まえがき
先日読んでいくうちに、久しぶりにわくわくするような本に出会った。それは上垣外憲一(帝塚山学院大学教授)著「暗殺・伊藤博文」(ちくま新書、2000.10.20初版)である。1909年(明治42年)10月26日ハルピン駅頭で射殺された伊藤候の暗殺犯がもう一人別にいるという新説である。現行犯で捕らえられ、死刑になった朝鮮人の義士「安重根」とは別の者が、致命傷を負わせたという。それも日本陸軍上層部が絡んでいたことが、複雑な明治の国際情勢・政治・経済・軍事・社会を丁寧にひも解いて、実にスリリングに描かれている。
これを読んで、丁度5年前のソウルに百済の弥勒菩薩を見に行った旅が、ひょんなことから日本の“旧罪”を詫びる羽目になった旅を思いだし、あらためて、其の時の旅を複雑な「日朝関係史(それも近代史を中心に)」とともに、振り返ってみようとこの拙文を書き始めた。
書いてみてこれは容易ならぬことだと思ったが後の祭。19世紀末から20世紀初頭の、世界の激動期を、理解するだけでも困難なことだが、それを分かりやすく描くのは至難の技。とにかく書き始めたので、どういうことになるか。
第一部 旅の始まりと混乱の行方
ソウル紀行・・・その1(弥勒の微笑)
1995年6月。最初の金土日を利用して、急に思い立って、ソウルへ行くことになった。
男だけの、それもみんな50才半ばのむくつけき野郎4人だけのツアーとなった。
“男4人で週末のソウルへ!”、数日前に妻に言うと、“一体何しにいくの?”と怪訝そう。
“そう、急に仏像が見たくなってね。その仏像見られるのもあとわずかなんだ。その博物館が近々取り壊されることになったんでね。心配無用だよ。
”こういうときは長話は禁物。“ほんと?”とまだ訝ってる妻を制して話はここで打切り。
実は歴史好きの先輩と、最初は2人で行くつもりだったのが、飲み仲間のあと2人も“それなら俺も行く”ということになり結局4人で行くことになった。
その先輩が前に一度ソウルへ行ったことがあるくらいで、あとははじめての韓国行き。その“それなら”の“それ”というのは、嘘ではなくまさしく仏像なのだ。
私は目的が3つあった。
1つはその仏像。韓国国立中央博物館の金銅弥勒菩薩半跏思惟像(写真1)。
三国時代・百済の最高傑作の金銅仏といわれる逸品。有名な京都・広隆寺の宝冠弥勒(写真2)の原型とも云われ、仏像好きには垂涎の的。今年の8月15日からこの博物館が取り壊されるようで、そうなると、もうここでは見られなくなる。
2つは歴史好きな先輩も読んでいた歴史ドキュメンタリー小説の傑作、角田房子著「閔妃(ミンピ)暗殺」の現場を見てみたいこと。
閔妃暗殺事件とは・・・1895年(明治28年、前年日清戦争に日本が勝利した)10月8日払暁、三浦朝鮮公使の指揮のもと、公使館付きの日本兵・警官に日本人壮士らが加わり、東京の皇居にあたる景福宮に乱入。李朝26代目高宗の王妃で、親露派の実力者「閔妃」を暗殺した事件。一国の代表公使が、公然と正規軍を指揮して、時の王妃を虐殺するという世界史上まれな事件。日露戦争の遠因となる。(この事件はあとで詳述)
3つは(これは私の個人的な理由だが)旧第一銀行(現第一勧銀)の当時の京城(ソウル)支店跡を見てみたいこと。(理由は後述)
以上3つの“真面目な”理由を持って、しかし気ままに行こうと旅立った。
ソウル空港はくもり、肌寒いくらいだ。ガイドの奇さんが出迎えに来ていた。まだ若い女性。
4人だけでも一応ツアーなので、今日は型どうりのコース。まず第一目的の博物館へ行った。
ソウル市内の一番の大通り、世宗(李朝朝鮮の大王・ハングル語の創始者)路の真中に立つ、豊臣秀吉朝鮮征伐時の救国の英雄、「李舜臣将軍」の立派な銅像を見て少し北へ行くと、景福宮の南側正門である「光化門」のすぐ後ろに雄大な威容を誇る韓国国立中央博物館がある。旧朝鮮総督府だったこの建物は今年の8月15日からの取り壊しが決まっている。(理由は後述)
とにかくあの弥勒菩薩に一刻も早く会いたくて、他の展示物には目もくれないで4人はまっしぐら。ところがあるべき場所にない。ケースはあるが肝心の像がない。えつ!どうしたの?
とようく見ると小さな張り紙に、韓日英語で、「取り壊しのため、公州(旧百済)扶余博物館へ移転しました」と書いてある。がっかりしたがないものは仕方がない。弥勒像は百済滅亡時の首都だったあの悲劇の街、扶余へようやく里帰りしたんだ、と思うことにした。
日朝関係小史・・・その1(三国時代と百済)
4世紀から7世紀にかけ、高句麗・新羅・百済の三国が鼎立していた時代(中国は南北朝の戦国時代)。それぞれの首都を中心に独自の華麗な仏教文化が勃興し、日本(当時は倭と呼ばれていた)との交流も盛んだった。特に「百済」から日本に最初に仏教がもたらされたことは有名である(538年)。その後は「高句麗」や「新羅」からも仏像や仏師がつぎつぎ渡来し飛鳥・白鳳時代が花開く。しかしとなりの中国に「随」(589年)そして「唐」(618年)と巨大な統一王朝が誕生し、朝鮮への遠征が開始される。真っ先に攻められたのが国境を接する高句麗であったが、兵強く手ごわい抵抗を続ける高句麗に手を焼き、次いで攻められたのがその南の百済である。唐は新羅と組み、 百済は日本(645年の大化改新のあと、飛鳥の大和政権の実権は後の天智天皇になる中大兄皇太子と藤原鎌足)と組んで争ったが、ついに663年百済・倭連合軍は白村江(はくすきのえ)の戦い(倭は3万人も出兵したといわれる)で大敗し、百済は滅亡。大勢の百済の貴人が飛鳥へ亡命し、その後の大和朝廷の発展に寄与したといわれる。高句麗も668年唐・新羅連合軍に滅ぼされ、朝鮮半島は始めて新羅により統一された(統一新羅時代)。高句麗からも大量の工人が日本のあちこちへ移住し、貴重な文化をもたらした。有名な高松塚古墳壁画は高句麗様式の典型であり、埼玉県高麗川周辺は高句麗の渡来人が大挙移住したところといわれている。
大和朝廷は、唐・新羅連合軍が日本に攻め入って来るのを覚悟して、大宰府周辺や河内・生駒山地に大規模な防塁を幾重にも築いたといわれる。倭の最初の危機であった。(生駒山中にこの防塁跡が近年発見されている。)
その後唐は高句麗と百済に軍を留め、新羅と戦うことになったが675年新羅が唐に服属することで唐軍は引き上げた。それ以来、歴代の朝鮮王朝は二十世紀の清の滅亡まで中国の臣下に入ることになる。政治は朝鮮人が行い、軍事は中国に頼るという、所謂文人国家となる。
この伝統が十九世紀の諸外国の門戸開放で複雑な展開を見せることになる
(写真1)韓国国立中央博物館の弥勒菩薩像
(写真2)京都・太秦・広隆寺の弥勒菩薩像
このふたつの像は、前者が金銅仏、後者が木芯乾漆像の違いはあるが、全く瓜ふたつである。
1960年に広隆寺の弥勒像の手の美しさに見せられた大学生が、その指に触り折ってしまうという事件がきっかけで、その像を詳しく調査したところ、像の用材は韓国産の赤松ということが分かった。専門家の間でもこのふたつの像は、百済仏ということで一致している。前述のように、百済と日本の密接な関係が伺える貴重な作品である。(ああ、是非とも見たかったなぁ)
日朝関係小史・・・その2(統一新羅・高麗王朝から李王朝の成立まで)
