岡林信康さんの「26ばんめの秋」を聴き、衝撃を受ける。以降、フォーク・ロック関係を聴いたり、自分でギターを弾きながら歌ったりということをはじめる。岡林信康さんを起点にして、はっぴいえんど、ジャックス、早川義夫さん、ビートルズなどを傾聴しはじめる。
東京ロッカーズより少し遅れたパンク、ニューウェイブ、オルタナティブ系ロックバンドとされる絶対零度に参加。この頃、絶対零度は、上智大学の文化祭でデビューして以降、吉祥寺マイナーなどでライブをしておりました。白石民生さんの「剰余価値分解工場」、海賊艇K主催のギグが中心だったと思います。
メンバーは波止康雄さん(ボーカル、詩)、大熊亘さん(キーボード、ときどきボーカル)、木村真哉さん(ドラムス、ときどきサックス)、笹山照雄さん(ギター)、中川一郎(ベース)でありました。
「亀裂」「ハロー2」「むかで」と呼ばれていた後にレコーディングすることになる曲は、この頃からできあがっていました。
その頃、中川はとくにパンク系を聴いたりすることは、稀で、以前から聴いていたものを聴き続けていました。
マネジャーとして林原聡太さん(当時、ミュニオンというミニコミを主宰しておられました)が加わられ、クロコダイル、ロフト、屋根裏などにも出演するようになりました。また、ゴジラ・レコードを主宰され東京のニューウェイブ・シーンの形成に多大な貢献をされた地引雄一さんに多大なお世話になり、関連のオールナイトのギグに出させてもらったりもしました。
当時の絶対零度は、まだ中学生だった小夜子さんが鋭い歌を歌い、さちほさんがガンガンベースを弾かれていた頃のゼルダ、町田町蔵さんがジョニー・ロットンの生き移しのように感じられた頃のINU、マリア023におられたNONさんがベース/ボーカルだったノンバンド、ジュネさんがロンドンから帰国されて結成されたオートモッド、パスからメジャー・デビューをされる前の突然段ボール等々と共演していたように思います。
この年の夏。地引雄一さんが主宰されていたジャンク・コネクション・レーベルの第2弾のシングルとして絶対零度のものが出ます。当時、1000枚くらい出たのですが、とにかく全部売り切れたと思います。SーKENスタジオ改めスタジオ・マグネットで一晩でレコーディングしたものです。中川は個人的には、ベースの音をやけに大きく録音していただき、何だか嬉しい気がしていたものです。いい気なものです。
また、モダーン・ミュージックをはじめられる前の生江住さんが、某大手レコード会社に紹介してくださり、そこでのレコーディング、デビュー等々の話もありましたが。
レコードが出るあたりに、波止さんがやめられ、この年の暮れまで。それまでの波止さんのカラーとはずいぶんと異なる色合いのインストルメンタルも含めた音楽をやっていました。ただ、大熊さんがボイスを担当された「ハロー2」はその後も続けて演奏しておりました。
この年の秋でしたでしょうか。笹山さんと中川が吉祥寺マイナーにて、「ジャックスの会」と称して、レコード・コンサートを開きました。聴衆はぼくら以外はたったの3人で、一人は遠藤ミチロウさん。もう一人はガセネタに居られた大里さんでした。
この年の暮れ。中川はこのままやっていても自分がやりたい音ができないなどと不遜なことを思い、絶対零度を脱退しました。
絶対零度は中川が抜けてからも、坂口透さんという新たなベーシストを加え、精力的に活動を続けていたようですが、3月頃、笹山さん、大熊さんがやめて、中川が復帰しました。この頃、音楽的な方向性もかなりポピュラーになります。木村さんや、中川が歌を本格的に書き始めました。中川は多少、ノンセクトの政治を学校でやっていたこともあって、そのたぐいのメッセージが入ったり、あるいは、この当時に聴き始めたドアーズやベルベット・アンダーグラウンドのようなサイケっぽいギターの音を追及したりします。この時期の絶対零度は、もはやあまり人前でやることもほとんどなく、横須賀のどぶ板ストリート、マジカル・パワー・マコさんの福岡公演のサポート、東京大学文学部祭への参加等、ごくごく限られたものでありました。
