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パソコンで初めて返事がきたのでとて嬉しいです。見てるとみんなすごい深い所 めで知っているので自分の無知を感じました。まだまだ若造です。 ぼくは斎藤道三が好きなんですが、最近聞かれる道三の国盗りが親子二代に わたってということだったというのは本当なんでしょうか? あと、本田忠勝や歴史上の人物が使っていた刀や鎧が展示してあるところは あるんですか? それと、真田幸隆が砥石城を攻略したときの謀略はどんなものだったんですかね? お教えください。
毛利新助さん、戦国群像&小田原評定へようこそ。 水滸伝や三国志も管理人は好きですが、なかなか手広くやっていられないので、こ こでは日本の戦国時代を守備範囲としております。 もちろん、この掲示板での水滸伝・三国志関連書き込みは結構ですよ。 しかし、ホームページにはそれぞれ管理者・運営者が想定したテーマが存在すると 思います。それぞれどんなテーマで運営されているページなのかを把握して、閲覧 もしくは参加されることをおすすめいたします。 サーチエンジン等で調べれば、三国志や水滸伝専門のページもたくさんありますよ。
今年はじめて神保町古書店街へ行ってまいりました。 だいたい立ち寄るお店は決まっていて、そのうち目録を送ってもらっているお店で 送付先の変更を告げました。 ここで、『東国太平記・新編東国記』を購入。新編東国記は勉誠社版の合戦騒動叢 書に入っている『会津陣物語』の原本で、勉誠社版で「この先、雨漏りで読めませ ん・・・」と書かれている部分も収録されています。 内容は会津征討と最上陣、対伊達戦、米沢減封、そして上杉諸士や川中島合戦など の聞書きなどです。 ほかに石田三成の地元本?っぽいのも目につきましたが、そこまで手をひろげては ・・・と断念。これはどなたかにお任せいたします! ほかに地方出版専門の店で、『水谷蟠竜斎』を購入。 新刊では、『街道の日本史27(越中・能登と北陸諸道)』など3冊を購入。 「越中・能登と北陸諸道」には、上杉・畠山・神保の抗争についても触れられてい ます。店内でサイン会におとずれた倉本聡氏を目撃。
景勝さん、どうもです。 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/naoe_k.html ↑でも触れてるけど、直江津の領主だったんですね。 直江率いる与板衆の富の源泉というのはこういうところから あるのかもしれませんね
初めてパソコンを買い、初めて投稿します。このサイトを見つけてとても感動しています。ところでこのサイトは三国志や水滸伝などの戦国時代は駄目なのですか? もちろん日本の戦国時代だけでうれしいんですけど。お教えください。
トラマ様 直江津についてわかる範囲でお答えします。 与板城主「飯沼氏」が上杉為景と戦って敗れたのち、与板の地は重臣の「直江実綱」に与えられました。 それまでの「直江氏」は現在の直江津の辺りを本領とし、津(湊)の支配権を所持していたようです。 直江の津ということで直江津というようです。 残念ながら、商人では有りません。
すんません刑事じゃなかった慶次の話をしている中で。 ずっと思ってたんだけどもなかなか恥ずかしくて聞けなかったことがあります。 直江津と直江氏って関係あんの? 直江氏の本領が直江津にあったとか、あるいは直江氏は直江津の商人だったとか うーん・・・どうなんでしょ?