「統一新羅」はその首都を慶州に定め、唐から文化・制度を積極的に取り入れ、特にその仏教文化は目を見張るものがあった。韓国の“奈良”と称される慶州は、仏国寺の石塔、石窟庵をはじめ往時の盛況を偲ばせるものがいまでも数多く見られる。しかし末期には地方豪族の反乱に手を焼き、ついに936年「後高句麗国」王を称した王建に滅ぼされ、高麗王朝が誕生する。日本はこの時期は平安朝(794年〜1188年)の国風文化華やかなりし頃で、独自のものを内部で熟成させていた時である。
「高麗王朝」はその首都を現在のソウル北方の開城に定め、唐のあとの「宋」(979年)から科挙の制度や儒教を取りこみ、文人による官僚体系を築き上げた。文化面でも有名な高麗象嵌青磁(国立博物館はこのコレクションでは世界一)に代表される陶磁器の製作やヨーロッパより200年早い活字印刷の発明など後に大きな影響を与えた。日本との関係で云えば、1274年と1281年の二度に亘る元の襲来(文永・弘安の役)である。宋を倒した「元」(1271年)は、高麗を支配し、次ぎに日本を狙う。高麗軍を先陣にした元軍は、怒涛のごとく九州を 襲い、鎌倉幕府の派遣軍と壮絶な戦いを繰り広げるが、折りからの台風による強風で援軍が難破し、やむなく引き上げる。二度目も台風で失敗する。
あまり知られてないことだが、この失敗には高麗の戦略があった。遠征の前年から軍船300艘の造船を元から命ぜられた高麗は、先陣にされるのが分かっていたのと日本への遠征を好んでいなかったのとで、意図的にサボタージュを行い、翌年5月の完成が10月の台風時期になったといわれる。また陸戦には圧倒的に強い蒙古軍も、水軍にはからっきし弱く、高麗水軍の言いなりだったという。(元が最初高麗を攻めたとき、高麗は王朝を江華島に移して抵抗。陸地から2キロしか離れていないこの島を落とすのに元は30年かかった。)よく訓練された鎌倉武士も強かったが、この高麗の戦略がなかったら、物量を誇り火器に優れた蒙古軍にどうなったか分からなかったのではないか。
この高麗王朝も1392年、日本人の海賊倭寇の討伐で名声を高めた李成桂将軍の挙兵で倒され、新しい王朝「李王朝」が誕生する。中国では元が1368年「明」に倒され明朝成立。元に忠誠を誓っていた高麗王朝に対し、李将軍はこの明に前から服属を誓っていた。
李王朝は国号を「朝鮮」と称し、その首都を漢城(いまのソウル)に定める。この李氏朝鮮は1910年(明治43年)の日本による韓国併合まで続く。李王朝は明に従いつつも、独自の体制を作り上げる。それは科挙による官吏の登用と儒学・朱子学を重んじる教養・学問で、両班(やんぱん)という特権階級を作り、彼らによる文人統治の強固な中央集権国家を築き上げたことである。また四代世宗によるハングル文字の発明や、儒教による道徳の普及は今日の韓国社会にも強い影響を残している。
日本との関係でも、室町幕府第三代将軍足利義満の時(1404年)から、百済滅亡以来約740年ぶりに友好善隣関係が結ばれ、その後150年に亘り、60回以上の使節派遣が行われ、年間数千人の人が両国の間を往来したという。
日朝関係小史・・・その3(李舜臣将軍と秀吉の朝鮮征伐)
しかしこの関係を一変させたのが、豊臣秀吉による朝鮮征伐である。日朝関係の不幸の始まりであった。1592年から96年と1597年から98年と二度に亘る侵略は日本では文禄・慶長の役、韓国では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれている。天下統一成った秀吉が、大量に発生した浪人武士の力を向ける戦い場として、また豊臣大名の功名争いの場として、“朝鮮を従え、明を征服する”という無謀な妄想のもとに意図した侵略であった。(約300年後の明治維新のあとも同じように下級武士らの不満を吸収するための西郷隆盛らの征韓論が興る。)
1592年4月14日秀吉軍の第一陣の小西行長軍1万8千が釜山を急襲上陸、その日に釜山城を落とし、続いて第二陣の加藤清正軍と第三軍の黒田清政軍の総勢3万3千も上陸し、戦国の世で鍛えられた武士たちが勢いづく。そのまま東・中・西の三軍に分かれ一番乗りを目指して漢城を狙う。途中ほとんど抵抗らしい抵抗もなく、慶州の仏国寺を焼き払ったりなどして北進。上陸後20日 目に漢城に至り、景福宮に雪崩れ込み略奪の限りを尽くす。王一族は平壌に逃れるが、60日後にはここも落ちて、中国の国境近くまで逃げる。
朝鮮は200年近くも軍(いくさ)がなく、いざとなれば明軍がいると安心し、後進国の日本がまさか攻めてくるとは思ってもなく、文人国家で無防備であった。しかも日本は戦国時代のなかで日々軍に明け暮れ、将も兵も戦いに熟練していた。しかも事前に綿密な計画を立てて、奇襲攻撃をかけたのである。しかしこの頃になって、ようやく各地の義兵が決起し、ゲリラ作戦にでてきた。1593年1月に明・朝鮮連合軍4万5千が平壌を奪回して、秀吉軍は少しずつ退却を開始。その後両軍は一進一退を繰り返す。その間大阪城で明・朝との講和会談が続いたが決裂し、秀吉は1597年1月 ついに再攻撃を命ずる。小西・加藤の14万の大軍が再び釜山に上陸する。朝鮮の水軍も藤堂高虎の水軍に大敗し、制海権も握られ危機的状況になっていた。この危機を救ったのが李水軍の将軍李舜臣である。文禄の時も敵の豊臣水軍を手玉に取って何度も打撃を与えたが、政略に敗れ、この時は野に下っていた。この李舜臣が再び起用されてからは、少なくなった兵船で巧みな作戦の奇襲攻撃を繰り返し成果を上げていく。そして1597年9月鳴梁大海戦。李将軍の発案による亀甲船(板船の周りをすべて鉄板で覆い、前後左右に火器を装備した船)(図1)で敵船に突っ込んで火砲を発射していく戦術で大成果を上げ、恐れられた。豊臣水軍はこの船を見ると逃げたという。このため陸の豊臣軍は完全に補給路を断たれてしまい動くに動けなくなった。翌98年 、秀吉が死んで引き上げていく豊臣軍を追走して全滅に近い勝利を収めるが、李将軍は運悪く、流れ弾が胸に当たり死亡した。今でも救国の英雄と尊敬されるゆえんである。
(図1) 李瞬臣の亀甲船
7年間の無謀な戦いは終わったが、国土は焼土と化し、大量の陶工や工人が日本に連れ去られ、一方では豊臣の兵も大勢置き去りにされた。(有田焼などの磁器製作はこの陶工が始めた)
この侵略は今でも韓国のあちこちに歴史の暗い影を落としている。
朝鮮はこの倭乱とその後に続く後金(後の清)ヌルハチ一族との戦乱(丁卯胡乱という)で国土は荒廃し尽され、度重なる大飢饉の頻発で回復に100年かかったといわれる。
しかし徳川幕府は、鎖国政策の中でも、両国の関係を修復するために、連れ去ったものを帰国させたり、残った日本兵を引き上げたりという適正な処理を行い、友好関係を維持し江戸時代260余年で12回におよぶ朝鮮通信使の派遣を受け入れ日本中が大歓迎したという。第一回は1607年(慶長12年)でこの時は朝鮮から500人近い使者が派遣され、駿府城の家康とも面会し、1400人の連れ去られた朝鮮人を連れて帰っている。その後も来るたびに文化先進国朝鮮の使者と日本の学者・文人が詩歌や書画などの交換を積極的に行った。日本からも韓国料理に欠かせない唐辛子の栽培法が伝えられたという。しかし朝鮮は日本に対してはふたたび の侵略を警戒し、日本の使節は釜山の倭館以外は入れさせなかった。この倭館には常時500人位の日本人が居て外交・貿易業務に従事していたという。日朝の王権交代の度に互いに使節を送りあった。長崎の出島と朝鮮の釜山は日本が世界に向けて開いていた唯一の“窓”であった。
