「波」

  「波」

 音が揺らすのが空気なら、その空気は更に? 君の心の何処を揺
らす。
 朝方のクラブは平日なので人も疎ら、残った数人がそれぞれの物
思いに耽り、ある者は壁によりかかり、ある者はゆっくりとステッ
プを踏み、またある者は床でスト−ン。
 あまいガラ−ジがかかるフロアには濃いスモ−クがたかれ、踊る
者の涙が煙のせい、それが目にしみたという言い訳を用意する。で
も彼女は知っていた、涙が溢れだしてくるのは涙腺なんかよりもも
っともっと深いところからであること、彼女の中の世界を、大きく
揺らした何物かが、涙をとめどもなく押し出してくるのだ。それは
悲しみ故ではなかった。それは喜び故ではなかった。それは絶望ゆ
えではなかった。それは安堵故ではなかった。それは全ての感情を
内包しているように感じられた。子供の頃、全てが単純だった頃に
感じた、単純な感情。悲しみでもなく、喜びでもなく、なにもかも
でなくなにもかもである、それは自分そのものであった。

「音が運ぶ」
「音が歌う」
「音が揺れる」
「音と踊る」
「音と遊ぶ」
「音と暮らす」

  もし君が波になりたいのならば、そこにゆけばいい。そのスピ−
カ−は聴く者の、心を揺らす。地球の裏側の、多分孤独なレコ−ド
製作者の、魂を詰め込まれたそのヴィニ−ルの円盤から、感情が開
放される。時にはやさしく、時には激しく、DJの手がフェ−ダ−
にかけられ、音の隠された意味を引き出すとき、そこにあるのは奇
跡、虚空よりの贈与。音がフロアを包む。やさしい波が、波が身体
を揺らし、波間にはきらめくのは光。踊る光と影。

 そこのスピ−カ−にはいろんな伝説があった。NYから流れてき
たエイズ病みのスピ−カ−製作者の最後の作品と言う説。70年代
に数多くのディスコのサウンドシステムの設計をしたと言う彼の臨
終の際、流れていたハウスミュ−ジックが、DJはなにも手を下し
ていないのに、突然サルソウルにかわり、なぜか一瞬泣き声がはい
ったとか入らないとか。
 また別の伝説。このスピ−カはナチの開発したPAシステムの設
計図を見つけた男がその模倣をしたものだと言う説。設計図どおり
に作ったのに凡庸な音しかしないのに腹をたてて、その男は二足三
文でこのスピ−カを売り飛ばしてしまったが、後にこのクラブに設
置されてから、それが彼の思惑以上の音を出しているのを知らされ
て、悔しさのあまり憤死したとかしないとか。
 最後の、そして、もっとも信じられない伝説。このスピ−カの製
作者は未来からの旅人で、彼の壊れてしまったタイムマシンを材料
にしてこのスピ−カを作り上げたとか。帰るべき乗り物を失った彼
は、今はまだこの時代にいる。彼を故郷へと運んでくれる、「音」
を探して。

 日曜の午後のプライベ−トパ−ティ。集まった男女は20人程。流
れるディ−プ・ハウスに合わせてフロアでは、ゆっくりとまるで永
遠の落下を続けているように人々は舞う。フラッシュライト、フラ
ッシュライト、フラッシュライトが照らす笑顔、笑顔、笑顔そして
...隅の暗闇、ライトの届かぬスピ−カ−の影、では深刻そうな二
人、たぶんゲイの男と男がこんな会話。
「もう耳が殆どきこえないんだよ」
「くじけちゃだめよ」
「ウィルスが最初にここにきたみたいだ」
「もうすぐ人生が終わる」
「まだだよ」
「音が、世界が消える」
 泣き声。それはちょうどブレイクと同時に生じた歓声に消されて
しまったけど、二人は力なく抱き合いスピ−カ−にもたれかかり、
下を向き声にならない声....
「....」
「なに」
「聞こえる」
「音が?」
「身体が震える。音が身体を震わす。世界が...」
「世界?」
「きこえる」

