば、哲学上の大きなテーマであり、おそらくこれについて考えなかった哲学者はいないと思われる。
    ところが、この文では、抽象的に定義された概念の実在と、それを表す指標が単なる指標に過ぎないことを、
    さりげなく云いきっている。

    数学の本でも論理を中心に扱っているものでは、上記のような議論が頻繁に出てくることがあるが、
    まさか線形代数の本の中で、このような議論に出くわすとは思ってもいなかったため、
    また、なんでもないことのように云いきっている迷いの無さに、はじめて読んだとき、かなり衝撃を受けた。

  • 佐武氏の本は、どれも一見親しみやすそうに見えるが中味はかなり高度である場合が多い。
    数学科の学生なら、

    • 裳華房『線型代数学』
    • 遊星社『代数学への誘い』

    は必読である。

  • 残念ながら、学生の時は、一度集中講義を受けたのみである。
    『代数学への誘い』の奥付けによると、今は中央大の理工学部に移られたようだ。

    ('98/09/13)

 
ナフプリオンのことはまだまだ書き足りない。

あそこを去って、旅行をしながら、
あの町はいつ行っても、きっとああだろう、と思った。
旅行者にとって、ナフプリオンはあの地形の中に、
その人が見た時のままに残っているような町だ、と思えた。

小川 国夫
『ナフプリオン』
 より

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14000〜14999

     

  • 新潮文庫『アポロンの島』収録。
    作者が20代の頃の、自伝的という以上に、ほとんど日記のような、日常の一部を切り取ってきたような作品。

  • 氏の作品で最初に読んだのは、もう20年以上前になる。
    同文庫にも収録されている『枯木』という作品を、筑摩書房「日本文学全集」全70巻の「現代小説集」で読んだ。
    キリストが刑場に赴く時の風景を切り取ってきた作品で、文庫でも4頁、「現代作品集」では、2段組の見開き2頁分しかない。
    その短さに反比例するような、ちょうど、y=1/xでxを限りなく0に近づけたような、密度の濃さ。

  • 私自身、いろいろな国を旅したが、その地を離れる時、いつもこの言葉を思い出す。
    そして、その土地に関する紀行文を書き、この言葉で締めたいような誘惑に駆られる。

  • 文庫の最後に『自分の作品について』という一文の『アポロンの島』についての評で、

    作中の景色も、人々も、出来事も、時々思い出す。

    とある。あらゆる紀行文の本質はこの一言に尽きている。

    ('98/08/20)

 
平和なる時代の産物どもめ
味覚はひとりひとり違うもので
正しい味もまちがった味もないものだ
あの連中は …… 自分の舌が神の舌だとでも思っている
まったく心の貧しい者たちさ

ますむらひろし
『コスモス楽園記』
 より

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13000〜13999

     

  • ますむらひろし『コスモス楽園記』3、その29「美食評論クラブ」より、「海猫亭」料理長バルダノ氏のセリフ。

  • 数年前テレビで見た地方ニュース。
    留萌町出身のある若者が一流のシェフになりたいと思い立ち、高校を中退してフランスに渡った。
    修行も終え、一人前のシェフとなり、郷里に戻って来て、レストランを開くことになった。
    それに先立ち、自分を応援してくれた高校の同級生と父母を招待し、高校の体育館でフランス料理を振る舞った。
    その光景が、テレビの地方ニュースとして放送された。

    留萌は漁港なので、新鮮な魚貝類が取れる。
    が、それを素材にしたブイヤベース等という食べ物を、地元の人は食べたことがない。
    「こんなことをしなくても、もっとうまい料理方法があるのに」と思いつつ、その青年を落胆させてはいけないと思い、
    おそるおそる料理に箸を付けて、

    • これまでに食べたことの無い味だけれども、確かにうまいような気がする。
    • 確かにうまいような気はするが(驚きが先に立って)率直にうまいと云いきれない。

    という表情をしている地元の人々の姿は、まさに実話の『バベットの晩餐会』を思わせた。

  • 読書欲というのは際限の無いもので、電車の中で読む本をkeepしているにもかかわらず、
    帰りには必ず本屋に寄ってしまう。そこで、毎日同じ本の背表紙を眺める。
    たいていは買わないが、ある時思い立って買ってしまう。
    その瞬間、一瞬欲望は満たされるが、帰りの電車の中で読む訳でもなく、家に持ち帰って、積読になってしまう。
    そして、読まないまま数ヶ月が立つ。
    ならば、満たされたのは読書欲ではなく、購入欲或いは所有欲だったのか?

