新宿さまよい歩き 6

成覚寺(じょうかくじ)

  靖国通りを市ヶ谷の方に進むと、芥川龍之介の住んだ耕牧舎跡を過ぎて、直接「成覚寺」の門前に出ますが、今回は若山牧水と貴志子が住んだ森本酒店から靖国通りへ向かいます。位置関係は内藤新宿図でご確認下さい。

 文禄3年(1594)に建立されたといわれていますが、古文書を欠きます。宿場に隣接していた関係から、宿場の薄幸な飯盛女の投込み寺として知られます。

境内には内藤新宿を物語る数々の墓碑が残されています。
画像一番左にかすかに見えるのが「旭地蔵」です。

旭地蔵(成覚寺)

 「三界万霊旭地蔵」と刻まれた台座に露座しています。高さは、約90センチメートル。寛政12年(1800)つくられたとされます。最初の方で紹介した旭町(新宿四丁目)の雷電稲荷神社の横、玉川上水の縁に立てられていました。道路拡幅のため、明治12年に成覚寺へ移したものです。

 台下をみると、18人の戒名が刻んであります。七組の男女の戒名は、一組ずつ並べてほられていて、情死者であったとされます。

 たとえば定吉二七歳、かね一七歳などとありますが、町人と飯盛女ではなかったかと考えられています。寛政12年から文化10年(1813)の年号が読み取れます。

 地蔵の左側に、移転供養をした旅籠屋一同の名前が刻んであり、当時の復元の参考とされています。「夜泣き地蔵」と呼ばれ、お参りすると子どもの夜泣きがなおるというので信仰されていたという話も伝わります。

恋川春町墓(成覚寺)

  旭地蔵尊の右隣に江戸後期の浮世絵師・狂歌師・黄表紙作者の恋川春町(1744〜89)の墓があります。春町は駿河小島藩士で、本名は倉橋格、狂歌では酒上不将と名乗っています。通称寿平といい、「春町坊」「社選和尚」「酒上不埒」「寿山人」などとも呼ばれました。

 小石川春日町に住んでいたので、その町名から「春町」と号したとされます。江戸後期の諷刺人の一端を知るため、参考に高橋庄助著 新宿区史跡散歩から引用します。

 『とくに、「狂歌」をよくし、絵は「烏山石燕」に学んだ。数多くの書物に挿絵などを描いていたが、安永四年(一七七五)自画自作の『金金先生栄花夢』を出版した。子ども向けの絵本の形式で、現代世相、人情風刺をこころみたのが大歓迎をうけ、多くの追随作品を見るにいたった。(一部略)

 寛政元年(一七八九)に、いわゆる寛政新政下の世相を笑いの材料とした『鵬鵡返文武二道』を出し、記録的な成功をおさめたといわれている。当局は、老中松平定信の施政を批判したものだといわれ春町を召喚しようとした。  春町は病気であると言って、それには耳をかさなかった。そして、ついに死去した。一説には、主筋にあたる小島藩に類をおよぽさないためにも、自らの命を絶ったともいわれている。時に寛政元年(一七八九)七月七日、年齢四五歳であった。』(p44〜46)

 「寂靜院廓誉湛水居士」が法名といいますので、左側の墓石になります。

子供合埋碑(成覚寺)

 成覚寺の中でも目を惹くのが「子供合埋碑」(こどもごうまいひ)でしょう。江戸時代、内藤新宿で暮らしていた飯盛女たちを弔うために、万延元年(1860)11月に建てられています。「子供」は遊女のことで、抱え主の子供であるという意味からとされます。

 新宿区指定有形文化財歴史資料となっていて、次のように説明されています。
 『江戸時代に内藤新宿にいた飯盛女(めしもりおんな)(子供と呼ばれた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。

 飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり抱えられる時の契約は年季奉公で、年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。
 もともと墓地の最奥にあったが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移された。・・・』 

