過去ログ4201番目から4250番目までの記事です。
やっぱ、上越サミット、考えますか?
本日は家にこもりっきりで確定申告の書類を書いております。 直江津の湊は、中世には現在の直江津駅南側から労災病院のあたり一帯にあったと 考えられるということです。福島城跡とは関川をはさんで対岸になります。 掘秀治が越後四十五万石の領主として春日山城に移ったのが、慶長三年のこと。 福島城を築城したのが、関ヶ原戦後のことのようです。 また、秀治は父秀政が北庄城主となって以来、二十年近くを北国で過ごしてきてい ますので、それなりに北国の様子なども直接・間接に伝わっていたことと思います。 そこを敢えて福島築城に乗り出した理由としては、やはり港湾支配という点が主要 かと思われます。軍事上の理由として、山城である春日山城の運用が時代遅れにな ってきたということもあげられるかと思います。 福島城の城郭が大規模・堅牢にならざるを得ないのは、水害・海風への対策も加味 してのことでしょう。とうとう、秀治の在世中に工事は完了しませんでしたが。 そして、松平忠輝が越後六十万石に封じられた直後から、高田城は着工されるので す。まるで忠輝の入封に折り込み済みのように。この理由はやはり、城地の不具合 というよりも、明らかに徳川権力の浸透(上杉氏や豊臣系大名色の一掃も含む)を 狙ったものと考えられます。 >また、城を移すとなれば、城下がそっくり移転したり、呼び寄せたりしたのは当時 >の習慣といいますか当たり前のことでしたし・・・。 習慣というか、近世大名の権力集中のための常套手段というべきでしょうか。 だからこそ、松平氏は入封時点での城地移転を断行したのだと思います。 「寒いから」という消極的な理由よりも、「この際、城を新規に築いて、町ごと移 転させちまおう」といった考え方のほうが、徳川氏としては威信が傷つかないでし ょう。
福島城の移転についてですが、やはり気象条件が一番問題になったのではないかと・・・。 現地に行ってみると判ると思いますが、立地条件としては海に近く、波の荒い日は 城内まで押し寄せたのではないでしょうか。 また、横を流れている関川は意外と暴れ川でして、洪水時には城欠けしたとも言われています。 ・・・それに「堀氏」、「松平氏」は雪国の生まれではござらぬから、冬の日本海 からの季節風に降参したのではないかと。 また、城を移すとなれば、城下がそっくり移転したり、呼び寄せたりしたのは当時 の習慣といいますか当たり前のことでしたし・・・。 それにしても海に近いですよ。
なので、閑です^^) 正門まで送り届けて、保護者控え室で、しばらく大学の案内ビデオを見ていました。 保護者控え室があると知って、「ハンデのある人の親の控え室?」と思ったけど… 違った。二親が付いて来ている人もいましたよ。仲間が大勢いて安心(苦笑) 最寄り駅から大学へ行く途中見つけたインターネットの出来るところで遊んでいます。 『小田原評定』で検索した掲示板が、いつもと違ったので、あらら…… でも、「戦国群像」で来れました。 トラマさん、初めまして! 三楽堂さん、控えますです^^ あの〜、ちょっと後ろめたいのでHNは小文字にしました(笑) 午後は、夫(東京出張中)と待ち合わせ。会議の終了時間しだいですが、 大宅壮一文庫と台東区中央図書館に行く予定です。 ここのパソコンルーム、ゆったりしていて、明るくてとてもいい! あさってもここで遊ぼう。 過去ログ作る時、この投稿は削除してくださいね。 場違いは承知の上です。ごめん三楽堂さんm(__)m
『徳川実記』にはたびたび水害にみまわれたから、という理由で高田にあらためて 築城したとありますね。表向きの理由は自然災害やメンテナンスの問題であったか もしれません。 それと、福島を築城した掘氏は豊臣系大名ですから、どうしても秀吉流(?)の築 城法の影響を受けてると思うんですよ。たとえば、海に面した河口のそばとか。 徳川氏としては、石山本願寺のような堅城になってしまっても問題あるし、また、 湊と城下町の機能を分離させたい意向もあったかもしれません。 それと寺社関係ですね。 まわりくどい方法ですが、福島城ははじめて寺内町をとりこんだ築城を行いまし た。それまでの春日山城などは完全に湊や寺社と分離していて、これが戦国大名の 港湾支配の限界とも言われています。 第一段階:上杉氏が都市法を制定して法的に湊・寺内町・商人の統制を行う。 第二段階:近世大名掘氏が港湾を包括した城郭建築を行い、直接支配をすすめる。 第三段階:徳川(松平)氏が城を移すことによって湊と寺社の関係を断ち切る。 第二段階では、一見、大名が港湾を直接支配しているように見えますが、住民側か らしてみれば新参者です。現代ならば掘氏は名刺をもって挨拶まわりをしなければ ならないかもしれません。しかし、第三段階の手順を踏むことによって、大名あっ てこその町、という図式が成立する。高田へ移った寺社、商人たちは逆にお城へご 挨拶に参上しなければならなくなります。つまり、大名権力の上昇に繋がる、と。 矢田俊文氏(新潟大)は「なぜ(福島から高田へ)移るのか、なぜおうげ橋を高田 に持ってこなければならないのか、なぜ直江町を高田に持ってこなければならない のか。それは港湾都市直江津の機能を全部吸収しなければ経済が一体化しないから です。元の直江町の経済機能が低下しても構わないから、高田に持っていく。それ は何を意味するかというと、領主が住民の力を自分の権力内に取り込もうとしてい ることを示しています」と述べています(「直江津の橋と港湾都市」)。 ところで、この時、直江津の産土神・直江八幡宮(!)が高田へ遷座したらしいの ですが、高田には今でもあるんでしょうか?