閑話・・・その1
京都東山の国立博物館北隣に、あまり観光客が行かないが、注目すべき史跡が3つある。
豊国神社、方広寺それに耳塚である。1598年(慶長3年)豊臣秀吉が没した年、豊公を祭る壮大な「豊国神社」がここに建てられたが、豊臣氏滅亡後、徳川幕府により取り壊された。しかし1880年(明治13年)再建されたのには、当時の征韓論をバックに1876年(明治9年)朝鮮を強引に開国させ、続いて朝鮮を属国にしようという世論が興り、300年前の秀吉朝鮮征伐にあやかろうとしたとも言われている。
「方広寺」は一名大仏殿とも言われ、1586年(天正14年)秀吉が高さ19メートルの大仏を安置して創建した寺で、10年後の大地震で倒壊し秀吉の没後、徳川家康の勧めで秀頼と淀君が再興した。1614年(慶朝14年)落慶供養の直前、大仏とともに高さ4メートルの大梵鐘が鋳造されたが、その銘の一部に“国家安康・君臣豊楽”と書かれていたのを、徳川側近が“家康の字を裂き(家と康の間に安を挿入したのが)、徳川家を分断させようという企みが隠されている”といちゃもんを付け 、これがきっかけで大阪夏の陣が起き豊臣家の滅亡につながったというのは有名な歴史上の逸話である。もちろんこれは徳川側の策略である。何故なら徳川方はその1年も前から、英人ウイリアム・アダムス(三浦安針)を通じて大量の最新型武器弾薬を調達し戦いの準備をしていた。方広寺は度々の地震・火災から免れてその都度再建されるが(これには後述するように徳川幕府の“ある意図”があったのだが)、大仏は失われたが、「梵鐘」は現存している。
豊国神社の西に目立たず地味な五輪塔が立っている。「耳塚」である。(写真3)1597年9月8日の醍醐寺の僧「義演」の日記に、“(第二次朝鮮侵略の前線基地)肥前名護屋から京都に15の樽に塩漬けにされた朝鮮人の「耳鼻」が送られてきた”と記されている。侵略の戦勝品として首級では重いので、耳鼻にしたといわれている(豊臣主将の一人吉川(きっかわ)家文書にもその数1245と生々しく記録されている)が、9月28日京都に居た秀吉はこれ を豊国神社、大仏殿の西隣に塚を建て、京都五山の僧による大供養を行っている。勝利を京都の公家・民衆にアピールするための秀吉一流のデモであった。
徳川時代になり隣の豊国神社は壊されたが、何故か耳塚は保存される。徳川幕府は前述のように、徳川時代を通じて朝鮮からの通信使を受け入れ歓迎するが、対馬・鞆の浦・大坂を通って(または江戸からの帰途中)京都に着いた使節一行に対し、必ず方広寺大仏殿前で大掛かりな接待を催したという。ここで使者たちは隣の耳塚を見せられたと思われ、これはまさしく幕府による朝鮮への威圧であった。
19世紀になるとさすがさびれていくが、1898年(明治31年、この年は秀吉没後300年祭)に豊国廟の大改修とともに耳塚も改修され、その記念碑にこう書かれていたという。「この塚は邦威振興の符表にして、豊公盛徳の遺物なり」と。日清戦争に勝ちロシアと一触即発中の明治政府は、次ぎの朝鮮侵略への地ならしとして再び政治的に利用したと思われる。しかし戦後の1977年(昭和52年)、革新京都市はかかる説明版や標識を一切取り外し、公園にして今では子供達が塚の上で遊びまわっている。
この何の変哲もない京都下町の一角に、日朝の400年に亘る“怨念”が静かに眠っている。
(写真3) 京都市東山区茶屋町の耳塚
ソウル紀行・・・その2(レリーフの前で)
お目当ての弥勒仏が見られずがっかりしたが、また扶余に行って見ればいいさと割り切った。
再び、世宗路の李舜臣像の前を通ると、400年前の秀吉の暴挙に対し、自然と頭を垂れていた。(最初の謝罪だった)そのあとはツアーの続きで、ソウル北方、大統領府青瓦台のうしろにそびえる北岳の展望台に立ち、ソウル市街を一望する。ソウルは韓国の人口の四分の一が集中する大都会。漢江の流れが美しく蛇行している。夕食は、繁華街・梨泰院にある、焼肉屋のお決まりのコース。食べ終わった後、銀座の清香園の骨付きカルビがなつかしいなぁ、という感想だった。
翌日はフリー。弥勒様がだめなら次ぎは景福宮ということで、ホテルを出てすぐのところにある国宝南大門前を通り、昨日と同じ世宗路を北に宮へ向かう。この南大門は李王朝成立の直後(1398年)に建てられたソウルで最も古い建造物で、秀吉の役や朝鮮戦争でも焼失を免れた貴重なものだ。(韓国の国宝第1号)
景福宮は建物は大半が19世紀末頃の再建で、日露戦争(1904〜05)の頃まで李王朝の皇宮であったが、ここに日韓併合16年後の1926年(昭和元年)朝鮮支配の象徴として巨大な総督府の建物が建築された。正門である光化門と正殿である勤政殿(韓国最大の木造建築物)との間の宮殿施設を取り払い、強引に割り込ませて建てた物で、その当時でも日本のやり方に非難轟轟だった。東京で言えば皇居二重橋の正面に、マッカーサーがGHQの本部を建てたような感じと思っていいのではないか。これがいまの国立中央博物館である。(写真4)
1993年就任した金泳三大統領により2年後の8月15日からの取り壊しが決まった。1995年8月15日は日本が敗れた日から50年目に当たり、韓国では“光復節”と名付け、国中がその日を祝う行事で一杯であった。
(写真4)旧朝鮮総督符、現国立中央博物館 (取り壊されて今はもうない・・絵葉書から)
歴史的なかつ悲劇的なモニュメントとして、保存論や移築論も熱心に闘わされたが、ソウルオリンピック後の韓国としては、こんごの日本と韓国の発展のためにも取り壊すのがベターと判断したようだ。私もそれが正しい選択だったと思う。ソウルには戦前からの建物がまだ結構残っていて、今でも現役の物も多いが、この旧総督府は別格に巨大で、且つ威圧的といっても言い。正面には白い幕が被されていて、すでに準備が始められていた。(写真5)
(
写真5取り壊し用のシートが掛けられた旧総督府
1995年6月3日 藤原 忠撮影
さて、景福宮のあちこちには土曜日のせいか、タキシードと白い花嫁衣裳のカップルが沢山いて写真を撮っている。ほほえましいが、あまりに沢山いるので、異様にもうつる。
(そう言えば、昨年(1999年6月)に中国の西安に行ったときも楊貴妃の離宮址でカップルがいっぱいいたことを思い出した。)
しかし皆うれしそうで、熱気すら感じるほどだ。結婚が社会的にも一族にとっても大きな行事なのだ。
ガイドの奇さんに聞いてみると全くその通りだという。発展しつつある国のエネルギーの象徴なんだ。
同じく奇さんへ聞いてみる。「閔妃を知ってますか」と問うと「歴史で習いました」。
どういう人ですかと聞くと、「日本の大使に殺された近代韓国の母です」。どこで殺されましたか、と尋ねると「それは知りません」というので、こっちは「この景福宮のどこかのはずですが、一緒に探しましょう」と誘った。
思えば、秀吉の兵に焼き尽くされ、強引に総督府まで建てられた“憎い日本の象徴”のような広大な皇宮を、50代の日本人おじさんらと20代の若い韓国の女性とが一緒に探し回ったのである。
