| 第2章:最初の春 |
| 第7節:旅立ち、夢と現実 |
| 暖かい陽射しを浴びて、僕は、また新幹線の心地良い振動に身を委ねている。 窓の外には、広々と続く田園の中に、ぽつんぽつんと、桜が咲いている。今を盛りと咲き乱れる桜を眺めながら、僕は実家の近所の坂道に植えられている桜並木を思い出していた。ついさっき、僕は、その桜並木の下で、家族の見送りを受けて、生まれ育った町を離れたのだった。 僕は、この22年間、ずっとこの町で育ち、毎年、この桜並木の下を潜り抜けて、新しい学年や学校へと歩んできたのだった。 今朝の食卓も、いつになく静かだったし、自宅から桜並木までのわずかな距離では、父も、そしてあの饒舌な母ですら、一言も口をきかなかった。別に、万里の波涛を隔てた外国に行ってしまう訳でもないのに、僕も両親も、なんとなく感傷に浸っていた。 桜並木は、いつもの年のように、満開の花を僅かな風に揺らして、静かにたたずんでいた。 「もう、ここで良いよ。駅まで見送りに来てもらうような歳じゃないし・・・・」 桜並木の出口が見えたとき、僕は後ろを振り返って、両親に告げた。 「・・・・とにかく、無理をするな・・・・・自分のペースでやればいい・・・・・無理をしてトップになっても、長続きはしない」 いつもの厳格な表情のまま、父さんは眼鏡の奥から淡々と答えた。 「なにか足りない物があったら、すぐ電話するのよ。送ってあげるから。それから、お給料安いんだから、無駄遣いしちゃ駄目よ」 母さんはなんとも心配そうな表情で、僕をじっと見つめていた。 「なんとか無理せずに、できるところまで頑張ってみるよ。それから、もう子供じゃないんだから、そんな無駄遣いなんかしないよ」 僕はさすがに苦笑しながら、父さんと母さんを交互にみつめた。 「じゃ、行ってくるよ」 僕は、その場の雰囲気をそれ以上重いものにしたくなかったので、わざと明るく手を振ってから、両親に背を向けて坂道を下り始めた。そのまま坂道を下り終えたとき、一度だけ振り返ってみたら、まだ両親とも桜の下に立ち尽くしていた。そんな両親の姿を見るのが堪らなくなって、僕は少し足を速めて、最寄りの駅へと向かった。僕の家は、駅のホームの端から見える高台の上に立っているけど、別に家など見て、今更、感傷に耽る気もなかったので、僕はホームのベンチに腰掛けて、重い荷物をようやく降ろし、ほっとしていた。 (これでようやく念願の一人暮らしができるよ。夜遅く飲んで帰ってきて、母さんに小言を言われたり、父さんに無言で睨まれたりすることもなくなるし。) 僕は、一人になると、なぜか清々とした気分になって、少し霞のかかった空を見上げた。まだ少し冷めたいけれど、爽やかな風が頬を撫でる。 (会社では、どんな職場に配属されるんだろう。最初は、やっぱり慣れなくて、いろいろと大変だろうな・・・・・) 新しい生活への希望と同時に、またまた僕の心配性がいつものように頭をもたげてくる。 (まあ、今から、先のことを心配したって、しょうがないよな。) 僕は、気分を切り換えようとして、ベンチから立ち上がった。土曜日の午前10時、駅のホームはがらんとしていて、僕のほかに誰も乗客の姿は見えない。微かに聞こえてくる音と言えば、駅の近くにあるパチンコ屋から流れてくる軍艦マーチくらいだ。僕は、自動販売機までゆっくりと歩いていくと、缶コーヒーを買い、その場で口に含んだ。苦みのあるコーヒーの味が、口一杯に広がる。 (思えば、ここにこうして居ること自体が不思議だよな。) 僕が、ヤマトの最初の面接から、尾羽打ち枯らして帰ってきた晩、家にかかってきた電話は、「明日、午前11時にヤマトに来て下さい」というものだった。信じられないことだったが、僕は面接に通ったのだった。それから後、僕は6回ほど、第二新東京市に通うこととなり、昨年の11月には、正式に内定を貰った。 (一体、僕のどこが良かったのだろう? 最初の面接にしても、他人の考えの受け売りに過ぎないのに・・・・・) 内定までは、とにかく必死だったけど、内定後に少し余裕が出てきてから、僕は何度も、この問いを自分に繰り返していた。