大和苅布死没説は、ほとんど野崎知通の記録が唯一かと思われますが、 談話者の名と年代が明らかであることなど、米沢または会津死没を示す 史料よりも「いくぶんかは」質が上かと思います。 無視できないものと思います。 利貞・・・も使ったようですね。 こういう時は「活字」は決め手にならない(しっかりした校訂者がいれ ば別ですが)ものでして、亀岡文殊百首の慶次和歌色紙の写真版をなが めていたところ、貞の足の部分らしきものを確認しましたので。 できれば、「本稿清覧録」所収文書のほうも写真版(実物ならばモアベ ター)で自署・花押部分を見たいものです。 京都へ行く途中、大和で病没・・・といっても、街道筋からははずれる し、荒子、北伊勢など前田・滝川関連の故地をめぐりつつ大和路から京 都に入ろうとでもしたんでしょうか・・・ 慶次は七十三歳享年説を採れば、関ヶ原の時は六十八歳。なんと利家よ り年齢が上だった(笑)! 年齢も検討の余地あり、ですね。 男子・正虎にしても、関ヶ原戦後、相当な年齢になっているはずです。 初老といってもいいかもしれません。こんな年取ったな息子の出仕を条 件に、隠居同然の身がまたまた蟄居したとも思えないのですが。 やはり、京都で何か問題があって、隣国大和へ蟄居させられたというほ うが自然か、と。 そういえば、慶次が山上道及に小便をかけた『一夢庵風流記』のシーン は、『加賀藩史料』の中に「雑記」として載っていましたね。相手はど この誰とも書いてませんが、隆氏はこれを題材にして慶次・道及の阿吽 のシーンを描いたものでしょうか。 ※今度の居城は午前中の日当たり抜群すぎて、寝坊してられません。
>もっとも利貞は誤記で、利太(トシタカ)に通じる 利卓が正しい、と過去に書いたような気がしますが。 亀岡文殊堂の和歌、倉賀野氏宛ての書状に利貞とサインされているし 米沢の史料(鶴城叢談・上杉家御年譜)にも書かれているので誤記でなく 実祭に使用していたと思います。 『貞』と言う意味は『正』だから、前田家の正統な人間なんだ!という メッセージに思えるのですが... >大和苅布に蟄居せしめられ、同地で没したとしたならば? このごろは、慶次が大和で没したのはホントではないかと思う。 慶長8年以降の米沢での足跡がなく、慶長9年に子・正虎が 利長に200石で仕える記録が残っていることから、慶長8〜9年頃 前田家に正虎が仕えられるのが条件で、慶次が京都に蟄居することが 決まり京都に行く途中、大和で没したのではないかと。 慶次奉納の太刀の件ですが、熱田神宮には天正9年6月に荒子の住人 前田慶二(次)郎が奉納したとされているらしく、利久は荒子城 を明け渡した後も、荒子にいたかもしれませんね。 慶次は苦労して他の武将の下で働いていたはずなので。
『加賀藩史料』は上杉家の『御年譜』のように江戸時代の修史事業によって成立し たのではなく、昭和に入ってから前田家の委託を受け、日置謙によって編まれたも のです。当初は前田家は歴代藩主の伝記である本紀と、家臣団の事蹟をあらわした 列伝を計画していました。前田家の史料採訪は明治になってから開始されています。 が、日置謙は単なる前田家の家史ではなく、加賀・越中・能登にまたがる地域史料 を目指したもののようです。おそらく、慶次関連史料は日置の手で『加賀藩史料』 に組み入れられたのではないか、と考えます。 わたしも利豊と慶次の相似をいろいろ考えました。 慶次の七十三歳死没説は、利豊の二十三歳死没の誤記だとか(^^; それに野崎知通も結構、間違えてますよね。慶次を滝川一益の弟だとか書いている し。結構、記憶もあやふやだったのかな。なにせ、慶次が死んだ頃からかぞえると 五十年近くたってますからね。
>前田家にとってはママッ子扱いの慶次と利豊の事蹟は混同されて >伝えられている可能性はないか 実は私も利豊が「利貞」の名を持っている、ということを知ったとき、 三楽堂さんと同じようなことを考えてしまいました。 それで、持っている慶次関係の資料、特に大和で没したと書かれている 野崎知通の遺書などを引っ張りだして読みなおしてみたりしましたが、 あの遺書に書かれていることは、たしかに慶次を思わせるものでして、 利豊ではなかったです。 慶次が大和で没した、というのは名にを意味しているのでしょう。 そして、前田を出奔した慶次の事蹟を『加賀藩史料』が取り上げている というのが、ちょっと引っかかります。