どんどん奥へ進んでいくと、民族館や庭園が現れるが、ここまでくるとカップルも観光客もいない。
さらに進んで、一番奥の民芸館に着く。これから先は大統領府につながり進入禁止。
やはりだめかと思ったとき、民芸館の東壁面にくっつくように、小さな黒い御影石のレリーフがあった。(写真6)
よく見ると漢字で「明成皇后殉国崇慕碑」と書かれているではないか。明成皇后は閔妃が死んでから送られた称名である。 その字の上には妃の顔が小さなレリーフで描かれている。
ここだよ!ここで閔妃が日本人に惨殺されたんだ。碑の前には日本でもよく見る神社の奉納絵のようなものに妃の暗殺の様子が、あまりうまいとは言えない絵で生々しく描かれている。突然の現出でびっくりしているわれらを見て、ガイドの奇さんも変な日本人が居るなあという顔つき。しかし互いに事件のことは知っているので、歴史が突然目の前に現れたようで感慨ひとしお。
とにかくわれらは、丁度百年前の日本が起こした不幸な事件に対し、日本人として丁重に謝った。(二回目の謝罪だったが)
すると奇さんは、「韓国人ですら知らないところを教えてもらってありがとうございました」といわれて感謝された。
(写真6)
閔妃暗殺の現場にあったレリーフ
日朝関係小史・・・その4(清の支配から日清戦争前夜まで)
李朝朝鮮は秀吉の侵略のあと、江戸幕府と誼(よしみ)を通じたが、北方の満州にヌルハチという英雄が現れ、「後金」を建国して、明から独立。ヌルハチの跡を継いだホンタイジは国名を「大清国」と改め、1637年李朝は攻められてついに服属させられた。これから朝鮮は「清」の臣下に入る。清は最盛期には唐・漢を上回る版図を東アジアに築く大国となる。一方、朝鮮は倭侵攻と清建国に伴う乱で国土は荒れるに任せたが、18世紀に入ると、ようやく李朝社会は、内部的には安定し始め、特権両班階級による政治・文化支配がますます盛んになる。しかし18世紀半ばを過ぎると、現実遊離の儒学から現実を重視した実学も重んじられ、19世紀に入ると「開化思想」にもつながっていく。ハングル文字も民衆の間に広がっていくが 、両班の漢字・漢文重視は変わらなかった。
(列強の進出と日本の勃興)
19世紀半ば、東アジアは、欧米列強の進出(力ずくの門戸開放・貿易開港)の時期を迎える。
1840年のアヘン戦争を契機に、清は英・仏・露の餌食になって国土が蚕食されていく。
すなわち、英国は香港(1842年)を、仏国はベトナム(1867年に侵出、1884年に割譲)を、ロシアは黒竜江沿岸と沿海州(1860年)を手に入れ、次いでドイツとさらにスペインとの戦争に勝ってフィリッピンを支配したアメリカが狙ってくる。
朝鮮にも同じく欧米列強が進出し、そこに明治維新(1868年)を経て列強の仲間入りを狙う日本も加わる。1865年にロシア海軍が現れ、翌66年の仏艦隊及び71年の米艦隊による江華島占拠。朝鮮は一応これを撃退したものの、李朝の頑なな鎖国政策に圧力をかける。
当時国政を掌握していたのが、高宗の父、大院君であり、国内では開化思想の持ち主であったが、対外的には徹底した攘夷主義で臨んだ。しかし高宗の妃の閔氏一族との政争に敗れ隠遁する(1873年)。そこを狙ったのが日本である。1811年以来途絶えていた朝鮮通信使は最後の将軍慶喜就任(1866年)のときも、朝鮮は送る予定であったが、幕末の日本はそれどころではなく断った。1873年(明治5年)、王政復古なった明治政府は対馬の宗氏を通じて、日本の政権交代を告げるべく使節を送ろうとしたが、朝鮮は開国した日本を“危険視”して、鎖国政策を理由に拒否する。これを機に日本では「征韓論」が沸き起こる。明治政府は、維新 後の扱いに不満な武士の反政府運動(一番が西郷隆盛の西南の役)を外に向けさせるため、これを利用する。まるで280年前の秀吉の朝鮮征伐と時代は違うが同じような現象ではないか。しかも
当時の李朝朝鮮にとっては、徳川幕府とは250年もの間互いに使節を交換し合った間柄であったが、突然その幕府を倒した明治政府は“わけのわからない革命政権”であり、しかも徳川幕府の使節はきちんとした「侍」のいでたちであったが、明治政府とやらは、こともあろうに「洋夷」と同じ格好の洋装で開国を迫ってくる。服礼を重んじる儒教の国にとっては、とても素直に受け入れられる事態ではなかった。
(朝鮮の開国)
1875年9月日本の軍艦が江華島付近を航行中に砲撃を受け、(事実は測量と称してボートを下ろしソウルに通じる漢江を遡上しようという日本艦の挑発行為だが)直ちに反撃して砲台を占拠。日本の世論が再び征韓論で沸き立ったのを捉え、翌年2月軍艦・輸送船を派遣して朝鮮を威嚇。渋る朝鮮を強制して開国条約を結ばせた。これが「江華島条約」(日朝友好修規)である。ついに朝鮮も開国する。その時の全権大使が薩摩出身の黒田清隆と長州出身の井上馨である。
幕末、薩摩は英艦隊を、長州は英仏米蘭四国艦隊を攘夷のもとに砲撃するが完膚なきまで反撃され、講和締結後は、逆に英国は幕府を見限り薩長に肩入れする。維新はこれを境に薩長に重心が傾いていくことになる。まず叩いてから講和を結ぶというやり方は明治の薩長藩閥政府の「幕末の教訓」だったのだ。朝鮮にとっては初めての条約であり、「朝鮮は自主の邦、日本と対等の権利を有す」と謳い清の属国ではないことを宣言させ、日本は京城に公使館を釜山等の開港市に領事館を置いた。これがもとで閔氏一族は開化派になる。
日本は独占的な朝鮮への経済進出をはかり、1878年(明治11年)には第一銀行釜山支店が開設される。幕末の日本が諸外国と結んだ不平等条約の改正に苦しんでいた日本は、同じことを朝鮮に押し付ける(関税自主権や領事裁判権を与えないなど)。
(朝鮮の政変―清の巻き返し)
しかし1882年(明治15年)日本指導の西洋式軍備を強行しようとした閔氏一派に、失業の恐れを抱いた軍隊が、隠遁中の大院君を担ぎ出し、日本公使館と王宮を襲う事件が起こる(壬午の軍乱)。閔妃は危うく地方へ難を逃れ、日本公使は命からがら長崎へ脱出。日本はすぐさま軍艦を派遣するが、いち早く清が兵3千名を率いて、大院君を捕らえ北京へ軟禁してしまう。 これまでは太平天国の乱(1854年から1864年、キリスト教徒洪秀全が広西省で起こした大乱、中国革命の先駆といわれる)の後始末で朝鮮に手が回らなかった清は、再び宗主権を回復し、日本は後手に回る。まだこの頃は日清の軍備差は大きかった。閔氏一派は反転して清に服属の礼をとり、劇的なソウル帰還(清の演出による壮 大なセレモニーだったという)を果たした王妃閔妃が徐々に実権を握っていく。朝鮮にとって頼れるのは、やはり新興日本より隣主中国だった。この年清の画策で、日本だけに与えていた条約を、日本との対抗上、英・仏・米・独・伊・露と次々に結んで開港していく。日本はこうなると、手をこまねいているしかなかった。丁度日本では、新聞が大衆に普及し始めた頃で、朝日の前身「大阪朝日新聞」などは、特派員を派遣してこの事件の日本の“悔しさ”を絵入りで連日報道し部数を伸ばしていった。
(朝鮮の政変―開化派のクーデター失敗)