嬉しい反面、後ろめたいやましさを感じて、正直に言って、僕の気持ちは明鏡止水というわけではなかった。ただ、こんなことを考えても、決して自分で解答を見つけることなんてできないのは、わかっていた。僕が採用された理由は、採用した人たちに聞いてみない限り、わかるはずなんてないのだから。 (まあ、面接は、あの後、何度もあったんだから、もし、僕の能力が全くお話にならないようだったら、あの後の面接で落とされているはずだよ。だから、きっと、僕には、それなりの適性があったんだよ。) 僕は、いつもあの問いに対しては、このように答えて、自分を納得させるようにしていた。それでも、心の中の疑問や後ろめたさが完全に晴れたわけではなく、いつも嫌な後味が残っていた。 今日も、僕はコーヒーを飲み干すまでに、この自問自答を繰り返し、なんとなく少し憂鬱な気分を味わっていた。そんなとき、ホームに、電車の到着を知らせるアナウンスが流れ始めた。僕は慌てて、残りのコーヒーをぐっと飲み干すと、ベンチに戻って、荷物を持ち上げた。荷物と言っても、バッグ2つで、たいした量じゃない。大半の荷物は、新しい引越し先のマンションに、宅急便で送ってしまっていた。 (引越し荷物はちゃんと届いてるかな。。それに、なんか年寄りの管理人みたいだったけど、大丈夫かな。僕が着くまで、送った荷物を預かっておいてくれるって言ってたけど・・・・・あのマンション、どんな人が住んでるのかな。変な人がいなきゃいいけど・・・) 僕は、電車が入線してくるまでの間、ぼんやりと、新居のことを考えていた。1か月ほど前に、ヤマトの人事部から連絡があって、僕の新居は借上げマンションだということがわかった。僕としては、会社の独身寮が良かったんだけど、今は、どこの会社も、維持管理費のかかる福利厚生施設はどんどん手放していて、借上げマンション方式のところが大半だったから、文句は言えない。1LDKで、あの家賃では少し安いけれど、所有者にとっては、大会社に借上げてもらえば賃貸料未払いなどのリスクはないから、それで十分、採算がとれるんだろう。それに、第二新東京市は、物件の供給ラッシュで、今はやや供給過剰気味だから、賃貸料の相場も下がっているんだろう。早速、僕は、そのマンションの管理人さんに電話をかけて、引越しの日時を知らせるとともに、僕が到着するまでに届いた荷物を一時的に預かってくれるように頼んでおいた。管理人氏は、口調から推測すると、かなりの年配のようだつたので、僕は一抹の不安を感じていた。 やがて、電車が入線してきて、ドアが開いた。僕が22年間住んできた街は、普通列車しか停まらない小さな街なので、降りる人はほとんどいない。土曜日の午前中なので、やはり電車も空いていて、空席だらけだった。だけど、僕は、座席には座らずに、ドアのところに立って、外を見ていた。やがて、電車が動き出すと、僕の慣れ親しんだ建物や山河が車窓に流れ始めた。いつも初詣に行っていた神社の社殿と石段、盆踊りの行われるお寺の本堂、子供の頃にザリガニを採った小川、僕の片想いの相手が住んでいた丘の上の大きなマンション・・・・・。 やがて、さっき抜けてきた桜並木が、そして、僕の家が見えてきた。僕の部屋からは、この線路がよく見えた。毎朝、いつも決まった時間に窓を開けると、駅を出る電車が見えたものだった。たまに、事故のため、電車が不自然に停まっていて、慌てて僕は駅に走ったりしたけど・・・・。その、僕の部屋の隣の窓、そこは物干し台に通じているのだが、その窓が今、なぜか開けられていた。 (あれ? 出かけるときに閉め忘れたかな? まあ、そのうちに母さんが気づいて閉めてくれるだろう) 僕がやや不審に思ったとき、不意に、その窓から誰かが物干し台に現れた。眼鏡、髭・・・・・父さんに違いなかった。父さんは、物干し台の先端まで来て、僕の乗った電車をみているようだった。 (・・・・父さん・・・・・やっぱり心配なんだ・・・・あんまり関心の無さそうな顔してたのに・・・・) 父さんは、僕の就職活動が佳境に入ってくると、ほとんど必要最低限のことしか、話し掛けなくなった。