>ご城主様の書き込みに今ごろ反応して恐れ入りますが・・・。 あの足立六兵衛ですが、演じているのはラグビーの元全日本代表の「大八木氏」で ありまして、配役としてはよろしいんではないかと(?)。 でも、もう出ませんけどね。 私としては、権六様がでてくると「暴れん坊将軍」を思い出して。
トラマ様、 不躾ながら、私も…。 >一説には福島城は日本海の海風が半端じゃなくてりつけるとか >言われているみたいですが 海岸沿いであるために、砂で石垣が埋まり、防衛上の問題があったから、 と言う説もあります。本当かどうか分かりませんが…
ある本には、「古来の良港である直江津を西にした水際城郭として近代的な 要素を持った城には違いないが、山と海にあまりに片寄りすぎているため、 加越能方面と関東との接点である頚城平野において、これらの方面から進出 しようとする敵と決戦を交える時の基地としてほとんど用をなさない存在で あった。・・・・・・、むしろ日本海の海岸より一段さげたところに大きな 城を作り、これを中心として親不知子不知の隘路から頚城平野に進出する敵を 包囲するように攻撃した方が有利である。」と書かれています。 ご意見の通り、あの場所では特に冬場の風はねぇ〜。 やはり、気象と軍事的な理由からでしょうね。
>隆慶一郎氏の松平忠輝の小説を読んでふと思ったんですが 私は漫画で「隆慶一郎氏の松平忠輝」をよみました。 さすがはトラマさん、小説かぁ〜。
OBASANさん、がんばってください(お嬢さんのほうか) で、すんませーん、またまた直江津問題なんですが 今度は上杉とはほとんど関係ないのですが 堀家は関ヶ原のあとに春日山から直江津の福島城へ 拠点を移します。 残された絵図面などを見るとかなり大規模な城郭だったようです。 しかも湊町直江津をも抑えられるという まさに経済・政治両面からみてもまさに一大拠点といえるでしょう。 ところが堀家改易後、江戸幕府は まだ福島城完成して間もないのに高田城を作り そこに松平忠輝を移しました。 高田城の立地条件とかは悪くないですしそれはそれで 納得はできるんですが なにゆえ福島城から高田城へ移る必要があったのか? 一説には福島城は日本海の海風が半端じゃなくてりつけるとか 言われているみたいですが ちょっとこれはイマイチ納得できないです。 幕府の大名統制策の一貫という見方もできないことはないですが・・・。 隆慶一郎氏の松平忠輝の小説を読んでふと思ったんですが
御武運(違うか)を御祈り申し上げます。>株をあげたおじょうさま。 遊び過ぎないように。>OBASAN。
これからお江戸に出かけます。 三楽堂さん、よーぜんさん、石田さん、ありがとう(⌒▽⌒)
上杉景勝さん、買われましたか。『定本上杉謙信』 気鋭の研究者・学者をそろえているので、なかなか客観的な分析がなされています。 ただ、論文集っぽいので、一読した後は何度も読みかえすものでもなく、わたしも 書棚にならべてしまっています。 ちょうど座っているわたしの背中がささやかな「上杉」コーナーなので、ちょっと ご紹介しますと・・・ 『定本上杉名宝集』・・・・・・・・・古本。図録のちょっと豪華版といった感じ。 『謙信公御書集・覚上公御書集』・・・影印本。 『上杉家御年譜』・・・・・・・・・・1謙信、2景勝、3景勝、23系図、24系図の巻のみ。 『大日本古文書 上杉家文書』・・・・古本。元版と覆刻版各1セットずつ。元版のほうが鮮明で装丁も豪華。 『越佐史料』・・・・・・・・・・・・古本。6巻本の元版のほう。状態悪し、求む覆刻。 『上杉氏の研究』・・・・・・・・・・古本。論文集。 『藩制成立史の総合研究 米沢藩』・・古本。論文集。 『新潟県史』・・・・・・・・・・・・中世史料編1〜3。1のみ古本。 『村上市史』・・・・・・・・・・・・古代中世編。通史・史料編とも。史料編のみ古本。 『柏崎市史』・・・・・・・・・・・・古本。古代中世史料集。 『越後毛利氏の研究』・・・・・・・・古本。