コスモス・さくらんぼ・オムライス


 先日、東京駅の大丸で開催中の「荒井幸史―秋櫻の世界」展にぶらっと入ってみた。
丁度昼休みのときだったが、会場はほとんどが女性のグループで男しかも背広姿の男は周りを見ても私一人だった。
荒井氏はもう20余年もコスモスをモチーフに描いているコスモス画家として有名で、知ってはいたが見るのは初めてだった。
 “愛を呼ぶ絵”と名付けられた会場は、やや薄暗く、音楽も流れ、最初はちょっと気後れしたが、美しいコスモスの作品をじっと見つめていると、
だんだんその世界に入り込んでいき、はっと気がついて周りを見ると女性ばかり。
やはりコスモスは女の世界なのかなあ・・・。
たしかに荒井氏の作品は、白・ピンク・赤といったコスモスが大作にも小品にも丹念な色使いで華麗かつ繊細に描かれ
独特の詩情あふれる幻想的な世界を作り上げている。

 あまり大きな声では言えないが、(大の男が)私の一番好きな花はコスモスですとは・・・。
何でコスモスが好きなんだろう。

 この展示会の序文に荒井氏がこう書いている。
「コスモスは一つ一つは可憐な色と花びらでたしかに美しいが、美しい花は他にも沢山ある。
しかしコスモスの良さは、野に群生しているときで、それを見ていると、しなやかで丈夫であり、見た目よりは意外と強く図太く感じる。」
と紹介している。
一つ一つは弱々しいが、ある塊になるととても強く感じる・・・そんなところに引かれるのかもしれない。

 何年か前になるが、横須賀の久里浜緑地に有名なコスモスの大群落があるというので、行ってみた事がある。
色とりどりの何十万本だかのコスモスが山間の谷間に、それこそ野球場くらいのところに咲き乱れていた。
人も大勢いて、その中に入って行くと、(背丈ほどのコスモスで立派だが)こんなところに、こんなにいっぱい、
こんなに沢山の人に見られて恥ずかしそうに咲いているのを見ると、
なんだかコスモスが“場違い”なところにいるなという感じがしたことを覚えている。

 コスモスってやはり、農家の庭先とか街道のはずれあたりに、一抱えほどの群れで咲いていて
それが風に吹かれ揺られているのを見ると、とても大らかでしっかりした様子に見えるものだ。
 たとえて言えば、わが町の自慢の看板娘が、急に都会の美人コンテストなんかに引っ張り出されて、大勢の人の目に晒されている・・・。
そんな思いになり、この大群落から一刻も早く抜け出したい気持ちになった。
抜け出したところが大浜という小漁村でその一角に小さな釣り宿があり、
そこで食べたアジフライ定食のなんともうまかったこと。それを食べながら、はっと思った。
コスモスはバラや蘭なんかと違い、野に咲くのが一番似合う、どっちかと言えば、庶民の花なんだと。
さっき感じた場違いの感じもなんとなく理解できたような気がした。
コスモスって活気ある商店街の元気な看板娘達の集まりみたいなのだと。

 そういえば、さだまさしの曲で山口百恵が歌ったヒット曲「秋桜」も、嫁入り前の娘が母に捧げる歌で、
これもお嬢さんというより、そのへんの娘さんが、きっぱりとした口調で、「明日お嫁に行きます。
お母さん(ママでなく)長い間本当にお世話になりました。」
といって三つ指ついてお辞儀してるような感じがぴったりというのになんか似ているような気がする。
“淡紅(うすべに)の秋桜(コスモス)が秋の日の・・・・ありがとうの言葉をかみしめながら、生きてみます私なりに・・・”
なんとも娘さんのしっかりとした決意が伺えるような歌ではありませんか。

