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  猪名川町周辺の山ハードハイキング
  特選ショートコース その3

追谷山・五一五m山東尾根 縦走 

  妻恋地蔵さんからご提供いただきました。 ありがとうございました。
  妻恋地蔵さんのE-mailアドレスは hirotani52@nifty.ne.jpです。  (2002.3.27.掲載)

 
 慶佐治(けさじ)盛一(せいいち)さんが、『北摂の山』の下巻を出されました。上巻とともに、これだけ北摂の低山がそろうと壮観です。将来この地の山の古典となるに違いない優れた作品だと思います。
 昨年の青(あお)ヶ原・三蔵山(みくらやま)縦走のときから、私は五一五m山の東尾根と追谷山(おいたにやま)・愛宕山(あたごさん)の縦走をしたいと思っていました。そこで、『北摂の山』にある「愛宕山(清水の)と追谷山」に敬意を表して、予定とは逆の歩き方をしました。
 前半は愛宕山と追谷山の姿の良さとはうらはらに、白色黄色テープのおかげでたいへん味わいの薄い山歩きとなりました。雑木林の尾根そのものはすばらしかったので、残念です。こんな些細なことで気持ちを乱してしまうのは、私の未熟さのあらわれでしょう。
 ところが、後半に歩いた五一五m山の東尾根は、予想を超えるすばらしいところでした。清浄な雑木林の尾根、充実した読図、地形上の謎解き、幽玄の山上池、古い石仏群との出会い。
 慶佐治さんの著書に引かれての幸運に感謝しなければなりません。もし、予定通りのコースをとっていたら、少なくとも登りの読図の喜びは味わえなかったでしょう。そして、下りの読図の楽しさを期待していた追谷山や愛宕山も、ベタベタのテープのために、読図どころではなくなっていたことでしょう。
 
山 域 北摂山地
 
山行日 2002(平成14)年3月24日[]
 
同行者 妻、迷犬ハナ
 
天 候 曇りときどき雪
 
時 間 
 
清水・猪名川園10:05・・・・10:40愛宕山10:45・・・・11:15追谷山11:35・・・・12:30町境尾根の山・・・・12:40五一五m山・・・・13:05右折点(昼食)14:00・・・・14:10北谷池の鞍部・・・・14:30三九八m山・・・・15:20島・春日神社
 
 
◎愛宕山へ
 
 県道から猪名川霊園に入ってすぐの広瀬橋を左折し、道路の西側にある小公園でゲートボールを楽しんでいる方々の許しを得て、小公園に駐車させてもらう。
 前谷へ行く道路の祠の所から猪名川園に上がり、その外れから山に入る。紐を外してもらったハナは、弾丸のように藪の中へ突進する。『北摂の山』の記載から、きつい藪漕ぎを覚悟していたが、すぐに古い山道に出た。最近あまり人が歩いていないようで枝は少し出ているが、道の跡ははっきりしている。
 去年のものと思われる白いテープが約三mおきに付けられていて、まったく興が削がれた。それも、せっかくの山道を外れて、左右に無駄なルート取りをしている。北摂藪山歩きの初心者とみえる。
 道祖神の方から上がってくる尾根に合わさる。この尾根にも、昔よく歩かれた山道が通っている。ここからテープは黄色に変わった。三mおきの間隔は同じ。ツツジがちらほら咲きだして美しい。
 急登しばらくで愛宕山の南の小山に着く。大きな石が幾つかあるが、眺望は得られない。北側の鞍部には、東西に下りる古い山道が見られた。ここから尾根上はよく切り開かれて歩きやすくなる。
 愛宕山の頂上には、東の愛宕山と同じく祠があった。東西の愛宕山は構造がよく似ていて、兄弟山のようだ。ただし、こちらの方が百m低い。ここから見る東の愛宕山双耳峰は、南の低い方が格好良い。木々の間から、昼(ひる)ヶ岳や鳥飼山(とりがいやま)、石谷山(いしたにやま)、丸山、堂床山(どうとこやま)などが見えている。
 