北条・安田氏の系譜研究。 『歴代古案』・・・・・・・・・・・・あと1巻で完結する最新文書集。 『上杉家御書集成』・・・・・・・・・為景御書、謙信御書集などを翻刻。割安感ナンバーワン 『上杉史料集』・・・・・・・・・・・古本。戦国史料叢書の1編。 『上杉三代軍記集成』・・・・・・・・古本。覆刻版のほう。 『図説中世の越後』・・・・・・・・・地元本。大家健氏の秀逸な城郭・地形研究。 『日本城郭体系 新潟富山石川』・・・古本。 『越佐叢書』・・・・・・・・・・・・古本。「北越太平記」収録。前の持主による書き込みが多いけど、それがまた面白い。 『上杉謙信傳』・・・・・・・・・・・古本。覆刻版。 その他『上杉謙信大事典』『定本上杉謙信』『上杉景勝のすべて』『上杉謙信もの しり史伝』『歴史読本・立体構成上杉謙信』『学研歴史群像 上杉謙信』『学研歴 史群像 疾風上杉謙信』『正伝直江兼続』『直江兼続伝』『上杉景勝伝』以下略。 コピーのかたまりもあるな(^^;
よーぜん様にもご報告させていただきましたが、ついに買ってしまいました。 「定本 上杉謙信」(高志書院)でございます。 2年前に出版されましたが、書店で見るたびにその値段に・・・。 しかし、これで心置きなく読む・・・、いや飾って置くことが・・・。
まあ、正確には郵便配達というよりも、メッセンジャーに近いのですが。 というのは、目的地へ旅する一般人に書状を託す場合もあったからです。 賀茂競馬はぜひご覧になってください。のどかな面と勇壮な面が同居してます。 競馬会足汰式 くらべうまえあしそろえしき 5月1日(水) 上賀茂神社 5日の競馬会神事に先立ち、馬の年齢、遅速を実際に見て、組合せを決定するものです。烏帽子に浄衣の装束で騎乗し、本格的に馬にムチを入れ試走、迫力は十分です(午後1時頃)。 競馬会くらべうまえ神事 5月5日(祝) 上賀茂神社 寛治7年(1093年)に宮中で行われていたものを、神社に奉納されて以来続いている神事です。 競馬会の儀が午後1時から行われ、馬の競駈は午後3時頃より始まります。 【上賀茂神社】北区上賀茂本山町 市バス9上賀茂御薗橋 TEL 075(781)0011 ↓京都5月のおでかけ情報 http://www.jrkyoto.gr.jp/5-infor.htm
あさっての休みに本屋で探してみます、『戦国のコミュニケーション』 戦国の中の郵便屋を知るのもおもしろそう、昔はどうだったのだろうか、 未来はあまりなさそうなだけに楽しみ。 あさっては東京競馬場で、GIフェブラリーステークスがおこなわれます、 芝のレースではなく、ダート(土)のレースで、JRAの馬だけでなく、 全国の地方競馬の馬も参戦します。 今年は地方馬が意地をみせてくれそうなので、朝一で並んででもいい場所で 応援したいのですが・・・、天気が悪い、困った。 嫁さんとGWの京都、協議中です、くらべうまの事。 私には尾張に出城があるから、宿代がかからない。 決まったら、またお伺いします。
先日、繁華街の書店をぶらぶらしていたとき偶然見つけたので 購入しました。まだ、はじめの方しか読んでいませんが。 古文書に出てくる言葉を解説した「コラム」のページが私には 参考になりました。
いよいよ、過去ログ自動生成できる掲示板に移行しないと、書庫番さん、パンクし ちゃうかもしれない。 そうそう、石田治部さんも『戦国のコミュニケーション』読んでみてくださいよ。 戦国時代の飛脚、ポストマンたちについて書かれた本ですから(笑)。
昨日は実家に帰っててパソコンに触れませんでした、1日で1ページ変わって しまうんですね、すごいですよね。 実家は電車で20分の所なんで2週に1度はプチ帰郷してます。 さて、みんみん様、おめでとうございます。うちの職場は受験関係で 毎日大騒ぎです、「人の人生を預かってることをわすれるな!」と、 上司からのお言葉のもとがんばっております。 よーぜんさん、「男闘呼組」ですか・・・、名前しかわかりません。 小学生だったのかな?