石田治部さん、今度のGWにでも、ぜひ、上賀茂神社の競馬、ご覧になってみてく ださい。 桟敷のようなところでなければ、催行当日でもだいじょうぶですよ。 パドックではありませんが、レース前には、馬に触れるほどに側へ行くことがで きます。 上杉謙信が2度目に上洛した時は4〜5月でしたが、ちょうど足利義輝がこの競馬 を観戦していたようです。
よーぜんさん、利豊に関しての書き込みありがとうございました。 利豊が一説では利貞と伝わっている(寛政重修諸家譜など)ことについ て、妄想が湧いてきてしまったものですから。 それは、前田慶次も利卓あるいは利貞という名を使用していたことを思 い出したからです。もっとも利貞は誤記で、利太(トシタカ)に通じる 利卓が正しい、と過去に書いたような気がしますが。 利豊は大坂の陣では後陣に回され、活躍の場を与えられませんでした。 当然、不満が高じたはずだと思うのですが、それが利常あるいは前田宗 家への反抗となって乱行に及ぶことはなかったか?。で、利豊の墓がも しはっきりしないのであれば、別に利貞の名を持つ利豊が前田家の忌避 にすれ、大和苅布に蟄居せしめられ、同地で没したとしたならば? つまり、前田家にとってはママッ子扱いの慶次と利豊の事蹟は混同され て伝えられている可能性はないか、ということなのですが。 前にも言ったかもしれませんが、どうしても米沢で隠棲していた慶次と 大和国が結びつかないんですよ。 で、利豊終焉の地がいつしか利貞(利卓)とも称していた慶次最期の地 という記述を加賀藩が記録した、と。 「龍砕軒不便斎一夢庵主」と刻んだのも、1620年に利豊が没したそ の後のことだったのでは? 利長時代と利常時代で、ちょっとズレはありますが、「前田の殿様」と されていれば、あまり二代、三代の違いは影響ないように思います。 でも、利豊の墓はちゃんとあるらしいから、これは妄想のままで終って しまいそうですね。
前の話題で恐縮です。 利家六男・利豊(利貞)のことで、再び・・・ 利豊は元和6年正月に致仕し、その年の8月に没しました。 『加賀藩史料』によると、お墓は野田山にあるようです。 前田家の菩提寺宝円寺で葬儀が行われ、それ相応に弔われた ようです。 死因はわかりませんが、相当貧困に窮していたみたいなので、 病気かなにかで亡くなったのでしょうか。 致仕する際の書付が残っていて、そこに、過分の知行を拝領したが 知行所が悪いのか、自分の「ぶがいしやう(不甲斐性)」によるのか、 「朝夕の暮」も仕りかねている、というようなことが書かれています。 致仕するにあたってのこの人の精一杯の抗議のように感じてしまいま した。 ちなみに佐竹氏に再嫁した母親の葬地は不明のようです。
そのような競技があったとは・・・。 >馬場と観客を隔てるのはロープだけ。 って想像だけでもかなりの迫力がうかがえますね。 東京競馬場でも、「馬場と観客」の距離は5Mくらいかな?さらに、 馬は馬場の客席寄りなんてほぼ通りませんので、さらに5Mくらい。 う〜ん、すごいな、くらべうま。
以前、騎馬武者を見るようにTVで競馬を見ている、ということを書きましたが、 一度だけ競馬を生で見たことがあります。 それも西洋から入って来た現代の競馬ではなく、日本古来から伝わる「競馬(く らべうま)」です。 毎年5月はじめに京都上賀茂神社で行われる「競馬」。騎手は平安時代以来の装束。 二頭で争うレースを5回(だったかな)。互いの呼吸をはかりながら、一気に馬に ムチをくれ、疾走する姿は、競輪(正式名称忘れたけど)を思わせる面もあります。 馬場と観客を隔てるのはロープだけ。馬が眼前を過ぎ去る時は思わずあとずさりし てしまいます。 名だたる戦国大名や足利将軍たちも観戦したことが記録に残っています。 こんなことを書いたのは、長塚節氏(馬の博物館学芸員)が「日本の古式競馬」に 関する本を出したからです。出版は「かなしん」。神奈川地元本ですが。
