緒 言 漢詩が好きで、陶淵明、王維、李白、杜甫、白居易などの名詩を読んでいる。 自分で書くことも試みている。 漢詩では句末の押韻を不可欠とし、加えて近体詩では句内文字の平仄の組み合 わせルールも厳しく定められている。 中国語を母語としない者が、漢詩を試みる事自体無謀であるかも知れないのに、 そのようなルールに則って、作ることは易しいことではない。 日本人にとって、漢文の文法と、漢字のもつ意味とをある程度理解することは、 それほど困難ではない。また、漢詩では普通、一句が五言か七言で比較的文法 構造が簡単なことも理解を助けていよう。とは言え、漢字の多様な意味につい ては、漢字辞典を頼らざるを得ず、また、中国語の音を知らない者にとってと りわけ厄介なのが、ある文字がどの四声に属し、従って平仄の別が何であるか を知ることである。一字一字漢字辞典によって意味と平仄とを調べなければ、 五言であれ七言であれ一句も作ることができない。(市販の電子版漢字辞典で は平仄を簡便に引けるものは今のところなく、漢字検索ソフトの自作を始めた のだが、極く最近シェアウエアで使い易く優れたソフトウエア『漢太郎』を見 つけた。) そんな苦労をしてまで漢詩を試みることに何の意味があるのか、と自問すれば、 答に窮してしまう。漢詩によって表現したいことが明白に自覚されているわけ ではなく、表現できることに真剣に取り組んでいるわけでもない。短歌や俳句 では表現できない何かがあるだろうとは思うものの、それが漢詩でなければな らないとまでは言えない。最近、早稲田大学の松浦友久教授は岩波新書『漢詩』 で、日本人のもった唯一の文語自由詩が『訓読漢詩』だと書いている。文語定 型詩としての和歌と俳句と相補って、日本における詩史を形作ってきたという のだ。面白い見方と思うが、短歌も俳句も試みた私には、そのような自覚があ るわけでもない。一種の恋のようなものかも知れないと思う。 これは漢詩に限らず、日本人が外国語で詩を書く場合には、どんな外国語詩に ついても言えることかも知れないが、英語やフランス語、或いはドイツ語で詩 を書こうとする人よりも、漢詩を試みる人の方が、日本人には多いのではない だろうか。漢字を日常的に用いているので、その意味や使用法が何となく理解 できるように思われる故であろうし、江戸時代までは存在した日本漢詩文化の 名残でもあるのだろう。 最近、「漱石詩注」(吉川幸次郎;岩波文庫)を読んでいて、漱石でさえ次の 様に「思い出す事など」に記している旨を知った。 即ち、『余の如き平仄もよく弁えず、韻脚もうろ覚えにしか覚えていないもの が何を苦しんで、支那人にだけしか利目のない工夫を敢えてしたかというと、 実は自分にも分からない。けれども(平仄韻字はさておいて)、詩の趣は王朝 以後の伝習で久しく日本化されて今日に至ったものだから、われわれ位の年輩 の日本人の頭からは、容易にこれを奪い去る事が出来ない。』 少年期に十年以上漢籍に親しみ、二松学舎で学んだことさえある漱石、そして 大学を終えて後二年間英国に留学して、漢洋の大知識であった漱石にしてこう であったらしい。無論、私のレベルなどとは比較にならない程、高いレベルで の話ではある。 以下に幾つか試みた漢詩習作(七言絶句)を記すが、文法的な誤り、作法上の 誤り、使用文字の不適切、等があるかも知れない。公開できるような作ではな いとは思うが、ご笑覧の上、ご批判、ご指摘を賜るならば幸甚である。