二階堂氏と直江氏の関係はちょっと念頭においておこうと思います。 狩野秀治が病没したあとは、目立ちませんが、一応、系譜は続いています。養子と かが入ってますが明治まで。子孫もいらっしゃるのではないでしょうか。 狩野氏は伊豆の狩野かな、と思ったのですが、近江の京極氏家臣尼子氏の家来だと 言われています。もう少し長生きしていたら、直江兼続とのツートップになれたか もしれません。それとも、対立? 『上杉家御書集成』2は、上杉景勝文書群です。巻頭カラーで景勝の朱印が大集合。
三楽堂さん> 直江氏と二階堂氏のつながり・・・謎は深まるばかりですね。 狩野新介秀治って、病でなくなったんでしたっけ?秀治が亡くなった あと、狩野氏はどうなったんですか。そのあと名前が出てこないような 気がするんですが・・・ >うちの蔵書は地域的にけっこう偏りがあるので。 それって、わかる気がします。私も「蔵書」と言えるほどの ものではないですが、かなり片寄ってます(笑)。 『上杉家御書集成』2、出たのですね。明日にでも 注文しよう。 OBASAN> お久しぶりです。 第一志望に受かりますようにお祈り申し上げます。 さあ、次はうちの番!?(でも、本人全くその気なしです(泣))
#よーぜんさん 「直江氏の本姓は二階堂氏?」と書きましたが、この説だと、直江と二 階堂の家紋が似ているし、先祖は藤原鎌足ということになるんですが・・・ 二階堂氏は狩野氏と同族で、兼続が最初、狩野新介秀治とコンビで登場 してきたのを思い出してしまいました。関係あるのかな〜。 「利家とまつ」については、結構キャスティングをめぐって噂が飛び交 っているようです。 足立六兵衛、往生しています。うちの蔵書は地域的にけっこう偏りがあ るので。それにしても『信長公記』にまで名(プラス・ニックネームま で)が載ってるんですから、大したやつですね。 岡本健一って、「秀吉」の仲蔵さん(だっけ?)しか知らないです。 男闘組とかに所属していた頃って、わたしもたぶん小学生だったのかも。 #OBASAN おお、受かりましたか。おめでとうございます。といっても、まだまだ 続いているわけですよね。 東京―上田間と往復たいへんでしょうが、がんばってください。 どこかお寄りになりたい場所とかあれば、メールでお知らせください。 わかる範囲でお答えいたします。 上京の折には、くれぐれもお嬢さまの気持をかき乱さないように(どう いう意味じゃ) 暖かくなったら、またお会い致しましょう。 明日はバレンタインデーだというのに、確定申告のため税務署へ行って まいります。 #下総介さん 1500円とは安いですね。わたしのほうはその数倍はしましたよ。 新古本ていうやつなんでしょうか、状態はいいんですが。 今更軍記もの集めてもなーと思ったんですが、まあ、いいか、と(笑)。 古書は結構状態を気にするほうなので、比較検討する前に、状態のいい ほう買っちゃう質なんです。だから、インターネットで発注する時は、 現物見るまでドキドキものです。 目下の悩みは、もともと状態が悪かった上に、わたしの酷使によって、 『越佐史料』の表紙がいつかとれてしまうのではないかということです。 タマ数が少ない本なので、選択の余地なく、購入しました。 いざとなったら存じよりの製本業者に新しくつけかえてもらおうと思っ ていますが・・・ 『上杉家御書集成』は市史編纂室へ連絡して、送ってもらえますよ。あ るいは上越市内の書店通しでもOKでしょう。 あ、それから松山城。せっかく御誘いいただいたのですが申し訳ない、 家人を迎えに週末、北海道へ往復しなければならず、今回は断念いたし ます。これに懲りず、またお声をおかけください。よかったら、上杉関 連のオフでも企画してもいいですし。
私は地方の古書店から取り寄せました。1500円。 箱にヒモが食い込んだ跡があって、状態はあまり良くあり ませんでしたけど、この値段なら良いかなと(^_^;) 五萬堂さんの品揃えはお気に入りです。小室栄一氏の 『中世城郭の研究』などは、ここでしか見たことないですし。 欲しいのですが、値段が値段なのでいまだに踏み切れず・・ 『上杉家御書集成』って2が発行されたのですね。いつぞや こちらで1のご紹介があってから、いずれは上越市の市史編さん 室に問い合わせようと思っているのですが実はいまだに・・ 電話して住所を言えば郵送していただけるものなのでしょうか?