#下総介さん、右衛門尉さん 臼井城に関するレスありがとうございます。 松田の赤鬼と呼ばれた松田康長の武勇伝もありますし、何となく謙信の旗色が悪い ことは否めませんね。 「上杉家御年譜」は本当にありがたい史料ではあるんですが、やはり部分的に割引 いて読まないといけません。最後の遠征計画は上洛で、北条・伊達・蘆名なども援 兵を送ってきたという記述になってますし(^^; 『総葉概録』は「房総叢書」に収録されていると思いました。わたしは内閣文庫で 見たことがあります。何篇かの史料があわさっていて、中に「太田三楽戦場履歴」 が入っているので、「歴史読本」2001年12月号で紹介記事を書きました。 太田資正のお墓と珍しい肖像画(といっても、江戸期の錦絵ですけど)もそちらに 載せてあります。 23日松山城へ行かれるんですか? よろしければ(スケジュールは微妙ですが)一応メールにて詳細をお知らせいただ ければと思います。
三楽堂さん、『戦国のコミュニケーション』届きました。まだ目次 しか見てないのですけどなかなか面白そうですね。 >下総介さんはHNから拝察するに千葉方面でしょうか? 出身は千葉県で、HNはそれにちなんでますが、現在は常陸のつく ば市在住ですよ。小田城も結構近いですが、最寄は矢田部城になり ましょうか。 そうそう、話は変わりますが、今月の23日に主にネットで知り合 ったお城好き同士で武州松山城に行きますけど、三楽堂さんはそう ゆうのって興味ないですか?もしそうゆうイベントがお好きで、か つ都合がつくようならご一緒しましょう。 #ご一緒できない場合の回答は特にお気遣いなく
たしかに謎ですよね(^_^;) まとめとしては三楽堂さんのコメントでクローズできるのだと思い ますが、こんなものにはこんなだったという例もいくつか示してお きます。昔まとめたものの遣いまわしですけど・・ 『上杉家御年譜』には、永禄6年四月二十日の記述に 「既にして臼井落城と見へける処に、千葉介邦胤 太田美濃守に依 頼して頻りに和親を請ふ 是に依て重て兵馬を向らるへきに及す して 先厩橋に御納馬也」 とあります。(原文のカタカナをひらがなにしております) 「まさに落城するってなときにしきりに和睦を願い出てきたので、 あえてまた攻める必要もないので厩橋に引き上げてやった」ってな ニュアンスですよね。これを見ると勝ったかのうよう(^_^;) 『関八州古戦録』では『上杉家御年譜』と同じ永禄6年四月二十日 の出来事として臼井城の攻防が記述されており、その記述に見る死 傷者を数えると、 ・松田(城方)が、沼田勢6・7名をなぎ倒す。 ・長尾顕景勢が敵を2百人ほど討ち取る。 ・城壁が崩れ落ちて(城方の策?)雑兵8・9十人が圧死する。 ここで謙信は一旦退却を命じ・・ ・新発田勢が追撃してきた松田勢百余人を討ち取る ここが引き上げ時とみた謙信は上州へと帰陣。 であり、城兵の方が多く死んでいます。とはいえ、これら記述の他 にも死傷した兵士が多数いることは当然で、この数の大小をもって 上杉勢が勝ったとは言えないでしょうね。また、城は落としたわけ でもなく降伏させたわけでもないので、まあ引き分けとでも言うべ きところなのでしょうか・・(^_^;)。 花ケ前盛明編『上杉謙信大事典』(新人物往来社)では、丸井敬司 氏が「臼井城攻め」という見だしで、 「臼井城を守備していた(原)胤貞は主君の(千葉介)胤富と協力 して巧みな作戦で上杉軍を翻弄し、無理をして空堀に攻め込んだ兵 に対して土塁を崩して反撃したため上杉方は多数の圧死者を出した といわれている。このため謙信は同年四月末攻撃を諦めて兵を引き、 越後に退却した。」 と解説しています。なお、この記述の根拠は『総葉概録』という史 料のようです。はじかしながら原文にあたってないです(^_^;) これらのほか「歴史群像」や「歴史読本」等の雑誌などで見られる 記述も様々で、結局のところ何が通説なのかもいまひとつ分からな かったりしますね。人質をとったとか、誰々を城代として置いたと か、そういったことを証明する文書でも見つからない限り、臼井城 の攻略には失敗したと考えるのが妥当のようには思いますけどね。 勝ちの記述がある『上杉家御年譜』は上杉家の御年譜ですしねぇ・・