内定が決まったときも、「ヤマトか・・・・問題ない・・・・・」ってつぶやくと、そのまま新聞に視線を落として、記事を読み始めてしまった。べつに褒めてほしいなどとはさらさら思わなかったが、実の息子の内定に際して、こんなに冷淡な反応で済ませる親があろうか?さすがに、僕が複雑な 顔で、リビングを出ようとすると、母さんが追いかけてきて、「お父さんは、シャイだから、ああいうこと言ってるけど、ほんとはすごく嬉しいんだから。わかってあげてね」って言ってた。その翌日、庭に置いてあった下駄の歯が激しく折れていたので、母さんに尋ねたら、「シンジが部屋に戻った後、父さんが庭中を跳ねまわって、下駄の歯が折れたのも気づかないくらいだった」って言ってたけど、僕は母さんが取り繕うために作った作り話ではないかと半信半疑だった。その父さんが、今、僕を見ている。正確には、僕の乗った電車をみているのだが・・・・・。僕は万感胸に迫る想いで、自宅を見つめつづけた。不意に、何かがこみ上げてきそうになって、僕は、慌ててドアを離れると、座席に腰を下ろした。 「コーヒー、アイスクリーム、ビール、いかがですか? 熱いお茶もございます!」 僕のそんな、ちょっとセンチンタルな回想は、突然、車内販売の声によって妨げられた。列車は既に第二新東京駅にかなり近づいている。僕は、いつも妄想や回想の多いほうだが、初めての一人暮らし、ということで、いつにも増して、精神的に不安定なのかもしれない。かなり長い時間、ぼんやりと外の景色を眺めながら、回想に耽っていたようだ。 (取りあえず、将来のことを考えないとな。回想してても、何も先には進まないし・・・・) 僕が車窓から顔を離して、椅子に座り直したとき、第二新東京駅到着を告げる車内アナウンスが聞こえ始めた。僕は、慌てて、荷物を頭上のボックスから降ろすと、少しよろめきながら、デッキへと歩き出した。 第二新東京駅は、休日ながら、相当の混雑だった。そんな人込みをかき分けて、僕はニュートレイン(路面電車)の環状5号線に乗った。僕の会社であるヤマト銀行本店を始めとする大企業の本社オフィスの入っている高層ビル、そして各省庁、市庁舎などが立ち並ぶ中心部を過ぎると、車窓にはやがて比較的新しいマンションや戸建て住宅が見え始めてきた。そんな郊外の閑静な住宅地の中に、僕の降りる駅「新鹿瀬」はあった。どこにでもあるような、ほんとうに平凡な駅だった。駅前にはお定まりのコンビニエンスストア、パチンコ店、ファーストフードショップなどが軒を連ねている。僕は、会社の総務部からメールで送られてきた地図を見ながら、少しだけ心細い気分を味わって歩いていた。ずいぶんと長く歩いているような気がした。 (なんだよ。メールには、駅から10分とか書いてあるけど、実際にはもっと遠いんじゃないか?・・・・不動産屋の宣伝じゃないんだから、事実をちゃんと知らせて欲しいよな) 土曜日のお昼、暖かい陽射しの下、僕は少しだけ冷たさの残る風を感じながら、立ち並ぶマンションの間を歩いていた。ふと、時計を見ると、駅を出てから、ちょうど10分程度経っていた。 (なんだ、ほんとに10分しか経ってないや。でも、遠く感じるよな・・・・・えっと、この辺のはずなんだけどな。あ、あれだ!) 僕は少し小走りになりながら、あまり大きくない中層マンションを目指した。マンションのエントランスの壁には、よく磨かれた金属板に「コンフォート17」と彫ってある。 (・・・・ここだ・・・・まず、管理人さんに挨拶しないとな。荷物の引き取りもあるし・・・・・) 僕は、エントランスをおずおずと進むと、管理人室のの受付窓口に脇に設置されているインターフォンを鳴らした。 ピンボーン・・・・・・・誰も出てこない。 僕は、もういちどインターフォンを鳴らした。 ピンボーン・・・・・・・誰も出てこない。 さすがに僕は焦りを感じて、インターフォンを乱打した。 ピポピポピポピポピンポーン・・・・・・・反応はない。 (やれやれ、留守か。なんてこった・・・・・取りあえず、先に部屋に行ってみるか) 僕は、床に下ろしておいたバッグを持ち上げると、マンションの中に通じるガラスの扉の前にたった。