ご無沙汰しております。今年になって初カキコです^^; 歴史の歓談中、腰を折るようで申し訳ありません。 今年もよろしくお願いします。 センター利用の私大が受かったので、安心して(?)、 第一志望校を目指す娘のお供でお江戸に参ります。 池波正太郎記念室は、夫が東京出張中で、一緒に行くことになりました。 残念 (^◇^;)、どなたかにつきあっていただこうと思ったのに………(笑) 佐平次さんにいただいたパンフを頼りに、中央図書館に行きま〜す! あとのフリーの時間は、何しようかなぁ。 寒い時期なのであまり外を歩き回るのも ………。 >三楽堂さん お引っ越しされたんですね。大変でしたでしょう。 17・19・23・25と、とびとびの入試日程に 上田と東京を行ったり来たりします。 これから10日間、受験生の母として、がんばります^^)
『上杉家御書集成』の2が発行されましたので、さっそく取寄せたところ、表紙は コーティングがかかっているし、中の紙質も1にくらべて良くなってます。 わたしは別に前の紙質でもよかったんですが。この価格のままならば。 2は景勝御書をおさめています。約500通か。
もしかして、昔(十数年前)「男闘呼組」ってアイドルグループにいた 岡本健一でしょうか?治部さんご存じ無いと思います。多分その頃 小学生・・・ 利長=中村俊介!?嬉しいような・・・ 「新選組血風録」の沖田くんを思い出します。
下総介さん、おっしゃるとおり、五萬堂さんです。ここは割合、他店にくらべて安 目なんですが、『東国太平記・新編東国記』はちょっと高めだったみたい。内容に くらべてもね。通俗日本全史版だったら、2、3000円で買えたと思う。 インターネットで地方の書店を検索するとずっと安い値段のものがありましたし。 ちなみにマツノ書店さんではいつだったか、3000円くらいで出てました(^^; ただ、五萬堂さんはよく行くわりにはあまり買ってないような気がする。 『信濃史料叢書』は真田関連の巻揃いや、『武州文書』(また出てました)ぐらい かな。 石田三成の本はそれかどうか、覚えがありませんが・・・ 水谷蟠龍斎は下総介さんの地元本ですよね、いわば? 新刊本はよほどの高額なものでないかぎり、どこで買ったかなんて忘れてしまうん ですが、古書の場合、たいてい店の名前もおぼえているし、いつどういう状況だっ たかまで思い出してしまいます。
>ここで、『東国太平記・新編東国記』を購入 あ、これってもしかして五萬堂書店さん? 最近ここで見た覚えが。違うかな・・ ちなみに、私も割と最近この本を別の書店で買いました。 どちらが安かったか気になりますね(^_^;) >ほかに石田三成の地元本?っぽいのも目につきましたが もしかして「石田三成と佐和山ものがたり」って本だったりします? もしこの本ならば、その昔、高山本店さんで購入しました。 昭和52年発行です。まだ読んでないのですが・・ >ほかに地方出版専門の店で、『水谷蟠竜斎』を購入。 アクセスで筑波書林ふるさと文庫ですね(^_^)。 私も御用達です。お城関連の本も結構充実してますしね。
>謙信の富の源泉の事ですが、「金」よりも「青そ」の運上金の方が大きいと >思います。佐渡の金山の開発は景勝の代ですし、その他の金山もどのくらい開発 >されていたのかわかっておりません。 おっしゃるとおりです。 これまでの謙信の軍事力・経済力を説明するのに、強固な裏づけもなく金山金山と 唱えている説が多かったのですが、青苧座とそれにともなう港湾関係の税収が大き かったと思います。 何しろ、直江津は中世、日本七大湊のひとつに数えられたくらい、殷賑の土地だっ たと言われています。 金山の関連も皆無とは言えませんが、これを第一とするのは疑問ですね。
#上杉景勝さん >その時に二階堂氏が直江津に、飯沼氏が与板に領地をもらい、その後二階堂氏は >「直江」に改称したのでしょうか。 御年譜の「御家中諸士略系譜」の直江の項目に二階堂氏とあるのですが、実は、 『上杉氏の研究』収録論文を読んでいたところ、「二階堂青苧座」という文字にい きあたったのです。上杉(府中長尾)家が専売制を確立する以前は、直江氏(二階 堂氏)が青苧座に関与していたのかな、と。 どうも気になるんですが。 #石田治部さん 『天下人史観を疑う』、気に入ってもらえたようでうれしいです。 鈴木氏の意見に与するか否かは別として、歴史の新しい接し方を教えられたような 気がしますよね。 もし、鈴木氏の著作がお気に召したら、以下もどうでしょうか? 『刀と首取り―戦国合戦異説―』平凡社新書 『鉄砲と日本人』ちくま学芸文庫 『謎とき日本合戦史』講談社現代新書 いずれも文庫か新書です。
