鎌倉街道の宿
(久米川宿)

鎌倉に頼朝の政権がたてられたころ、武蔵武士の戦いとロマンの道ができました。
「一所懸命」を賭けた斬り合いの合間に、恋が芽生え、散るはかなさが伝承となって今に残ります。

鎌倉北条時代、街道は、武蔵野台地の中央部の開発を進め
割拠した武蔵武士を再編成して、遙かな地方へ分散させる道でした。

室町の戦乱は、武蔵野を戦場と化し、寺を焼き、耕地を荒らし、民衆を逃散させ、とことん疲弊させて
新田義貞や足利尊氏、上杉謙信や北条早雲が行き交い
新たな政治の枠組みをつくり出した道でした。

江戸や東京は関係なくて、鎌倉への直通道路です。
その道筋に「宿
(しゅく)」ができました。

台地の中央部、久米川・柳瀬川のほとりにあったのが「久米川宿」です。
最初に、宿を形成した旧鎌倉街道をたどってみます。


西武新宿線・東村山駅・東口を降り、府中街道を北に約150メートルほどで、左に分岐する小径があります。
画像中央の建物の間(東京都東村山市内)、ここに旧鎌倉街道が残されています。

旧鎌倉街道の標識があり、別れた府中街道の喧噪が嘘のように静かな道です。

旧道は北に進みます。途中に「白山神社」があります(画像左側)。
この周辺は、「上宿」と呼ばれる地域です。
明治14年の参謀本部測量図をみると、この辺から鎌倉街道は左に曲がっていたことが分かります。

画像では見えませんが、神社の左側は一段下がって西武鉄道の線路となっています。
地形は鉄道に沿うように、久米川へと次第に低地化し、この神社が台地の端にあったことがわかります。

なお、この神社は、鉄道建設などのため、3回遷座したことが伝えられ、位置は動いていますが
明治初年には後ろに深い杉木立があり、豊かな泉が湧いていたとされます。

旧鎌倉街道はこの神社の左にあり、現西武鉄道の線路沿いにありました。
今は、その痕跡もなく、直進するため、旧鎌倉街道の延長のように誤解が生ずる地点でもあります。

画像は便利なもので、一足飛びに、線路側に廻ってみると、こんな景観です。
右端鳥居が白山神社で、一段と高くなっています。旧鎌倉街道は、この線路の下に位置します。(北方向)

白山神社の参道は旧鎌倉街道に向かっていたとの指摘があります。
(東村山市史研究第1号 武蔵悲田処に関する研究 p142)

さらに、この一帯は湿地帯か、池になっていたことが伝えられます。

元に戻りますが、現在は、そのまま緩く傾斜しながら北に直進します。
画像の突き当たりでT字路となり、その突き当たりにあるのが、立川家の長屋門です。

文永8(1271)年、日蓮が佐渡へ流されるとき、宿泊したと言い伝えられる家です。
(東村山市史 p216)

立川家長屋門から左側は下り坂になり西武鉄道の踏切があります。
この踏切の場所には、鉄道が敷かれる以前は「苧が橋」という橋がかかっていたとされます。

白山神社の所在する台地は左側になります。右側にある現在の建物は鉄道線路より、なお下にあります。
この部分は大きな湿地帯となっていて、踏切のところで、旧鎌倉街道と橋が交差していたことになります。

ここから先は、所沢市・久米の「長久寺」に向けて、道筋が分かれています。
「公事道」が代表的で、立川家の西側の道を熊野神社方面に向かったものもありました。

周辺には鎌倉時代、久米川宿の「公事所」や「悲田処」があったとされます。

「西宿通り」と名付けられた通りもあります。
久米川宿の西宿(本宿の西)にちなんで付けられたと言われます。

今回は、立川家の西側を通って、熊野神社へ廻ります。



住宅の建設が進む中に、ぽっこり森と広場になって「熊野神社」があります。
かっては、畑や水田に囲まれ、豊かな曲りをもつ道路が美しく、中世のたたずまいを感ずる所でした。

神社の西側には水場があり、ここが低地である様子を伝えます。

神社の裏手に水辺が復元され、その先は、西武鉄道の線路で遮断されます。
街道は久米川を渡り、久米の方へと向かっていたものと思われます。

この低地は、白山神付近から形成され、久米川まで連なっていたと考えられています。
多摩と入間の郡界がこの少し先になります。

久米川宿はこの付近か?

