鎌倉街道の宿
(久米川宿いずこ?)

旧鎌倉街道をたどってきました。さて、この街道にできた中世の「久米川宿」はどこにあったのでしょう?

旧鎌倉街道の道筋は、鎌倉のある南側からたどりました。
その限りでは、何となく、久米川地域(東京都東村山)が「宿」のような雰囲気でした。

ところが、新田義貞が鎌倉を攻めたときの群馬県側からたどると
「久米地域(埼玉県所沢市)」に
多くの史跡があり、伝承があります。

柳瀬川(やなせがわ)を挟んで、南と北に、それぞれ史跡・伝承があり
それぞれ「久米」のつく地名があります。

どうやら、柳瀬川の南と北の両側から詰める必要がありそうです。


 久米(埼玉県所沢市)

 埼玉県と東京都の県境は、二瀬橋から二柳橋までの間は、柳瀬川の中央で区切っています。その川の流れが、実に複雑になっていて、大きく蛇行する箇所があります。そして、埼玉県側では「久米」、東京都側では「久米川」という同じような名の地域が接しています。

 この地域の中世を探ろうというのですから、ややこしくなります。久米川も久米も、中世の村名としてありますから現在の地図の混淆というわけにはいきません。

 

 二瀬橋から東、柳瀬川の下流に向かいます。埼玉県所沢市(久米)に入ると、柳瀬川は大きく蛇行します。画像は二柳橋の東京都側から撮ったものですが、中央に見える建物とその向こうの森の間に、大きな蛇行があります。

 その蛇行の一番奥まったところに、「持明院」という寺院(画像の中央に盛り上がる森の中)があって、日蓮の佐渡配流に関する伝承があり、この周辺を「久目河宿」とする指摘があります。

 「久米郷旧跡誌」という久米地方の地誌があって、その中に「久米の曼陀羅伝承」が伝えられています。この伝承から、文永8(1271)年、日蓮が佐渡に配流されたとき、「武蔵国久目河」に宿泊する「宿」は、所沢市の久米だとする見解です。

 その伝承を追ってみます。日蓮は佐渡配流後3年目の文永11(1274)年、許されて鎌倉への帰途につきます。その途中、児玉郡八幡山村(美里町)に1泊しました。その時、児玉六右衛門が日蓮に帰依し、鎌倉まで送ろうと、久米まで来ます。


持明院

 日蓮は、『鎌倉まで送ってくれるのは、私を尊信する心の現れだけれども、その一徹はここまでも、鎌倉までも同じ事、これより村に帰りなさい』といって、自筆の曼陀羅を六右衛門に贈ります。六右衛門は感謝して受け取ります。しかし、ふと、久米は自分の先祖の地であることに気が付き、その曼陀羅を柳瀬川の北のほとりに堂をたて、そこに納め、守護の僧を頼んで、村へ帰りました。

 その堂は久米の曼陀羅堂と呼ばれ、徳川家康の江戸入府以来、秋津村の地内となり、後に「持明院」の境内に移った。とするものです。(所沢市史研究 第7号 栗原仲道 寺泊御書と日蓮武蔵野伝承と伝説)

 つまり、日蓮は久米か隣接の秋津村に泊まった。それが「久目河宿」である、とするものです。  

持明院からは柳瀬川の蛇行が竹藪越しに見え、この伝承の雰囲気を伝えます。

 久米は狭山丘陵の東端に位置し、柳瀬川を中心に開かれた谷戸を開発して、武蔵七党の久米氏が統治したことが考えられます。

 鳩峰八幡神社には、新田義貞伝説が色濃く残っています。また、武蔵・伊豆の守護代であった大石信重が開基したとされる「永源寺」があり、この地方の支配の根拠地であったことがわかります。多摩・入間の郡界に影響力が強かったことが想定されます。

永源寺山門と大石信重墓

久米川の宿いずこ?

 久米川宿の位置を巡って、二つの見解があることを紹介しました。柳瀬川を基点にすると、南の方から来た人々の場合、久米川宿は東村山市の久米川周辺にあるような話になり、同様に、北側から来る人々には、所沢市の久米にあるように聞こえます。

 地図の上から見れば、二つの地域は柳瀬川を挟んで接していて、その南・北に久米川宿があってもおかしくはありません。この宿が、ずっと江戸時代まで続けば、記録もはっきりするのでしょうが、途中で衰微したようです。
 戦国時代の後北条氏の宿駅・伝馬の制には記録されず、川越が重視されるにつれて、道の賑わいは、新たなルートが築かれ、次第に所沢の方に移ったとされます。

 元弘の合戦以来、その後の相次ぐ戦乱に、新田義貞、足利尊氏、太田道灌、上杉謙信、北条早雲などの武将が行き交い、大きな転機には、必ずと言ってよいほど久米川の名前が出てくるのに、宿の一端すら明らかでないとは、残念至極です。

 

宿の規模は?

 それにしても、中世から戦国時代にかけての武蔵の「宿」(しゅく)は、どの程度の建物があり、賑わいがあり、区域を占めたのか、興味津々です。道興准后が記した「くめくめがわ」の里人は、個々の家に井戸を持たない生活でした。久米川は年の暮れには薄氷が張るような川でした。

 それらからすると、こぢんまりした景観が浮かんできます。後北条氏は「宿」の税制に神経をつかい、把握に熱心だったと言われます。その記録でもあればと、無念です。

 上道でも、入間川を超えた、埼玉県毛呂山町の堂山下遺跡では、苦林宿(にがばやししゅく)と考えられる遺構が発見されています。その他の地域でも、引き続いて早く、宿の全容が分かるような遺跡が出てほしいものです。

                                 (2000.12.26.記)

久米川宿1へ
久米川宿2へ
ホームページへ