私は架空の人かと思ってました。(小説ではよくあるヤツ) う〜ん、前田ものも1冊読まんといかんなぁ、知らんことが多すぎて・・・。
>守護の上杉氏自体が関東の出ですから、守護として入国する際に家臣の長尾、 飯沼、直江もともに入国したとも考えられるのではないでしょうか。 その時に二階堂氏が直江津に、飯沼氏が与板に領地をもらい、その後二階堂氏は 「直江」に改称したのでしょうか。 >永正の乱で為景が反撃した際に、直江氏は飯沼氏を見限り為景に味方した恩賞と して、与板の地を貰ったというのはちょっとうがち過ぎでしょうか。 >謙信の富の源泉の事ですが、「金」よりも「青そ」の運上金の方が大きいと 思います。佐渡の金山の開発は景勝の代ですし、その他の金山もどのくらい開発 されていたのかわかっておりません。 >越後が豊かな穀倉地帯に変貌したのはここ数十年の話です。 確かに、江戸時代は新田開発が盛んでしたが。
鈴木眞哉著『天下人史観を疑う』(洋泉社)、やっと読み終わりました。 「ツキ」「地すべり」「徳川御用史観」など気になるキーワードがありました。 とくに気になるのが、私が昔から大嫌いなものが「徳川御用史観」。 嫌いだと言いつつ、私もまだまだ騙されていた。資料を読まない私でも、 解るように、資料の説明や、当時の考えはこうだったのでは?と説明してくれる。 それに、「一般的にこう言われてるが、そんな事実はない」と騙されてる事は はっきり否定する。 はっきりいって、「歴史研究家」の皆様にはちょっと足りないかもしれませんが、 私のような「歴史愛好家」にはいい勉強になり、はっきりと歴史への新たなる 探究心がわいてきまた。
部分的にかなり濃厚な人もいるけど、まだまだわからない。 ちなみに岡本健一は「秀吉」で佐治日向守(細川直美のだんな役)だった人。 最近、舞台で活躍しています。 それより、足立六兵衛。なんとかなりませんか?
って、誰ですか? 何をやった人ですか? 淀殿(宮沢りえ)、豪姫(田中麗奈)はすごいなぁ・・・。
むずかしい・・・わが書架を見渡しても(見渡すほどないけど)、半分近くを上杉 関連が占めるありさま。美濃・尾張から畿内の史料は圧倒的に不足しているのです。 だいたい『信長公記』にも日根野下野守の与力で、美濃国中に頸取り足立と評判さ れた云々としか載っておらん。 斎藤家直臣ならばともかく(これも難しいが)、陪臣というのは・・・(絶句) 「利家とまつ」キャスティング 石田三成(岡本健一)、淀殿(宮沢りえ)、豪姫(田中麗奈)、前田利長(中村俊介)、 前田利政(藤原竜也)、加賀殿(国仲凉子)・・・ 上杉主従はまだかいな。
>頸取り足立こと足立六兵衛(大八木氏熱演)は『戦国人名事典』に >載ってませんな。補完しなければ。 是非お願いします。 又左のサイトを手伝う(作る?)にあたって、「頸取り足立」のことを ちょっと調べてみたのですが、「日比野下野守の与力」ということぐら いしかわかりませんでした(泣)。 信長は足立の首を取ったことで利家の帰参を許しました。 信長としてはそろそろ許してやろうか、という時期だったのかも 知れないですが、他の家臣の手前、ただで許すわけにはいかない。 で、「足立の首」だったわけですが、それは、他の家臣たちも 十分納得できる手柄だったから帰参を許したということですよね。 足立という男がどれほどすごい男だったのか、「頸取り足立」の 異名からも多少は察しがつくのですが、実際にどんな人物だったのか 興味あるところです。
後半、寝てました(爆)。いえ、退屈だったのではなく、酒の酔いがま わったためです。 利家は「別れさせ屋」みたいなこと、やらされてましたね。帰参の初仕 事がそれか、犬よ(涙) 信長が「貴様は出世はせぬであろう」と言い放つシーンは、よかったで す。やはり、信長と利家との仲について、史書にあるように「寝床でい っしょに物語した」等の場面を彷彿とさせてくれないと。 ところで、頸取り足立こと足立六兵衛(大八木氏熱演)は『戦国人名事 典』に載ってませんな。補完しなければ。 ・・・印象にのこったセリフ お市「前田さまにも覚悟していただきます」
