逆茂木の名は、本来は中世の臨戦用構築物に付けられたものです。現代に残る軍記物、絵巻物にも見ることができます。そのうちのほんの一部ですが、いくつか見てみると、
「弓手には逆木じうまんして、前は堀川、(中略)悪源太の馬は片なつけの駒にて、さかも木におどろきければ、(中略)重盛逆木のうへにはねをとされ、甲もおちて大わらはになり給。悪源太の馬逆木にけしとんで倒れければ、」(平治物語 中・鎌倉初〜中期)
「元暦元年正月廿日、(中略)水ハ深サ増テ底不見、其上亂株逆茂木隙ナク打テ、大綱小綱引張テ流シ懸タレバ、」(源平盛衰記 三十五・13世紀)
「同(慶長19年11月)十九日、両将軍家(徳川家康・秀忠)住吉ニ於テ軍議アリ、(中略)水ノ底ニハ亂杭逆茂木ヲ引テ流シ掛タリ、」(難波戦記 七)
また、逆茂木は近代日本においても、実戦用構築物として残っていました。旧日本陸軍の「学校教練必携」に登場する「鹿砦(ろくさい)」がそれです。最近まで存在していた逆茂木のルーツが弥生時代にまでさかのぼることは驚くべきことです。
|