 さらに、高橋庄助氏は次のように説明されています。

 『・・・飯盛女の死体は、どういうわけかみなここに投げ込まれたといわれている。しかも、そんな風習が明治三〇年(一八九七)頃まで続いたという。

 女たちの待遇は犬猫にも劣る、ひどい取り扱いであった。たとえば、楼主や店主などに酷使されて死んだ女達から、着物をはぎ、髪飾りはもちろんのこと、身につけているすべてのものを取りあげ、ほとんどが、さらし木綿にお腰一枚という哀れな姿で、しかも米俵にくるんで寺に投げ込んだという。その数およそ三千体余りだったといわれ、寺の手がまわりかねるときは、そのまま放置されて鴉が群れをなして、その死体にとびかかり眼玉をつつき、また夜になると燐火がこの寺の名物になっていたといわれていた。この寺の別名を「投げ込み寺」というのはこのような理由からであろう。』(学生社 新宿区史跡散歩 p48)

鈴木主人と白糸塚(成覚寺)

 「子供合埋碑」と並んで、歌舞伎ではやり、八木節で

 『花のエエ花のお江戸のその町々に、さても名高き評判がござる、ところ四谷の新宿辺に、軒を並べて女郎屋がござる、紺ののれんに桔梗の紋は、音に聞えし橋本屋とて、あまた女郎衆が皆玉ひ、中に全盛白糸様は年は十九で当世姿、立てば芍薬座れば牡丹、我も我もと名指しで上る、わけてお客のあるその中に、ところ青山百人町に鈴木主水といふ侍は、女房持にて子供が二人……』

 とうたわれた「鈴木主人と白糸塚」があって、あれやこれや話し込んでいる内に、いつの間にか時間が過ぎてしまういかにも新宿の寺の境内です。

正受院・脱(奪)衣婆像

 成覚寺と並んであるのが「正受院」(しょうじゅいん)です。ビルに囲まれた中がここだけ空が見えて吹き抜けたような感じがします。脱(奪)衣婆像があることで有名です。古文書などから歴史的背景を知ることができませんので、寺の由緒で紹介します。

 『当院は明了山正受院願光寺といい文禄三年(一五九四年)に開設されました。 門を入りすぐ右手には子育て老婆尊(奪衣婆尊)がございます。 この像は小野篁作(おのたかむらさく)と伝えられし別名「綿のお婆さん」と呼ばれ親しまれております。

 子供の咳封じ、虫封じに霊験があると言われ、幕末当時咳止め祈願のお参りに綿を奉納し、お像に冠綿をかぶせました。 参詣者は引きもきらず大変な賑わいをみせたということです。

 また、毎年二月八日には針供養が盛大に行われます。 一般参詣者に加え着物姿の人も参詣献針し、境内では和裁関係の方が甘酒を接待し、模擬店もでて賑やかな一日となります。 この日は、針塚の前にお供えしたお豆腐に折針や古針をさし労をねぎらいます。使い古した針にご苦労さまと感謝報恩の気持ちを抱くなか針供養 大法要が針塚前で勤修されます。大晦日は何といっても除夜の鐘、その除夜の鐘を新宿の街中にあってここ正受院で撞くことができます。』

 幕末の会津藩主松平容保と照姫の墓がありました。戦後会津に移されています。この辺にこの寺の背景を語るものがありそうです。

 綿をかぶった脱(奪)衣婆像は片膝立ちの姿で、木製座像です。格子越しに拝めます。高さが70センチとされますが、目一杯に見え迫力があります。嘉永年間(1848〜1853)に安置された事が伝えられます。

 幕末の繁栄については、寺杜奉行は邪教ではないかと禁止したほど賑わったとされます。江戸切絵図には門前の書き込みがありますが、門前市をなすにぎわい方であったことがわかります。これから向かう太宗寺の脱(奪)衣婆像とはまた違った雰囲気があったようです。(画像は新宿文化財ガイドp52から拝借しました)(2003.11.1.記)

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