ドアが開かない。 (ん? 開かないな? 接触が悪かったのかな?) 僕は一歩退くと、もう一度、ドアの前に進んだ。やっぱり開かない。僕は、困った顔で、あたりを見回して、そして納得した。 (・・・・・オートロックだ・・・・・・やれやれ・・・・・・) 非常に困ったことに、僕はオートロックの解除番号はまだ教えられていない。 (仕方ない。住人の誰かが通りかかるか、管理人さんが帰ってくるのを待つしかないな) 僕は、仕方なく、オートロックの扉の前の壁にもたれかかると、誰かが現れるのを待った。しかし、小一時間経っても、誰も通りかからない。やがて、立っているのも苦痛になってきたので、僕は、エントランスの床に腰を下ろして、体育座りになった。床の冷たさが直に体に伝わってきて、惨めな気持ちが倍増する。 (・・・・・なんで、僕だけ、こんな目に・・・・・・) 昼とは言え、エントランスの中は、やはり少しほの暗い。そんなところで、良い若い者が昼間っから膝小僧を抱えて体育座りをしていれば、目立たないはずはない。マンションの外を通る人は、僕の存在に気がつくと、一様に怪訝な顔をして、足を速めるか、あるいは立ち止まって、僕を眺めるかのどちらかだった。 (・・・・・これじゃ、見世物だよ・・・・・) 外からは、小さな女の子とその母親の会話も聞こえてきた。 「あのお兄ちゃん、何やってるの?」 「しっ、目を合わせちゃ駄目よ」 僕は、ますます惨めな気持ちになって、体を堅くして、膝小僧を強く抱きしめ、顔を埋めて俯いた。 (・・・・・なにも悪いことなぞしてないのに・・・・・・) 僕が思考のループにはまりかけたとき、突然、エントランスの外側の扉が開いた。はっとして、僕が顔を上げると、20歳台後半と思われる髪の長い女の人が立っていた。さすがに、厳しい警戒の表情をあらわにして、僕を見下ろしている。 「ちょっと! あんた、こんなトコに座って、何やってんの!? 不法侵入なら、警察呼ぶわよ!ここ、近くには交番もあるんだから!」 僕は、あたふたと立ち上がると、自然と直立不動の姿勢になった。 「ぼぼぼぼ、僕は、今日、こ、ここに引っ越してくる予定の者です・・・・・それで、さっき着いた見たら、管理人さんがいなくて、中に入れなくて・・・・それで・・・・・」 さんざん長い間、冷たい床の上で待たされた挙げ句、今度は「警察に突き出す」などと脅されて、僕は内心、涙目になっていた。心なしか、体が小刻みに震えている。それは、この人の迫力が生半可なものじゃなく、僕の返答次第では、本当に警察に突き出しかねない勢いだったからもある。僕は、体の震えを止めようとして、両手両足に力を込めたけど、震えは止まらなかった。 「それで、オートロックを解除できなくて、ここに座っていた、というわけね。で、あなた、何号室に入る予定なの?」 その人は、全く警戒の表情を緩めることもなく、僕に向かってさらに問い掛けてきた。僕は、まるで、尋問されているみたいだった。 「え、えと、3階の3号室、133です。管理人さんには、荷物も預かってもらっているんですが、ピンポン押しても、誰も出てこないし・・・・」 僕は、気が動転して、インターホンのことをピンポンなどという俗語で呼んでいることにも気づかず、疑いを解くのに必死だった。 「ふーん。それじゃ、あなた、名前は? それと、どこの会社?」 髪の長い女性の尋問は続く。 「い、いかり、碇、シンジです。会社は、ヤマト銀行で、あ、でも、まだ就職していなくて、あ、いや、まだ入社式前で、4月から採用される予定で・・・・・」 僕は、しどろもどろになりながらなんとか答えると、捨てられた子犬のように脅えた目で、彼女を見上げた。数秒間、彼女は、厳しい眼差しで僕を睨んでいたが、やがて不意にニヤッと笑った。 「ようこそ、コンフォート17ヘ! 私、131の葛城ミサト、よろしくねん!」 僕は彼女の変貌振りに驚きながらも、取りあえず虎口を脱したことを感じて、少しほっとしていた。 「葛城さんですか。こちらこそ、よろしくお願いします」 「あ、まだ脅えてるみたいね。