◎追谷山へ
 
 愛宕山の下りは、一直線に伐られた道の急下降。鉈の鋭い切株がないのが救い。左から猪名川サーキットの爆音、右から猪名川霊園の線香の香りがする。こんな山道も珍しいだろう。追谷山との鞍部から、すぐ近くに猪名川霊園の一角が見えている。今日は彼岸の日曜日なので、墓参りの人が多い。
 鞍部から羊歯の道を急登する。しだいに緩やかな尾根道となって、追谷山に着く。ま新しい三角点標石があった。周囲の木が少し伐られているので、やや展望が利く。大野山(おおやさん)や高岳(たかだけ)が見える。
 
◎町境尾根へ
 
 少し細くなった踏跡を北へ下りる。すぐにまた歩きやすくなった。煩わしい黄色テープは、途中から東へ分かれる枝尾根の方へ下りていった。初心者氏は、北谷(きただに)源頭へ下りてから間違いに気づき、再び登り返してくるのではないかと恐れたが、結局この先、大尾根に帰って来ることはなかった。
 静かな美しい雑木林のゆったりとした尾根をたどる。西へ折れて下るころから空が暗くなって、あられが降りだした。鞍部のあたりでますます激しくなり、ソヨゴの木の下に入ってあられ宿りをする。見ると、鞍部から南北へ古い山道が下りている。
 お嬢様が濡れないように、シートを被せてやる。何たる過保護!というのも、ハナ姫は、毎週の山歩きでダニに食われて掻きむしり、美貌の毛皮が見るも哀れなボロ雑巾状態になってしまった。一回千四百円もするアメリカ製のダニ駆除薬を塗ってはいるが、これもダニが犬の体液を吸って効果があらわれる仕組みなので、最初の一回は咬まれることになる。そこで、今日は、私が海釣りで使っている虫除けスプレーを、試しにハナにかけてきたわけだ。
 町境尾根目指して登る。緩やかな登りの後、急登となる。頂上まで白テープが張り巡らされていた。
 町境尾根の頂上に着く。ここは杉坂(すいざか)峠から南下してきた尾根が西へ変わる所だ。去年の三月、ハナと一緒に縦走したときに通ったが、ハナは覚えているだろうか。
 さらに続く白テープに沿って北の鞍部に下りる。大きな木の間を登り返すと五一五m山。空き缶が幾つか捨てられていた。ズボンが濡れて寒い。
 
◎北谷池へ
 
 五一五m山から北東へ派生する尾根を下りる。二、五万図に破線路が記された尾根だ。最初、ザレ場を連続して二箇所通る。明らかに道はあるのだが、枝が少し出ている。おまけに、よく似た尾根が右に五本、左に六本も派生している。この破線路の尾根を迷わず下りるためには、中級程度の読図力が必要だ。
 先行者の付けたテープがあると、たしかに迷わずに早く進むことができるだろう。山歩きの効率という点では、ありがたいものかもしれない。しかし、効率万能の現代社会であるからこそ、知的想像力を楽しむ遊びの場があってもいいと私は思う。道標も、テープも、定かな道さえない美しい雑木林を、自分なりの読図力と動物的直感を駆使して歩く喜びは、多くの低山趣味の皆さんが味わっておられることだろう。このような面白い尾根にテープなどを付けてしまっては、読図の興趣が台無しになってしまう。
 尾根が東南東へ変わる小山に着いて読図の緊張が解け、急に腹がへった。太陽も顔を見せるようになったので、のんびり昼食とする。ハナが木の上に向かって吠えだした。よく見ると、かわいいリスが高い枝を走りまわっている。北海道の山ではよくリスを見たが、近畿の山では、四年前に深山(みやま)北尾根の嶽筋(たけすじ)という山で見て以来だ。じつに愛くるしい動物だ。
 東南東へ、古い尾根道を下りる。かつては多くの山人たちが行き来した仕事道なのだろう、掘れた廃道となっている。下るにつれ、南側の小谷がすぐ近くに寄ってくる。大きなヌタ場があった。ヌタ場のすぐ下は両岸が狭まっている。その様子には何か人工的な感じがしたので、下山後、春日神社の近くで尋ねてみると、これは昔の溜池の跡なのだそうだ。昭和二八年の大水で堤が切れたとのこと。北谷池や川原(かわら)の内田池(うったいけ)、栃原(とちはら)の峰池(みねいけ)など、こんな山の上にまで溜池を作らなければならなかった昔のお百姓の水確保の苦労が偲ばれる。
 さて、私にはこの尾根を下りる楽しみが一つあった。というのは、昨夜、地図を見てコースの予習をしたときに、私の持っている二種類の地図に、ちょっとした地形上の食い違いを発見したのだ。国土地理院の二、五万図には、今私たちが歩いている破線路の尾根が、北谷池すぐ北の鞍部を経てそのまま三九八m山につながっているように描かれている。ところが、猪名川町発行の『猪名川町全図』という一万分の一図には、この尾根は柏原(かしはら)川の方へ下りていき、五一五m山から東へ下りる尾根が、北谷池すぐ北の鞍部を経て三九八m山につながっているように記されている。はたしてどちらが正しいか、破線路の尾根を鞍部まで実際に歩いてみればはっきりする。途中で谷を渡ったら猪名川町の勝ち、尾根筋のまま鞍部へ出たら国土地理院の勝ちということになる。結果は国土地理院の二、五万図どおりだった。近くに新しい河川略奪の形跡も見られない。さすがはハイテク地図、正確無比だ。
 鞍部には壊れた小さな炭焼窯の跡があった。少し下って北谷池に行ってみる。今は訪れる人もなく、ひっそりとした佇まいで水を湛えていた。流れの入口に小さな段地がある。こんなところでテントを張って、星を見ながら酒を飲みたいものだと話し合った。破線路は池の右岸から北之谷(きたのたに)へ下りているように地図には描かれているが、それらしい道は見当たらない。
 