三楽堂様 上杉景勝様 臼井城の攻防について、早速のレスありがとうございます。「謙信の敗戦」に ついて、非常に興味深いお話です。 戦国期の武将達が、領土に対する野心を持つことを許されずに峠を越えて遠征 してくる、というのは謙信公のカリスマ性があったにしても、相当の苦行だっ たんでしょうね。 はるばる遠くまで来て疲れも溜まってきたところに、敵の後詰めが来るわ小荷 駄も危ないわで、「殿けーろ、けーろ」ですね。 久々に関八州古戦録を読みたくなりました。 米国素浪人様 三楽堂様が仰るように創作をマンガにしたものです。あまり期待されない方が 良いかもしれません。あくまでもイメージでございます。 ネットのおかげで、日本で洋書を買うのは楽になりましたが、そちらで、和書 というか日本のコミックを買われるのは大変なんでしょうね。 追伸: SB情報ありがとうございます。評定の流れから大きく外れたネタを振ってし まい、三楽堂様も含め大変失礼しました。でも少しうれしい♪
引越しにともない、天井つっぱり式のスチール書棚を分解して運んできたのですが、 スチールというのはだめですね。ひんまがったりして、元のとおり組み上がらない。 手はすりむくし、壁はこするわ、ガチャガチャ騒々しいわ、苦闘3時間余。 で、頭にきて廃棄を決めました。 どうせ当分の間、引越しの予定はなし。ひょっとしたら終の棲家にもなりかねない。 そこで、もう少し小ぶりのものを購入することにしました。 というわけで、資料の全面展開はまだまだ先になりそうです。
逞正院(阿千代)に関して。 再婚相手の竹内義助義厚は、佐竹内蔵助義厚の誤り。 隆興院(岩)に関して。 男子五人も系図に入れられていないようです。→男3人の女2人で合計 5人・・・のようです。『戦国大名閨閥事典』を参照しましたが、これ は執筆者熱田氏のミスか、印刷時の誤植でしょうか・・・。 ところで、利豊は加賀かその近辺にちゃんとお墓があるんでしょうか? ずっと後年になって建てられた供養塔ではなく、遺骸が埋葬された墓と いう意味ですが。
右衛門尉様 スーパーボウルは下馬評を覆えし、残り2秒でペイトリオットがチャンピオンシップを ものにしました。私は2タッチダウン差ぐらいで、ラムズの楽勝ではないかと予想して いましたが、どうも最初のインターセプトで攻撃のバランスを狂わさせられた様に思い ました。残り時間1分30秒で同点に追い付いた時にはラムズの勝ちを確信してしまい ましたが、しかし、それからのペイトリオットのQBブラディの冷静なパス廻しで、徐々 に敵陣に迫り、残り21秒でWCのブラウンが右から切れ込み36ヤードまで押し込んだ 時には、最早ペトリオットの制覇を受け入れざるを得ませんでした。 話があらぬ方向に行ってしまいましたが、『山上道及』に関する情報を有難うご座いまし た。只、私の下らない偏見から漫画は読みませんので、探すのも多少難儀な様な気がしま す。(それより先ず、こちらでその様な漫画が置いてあるのかが、問題ですが) 意を決して本屋に聞いてみます。(本人だけが大げさですが) 三楽堂様 時代小説を読み始めますと、史実と小説の区別が付かなくなり往生しています。 そこで、痛快な場面や涙が流れる箇所は、作家のサービスで創造の域だと思うことにして おります。それでもその世界に引き込まれてしまいます。今後、いろいろな史書やその類 の本を読んでいけば、自分なりの判断が出来るのではないかと思いますが、何せ、戦国時 代の本を読み始めたばかりで、まだ生まれたばかりの赤子同然です。そこでそれらの知識 を一刻も早く補うために、この様なサイトがあり大助かりしています。私の質問も当分は 愚問と的を外れたものになるかと思いますが、何卒宜しくお願いします。
THIS TIMEさま お久しぶりです。慶次奉納の太刀の展示ですか。興味深いですが、 見に行けないのが残念です。見に行かれるのでしたら、是非その模様を 教えてください。 >朝倉遺臣の娘・隆興院(岩)という側室が生んだ男子五人も系図に >入れられていないようです。 岩の産んだ3人の男子は「早世」と、本にありましたが、5人いたのですか。 それは驚きです。 前田に限らず闇に葬り去られた子息たち、意外に多いのですね。
どうもごぶざたしています。 仕事が忙しく、1月に衛生管理者の試験もあったので...(^^ゞ 熱田神宮の慶次奉納の太刀について 2/1〜2/24まで特別に熱田神宮の宝物館で展示されます。
>単行本の出版社について 新聞小説が単行本になる際の出版社についてですが、通常は作家と契約している 大手出版社から出版されるようです。(時々例外がありますが) 特に地方紙の新聞小説は数紙共同ですから、また出版後の販売のことも考慮すると 「花に背いても」も大手出版社からということになるでしょう。 >右衛門尉様 上杉関係の資料にも臼井城攻めの記録は少ないですね。 臼井城を攻めてはみたものの北条氏の後詰と補給の問題から撤退したのでしょうね。