見るのサボりました(^^;
直江氏と直江津、そして海が浅からぬ関係だというのはわかるんですが、 湊に出される法度や定書といった文書が直江氏の手になる事例で見つか るといいなあ。 思うに、為景が上条氏と争った際、飯沼氏が味方しました。このおかげ で敗残の為景はいったん佐渡へ逃げ、越中へ渡ってから、巻き返してい ます。直江氏は飯沼氏の旗本であったといいますから、この時、船と水 夫を提供したのかもしれません。 謙信の富は、金山よりもむしろ、海である、と言いたいですね。 また、直江氏の出自ですが、本姓二階堂氏ともいわれているようです。 となると、鎌倉・室町中期までは政所執事などの顕職によってけっこう 羽振りのよかった一族です。しかも、二階堂氏の歴代に「山城守」を称 した人が結構いるんですよね。 のち、二階堂氏の地位は伊勢氏にとってかわられます。 飯沼氏は関東衆と云われますので、没落した二階堂氏の一族が鎌倉から 越後へついてきたとも考えられます。 わたしにとって、越後という土地に対する強烈なイメージを与えてくれ たのは、司馬遼太郎の『街道をゆく・潟のみち』ですね。とくにNHK スペシャルで放映された場面では、腰まで泥に浸かって田植えを行う記 録映画が紹介され、司馬氏も「呆然とした」と書かれています。あれで 「ゆたかな穀倉地帯・越後」を有した上杉謙信、などと紹介している本 に出会うと、「ほんまかいな」と疑うくせがついてしまいました。 山城茶屋のほうも拝見させていただきました。 みなさん、いろいろと多彩なご意見ありがとうございます。
私が横槍を入れたせいで、三楽堂さん、上杉景勝さんの貴重な ご意見を伺うことができました。 組織だった「水軍」というものではなかったにしろ、それに 順ずるものが存在していた、ということでしょうか。海に面した 所ですから、船を持っていなかったとしたら、うそになりますよね(笑)。 地名に関しても、私のサイトでもいろいろ話題に上りましたが、 直江氏と海運権(といってよいのか)の関係など、興味深いご指摘を いただいたと思います。 ありがとうございました。
当時の日本海側は物流の大動脈でしたからね。 現在とは大違いでしたね。 湊の支配権は大きな利益をもたらしたのは確実ですね。 このことは北前船の歴史に如実に現われていると思います。 また、今でこそ新潟平野は美田となっておりますが、当時の平野には潟が 多く、信濃川、阿賀野川の川幅も途方もなく広く、海側から新発田攻めを 行うには、船が必要だったのです。 戦国時代の越後の平野部の考察については、学研の歴史群像シリーズの 「疾風 上杉謙信」に記事が載っております。 蛇足ながら、かの松尾芭蕉は「奥の細道」で越後は中条町の近くから船で 新潟まで旅しているほどです。
魚津城後詰めの際には、親知らずの天険を越えた云々ということが史書に出てきま すが、船も使用したと思います。 上杉関係文書では「渡海」という言葉が結構出てきます。これは謙信・景勝らが越 後(おもに柏崎、阿賀北など)へ出兵する際に船を使ったことを示しています。 景勝が新発田重家討伐の際も、最後は海路から上陸しました。新発田攻めでは本庄 繁長も舟手にて参戦して、新発田方の舟を焼き撃ちしています。 また、長景連(でしたか)が海路、能登へ進攻し、織田勢の後方を攪乱している事 例もあります。 ただ、実綱・信綱・兼続の代にそれほど水軍に深く関わっていたとする文書や事例 が見当たりません。謙信の代に柏崎を直轄化し、北条氏は上野へ移されてますし、 港はやはり上杉氏の直轄化が進んでいたのでしょうか。
>よーぜん様のご意見を拝見して、上杉が船を使って撤退したのではないかと というご意見もうなづけますね。 江戸時代、加賀の前田家が参勤交代で親不知を通る時の苦労を考えれば、船の 使用は十分に考えられます。
