[][俳句] [学校] [NAGAOの絵に]

『遠近複眼メガネ』


季節も旬も見えない現代。芭蕉のわび、さびはどこへ……。

                                 絵と文
                                長尾みのる

 

宇宙旅行中に「さて、俳句でも--」と思ったとき、遠く地球を望めば、その春夏秋冬はすべて丸見え。そうなると、地球人の自分が四季のどこに在るのやらと季語不明の宙に迷うのでは? それもロング・クルーズとなれば、やがて地球も遥か一点の星となるか、見えなくなる。  俳句は季節の独り言だ。
でも、その季節も句も見えない味気ない暮らしになってきた現代なのだ。
赤道近く、常夏での俳句なら、無季とか優季として季語超越の作となる。が、秋冬にも常夏の地の果物はあるし、ま、限りなく無季・優季のフリー・シーズン時代というわけだ。
 エアコンが普及し始めた半世紀前ごろ、ラテン・アメリカあたりの都会では、「邸宅内も自家用車内も、出かける先も、寒いぐらい涼しいから」と、暑い日も高級な毛皮コートなどを身につけていた。
 その南米のリオでのこと、日本から持参したアロハ・シャツを着て街に出るや、「そんなみっともない格好やめなさい。外出するなら長袖シャツにネクタイ締めて……」と、日系人に忠告された。
 酷暑の街にもかかわらず、裸足のバガボンド(ホームレス)でさえネクタイ姿だったのには呆れたものだ。
 やがて、衣食住、スポーツ、娯楽さまざまの文化が、無季・優季の現代となった。
 渡り鳥でさえ、ゴミだ餌だと入間の作った新環境が居心地いいと長居してしまう時代だ。
 江戸の人が、憧れの「都鳥」と勝手によんで粋がっていた晩秋の渡り鳥ユリカモメも、いまや悠々賑賑しく、ゴミ・餌豊富な東京の都鳥にチャッカリ成りきっている。その東京の都鳥ことユリカモメも、都民同様、季節、旬、国籍、ゴチャ混せの食材育ちというわけ。
 ところで、東京は下町を流れる隅田川のほとりに、俳聖・松尾芭蕉の座像があり、大都会の近代ビル背景に釣り船、ボート、屋形船の往来など眺めている。
 その小さな場所に植えたわずかなススキが、肩見狭そうに穂をつけ、江戸の秋をほんの少し偲ばせる。
 芭蕉のわび、さびは何処に?
 というところで、一句………。

 隅田川芭蕉像みよ都鳥


Enkin Fukugan Megane

...月刊望星連載 第7回(2001年)より...