中川はこの時期に多少歌を作っており、今も誰かにはその頃の歌を知ってほしいなどと不遜なことを考えており、それがこのホームページの開設の動機の重要なもののひとつであったりします。
絶対零度の最後は当時青山にできていたSHYというスポットにおいてであります。竹村洋介さんにずいぶんと助けていただいたりして、2回ほど公演していますが、観客動員数はほとんどゼロに近い状態でした。最後は、82年の5月頃だったと思います。中川は就職活動に専念することとし、「いちご白書をもう一度」さながらに髪を切って、会社訪問の人となりました。木村さんは司法試験の勉強に精を出され、坂口さんは青春されていたと思います。
中川はその後は、卒業論文にロックのことを書いたこともあり、文献の人、リスナーとなります。自身でもよもやステージのこちら側に立つことは想定していませんでした。
じゃがたら、スターリン、オートモッド等が東京のロックシーンをにぎわしていた頃ですが、中川は完全にそことは無縁に、クラシック・ロックを聴く日々を送っておりました。
中川はこの間、ニューヨークに住みました。そこでは、サルサ、ミュージカル、アストル・ピアッツオーラによるタンゴなどを聴くようになりました。また、クラシック・ロックの主要LPがCD化された時期でもあり、この頃は毎週、リンカーン・センター近くのタワー・レコードにてCDを数枚買うことが日課でありました。心に残るギグとしては、イギー・ポップの88年ハロウィンのコンサートで、まったく60年代のパワーを失わない姿に感動したことなどがあげられます。
おりしもバンド・ブームの日本に戻りました。最初に見た「イカ天」にThe Weedが出ておりまして、笹山照雄さんがキーボードを演奏されており、いたく感激しましたが、基本的にはクラシック・ロック関係の収集が続いておりました。
妻・理恵子さんの友人である山本典子さんと、「ベティーズ」なるバンドを作り、カラオケで歌えなかった日本のロックの名曲(ジャックス、はっぴいえんど等)を流し風にうたったり、中川の唄を山本さんに唄っていただく等の試みをしようとして、断続的に練習などをいたしました。まだ、人前でやっていませんが、そろそろかななんて思っております。
この年、早川義夫さんが25年ぶりに本格的に音楽活動を再開され、いたく感激します。そして、自分の20代の頃よりもずっと多くの若い人たちが早川さんのメッセージに触発されていることを知り、嬉しい驚きを感じました。
94年11月の渋公の早川さんのコンサートにて、笹山照雄さんと再会し、「癒」というユニットで音楽活動を再開しました。
1月に「癒」というユニットでライブをやりました。(詳細は「癒」のコーナーへ。)
ヒカシューの巻上公一さんがniftyのホームパーティを開催されているのを知り、時折でかけました。
また、絶対零度の頃にお世話になった地引雄一さんがEATERを創刊され、その関連のホームパーティにも何度か出かけました。
山本典子さんは、硬派のBo Gumbosのキョンさんのファンとして、シリアスなリスナー活動を、ボ・カンボス解散以降も続けられました。中川の妻・理恵子さんも山本さんの影響からか、リスナーとしての自己を確立しはじめました。
かつての絶対零度の同僚であった木村真哉さんの「へぼ詩人の蜂蜜酒」がCD化。彼のギグに出かけては、その素晴しさを味わい、そして、絶対零度の終わり頃に彼がめざしていたのはこれだったかということを10数年ぶりにわかったような気がしたものです。
また、クラリネット奏者としても名高い大熊亘さんのギグにも出かけ、その音楽的求道心に感銘を受けたものでありました。
2月17日 ベティーズ第1回公然ギグ
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