一方、日本を手本に近代化しようとする「開化派」は、期待の若手、金玉均らを福沢諭吉の慶応義塾に留学させたり、福沢の紹介で大隈重信、井上馨、渋沢栄一など政財界の大物に面会させたりして日本との関係を深めていく。しかし、本当の意味での西洋化・近代化政策(いわゆる文明開化)の成果が明治20年代になってようやく見えてくる日本と、軍事技術だけは西洋化するが制度や法を変えることは全く考えてもいなかった清(経済は開放政策だが、政治は共産党の一党支配という今日の中国とになにやら似ている気がするが・・・どちらも根は中華思想か?)とが、どちらが優れているかを比較するのは、当時の朝鮮にとっては相当難しかったに違いない。そして1884年、ベトナムを巡る戦争で清が仏に破れたのを見て、(この時初めて日本の新聞に“清国弱し”という論評が出てきた)チャンスとばかり、開化派の金らは日本政府の後押しをバックに、反閔妃政権のクーデターを起こす(甲申の政変)。
しかしこの政変もまたもや清軍の名将遠世凱の的確な反撃で、3日も持たず失敗する。日本は公使・軍の介入をひた隠しにするが、日本の新聞だけが、清国兵のソウルにおける日本民間人への暴行・略奪だけを、おおげさに報道して、清を一方的に非難する。翌1885年日清両国は天津条約を締結し、(この時の日本の全権大使は伊藤博文)両方の軍隊を朝鮮から撤退することに同意し(喧嘩両成敗の解決といわれる)、10年後の日清戦争まで両国のにらみ合いが続くことになる。
(ロシアの南下)
この間ロシアの南下が激しくなってきて、朝鮮南部の巨文島を基地にロシアの南下を食い止めようとしたイギリスと不穏な関係になる。結局、清が間に入り、ロシアと朝鮮との「密約」(露による軍事教練の実施の代わりに永興湾(半島の東のくびれ部)の露艦隊の使用の承認)を朝鮮に廃棄させる代わりに、イギリス艦隊を巨文島から撤退させる。しかしロシアはウラジオストックを基地にした東洋艦隊を、しばしば朝鮮沖に出没させ、陸では1891年シベリア鉄道の建設に着手するという具合に、清・日・朝に大きな脅威になってくる。
(日清戦争前夜と東学党の乱)
1885年から1894年にかけて、朝鮮国内は全国で相次ぐ農民の蜂起に見舞われる。両班特権階級の腐敗(特に買官資金の農民への転嫁)と莫大な外国への賠償金による農民負担の増大に、朝鮮米の大量の日本への安価輸出による米不足が加わり、各地で“民乱”の様相を呈してくる。これが集約されたのが、1894年の「東学党の乱」である。「東学」とはもともと西のキリスト教に対しての名で(朝鮮には中流階級中心にキリスト教が、弾圧を受けながらも相当普及しつつあった)、儒・仏・道の東洋の三教の教えを合わせた排他的な民族宗教(スローガンは斥倭洋)であり、これと農民の要求とを合致させ一大勢力に指導していったのが、全奉準である。彼が率いる農民軍は、当時の朝鮮儒教社会から見ると“革命的”な12か条の要求(例えば、不良両班追放、追加税全廃、土地均等分配、既往借金棒引き、汚職官吏厳罰、身分 戸籍焼却、寡婦再婚許可など)を掲げ、李政府軍に連戦連勝、1894年5月31日全羅道(古代百済地方)の首都全州を占拠する。ついに李王朝の高宗・閔妃は6月3日清に派兵を要請する。
(日本の王宮占拠)
清は先の天津条約に基づき、日本に派兵の事前通告を行い、6月8日直ちに兵3千を牙山湾に上陸させるが、日本も2日遅れで、かねてから待機中の仁川沖の海軍陸戦隊4百人を、同じく清に事前通告して上陸させ、その日のうちに漢城に入る。しかし6月11日農民軍と李朝政府との休戦講和が成り、日清駐兵の理由がなくなったので、両国に撤兵を通告する。清は共同撤退を提案するが、日本はまだ各地の内乱は収まっていず、内政改革をやらないとまた蜂起が起きるという理屈で、提案を拒否し居座る。ロシア・イギリスも撤兵を促すが、日本はあくまで朝鮮の改革案が重要といって要求し続ける。この間日本は混成旅団7千人を仁川に強行上陸、漢城付近に駐屯させる(6月16日 )。李政権が未回答のまま期限切れの7月23日払暁、日本軍歩兵一連隊が、景福宮に浸入し高宗を虜にし、親清派の閔妃以下一派を追放、北京に軟禁されていた大院君を再び担いで、執政に任じ、親日派政権を樹立させる(7月27日)。
この王宮占拠は日本の用意周到な計画であった。その日の昼には佐世保から連合艦隊の先発隊(東郷平八郎艦長)が出航し、翌日には豊島沖で清の軍艦2隻と遭遇し交戦、これを敗走させる(7月25日)。さらに牙山に駐留中の清軍に対し「駆逐命令を李政府(傀儡政府だが)から受任」したとして、攻撃しこれを潰走させ、牙山を占拠する(7月29日)。
1894年(明治27年)8月1日、日本は清に宣戦布告。
日朝関係小史・・・その5(日清開戦から閔妃事件まで)
明治日本は、大国「清」と国運を賭けた戦争に突入する。日本の宣戦の根拠は、1875年の江華島条約に謳った「朝鮮は独立国、日本と平等」を根拠に、属国扱いする清による朝鮮の内政干渉は不当であり、当然日本はこれを助ける義務があるというものであった。
1885年(明治18年)の天津条約以降の10年は、日本は政治体制確立と富国強兵に邁進する。すなわち政治的には伊藤博文主導による内閣創設(1885年)、憲法発布(1889年)、議会招集(1890年)など矢継ぎ早に近代国家の体制を整えると同時に、軍備特に海軍の拡充に注力し、清が有していた世界最大級の2隻のドイツ製軍艦を中心とした計50隻5万ト ンの艦隊を上回る、60隻6万トンの連合艦隊を作り上げていた。特に155門速射砲の威力は当時世界的にも抜群の性能であった。
1890年(明治23年)の最初の帝国議会で山県有朋首相はこう演説している。「国家独立自衛の道に二途あり。第一に主権線を守護すること、第二には利益線を保護すること」日本にとっての利益線とはまさしく朝鮮そのものであった。すでに明治政府は遠くない将来の日清の軍事衝突(さらには日露の利害衝突)を予告していたといえる。日清が戦火を交えたときの首相は、それから15年後、日韓統合に徹底抗戦する朝鮮人安重根に暗殺される「伊藤博文」であった。伊藤はもともと日清非戦論者であったが、開戦派の陸奥宗光外相の用意周到な準備と自信に負けたといわれる。
(日本勝利)
世界中が(日本も含めて)清軍優勢という予想を裏切って、戦局は日本軍有利に進展した。
1894年9月、平壌会戦で清軍を撃破した第一軍(山県有朋司令官)は、10月下旬には鴨緑江を渡河し、清領に踏み込んでいく。同じく9月には連合艦隊が黄海海戦で清国北洋艦隊を破り黄海の制海権を握る(日本の高速・速射の艦隊が縦横に動き回り、清の老朽巨艦はたまらず基地旅順へ逃げ込む)。11月には第二軍(大山巌司令官)が遼東半島の旅順・大連を占領、北洋艦隊は山東半島の基地威海衛に移動するが、1895年1月日本軍は山東に転じここを占領。2月 ついに北洋艦隊は降伏。清国海軍自慢の巨艦2隻は爆破され、提督丁汝章は部下の助命を連合艦隊司令長官伊東祐亨に求め自決する。あっけなく8ヶ月で日清戦争は決着する。
こうして日清戦争の大勢は決したが、勢いに乗る日本は清の休戦申し入れを拒絶、海軍は澎湖島を占領、山県・大山らの陸軍は天津・北京を一気に目指す構えを示す。たまらず清は講和を申し入れ日本はこれをを受託、3月20日から下関で休戦・講和条約の交渉が始められる。