 地元の方々は、この水辺、低湿地に接する一帯を久米川宿があった場所とします。「くめがわ宿」の名は、日蓮の佐渡配流の途中、越後の寺泊から送った手紙に出てきます。

 『今月(文永8(1271)年10月10日)相州愛甲郡依智郷を起ち、武蔵国久目河宿に付き、12日を経て越後寺泊に付く。・・・』とするもので、1271年には、武蔵国久目河宿があったことがわかります。

 また、別の書き物にも(「注画賛」)にも、『其の夜武州来目河に宿りて・・・』とありますので、越後につながる鎌倉街道があり、鎌倉から1日で「久目河宿」「来目河」に「宿」があったことがわかります。

 先に紹介したように、西宿や本宿などの言葉もあり、東村山市史は高橋源一郎氏「武蔵野歴史地理」の説を基に、『柳瀬川と北川(後川ともいう)の合流点に近い熊野神社北西の低地にあったのであろう。』(p218)としています。

 これに疑問を呈するのが、所沢市史研究第7号「寺泊御書と日蓮武蔵野伝承と伝説」で、所沢市「久米」を「久目河宿」「来目河」にあてています。このことについては、後ほどページを改めて触れます。

15世紀の状況がわかる

 日蓮が手紙を書いて200年後になりますが、幸いなことに、このあたりを旅した、聖護院道興准后(しょうごいんみちおきじゅごう)という人が、「くめくめ川」を詠んでいます。文明18(1486)年のことです。

 道興というのは、熊野検校の大道正、修験道(山伏)の本山派の総本山である聖護院の最高幹部です。京都に住んでいましたが、宗派の勢力維持に、関東・東北を巡歴し、その途中、武蔵野を回遊しました。

 近くでは、現在の川越市(武州大塚)にあった「十玉」という山伏の坊を仮り住まいとしました。そして、周辺の宗派の強化活動を展開し、川越(河越)を中心にして、坂戸市(勝呂)、新座市(野火止)、国分寺市(恋ヶ窪)などを巡回しました。

 文明18(1486)年の暮には、所沢市と久米川に来たのです。元弘の変、南北朝の内乱を経て、太田道灌が武蔵に活躍する頃です。道興は、その時の所沢、久米川の様子を次のように述べています。(「廻国雑記」)

 『ところ沢といへる所へ遊覧にまかりけるに、福泉といふ山伏、観音寺にてささえ(竹筒)をとり出しけるに、薯預(ところのいも)といへる物さかなに有けるを見て、俳諧、

 野遊の さかなに山の いもそへて ほりもとめたる 野老沢(ところさわ)かな

 この所を過てくめくめ川といふ所侍り。里の家々には井なども侍らで、ただこの河をくみて朝夕もちひ侍となん申ければ、

 里人の くめくめ川と 夕暮れに 成りなは 水は 凍りもそする(こそせめ)』

 というものです。

 所沢では、観音寺=現在の新光寺で、山芋をさかなに酒を酌み交わし、久米川に来ます。どこに泊まったのかはわかりませんが、個々の家には井戸がなくて、里人は久米川の清流を利用して、日常生活を営んでいる様子がよまれています。

 しかも、夕暮れになれば、水が凍るような、しーんとした景観を浮かび上がらせます。国分寺の恋ヶ窪では、遊女がかしぐ「宿」であったことが伝承されていますが、久米川宿はそれとはまた違った雰囲気の宿であったように読みとれます。

  その後も、明応3(1494)年、北条早雲が久米川で上杉定正と対談しています。戦国時代に入ろうとするとき、久米川が何らかの基点になっていたようです。

 もう少し、旧鎌倉街道を北へ進みたいと思います。

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