生母は逞正院(阿千代)は越前葛野坊の娘。慶長三年に伏見で利豊を生 みました。しかし、なぜか利豊を生んだ後に竹内義助義厚という者に嫁 し、金沢へ帰ったということです。 別に朝倉遺臣の娘・隆興院(岩)という側室が生んだ男子五人も系図に 入れられていないようです。 何となく、このあたり、正室まつの意向がはたらいていたような・・・ と考えるのは邪推でしょうか。三代藩主となった利常の場合は生母おち ょぼが、まつの侍女であり、いわば「公認」という側室だったわけで、 それ以外の子女には一線を設けるような・・・ よーぜんさんのおっしゃるように光と影の部分にも目配りすることが大 切だと思います。わたしも聖将とかいわれる謙信の負の部分をも含めて 知りたいと思っています。 それにしても、戦国大名家にはけっこう「わけあり」の子女がいるんで すよね〜
『一夢庵風流記』の場面は隆慶一郎氏の創作なのですが、道及が上杉景 勝の挙兵に応じたことは確かなようです。 軍記ものにはチラチラ名が出てきますね。 山上道及については、わたしも関心がありますので、いずれXファイル で取り上げたいと思っています。なぜ「諸将武勇競」に高い地位を有し ているのか、その謎にも挑みたいと思います。
通常、不敗を誇ったという謙信にも何度か敗戦として記録されている戦 いがあり、それは生野山の合戦と臼井城攻略の失敗の2度とされている ことが多いです。 生野山合戦は北条氏康軍に敗れたというものですが、実態は北条方の書 状ぐらいしか物的証拠がなく、果たしてどの程度の合戦であったのかは わかりません。 臼井城攻略戦のほうは、軍記ものに記されています。謙信が伝えられる ような敗北を喫したかどうかは別として、攻略に失敗したことで関東諸 侍の支持を失ったというのは確かなようです。 一般に謙信の戦いはスッキリした勝利というものが少なく、勝ったか負 けたかわからないものが多いです。北条のように養子縁組で味方に取り 込んだり、信玄のように家臣を送り込んで直轄領とするキメこまかい支 配体制を採用しなかったせいもあります。 わたしが思うには、謙信の敗戦はもっと多かったのではないかと思いま す。引き分けとされている合戦の中にも、実質的に謙信の敗北と記録さ れてしかるべき事例がもっと多いように思います。 ただ、それは謙信の能力的な問題にばかり帰するのは酷というもので、 やはりそれだけ困難な事情の中で謙信としてはベストを尽したのだろう と思うのです。
米国素浪人様 初めまして、本日スーパーボール見たさに会社を休んだ右衛門尉と申します。 なにとぞお見知り置きを。 『山上道及』をイメージする一番の良書(?)ですが、やはり『一夢庵風流記』 を漫画化した『花の慶次』の第10巻ではないかと思います。小便消毒の逸話を コミックで見るのも一興かと。 他に本では無いのですが、古書『唐沢城老談記』を現代語訳したという、以下の HPで佐野四天王と呼ばれた、槍の名手道及の事績を垣間見ることが出来ます。 三楽堂様を差し置いての横槍な書き込み。お許しを。 http://homepage.mac.com/siran/karasawa/index.html
以前この欄で『戦国武将の番付け表』についての地位で、あれこれ意見を述べましたが、 その中のスケ前頭のところに「明智光秀と山上道及」がランクされておりました。 私は『山上道及』は初めて聴く侍の名前で、この人物に付いては全く知りませんでした。 ところが、『よーぜん様』から薦められた『一夢庵風流記』の最後の部分で、上杉影勝が 徳川家康と一戦を交える時に、上杉軍の庸兵として馳せ参じた牢人に『山上道及』が登場し、 初めて彼に接しました。読むと前田慶次郎に劣らぬ『剛の者』で、戦で重傷を負い、破傷風を 心配する場面で水が無く、慶次郎の小便で傷口の泥を洗い流し(顔にも掛けている)、傷口を 酒で消毒しようとする時、『勿体ないことをするな。酒はこっち』と道及が口を指さした、と 書かれています。この場面を想像するだけで、この『山上道及』は、スケ前頭どころでは無く、 確実に『三役入り』です。人間の器の大きさを思い知らされます。(Kubo様、絶対に三役ですね) この『山上道及』にも俄然興味が湧いて来ました。道及に関する本はないのでしょか。 道及をメインに取り上げて無くても、彼に関する箇所が描かれておればいいのですが。 どなたか教えて戴ければ幸甚です。宜しくお願いします。