(日清戦争時の朝鮮)
日清開戦の時、朝鮮と日本はどういう動きを示したのだろうか。
開戦後すぐの8月13日陸奥外相は大鳥公使に、朝鮮が独立国として清に宣戦布告するか、さもなくば日本と同盟を結ぶかの交渉をせよ、ただし「中立」を宣言することは、日本が大兵を派遣する理由がなくなるのでこれは拒否せよと指令する。結局力ずくで朝鮮は日本の同盟国にさせられ、「日朝両国盟約」が調印される。これで日本は第三国の朝鮮への介入を防ぎ、朝鮮で鉄道・通信の敷設や人馬・糧食の徴発が思うままに出来るようになった。事実上の朝鮮侵略をドサクサにまぎれて獲得した日本のやりかたに再度農民が決起して、10月第二次農民戦争が起きる。一時は10万を超える勢力が東学と合体し、全州・公州を目指すが、今度の相手は李朝軍ではなく、近代兵器を装備した駐留日本軍であり、善戦はするが彼我の差は如何ともしがたく大敗を喫する。指導者の全奉準は捕らえられ、翌4月死刑に処せられる。朝鮮はこれにより、事実上の日本の完全支配化になる。
(日清講和と三国干渉)
1895年4月17日、首相伊藤博文を全権大使とする日本は清と「下関条約」を調印する。その第一条に「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す」と明文化された。
思えば日清戦争とは朝鮮支配を巡る日清の争いであった。この条約で名目的にも、日本が清の影響を排除し、朝鮮を“堂々と”支配することができるという宣言であった。
675年唐による新羅支配以来、1320年ぶりに朝鮮は中国との属国関係が終わったが、今度は日本の支配下に入ることになる。
日清戦争の勝利で日本は、遼東半島・澎湖島・台湾の割譲、2億両の賠償金(清の国庫収入の2年分)の支払い、通商特権付与などを獲得するが、4月23日批准書が交わされる直前、ロシア・フランス・ドイツからの横槍が強烈に入る。遼東半島を南下政策の要衝としていたロシアの提唱に仏独が従ったもので、三国は遼東半島の返還を強く勧告してきた(いわゆる三国干渉)。丁度頼みの米英の、旅順占領時に於ける日本軍の非戦闘員大量虐殺事件(それまでは日本は幕末の不平等条約改正を有利に進めるため、ともかく国際法の“優等生”を演じていたが、この事件で始めて非難された)抗議に、日本は従わざるを得なかった。結局3千両 で清は買い戻し、後にロシアに旅順・大連の租借権を与える。
戦闘に勝っても列強に干渉されるという強い“衝撃”を日本は受ける(ヨーロッパの争いでは政治が戦争の前面に出るのは当たり前だが、日本は戦争に勝った勝ったに世論は一辺倒・・・今の日本も一つのもの(経済なら経済)に勝った負けたということでは似てるかも)。
ともかく日本はロシアの脅威を肌で感じることになった。
日本国内は、負けるかもしれないと思っていた清との戦争が、日本軍の陸海に亘る相次ぐ戦勝の報道に、ほとんど狂操状態に陥っていた。が三国干渉で今度は“ロシア憎し”に変わる。
この戦争はそうは言っても日本にとって大成功であり、台湾を領土に加え、賠償金で軍備増強し、官営八幡製鉄所などが作られる。しかしこの戦争と外交を指導した伊藤博文はすべての恩賞と爵位を固辞した。結局明治天皇の慰留でそれを撤退するが、伊藤自身はこの戦争に強い反省の念を抱いていたようだ。「自由民権運動」も盛んだった日本は、まだこの頃はいろんな意見が上下とも交わされている時期だった。こういう雰囲気は日露戦争後の韓国併合辺りから一変するが。
当時隠居中の「勝海舟」は、こういう浮かれ過ぎの明治日本を次ぎのように見ていた。
「ともあれ、日本人はあまり戦争に勝ったなどといばっていると、あとで大変な目にあうよ。戦争に勝っても、経済の戦争に負けると、国は仕方なくなる。経済の戦争にかけては、日本人は、とてもシナ人には及ばないと思うと、おれはひそかに心配するよ」・・・氷川清話より
(日清後の朝鮮)
日清後の朝鮮はさらに混迷を増す。
1894年(明治27年)10月、大鳥圭介に代わり朝鮮公使に穏健派の井上馨が就任する。江華島条約の立役者であり、伊藤博文とも親しい朝鮮外交のスペシャリストの大物公使。このとき閔妃は追放されていて、軍事・法律・外交・財政などに日本人の顧問を配し、日本主導で内政改革を進めていく。井上は開化派に第一銀行などから改革資金として巨額の借款を与え、改革の促進を計るが、1895年4月の三国干渉による日本の地位の低下はいかんともしがたく、三国を気にして名目独立国にした朝鮮に日本は今までのようにあからさまに立ち入り出来なくなったこともあり、またこれをいい機会に日本の言いなりにならないという朝鮮王宮や守旧派の“したたかな”ナショナリズムも働 いて、井上の改革構想は頓挫していく。逆にロシアの朝鮮宮廷に対する攻勢が増していく。
例えば露公使ウェーバーの夫人と閔妃が個人的にだんだん親しくなっていき、王宮・政府内では徐々に親露派の力が増えていく。井上は懐柔策として300万円の贈与を申し出るが、日本政府から贈与でなく借款にせよと指令され後の祭り。
韓国の歴史家は、この頃の指導層は相変わらずの政争に明け暮れ、どの列強と組むのが利益になるかばかり考えて、民衆のエネルギーを束ねていくことなどまったく思ってなかったと、悔やむが(例えば金達寿「朝鮮」岩波新書)、永年に亘り中国に頼ってきた文人国家朝鮮にとって、まるで巨象に群がるように列強に食い物にされる「清」を見ていると、小国朝鮮は強国のバランスオブパワーを利用するしかなかったのではないか、と私は思う。事実閔妃は、開国時は日本、壬午戦乱では清、日清後は露を頼って三転する。
(閔妃暗殺)
1895年9月1日、井上に代わり陸軍中将三浦梧楼が公使に任命される。この突然の交代は今だもって“謎”である。朝鮮公使は歴代大物外交官が任命されているが、外交に素人の軍人が任命されるのは、後にも先にも三浦が始めてである。就任時、三浦は自ら「我輩は外交は不得手である」と公言している。行き詰まった朝鮮問題の打開を国権主義者であり、武断派の三浦に期待したのだろうか。事実これから一ヶ月余の10月8日三浦は閔妃暗殺を意図し自ら指揮することになる。今でいうと、アメリカ軍がマッカーサーの指揮の下、皇居に討ち入り皇后陛下を暗殺するに等しい行為とも言えるのではないか。
日露戦争から続く日韓併合への朝鮮の“悲劇の道”はここから始まる。
きっかけは日清戦争中に出来た、日本人教官の指導による初の近代的訓練を受けた朝鮮人軍隊である「訓練隊」を、閔妃が解散しようと画策したことである(裏には当然ロシアの意思が働いている)。三浦はすっかり落ち目になった親日派の砦とも言える訓練隊を解散するとは、ということで日本人壮士と示しあわせ、王妃を除く意を決する。この日(10月8日)明け方、朝鮮政府の軍事顧問で右翼壮士の岡柳之助が大院君を担ぎ出し、御輿に乗せて周りは訓練隊が警護する形で、景福宮へ向かう。大院君には長子である高宗に訓練隊の存続を直訴して欲しいという依頼をして、(さらには、王や王妃には決して危害を加えないと偽って)光化門へ向かう。ここで日本人の兵、警官、壮士ら約400人が加わり、勤政殿を右に回り大院君を御輿から下ろす。一団は王妃のいる奥の乾清宮へ向かうが、王宮警備隊と遭遇し激しい戦闘の末、これを蹴散らして、寝殿へ進む。ここからは角田房子著「閔妃暗殺」から引用してみる。