 真っ暗なフロア。今はクラブの営業時間外なのかここには誰もい
ない。音がないとなんと味気ない空間だろうか。打ちっぱなしのコ
ンクリ−トの壁、光のついてないライト。誰もいない冷たい空間?
 いや、暗闇の中、じっと動かず、スピ−カ−の前に立ちつくして
いる黒づくめの男がいる。
 彼はスピーカに向かって話しかけていた。
「我が子よ。
 そう我こそはそなたの父である。
 お前が生まれた混沌は、
 お前の内に閉じ込めた光こそ、
 お前の語る言葉はすべて、
 世界が予め知っていた豊穣、
 永遠と刹那の間、
 世界が揺れる、
 揺れる世界の中、
 お前が世界を揺らす」
 
 酷く気持ち悪い。まがいものつかまされた? さっきまでは自分
を包み込み、やさしく愛撫してくれていた音が今は牙を剥き、剥き
出しの神経細胞に襲いかかってくる。トイレに駆け込み胃のなかの
ものを全て吐きだし、それでも直らずにソファ−に横になる。ベ−
スが身体を鞭打つ、ハイハットが心の傷口をいたぶる。なぜこんな
所にいるのだろう。なぜ生を無駄に過ごすのだろう。夜の闇の中、
音だけの世界で、なぜ苦しまねばならないのだろう。世界が時にあ
まりに厳しくて、人間というのは苦しむために生まれて来たのだと
思ってしまう。音が剥き出しの感情に襲いかかる。激しく、激しく
。助けてくれ。世界がこんな厳しいものだと知っていたら、生まれ
てなんてこなかったのに。

「すみません、今日はもう終わりなんですけど....」
 男はソファ−から、眠そうに目を擦りながら、立ち上がり、あか
りがついたフロアをゆっくりと見回す。彼には周りの景色がなぜか
、すべて非現実なように、夢のように感じられた。大音響の中フラ
ッシュライトを浴びて踊っていた時のほうが、ブラックライトで発
光した人々と共にブレイクで絶叫していた時のほうがひどくリアル
に感じられた。今は夢から醒めた夢を見ている? そんな筈はない
。パ−ティの終わり? そんな筈はない。夕べはあれほどグラマラ
スにみえた女達が、所在なげに壁にもたれかかる彼女らの疲れた顔
が、妙に生活感を漂わせている。何も音を出さないスピ−カがそこ
にある。パ−ティが終わり? 生活が始まる。妙に現実感のない一
日が。
 彼は音の出ていないスピ−カ−を見た。それこそが昨夜は、世界
を作りだしていたもの、世界そのものであったのに、今は単なる世
界の一部、いや世界の非在の証明のようにさえ思えた。そこに宿っ
ていた神は去った。今そこにある只の電気部品のかたまりは、この
日常に物以外の何物も存在しないことの証明のように思えた。心を
揺らす波動のない生活。音が出てなくてもそのスピーカーはそこに
ある。音が出ていた時と同じように。彼はスピーカに向かってゆっ
くりと歩いてゆき、おそるおそるそれに触った。一瞬手がすり抜け
て宙を切るのではないかと思われた。音の出ていないそれがそこに
存在するとはとても思えなかったのだ。彼は軽い絶望を感じながら
両手でスピ−カ−を撫で始めた。なぜ世界は僕に何も与えてくれな
い? 彼は心の中でそう叫んだ。

「あれ覚えてる」
「何」
「あの潰れたクラブ」
「渋谷のはずれあったやつ?」
「そうそう」
「あそこのスピ−カ−ってとても音よかったじゃない」
「残念ね。あれが聴けなくなっちゃって」
「それがね。今度別のクラブに入ったっていうのよ」
「どこそれ」
「六本木のね....今度案内するわ」
「ありがとう。でもうれしい、またあの音が聴けるなんて」
「そうそうあのスピ−カ−の出す音って何処かちがってたよのね。
身体の奥底を揺らすっていうか」
「そうね勇気がでてくるというか、次の日、昼間会社で働いてても
ふとした瞬間その音が蘇ってきちゃったりして」
「あった、あった。なんかずっとグル−ヴが身体のなかに残り続け
る感じなのよね。そのうちに....」
「そのうちに?」
「私の身体のほうがそのグル−ヴを出しているような気持ちになる
の。世界と溶け合ってるような気持ちにね」
著作:佐藤憲雄

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