ごめんねー、最近、ここも犯罪が増えてて、オートロックかけてても、よく得体の知れない人が入り込んだりするから、こっちも警戒しなきゃいけないのよ。ほんと、物騒な世の中だからね。とくに一人暮らしだと、こっちも相当、神経つかわないと、マジで危ないのよ。とくに、ア・タ・シみたいな美女はねー!あ、『葛城さん』なんて、他人行儀な呼び方はしないでいいわよ。そんなふうに呼ぶの、うちの会社の人だけだから。『ミサト』でいいわよ、『ミサト』で!」 一転して、人懐っこく喋りまくる彼女に、僕は圧倒されていたが、徐々にいつものベースを取り戻しつつあった。 (葛城ミサトさんか・・・・奇麗な人だな。ただ、惜しい・・・・少し、というか、かなり、僕より年上だな・・・・・僕のストライクゾーンからは、ちょっと外れている・・・・・まあ、悪い人じゃなさそうだから、ありがたいや・・・・・ 「それはそうと、あの・・・・ミ、ミ、ミサトさん、管理人さんがどこ行ったか、ご存知ですか?」 今まで、女性を下の名前で呼んだことなんて一度もないので、僕は、とても違和感を感じていたが、相手がそう呼べと言っている以上、仕方ないので、僕は少しだけ照れながら、ミサトさんに管理人の所在を質した。 「うーん、どっかに行くなんて一言も言ってなかったし、あたしが出かける前には、確かに管理人室にいたんだけどね。あっ、もしかして!」 ミサトさんは、俊敏な動作でオートロックのボタンを押してガラス扉を開けると、管理人室の扉の前に走り、いきなり扉を拳でガンガンと叩き始めた。 「たぶんね、管理人のおっさん、また昼寝してるのよ! ったく、天気の良い休日はいつもこうなんだから!これだから、最近、休日に宅配便が届かないのよねー!」 叩きつづけること数分にして、管理人室の中から、何者かの声が聞こえてきた。 「ああ、はいはい、今開けますよ。そんなにどんどん叩いたら、ドアが壊れてしまいますがな・・・・」 ガチャリという、チェーンを外す音とともに、ドアが開いて、中から頭の禿げ上がった管理人が現れた。率直に言うと、管理人と言うより、まるで僧のような風貌だ。 「壊れちまいますがな、じゃないでしょうがっ!また、昼間っから、昼寝して!宅配便が届かないのは、あんたの仕業ね!」 「ほほう、これは至極当然なことを申される。昼間に寝るから、昼寝というのです。夜に寝ることを、昼寝とは申されませんでしょう?ふおっふおっふぉっ」 現れた管理人は、禿頭を二三度、つるりつるりと撫で回すと、最後に締めるかのように、ぴしゃりと叩いた。 「そんなごたくをならべている暇があったら、新入りさんの面倒みてやんなさいよ」 ミサトさんは、くるりと振り向くと、茫然とたたずんでいる僕を指差した。 僕は、おずおずと進み出ると、管理人に向かって頭を下げた。 「あ、この間、電話でお話した碇シンジです。荷物を預かっていただいて、どうもありがとうございます」 「おお、そうじゃった、そうじゃった! 今日じゃったな、引越しの日は・・・・・よくおいでになられたの。荷物はきっちり預かっておりますよって、心配御無用じゃ。共用会議室に置いてあるよって、これからお連れしましょう。ついてこられよ」 管理人は、人懐っこそうな笑顔を僕に向けると、先に立って歩き出した。管理人室と廊下を隔てた反対側に共用会議室はあった。かなりの広さだ。 「ここが共用会議室じゃ。このマンションの住人が集まって、いろいろなことを決めたりするのに使うはずなんじゃが・・・・」 そこまで言うと、管理人は、ミサトさんの方を振り返って、意味ありげにニヤリと笑った。 「な、なによ! 宴会場に使ってるのは、あたしだけじゃないでしょ! そういう熊野のおじさんこそ、喜んで参加しているじゃないの!人のことは言えないわよ!」 ミサトさんは、悪事を暴かれた悪人のように狼狽していたが、すぐに逆襲に転じた。 「あ、それはそうと、今日、6時から、ここで新入りさんの歓迎会やるから参加してね。今年は、転勤やらなにやらで、転出者が多かったし、そのうえ、景気も良くなって、ここに本社を置いている会社が採用増やしたりしたから、新人さんの入居が多いのよ。碇君を含めて、9人なの。