>鶏と卵の関係 たしかにそのとおりですね。 出雲との関係をいう、三楽堂さんのご意見も、なるほどと思います。 上杉家の水軍ということを景勝さんが書いていらっしゃいましたが、 たしかにあの親知らずを陸上から越えて行くのは、かなり厳しいものが あると思います。 前からちょっと疑問に感じていたのですが、天正10年、魚津城が陥落 するとき、景勝は魚津城近くの天神山まで出張って、春日山城の危急を 知って軍を返していますよね。あのときはたして陸上から帰っていたのか、 それとも船を使ったのか、そのあたりがずっと疑問でして・・・ 私としては、船を使ったんじゃないかと思うのですが、上杉と水軍と いうことがあまり結びつかず、では、陸上ならどういうルートで引き 返したのか、やはり親知らずを通っていったのか、と、まあ、どうでも いいことかも知れないのですが、「水軍」ということが出てきたので、 ちょっと書いてみました。 直江氏の話から飛んでしまって申しわけありません。
>よーぜん様 地名が先か、名前が先かということについてはよくわかりませんが、一般的にはどうなんでしょうか。鶏と卵の関係のような気がしますが・・・。 >三楽堂様 謙信時代の上杉氏には小規模ながら水軍らしきものがあったようです。軍勢が親不知の険を越えるにはやはり水軍が必要だったでしょうから、その支配を直江氏が行っていた事は十分に考えられます。でも、海賊大将とは・・・、いかにも悪事の親玉みたいで。
土地の名が先にあったというか、やはり、出雲の直江から引き移ってきたのではな いかなと思います。 >私的には、まっすぐな入り江だから直江、そういう地名がもともとあって・・・ 北九州、出雲、直江津はいずれもこの名に合致する海のそばにあるんですよ。 直江津には祇園がのこっていて、出雲との密接な関係を思わせますし、あるいは 出雲に住んでいた直江一族が越後へ移住して、根拠地とした港に故郷の名をつけた (あるいは人がそう呼んだ)のではないでしょうか。 江戸時代の史料ですが、謙信麾下に海賊大将として直江氏の名があります。この文 献をそのまま鵜呑みにはできませんが、港湾関係者、支配者として入港税の徴収を 持っていたのではないでしょうか。景勝時代に竹俣慶綱が新潟津の「沖之口」(徴 税も含まれます)という権限を新発田重家に横領される事件がおこりますが、ある いは為景以前に直江津の「沖之口」を直江氏が所有していたとも考えられます。
景勝さまが書かれた直江津と直江氏の関係ですが、 私が以前読んだものには、「直江津を本拠としたので 直江を称した」ということが書かれていたように思います。 (出典は忘れてしまいましたが)つまり地名が先にあったと。 私的には、まっすぐな入り江だから直江、そういう地名がもともと あって、そこを領有したから直江を名乗った、という解釈に 納得していた部分があったのですが・・・ すみません、勝手な横槍でした。
戦国Xファイル、本当は週刊が理想なんですが、ときどき半月発信にな ってますね。欲を言えば、書き手複数回転で「戦国・天声人語」とか。 100番目を迎えたとき、誰も止めてくれなかったのでいまだに続けて いるんですが、考えてみればまともに更新しているコンテンツって、こ れくらいなもの。 それではおやすみなさい
#毛利新助さん さっそくの御返事ありがとうございます。 毛利さんのように、はじめて来られた方は、好きな人物や事件をあげて くれるとうれしいですね。 斎藤道三とその父二代の美濃取りですが、これは何十年か前に『岐阜県 史』編纂中に「六角氏定書」という古文書の存在が判明し、その内容に 道三の父親のことが書かれているのです。道三とその父二代の国盗りは 史学界ではほぼ受入れられてきています。 武具関連の博物館が知りたいということですが、具体的には誰のですか? あるいは、場所としてはどのあたり(まあ、ご希望としては自宅の近辺 でしょうけど)を考えていますか? 博物館展示品には大きく2種類あります。ひとつはその博物館が所有し ていて、いつ行ってもたいてい見られるもの。もうひとつは寺社や個人 が持っていて普段は公開されておらず、一定期間だけ博物館展示の目的 で貸し出されているもの、です。 武具中心の博物館も少しはありますが、都道府県の歴史博物館の企画展 示の情報をキャッチすることも大切です。 本多忠勝の鹿角の甲冑は個人蔵だったと思います。