  • 開高健『新しい天体』のラスト、主人公は、山の脇道で口にした清水がきっかけとなり、
    それまでに食べたものを全て吐き出してしまう。
    その吐瀉物の不快感と、それを拭い去る湧水の清涼感。

  • そういう本に巡り会いたい。

    ('98/07/24)

 
何故にと問う。故にと答える。
だが、人が言葉を得てより以来、問いに見合う答えなどないのだ。
問いが剣か、答えが盾か。
果てしない撃ち合いに散る火花。
その瞬間に刻まれる影にこそ、真実が潜む。

『装甲騎兵ボトムズ』第32話
「イプシロン」
より

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12000〜12999

     

  • とにかくこちらを眺めて欲しい。それに尽きる。

    ('98/06/29)

 
Sin vos y siu dios y mi. 汝なくして神もわれもなし

 W.H.ハドソン
『緑の館』
 より

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11000〜11999

     

  • ある日、自宅の文学全集の中で、一度も手にしたことのない巻を手に取って眺めているうち、
    一つの絵に目を奪われた。
    それは、深い森の緑を背景に髪の長い少女が描かれていて、その髪と、薄紫色の衣装が、
    蛍のような光沢を放っていた。なんとなくひかれるものを感じ、読み始める。

  • 異国からやってきた青年と、森の中に住む少女の出会い。
    二人の間に淡い恋心が芽生える。少女が語る森の神秘の数々。
    だが、よそ者の青年と、森の神(または魔物)の娘と恐れられている少女の恋を、祝福する者など誰もいない。
    村人は少女を追いつめ、少女が逃れた木に火を放つ。

    全てに絶望した青年はその地を去る。
    彼が去った後も、彼らがつかの間の日々を過ごした森の小屋の裏には、古い壷が置いてあり、
    その壷には、冒頭の言葉が刻まれている。

    読後、2〜3日は、ヴィラ・ロボスの練習曲の7、8、9番あたりを聞きながら余韻に浸っていた。

  • この作品は、かつて映画化されている。
    ヒロイン役は、オードリー・ヘップバーン、ということであれば、もっと知られてもいいはずである。
    ビデオには撮ってあるが、まだ見ていない。

  • ところで、冒頭の言葉は、何語なのだろうか?

  • ちなみに、元題は、英語で「green mansions」。
    他の何語でもかまわないから、せめて、英語でこの単語はやめて欲しい。

    ('98/06/03)

 
私はおまえと結婚する。
海よ、おまえが永遠に私のものであるように。

塩野 七生
『海の都の物語』
 より

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10000〜10999

     

  • 大学3年までは、私の読書範囲は小説(純文学、SF)と、数学系の専門書に限られていた。
    人文系の分野にはまるで興味がなく、特に歴史などは、コンピュータに史実を記録すればそれで終わりだろうと思っていた。

  • ある日、生協の書籍部で『タクティクス』を立ち読みしていた時、書評のコーナーに、塩野七生の『海の都の物語』の書評が載っていた。

    もともと、この書評子も歴史関係の本には興味がなかったらしい。
    「マキャベリ」というシミュレーションゲームとの関係からこの本を読むはめになったが、

    読んでみると意外に面白く、読み終わる頃には完全にはまってしまっていた。
    その後「マキャベリ」をやる時は必ずヴェネツィアを持つことにし、かつ、
    負けそうな時は「ヴェネツィアは死んでもアドリア海を手放しませんでした」と叫んで玉砕することにしている、
    などと書かれていた。

    その書き方があまりにも熱っぽかったので、それ程薦めるのなら一度読んでみようと思い、正・続、計4000円を出して買った。
    そして読んでみて自分もはまった。

  • この本を読んで、

    史実とは無条件に存在するものではなく、主観により再構成されるものである。

    ということをはじめて知った。
    また、この本がきっかけで、

      中世・ルネッサンス期ヨーロッパの歴史
    ⇒ 同時期の世界観・宗教
    ⇒ 同時期の思想・哲学

    ということで、興味の対象が一気に広がっていった。
    まさに、今の自分の知識の源泉となった本。

  • ちなみに「マキャベリ」というのは、中世イタリア半島の小国が群雄割拠していた時代を舞台とし、
    各プレーヤーがそれぞれの国を持ち、領地の拡大を行っていくシミュレーションゲームである。
    国同士の対決は、その領地上の兵力の大小で決まるが、この兵力は隣接した領地からの移動しか許されていないので、
    だいたい1国で1〜2程度であり、決着がつかないことが多い。
    そこで、ゲームの大半は「誰がどこの領地を取る」ということに関する外交折衝に費やされる。
    (別室に移って会談、或いは筆談、というパターンが多い)。
    複数のプレーヤーと同盟・不可侵条約等を結びながら、最初はあまり利害関係のからまないところで領地拡張がなされる。
    しかし、ゲームに勝つためには、どこかで利害関係のからむ部分での領地拡張を行う必要があり、
    そのためには、どこかで同盟関係を破棄しなければならない。
    この同盟関係の破棄のしかたで各人の性格があからさまになるので、
    その結果如何では、実際の人間関係までひびが入る、という実にシビアなゲームである。

  • ヴェネツィアといえば、もう一つ忘れられないのが、ファブリツィオ・クレリチの『水のないヴェネツィア』
    アドリア海が干上がり、ヴェネツィアの土台や海の底の沈没船が露呈した場面を描いている、印象的な絵画である。
    (種村季弘『ある迷宮物語』1985/06/20、筑摩書房、参照のこと。)

    ('98/05/06)


『表紙の言葉』
(アクセス数 1〜9999)
『枕草子*砂の本』 『表紙の言葉』
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三島 久典