鎌倉街道の宿 旧鎌倉街道をたどってきました。さて、この街道にできた中世の「久米川宿」はどこにあったのでしょう?
柳瀬川(やなせがわ)を挟んで、南と北に、それぞれ史跡・伝承があり 久米(埼玉県所沢市) 埼玉県と東京都の県境は、二瀬橋から二柳橋までの間は、柳瀬川の中央で区切っています。その川の流れが、実に複雑になっていて、大きく蛇行する箇所があります。そして、埼玉県側では「久米」、東京都側では「久米川」という同じような名の地域が接しています。 その蛇行の一番奥まったところに、「持明院」という寺院(画像の中央に盛り上がる森の中)があって、日蓮の佐渡配流に関する伝承があり、この周辺を「久目河宿」とする指摘があります。 その伝承を追ってみます。日蓮は佐渡配流後3年目の文永11(1274)年、許されて鎌倉への帰途につきます。その途中、児玉郡八幡山村(美里町)に1泊しました。その時、児玉六右衛門が日蓮に帰依し、鎌倉まで送ろうと、久米まで来ます。
日蓮は、『鎌倉まで送ってくれるのは、私を尊信する心の現れだけれども、その一徹はここまでも、鎌倉までも同じ事、これより村に帰りなさい』といって、自筆の曼陀羅を六右衛門に贈ります。六右衛門は感謝して受け取ります。しかし、ふと、久米は自分の先祖の地であることに気が付き、その曼陀羅を柳瀬川の北のほとりに堂をたて、そこに納め、守護の僧を頼んで、村へ帰りました。 その堂は久米の曼陀羅堂と呼ばれ、徳川家康の江戸入府以来、秋津村の地内となり、後に「持明院」の境内に移った。とするものです。(所沢市史研究 第7号 栗原仲道 寺泊御書と日蓮武蔵野伝承と伝説) つまり、日蓮は久米か隣接の秋津村に泊まった。それが「久目河宿」である、とするものです。 持明院からは柳瀬川の蛇行が竹藪越しに見え、この伝承の雰囲気を伝えます。 久米は狭山丘陵の東端に位置し、柳瀬川を中心に開かれた谷戸を開発して、武蔵七党の久米氏が統治したことが考えられます。 鳩峰八幡神社には、新田義貞伝説が色濃く残っています。また、武蔵・伊豆の守護代であった大石信重が開基したとされる「永源寺」があり、この地方の支配の根拠地であったことがわかります。多摩・入間の郡界に影響力が強かったことが想定されます。 永源寺山門と大石信重墓 久米川の宿いずこ? 久米川宿の位置を巡って、二つの見解があることを紹介しました。柳瀬川を基点にすると、南の方から来た人々の場合、久米川宿は東村山市の久米川周辺にあるような話になり、同様に、北側から来る人々には、所沢市の久米にあるように聞こえます。 地図の上から見れば、二つの地域は柳瀬川を挟んで接していて、その南・北に久米川宿があってもおかしくはありません。この宿が、ずっと江戸時代まで続けば、記録もはっきりするのでしょうが、途中で衰微したようです。 元弘の合戦以来、その後の相次ぐ戦乱に、新田義貞、足利尊氏、太田道灌、上杉謙信、北条早雲などの武将が行き交い、大きな転機には、必ずと言ってよいほど久米川の名前が出てくるのに、宿の一端すら明らかでないとは、残念至極です。 宿の規模は? それにしても、中世から戦国時代にかけての武蔵の「宿」(しゅく)は、どの程度の建物があり、賑わいがあり、区域を占めたのか、興味津々です。道興准后が記した「くめくめがわ」の里人は、個々の家に井戸を持たない生活でした。久米川は年の暮れには薄氷が張るような川でした。 それらからすると、こぢんまりした景観が浮かんできます。後北条氏は「宿」の税制に神経をつかい、把握に熱心だったと言われます。その記録でもあればと、無念です。 上道でも、入間川を超えた、埼玉県毛呂山町の堂山下遺跡では、苦林宿(にがばやししゅく)と考えられる遺構が発見されています。その他の地域でも、引き続いて早く、宿の全容が分かるような遺跡が出てほしいものです。 (2000.12.26.記)
|