◎島へ
 
 鞍部へ戻って東へ縦走を続ける。三九八m山までも概ね歩きやすく伐られている。下りの尾根筋は、予想どおり読図の必要な尾根の分岐が二、三箇所あった。尾根が緩んだところは、桧混じりの雑な暗い林となっている。
 ひょいと石仏の前へ出て、道が二つに分かれる。石仏の上部には「四十四番」と彫られてあった。素朴ないい感じのお顔だ。ここから短い間隔で次々と、様々なお姿の石仏が迎えてくれる。無機物の石とはいえ、嬉しくなってきた。下るにつれ、一つずつ番号が増えていく。お顔が壊された石仏も見られるようになった。西側に分かれたもう一つの道にも石仏が並び、尾根上の道と合わず離れず下っている。
 神社に向けて急坂となったところで、予想どおり石仏は「八十八番」で終わった。春日神社に下り立って西側を見ると、「一番」からの登り口があった。
 私たちにとって、思いがけないすばらしい発見だった。八十八体すべてそろっているのだろうか、いつの時代にどんな人が造ったのだろう、四国の八十八カ所の御本尊にすべて対応しているのだろうか、『猪名川町史』はじめ郷土誌に載っているのだろうか、次々と興味が湧いてきた。
 神社の外れの畑で作業をしていたおじさんに話をうかがう。石仏は江戸時代のものだそうだ。今でもお年寄りたちが八十八カ所巡りをされているという。神社のすぐ上の急坂は、足腰の弱ったお年寄りには危険ではないのだろうか。子供たちが悪ふざけをして仏さんのお顔を壊してしまったのだと、おじさんは憤慨しておられた。
 すっかりお天気になった猪名川沿いの農道を、のんびりと清水(しみず)へ歩いた。
 
 後日、猪名川町立図書館で資料を調べた。四国八十八カ所巡りのミニチュア石仏群は、昔から「島(しま)の大師(だいし)さん」と親しまれ、毎年四月二一日の大師講の日には多くの参詣客で賑わったそうだ。天保八(一八三七)年の銘があるとのことだ。
 また、春日神社には、他にも「右のせ左たんば道」と彫られた古い石の道標や、明治期の石灯籠が二基、天正十一(一五八三)年の石灯籠一基が確認されている。
【『猪名川町史2』、『猪名川町の石灯籠』、『猪名川町の道標』、『猪名川の街道』など】
 

 妻恋地蔵さんの「深山をゆく」  

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2002.3.27. edited by M.KANE