ここのところ、前田利家関係本をあれこれ眺めているのですが、 ちょっと感じたことなどを・・・ 利家という人は、ほんと子沢山で、正室まつとの間に10人、 側室との間に7人の子がいます。そのうち男子は6人で、長男利長と四男利常 は加賀藩主になり、五男の利孝は七日市藩祖となりました。この3人は(特に 前二人)比較的語られることが多いと思います。 二男の利政は関ケ原で出兵をしなかったため、領地没収され、京に隠棲しましたが、これもある意味自分の意志で行動した結果の処遇ということで、結果的に 気の毒には違いありませんが、自己を貫いた結果といえないこともないでしょう。 以上4名は、言ってみれば光の部分です。 光がある一方で、同時に影も存在しました。その影の部分を背負わされたのが、 三男と六男。特に六男の利豊は、利家の死の前年に生まれた子で、周囲から あまり祝福されなかったようです。幼少のときに他家に預けられ(前田の重臣 ではない)、その家の姓を名乗り、利常のとき500石を与えられ前田姓に 復帰したのはいいが、大坂の陣のときに5000石も加増され、石高に見合う 供回りや武器をそろえるのに多大な出費をせねばならず、その後も貧困に 窮して武士を捨てる覚悟を決めますが、その矢先、23歳の若さでなくなります。 100万石の太守の子にしてはあまりにも哀れな生涯で、5000石の加増も、 なんだか嫌がらせみたいだし、その死に関してもどこかきな臭さを感じます。 三男にしても最終的に武士を捨てて隠棲しています。 「加賀百万石」と言うと、必死で家を守り抜いたおまつさんや2代、3代藩主 のことがとかくクローズアップされますが、その裏で不遇な生を送った藩祖 の子がいたことも忘れてはならないような気がします。
又左は帰参も許してないのに、勝手に帰ってきます(笑)。 上杉景勝さま> 此方でははじめまして。三楽堂さんには、参考になるご意見や 情報などを提供していただき、大変お世話になっています。 よろしくおねがいします。
三楽堂様 今年早くも3作目ですよね。毎回楽しく拝見しています。 一宮随波斎。実に興味深い御仁ですね。 本編に関係ないですが、昔佐倉市臼井という所に住んでいまして、随波流の 一党が参加した臼井城の攻防戦については、地元の一部住民では長島茂雄氏 の次に誇りになっていました。小学校の先生が、あそこで上杉謙信の軍が負 けたんだ、と誇らしげに言っていたのを思い出しました(上杉ファンの皆々 様ごめんなさい)。 しかしこの戦いも、物心ついた今となっては、あまりに資料が少ないところ からして、いろいろ疑わしいと思う次第です。あんな遠くまで来るのかね、 という気もします。 上杉ファンの方々は何か良い資料などご存じないでしょうか。
そういえば、よーぜんさんとこや直江会の掲示板でも話題になっていた『花に背いて』 の件ですが・・・ 山形新聞では連載終了しているようですし、新潟日報のほうではまだ途中。連載スター トのズレはしょうがないんですが、問題はどこの出版社から単行本化されるか、です よね。 津本陽氏の『武神の階』(上杉謙信)も同じように地方紙数紙に連載されましたが、 結局、角川書店から出ました。 他紙がからんでいる関係上、新潟日報社からはまず出さないと思われますが、地方 新聞社から単行本化されると、首都圏では手に入りにくいです。 しかし、出版社が飛びつかないと、お蔵入りになるんじゃないかと案じています。 まあ、地方から出版されようが、今はWebで発注できますからね。 ほんとに、金太郎飴化した書店よりも頼りになりますよ。
上杉景勝さん、どうも。 よーぜんさんとこの掲示板にも時々出没しています。 以前、ここのサミットでお近づきになったので。 当コーナー小田原評定は上杉はもちろんのこと、戦国時代全般について、 たまには脱線しつつ、雑談するコーナーです。 よろしくお願いいたします。
又左衛門くんのとるべき道は・・・ お宝(100点の答案用紙とか)を差し出すとかすれば、城主を懐柔できるかもし れませんね。武運を祈ります。May the force be with you!