“国王の部屋に入った日本人数人は、王の制止をふり切って奥右手の王妃の部屋に乱入した。これを押し止めようとした宮内大臣は拳銃で撃たれ、廊下に出たところをさらに肩を切りつけられて絶命した。王妃の部屋には多数の宮女が恐怖になぎ倒されて声も出し得ず、折り重なるように身を寄せ合って震えていた。暴徒達はそれを手荒く引き起こし、容貌、服装の美しい3人を斬殺した。しかし誰も王妃の顔を知らず、また三つの遺体は、40代半ばという閔妃にしては余りに若々しかった。相変わらずあちこちから「王妃はどこだっ」と怒号する声、すざましい悲鳴が聞こえてくる。”
結局女官と皇太子の首実検により、三つの遺体の一つが閔妃であることが確認された。
戸板に乗せ絹のふとんをかけた遺体を、そばの松林に高く積まれた薪のうえに乗せて石油をかけ火を放たせた。高宗に嫁いで以来30年、義父との争いに明け暮れ、列強の脅かしに怯え、日本に蹂躙されるが、持ち前の聡明さと政治力で、弱小国朝鮮をなんとか独立国の体裁を保った“国母”(王妃)閔妃はついに灰になった。
(閔妃の生立ち)
閔妃はこの時数え44歳。1851年に生まれ、1866年(慶応2年)15歳のとき李朝26代目高宗の王妃になる。高宗も同じく15歳であった。このとき高宗の父大院君は、摂政である自分に従順で政治に関与しないこと、血縁に政治に野心を抱くような野心家が居ないこと、などを王妃選びの条件にしていたが、難航した。朝鮮では日本のように婿養子を迎えるという習慣はなく、男子がなければ同族から後継者を迎え、娘は他家へ嫁ぐ。今の韓国も同じであ る。
朝鮮王妃閔妃
宮廷写真家 村上天真撮影
ようやく大院君夫人の推薦で、昔は名門だが今は没落している両班大家閔一族の孤児の一人娘、閔妃を選ぶ。名門の娘だが親も兄弟もないとは、まさしく大院君の希望どうりであった。大院君と閔妃が始めて出会う。のちに国運を賭して闘い続ける政敵同士の初対面である。
大院君の第一印象は「聡明だが、この子猫は雌虎になりはしないか」と首を傾げたという。しかし「しとやかで従順な様子に満足し」、家族関係でこれ以上の候補なく、決定された。
閔妃が嫁いだ1866年は、鎖国主義の朝鮮がキリスト教を徹底弾圧した年で、仏人宣教師4人が、八つ裂きの刑に遭い、これに抗議した仏艦隊が攻撃し、露・英・米が続いて、重い朝鮮の扉をこじ開けようとした年であった。
(事件後)
閔妃暗殺をすべて親日派の朝鮮人のせい(事実朝鮮人も案内人として混じってはいたが)にしようとした公使らは、現場近くに住むアメリカ人の軍事顧問とロシア人の技師に一部始終目撃されている(和服を着て日本刀を振り回すところや、日本語が飛び交っていたこと、日本の軍服を着た一群がいたなど)とは計算外だった。
これで朝鮮も日本のものになると得意顔の三浦公使のところへ、露大使ウェーバーが血相変えてやってくる。各国の非難が日本に集中する
当時の日本の政府首脳にとってもこの事件はまさに“驚愕”であった。武断派の三浦公使を送ったことで、クーデターくらいは覚悟していたかもしれないが、一国の王妃を虐殺することまでは全く思ってもいなかった。その後ロシアの朝鮮支配がますます強まり、朝鮮を「利益線」とする日本と、ことごとくぶつかっていくことになる。
閔妃事件がなければ、ロシアとの戦争もなかったかもしれないし、その後の韓国併合もなく、ひいては軍部の独走も太平洋戦争もなかったかも知れない、というのは歴史の“IF”(もしも)に過ぎないのだろうか。
(事件の処理)
事件後日本政府は、外務省政務局長小村寿太郎を団長とする調査団を10月15日に送り、事件の調査と対策が急速に進められた。17日には三浦公使を解任、小村が後任公使に任命された。
まず最初に民間人約50人(岡本柳之助ら事件に加わった右翼・壮士)が18日に朝鮮からの撤去を命ぜられ、22日には釜山から帰国した。彼らが再び騒ぎ出すのを危惧した措置であった。(この中にはのちの与謝野鉄幹こと寛が入っている。彼は事件時はソウルには居なかったが、壮士の一人で危険視されていたと見られる。これが5年後の1900年(明治33年)のちの与謝野晶子と出会う前の明星派歌人・与謝野鉄幹の前身である。)
小村は各国公使と精力的に会談を続け、この事件は日本政府は全く関与せず一部の者が起こした事件で、官民の別なく法に照らして厳正に処分すると約し、一歩誤れば大事件に発展することを畏れて、欧米各国駐在日本公使にも働きかけての懸命な諒解工作を進めた。結局参加した8人の軍人は軍法会議に、48人の警官・民間人らは広島地裁に送られた。この間、日本の工作が巧を奏して内外からの突き上げにあった朝鮮政府は“下手人”として3人の朝鮮人を逮捕、取り調べた上12月28日全員を絞首刑に処した。(このうち2人は明らかにアリバ イがあり冤罪であった。)
その半年後の1996年1月、第五師団軍法会議は「大院君の依頼を受けた三浦公使の命令に従っただけ」と8人全員を無罪、広島地裁の予審でも「証拠不充分」で全員が免訴となった。当時の日本の新聞は、釈放された彼らをまるで“凱旋将軍”のような扱いで報じたという。すでに下手人が処刑されたことが、日本の立場を楽にしたのは間違いない。
また背景として、この頃の日本政府首脳は対露戦略で、伊藤、西園寺、井上等の外交路線重視派と、山県、陸奥(陸奥宗光が閔妃事件に相当深く絡んでいるのは今日定説)、川上(操六)等の陸軍強硬派との確執が本格的になってきたことが挙げられる。
この措置がロシアに強硬姿勢をとらせ、朝鮮民衆の怒りにさらに火を付けることになる。
ソウル紀行・・・・その3
もう一度われらは、閔妃のレリーフに静かに頭(こうべ)を垂れた。
ふとうしろを振り返ると、「鹿園」という大きな「松林」が今も点在している。閔妃の遺骨はこの近くに埋められたとも、(この隣に)今も残る香遠池に投げ捨てられたとも伝えられている。松林は初夏の風を受け爽やかにざわついているのが、妙に印象的だった。
背中に何か重いものを背負った感じで、池の脇を通り元の道を「勤政殿」まで無言で戻る。
この日の夜、先輩の案内で普通の韓国料理を満喫し、ホテル(ソウル ヒルトン インターナショナル)へ戻ってから、口直しに地下のバーへ行く。うす暗く静かで、いわゆる一流ホテルのバーといった雰囲気のところだが、客のほとんどが日本人と欧米人。オンザロックを空けて出ると、入る時は気がつかなかったが、入り口のすぐ右手中央に、なんと等身大の「閔妃像」の大きな垂れ幕が掛かっているではないか(閔妃の写真はこの一枚しか伝えられていない)。それはじっとわれらを見下ろしている。
一体何のために?と訝ったが、よく見ると、バーの逆サイド奥にカラオケスナックがあり、ここは韓国の若者やペアーで大賑わいしていた(丁度土曜の夜)。即ちこの像をはさんで、左手は外人専用とも思われるようなバー、右手奥は韓国の流行好きな若者達が集うカラオケ・・・つまり閔妃像はこの両方に、にらみを効かせているようだ。 “独立回復50年目”の今年、外人にも韓国人にも、「閔妃事件」のことは“絶対に忘れるな”といっているようだった。どんな意図でこれが掲げられたのか?他のホテルにもあるのか?