 展示会場を出ると、荒井氏の作品集と、先ほどから会場に流れている音楽が気になりそのCDも売っていると言うので、
そのCDとを買いに売店に行く。
やはり女性達の群れ。やめようかと思ったが並んで勇気を出して注文した。
ついでに気に入った絵葉書も買おうと注文すると、これはセットですというので、それで結構ですといってそそくさと受け取った。
あとで見てみると、すべてコスモスでデザインされた綺麗な封筒と便箋が入っていて、
まるで宝塚のスターにファンレターでも書くような気になった。
よくこんなものを大の男が、それ下さいといって買ったと思うと、我ながらその“勇気”に満更でもないと自己満足。
ちなみにこのCDは湯川れい子(懐かしい名前だなあ)プロデユースの「花宇宙」。
オリジナルのシンセサイザーミュージックで心地よい。

 いまこのCDを聞きながら、画集をひもとき、ひとり悦に入っている。
その世界の中心に自分がいるのだという気持ちを高揚させて・・・。
そうです。コスモス(COSMOS)とは英語で宇宙なんですから。

 実は大の男がおおっぴらに好きと言えないものが、あとふたつある。
果物は「さくらんぼ」が一番だし、洋食といえば「オムライス」と決まっている。

 さくらんぼも山形の佐藤錦のように大粒の立派なものより、やや小粒で酸っぱいくらいのものが好みで、
少しピンクで少し黄みがかったのがいい。
一房に3つ4つぶらさがって入るのを取り上げながら一つ一つ口に入れる瞬間はたまらない。
 東海林さだおの「果物を叱る」という好エッセイがある。この中でさくらんぼはこう叱られている。
「おまえは(さくらんぼは)ワザと小さくして高級感を出そうとしている。ルビーのような宝石色にして高そうにみせる・・・」と。
しかしそうじゃないんだ。さくらんぼに他意はない、人間がそうさせてしまってるんだ、とついさくらんぼの味方をしてしまう。
しかし佐藤錦はやっぱりうまいなあ・・・。

 何でさくらんぼが好きなんだろう。
これは理由は明快だ。
果物ってそれほど好きではないんだが、さくらんぼは、だいいち皮をむかなくていい、一口で食べられるので切る必要もない、
だから手を汚さなくてすむ、こんなに三拍子揃った果物なんて他にない。実に論理的でしょ。
さらにさくらんぼは、何故かウイスキーに合う。それもカナデイアンクラブのオンザロックなんていう個性的なものが相性がいい。
どうです、もう立派な男の世界でしょ。
ところが言えないんだな。さくらんぼが好きなんですとは。

 もう何年も前になるが、何家族かで山梨にさくらんぼ狩りに行ったことがある。
樹の下で女達が待ち、こっちは“ようし俺が上って取ってきてやる”といって高い梯子を昇り樹上につく。
すると目の前いっぱいにさくらんぼの世界がひろがる。
そうなるともうだめだ。房をもぎ取り、いとおしくなるくらいに、一つ一つ丁寧にちぎって口に入れてみる。
甘くすっぱい味が口の中にしみわたる。次々と口に入れていると、なんだか無限のときが過ぎていく・・・。
大分経ったのだろうか、下の方から女達が、“何してんのよう、いつまで昇ってるの”と怒りのまなざしとともに罵声が届く。
はっとわれに帰り、“今すぐ降りるから”とあわてて答える。
コスモスと同じようにさくらんぼにも宇宙があり、その真中にまさしく居たんだがなあ。

 この話を、妻がラジオ番組でさくらんぼにまつわる話を募集してますというのを偶然聞き、葉書に書いて出したことがある。
すっかり忘れていたが、暫くしてそのラジオ局からお礼といってそれこそ立派な木の箱に入った佐藤錦が送られてきた。
どうも採用されて放送されたらしい。
その放送は“横浜の藤原さんからいいお便りが届きました”といって紹介されたらしいが、残念ながら、誰も聞いていなかった。
しかしこのさくらんぼは、さすがうまかった。

 それにしても、さくらんぼが好きなんですって、き恥ずかしさが先に立って、やはり言えない雰囲気がある。
やっぱり女性のイメージかな。
それもレモンスカッシュやアイスクリームにのっかっているあの真っ赤っかのさくらんぼのイメージなのか。

 オムライスが好きというのもやはり恥ずかしいものがある。
同じようなものでも、ハヤシライスとかカレーライスといえば堂々と言えるのに。オムライスってやはり女性好みのものなのか。