帰参がかなうのでしょうか?
こんにちは 三楽堂様 よーぜん様もこちらにお出でだったのですか。 こちらにも足繁く通わせていただきたくお願い申し上げます。
↓城主は私です。又左は放逐したのでした。
かの三楽公の故事を思わせますな
↓城主が狩りに出かけた隙に城を乗っ取った、と思えたのはわたしだけだろうか。
↓いえ、又左を塾に追いやったので、パソコンがあいていたのでした。
>よーぜんさんが夜にカキコミするなんてめずらしいですね。 わかった! 又左くんがテスト期間中で、パソコンあいてるんだ! #石田治部さん あ、治部さん。こちらこそ、削除キーついてなくて申し訳ない。古〜いバージョン だから。3月頃にはうちも新掲示板に移行を考えています。 投稿者による削除キーもついてないし・・・ うちは無料レンタルではなくて、次回も自分で組み込みするつもりでいるので、も う一度パーミッションだとかおさらいしなきゃ(^^; #くらのすけさん 携帯ストラップは写真で確認できました。四角いプレート状なのでがっかりしまし た。フィギュア状のものを想像していたので。 さかさ磔の説については、おっしゃるとおり、れきはくの「天下統一と城」展にお ける説明によるものでした。 あ、東大出版会(東大とは別組織)といえば、先日、経理職員が5500万円(個 人顧客からの書籍代振り込み分)を横領してつかまった事件が報じられていました。 わたしが振り込んだ『史料総覧』や『大日本古文書』の代金も競馬や飲み代になっ てしまったんだろうか(笑)???
また、「題」と「投稿者」が逆になってしまいました。 すいません。
よーぜんさんが夜にカキコミするなんてめずらしいですね。
三楽堂様。 >そういえば、会場で「鳥居強右衛門磔刑」の携帯ストラップが >売られているとか小耳にはさんだのですが、本当なのでしょうか? >あの磔刑は実は頭が下(つまり、さかさ磔)なんだそうですが。 逆さ磔であろう、というのは図録に新説として書かれていました。 なんでも、『天下統一と城』(歴博の特別展?三楽堂様が行かれたやつでしょうか?) ででた新説らしく。 また、携帯ストラップは気づきませんでした…。図録と東大出版会の本は たくさん見たんですが…それと私、以前京博で買った「鳥獣戯画」の 便箋が東博でも販売されていると知ってそれを探してたもので…すいません。
>謙信などは馬に乗せないと、ただの変な格好したオジサンです。 馬と謙信とは別売りなのですか?続けて買わせようという魂胆ですね(笑)。
フィギュアの話が出ていたので、ついでに。 戦闘機やらバイクやら車やらのミニチュアがついている本が書店に平積みされてい ますが、戦国モノが一部地域でテスト販売されました。(昨年秋から今年にかけて) で、フィギュアは伊達政宗、武田信玄、上杉謙信(の乗馬スタイル)、前田利家、 謙信の愛馬(謙信を乗せるためのもの)まで発売されました。 予定では、足軽とかも発売されることになっていたそうですが、5号ほど出て休刊 になってしまったそうです。売れなかったのかな。 サイズの問題もありますが、フィギュアの出来もあまりよくないようです。 特に謙信などは馬に乗せないと、ただの変な格好したオジサンです。 さて、全国販売は果たしてあるのか?
加来耕三氏ですが、今後の執筆予定として、『会津宰相蒲生氏郷』、『立花宗茂』 が控えているそうです。 どちらも楽しみですね。とくに蒲生氏郷は単品での扱いはひさびさではないでしょ うか。