今日一日の“重い”課題を、ホテルへ帰ってからふたたび突き付けられたような感じがした。
第一部 旅の始まりと混乱の行方 終わり
続く 第二部 日露戦争から日韓併合へ
(徳寿宮と安重根記念館を訪ねて)
第三部 日韓併合のもう一つのドラマ・・・第一銀行の悲劇
(京城支店長清水泰吉の生涯とその時代)
閑話・・・その2(続・耳塚と朝鮮通信使)
江戸時代の朝鮮通信使については、ここ10年日韓両国で実証的な研究が盛んに行われている。
幕府の公式記録、通り道の各藩の記録、日朝間を取り持った対馬藩の文書それに朝鮮側の記録文書など膨大な資料があり、それらが近年になってようやく公開され研究が緒についた。
1607年(慶長12年)から1811年(文化8年)までの200年余に計12回の使節が派遣されたが、当然ながら、最初の頃と最後の方では使節の役目や日本側の受け方も、段々変わっていった。最初の方は「友好」とともに、朝鮮側は「探索・刷還使」とも別称し、連れていかれた朝鮮人を探し出して帰国させるのが、大きな目的でもあったが、そのうち回を重ねるうちに、将軍襲職毎の奉賀が使命になっていく。双方とも大掛かりな使節と接待で莫大な費用を掛けるが、段々マンネリ化していき、ついに1711年(正徳元年)の新井白石による「国書改作」事件と1719年(享保4年)の京都方広寺大仏殿での「接待拒否・耳塚供養」事件を境に、両国の使節交換の意欲は急速に衰えていき、最後の1811年の使節は対馬止まりになった。また前述したように幕末の頃も派遣の申出はあったが、幕府側が丁重に断っている。
最近の研究成果により1719年(享保使節)の事件を見てみよう。
この時の目的は八代将軍吉宗の襲職祝賀であり、一行が江戸城で国書進見を果たした帰路、京都の手前まで来て突然、恒例の方広寺大仏殿前での招宴を辞退したいと言い出した。朝鮮側はこの理由として、「大仏」は朝鮮にとって「百世の讐」である賊・秀吉の願堂であり、ここで招待を受けることは朝鮮王国の対日外交の名分を傷つける重大問題である、と言っている。更に隣の耳塚で朝鮮人による「供養祭」を行いたいと申し出た。(招宴辞退・耳塚供養事件)
これに対し接待側の京都所司代松平伊賀守忠周や対馬藩主宗義誠及び対馬藩の儒者兼通詞役の雨森芳洲らは、この大仏は秀吉の願堂にあらず、徳川家の再興によるものと必死に抗弁を行い、
朝鮮の正・副使二名だけが大仏殿を“見学”するだけという事で妥協した。耳塚の供養はどうも中止したようだが、この頃の町絵図に使節が御輿から降りて、厳しい表情で「耳塚」を見やっている様が描かれている。耳塚は最初の慶長使節が立ち寄った時、「故壬辰之乱、収聚我国人耳鼻、埋之一処」と不快感を表したので、幕府側はそれ以降、高い竹垣を設けて遮蔽し、一行の目に入らぬようにしたらしく、その後の記録に出てこない。また大仏前の招宴は近くの三十三間堂の見学とともに最初から行われていて特に問題はなかった。
それが享保使節になってどうして問題になったのだろうか。
もともと朝鮮通信使は足利幕府の時代から続いていて、秀吉の朝鮮征伐で一時中断したというのが正しいが、徳川も中期になり安定期に入ると、秀吉の侵略を日本の武威発動として美化した「朝鮮征伐記」や「絵本太閤記」などが出版されたり、京都の案内「花洛名勝図会」などに耳塚が紹介されたりという時代になってきた。朝鮮側も当然こういう空気は知っていたに違いない。しかし享保使節の抗議の背景には、前回(1711年の正徳使節)の「国書改作」の件が大きく絡んでいた。
徳川幕府は治世の根幹に、仏教に代わり儒教を取りこみ「国学」として広めていく。儒教の中でももっとも厳格で精緻かつ難解な「朱子学」がその中心になる。朝鮮は日本よりずっと早く、儒教が両班階級中心に浸透していて、それも同じ朱子学が中心になっていた。朱子学は特に君臣上下の関係や、その中での節義・名分が尊ばれ、封建社会の支配的な倫理観となっていた。
新井白石は幕府(徳川家宣)の外交役に任じられた1711年、幕府の外交権がいつまでも朝廷からの「征夷大将軍」(源某と称する)の任命によって授けられるのを改革するため、朝鮮からの国書のあて名を今までの「日本国大君殿下」から「日本国王」へと、日本からの返書の署名も「日本国源某」から「日本国王」と改めるよう要求した。
表向きは李朝の盟主は中国皇帝なら、日本の朝廷がそれに当たり日本・朝鮮とも同じ「国王」で表現すべきであり、朱子学の法理から照らしても妥当というのが新井白石の根拠であった。事実は幕府の力がすでに朝廷を上回った(すでに朝廷は京都所司代の監視下に置かれていた)ことを世に知らせるのが目的であったようだが、強硬な申出で朝鮮側は折れて、国書を改正する。しかしこれには日本側の儒者、林家や雨森芳洲らが前例に反すると猛反対するが、白石は実質的に日本の主権者になっている将軍を、対外的に国王として押し出そうとしたのである。(国書改作事件)
この時の使節は帰国後「辱国之罪」を問われ、官位剥奪・追放処分の屈辱を受けた。
1719年の享保使節の頭の中にはこの時の“悔しさ”が残っていたが、幸い今回は江戸城伝命で、国書・返書とも旧格に戻せたこともあって、大津での招宴申出を待ってそれを拒否することで、日本に“一矢”を報いようとしたのではないかと推測される。
しかしこの当時、徳川幕府、李朝とも儒教イデオロギーをともに教理にしながら、李朝はミニ中華意識を増殖させ、日本は対朝鮮蔑視の胚胎が見え始め、両国とも莫大な巨費を要する通信使外交にそろそろ“重荷”を感じ始めた時期に、この大仏殿紛糾が起こったという時代背景が根本の原因のではないか。