 少し前のことだが、仕事で男3人(それもみんな50代後半で)池袋へ行き、昼食にしようということになり、
ちょうど西武デパートに居たので、私から「そうだ上に資生堂パーラーがあるからそこへ入ろう」と“ある魂胆”から強引に誘ったことがある。
幸い席が3つ空いていたので座ると、早速ウェイターが注文を取りにくる。
普通はここでランチ定食というところだが、(このチャンスを逃がすと後で後悔するぞと気負い)
「オムライスありますか」と聞くと「はいやってます」というので、
二人にここのオムライスはうまいんだよと誘導。
(二人は内心はランチと決めていたようだが)案の定「えーオムライス?」といぶかるが「そんなにうまいの、じゃあ食ってみるか」と妥協。
すかさず「オムライス3人前」と、馬上天下を取った将軍の鬨の声のように注文した。
(資生堂パーラーは銀座に出来た最初の本格的洋食屋で明治の頃からこのオムライスは定番メニューだった。
前に食べたのはもう3年くらい前だし、こんなチャンスを見逃すわけには行かない。)

 しばらくして、皿に入ったオムライス到着。
このときになって、始めて気がついた。周りの客は皆女性だと。しかも我々はど真ん中の席に居る。
そこへいっぺんにオムライスが3人前運ばれてきたものだから、周りがじっと好奇の目を向けているように感じられた。
二人はそんなことに頓着なく、「オムライスって真中から食べるものか、端っこから順番に食べていくものか」と、
まるで子供が運動会の弁当でも食べるかのように、はしゃいだ声で問うので、
「決まりはないよ、お好きなように」と突き放す。
食べ終わって二人は「結構うまいもんなんですね、何年ぶりだろうオムライス食べるなんて」という感想を言うが、
こっちは緊張感と達成感がアンバランスに交じり合ってとても感想なんて余裕はない。
(オムライスを食べるってそんなにのんきにやってられないんだよ。ひとりで注文するときなんか清水の舞台に立った心地さ。
自意識過剰と思われるかも知れないが、うそだと思うんならやってごらん。特に老舗の洋食屋で。)
 
オムライスって不思議な食べ物だ。
中に入れるチキンライス、それをまるごとふわっと包む玉子、そして最後にかけるケチャップ・・・この3つのハーモニーが素晴らしい。
簡単なようでいて、意外と素人が作るのは難しく、しかもバリエーションが豊富。日本の洋食の白眉だと自画自賛。

 チキン、ご飯、玉子をいっしょに焼いたり(銀座 煉瓦亭 明治28年創業)、
玉子を薄く包む代わりに、プレーンオムレツをまるごとのせたり(浅草 吾妻 大正2年創業)、
ケチャップの代わりに特製のドミグラソースをかけたり(横浜 センターグリル 昭和21年創業)
と幅広い応用も可能で、なかなか手ごわい相手なのだ。
試しに奥さんに作らせてみればよく分かる。これぞまさしくプロの味で、しかも男の料理なのだと。

 さて、運ばれてきたオムライスをまずは真上からじっと眺めてみる。
大きな円皿(シンプルなものがいい)の真中に、黄色の楕円形が浮かび上がり、その中央に赤い円がある。
この様式はまるで太陽系を連想させる。さしずめケチャップが太陽で、本体は地球か土星か、
それに5つ6つのっているグリンピースはまるで小惑星のようではないか。
ここにも宇宙(COSMOS)があるのです。
 わたしはやはり、ど真ん中からスプーンを差し込む。
すると中のチキンライスが玉子からこぼれ、ケチャップと交じり合っていく・・・えもいわれぬ一瞬だ。

 コスモスとさくらんぼとオムライス。なんと云われようといいものはいい。三者とも本質的には男っぽいものを持っているのに。
しかし大の男がおおっぴらに好きですと、どうしても言えない。

いったい何故なんだろう。

                           2000年10月                           藤原 忠   文 



荒井幸史   「秋の華」                1983年作


荒井幸史 「秋櫻の世界」より


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