片言集 1998.10


読者が作品を読む時・・10月29日(木)14時57分

すっかり、その作品の世界にはまってしまって、他のことに全く目が行かない。なんてこともあるのではないでしょうか。


作家が作品を執筆する時・・10月29日(木)14時55分56秒

作家が作品を執筆する時、「私の作品が世界に通用するかいなか・・・」みたいなことって、あまり考えていないのではないかなあと感じます。 何か、もう、書かずにはいられないことがどんどん沸いてくるという感じなのではないでしょうか。


10月29日(木)14時07分11秒 

      わかりやすくするために、固有のパーソナリティとかタイプとかを設定し
      がち。そして、そんな言説があふれているのも現実。

      そんなことがあるゆえ、「ああ、あの人はああ」ということを日頃も決め
      決めでとらえてしまいがちだが、結構、人の在り方というものは時により
      変わる・・というのが実際なのではないかと思うときもある。

      「ぼく、いつもこうってわけではないんですよ」といいたいのだけれども、
      まあ諸般の事情があって、「こう」と決めつけられてしまうことが多いのでは
      ないかと心配する。

      刹那、刹那を初めてその人に会うかのように接する。

      刹那、刹那を生まれて初めて・・という感覚を持ち続ける。

      これは、難しいことだが・・・

      「いつもこう。いつもああ。」

      そう考えた方がシンプルなのだが、実際のところ、どうなのか。
疑うことも必要だろう。

10月29日(木)10時31分53秒 

修行が足らぬ・・・

      思い煩ってもしかたないことを思い煩い・・・
      心が乱れる。

      未だ修行が足りない。

10月28日(水)20時26分27秒 

なんだか忙しくなりそう 

      なんかそんな感じだなあああああ。

      まあ、仕事があることはありがたいのだけれども。−−−

10月28日(水)18時36分26秒 

ゲバルトと武装との間

      60年代後半から、70年にかけての運動のことを考え、
関係の手記等を読んでみて、
      以下のようなことに思い至った。

      − 街頭闘争におけるゲバルトは・・・、これはやはり軍事的勝利
         ではなく、やはりデモンストレーションとしての効果が狙われた
         ものであったのだろう。

      − したがって、ゲバルトにおいて軍事的には敗北したとしても
         そのデモンストレーション等で主張しようとしたことが、より多く
         の人々に伝わり、共感を得る・・という意味合いにおいて効果は
         あったということであるし、当事者の方々にとってもある主張を
         「身体をはって」行うという意味合いはあったのだ。

      − このゲバルトと軍事的勝利を目的とする武装・・との間にはやはり
         大きな違いがあったのだろうと思う。

      − 軍事目的のための組織の在り方は、メッセージを伝えるための組織
         とは異なるし、その中での人々の関係性もまた異なってくる。

98.10.23
久しぶりに野外劇を見る。ク・ナウカの「天守物語」。Doggyさんに誘われる。Doggyさん、ありがとうございます。しばらく、通ってみようと思える芝居に出会えました。また、縁ある人がその制作に携わっていることも知り、なおさら、こりゃはまろうというものである。竹村洋介氏も誘いたいと思った。20分くらい・・、様式になじめない感じがしていたが、それからはもう夢中になってしまった。ラストが圧巻。願いが観音に通じたのか、阿弥陀に通じたのか。阿弥陀を背負って、魔界の獅子が復活する。そして、魔界こそが実は本来、人が目指すべき境地であることが、光の中で明らかにされたような気がした。
98.10.16
先週末、大量購入した70年前後の日本のロック、フォークの音源にはまっている。このような音源が世に出る。後世の人たちが、出会う。そこから、何かが始まる。いいことだ。
98.10.11
赤坂「橋の下」にて、むらたてつぢ氏の公演。歌唱力、そして、凝った歌づくり。今回がはじめてであったとのこと。今後の展開が楽しみである。そこでミッコ氏たちに出会う。いきなり「はっぴいえんど」「スライ&ファミリーストーン」等で接点があり、世の中にはこういうこともあるのか・・・、出かけてよかった・・・などと思う。奇遇である。

参考:http://www.bekkoame.or.jp/~mikko/jnew.html

そこで


98.10.11

昨日、日本イギリス児童文学学会の特別記念講演「昔話研究から児童文学研究へ」を聴講する。(Special Thanks to R)

ミヒャエル・エンデの「モモ」という代表作品を「昔話」のもつ様式やイメージで読みといていくという主旨の講演であった。

昔話にあらわれる様式的特徴として、

等があり、それが、「モモ」にも現われているということであった。

この講演を聞きながら、以下のようなことを思った。

「ねじ式」は結果として、「昔話」と共通する様式やイメージを内包しており、それが相当広範な人たちに受容されたのではないか。

そもそもなぜ、「昔話」が語られたのか。それは、共同体なり集団なりが規範では制御しようのない「夢」を見るという個人の営みを制御可能なことにしようとしたということではないだろうか。「夢」のなかでの感じ方。「ねじ式」はそのものずばりであるが、そこからの類推で「昔話」の設定も「夢」の中での人の感じ方を共同体内に「昔話」として語られることを通じて、取り込むことに「ああ、それはあの話にもあるようなことさ」という制御の試みなのであろう。

98.10.02
言っても仕方がないことを俺も口にしているのかもしれない。 昨日も「そんなこと言っても、くたびれている俺がやる気に なるかよ。こんなことしか言えないやつのためにどうして やる気になるかよお」と感じるたぐいのことを言われたが・・・ 俺もそういうことを口にしているのかもしれない。 疲れると、ろくなことはない。 疲れた状態ではろくなことが浮かんでこない。 疲れた状態で人と会っても、「疲れている」ことしか伝わらない。 疲れた状態で作業をしてもだめだ。 ミスがふえて締切までにしなければならない作業が増えるだけだ。 疲れた状態で思考をしてもだめだ。 「だめだ」としか考えないだろうし、 「だめな」理由は結局疲れているからこういうことを考えるのだろう ということでしかない。 疲れを断ち切ることだ。 疲れをもたらす文脈を断ち切ることだ。 眠るんだ な。



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