古くからいるのが6人だから、ほとんど半分が入れ替わっちゃったわけね」 「結婚して出ていった者も多かったが・・・・なあ、葛城さんや」 「ぐっ、あたしに振らないのっ! 悪うござんしたねぇ、いつまでもここに居座って!こんなマンション、結婚したら、さっさと出ていっちゃるから!」 「結婚できれば、の間違いじゃろ。なかなか、思うようにならないのが、世の常じゃ。ところで、その手に抱いているのは、本日のパチンコの戦果かな?食い物じゃったら、本日の宴会に供出すると、皆にありがたがられるがのう。あ、いや、食い物ではあるまいな。なにやら芳醇な香りが漂っておるから、大方、洋酒じゃろうて・・・・」 「匂うわけないじゃないの、カニ缶なんだからっ! あっ!」 しまった、とばかりに口を手で覆うミサトさん。一方、管理人は、我が意を得たりと言わんばかりの満面の笑顔だ。 「ほっほっほ、語るに落ちる、とはこのことじゃ・・・・幸せはみんなで分けると、より効用が高くなるものじゃ」 「くーっ、またやられたわ。わーったわよ、今日の宴会に供出すればいいんでしょ。たまの大当たりなのにぃ・・・・」 (えらいところに来てしまった・・・・・) 僕は、実家とはあまりに違う環境を目の当たりにして、ただただ茫然と立ちすくむよりほかになかった。 「そこに台車があるじゃろう? 荷物はそれに載せて運ぶとよろしかろう。それから、オートロックの解除番号は14534989じゃ。覚え方はの・・・・」 管理人は、そこまで言うと、ミサトさんを振り返った。 「一死降参、四苦八苦、よ。縁起でもない。じゃ、碇君、後でね。」 ミサトさんは、一瞬、顔を大袈裟にしかめてみせたが、すぐににっこり笑って、その場を立ち去っていった。 「それと、これが取りあえず、部屋の鍵じゃ。付け替えても良いが、スペアキーは預けて下されよ。万一のときに入れないと、まずいですからな。いや、留守中に上がり込んだりせんから、安心なされ。さて、それじゃ、わしも、部屋に戻るとしようか。何か、困ったことがあったら、何でも遠慮のう相談してくださいよ。」 管理人も人懐っこそうに笑うと、共用会議室を後にした。 (この人も悪い人じゃないんだ・・・・・) 僕は管理人の後ろ姿を見送ると、早速、届いていた荷物を台車に載せて運び始めた。エレベーターまで使って8往復するのは、なかなか事だったけど、それでもなんとか終わらせて、荷物をすべて部屋の中へ運び込んだ。そのうち、管理人さんが呼びに来て、ベッドが届いたことを知らされて、またまた1階に降りて、運送会社の人を案内したりして、なかなか慌ただしい数時間が過ぎた。本当は相当疲れているはずなのに、あまり疲労は感じていなかった。まだ梱包も解かれていない引越荷物が散在する中で、取りあえず、セッティングされたベッドの上に大の字に寝ると、僕には、初めて新しい生活が始まったという実感が湧いてきた。 (・・・・・よし!・・・・・) 僕は自分に気合いを入れて、ばっと起き上がると、散在する荷物の整理に取り掛かろうとした。そんなとき、僕の携帯電話ガ鳴り始めた。ちなみに、地域電話会社に手続きに行ってないので、部屋の電話はまだ通じていない。僕は、ベッドから降りると、携帯電話を手に取った。 「もしもし、碇ですけど」 「・・・・・シンジか・・・・・私だ・・・・・部屋の整理は一服したか?」 「父さん!・・・・どうしたの?」 僕の脳裏には、今朝の光景が一瞬にしてよみがえった。桜並木の下で、いつまでも僕の背中を見つめつづけた父さん。物干し台にまで出て、僕の乗った電車を見つめていた父さん。僕は、いつになく、強い親近感を感じながら、携帯電話を持つ手に自然と力を込めた。 「・・・・・・・今朝から、私のトランクスが見たらない。間違って持っていっていないか?家中くまなく、見当たらない。考えうる可能性は、お前が持っていったということだ・・・・今朝、物干し台に出て、トランクスを探しているときに、駅から出て行く電車をみて、その可能性に気づいたのだ」 (そうか、そうだったのか、そういうことか! 僕が感傷に浸って見つめていた父さんの姿は、自分の下着を探しに物干し台に出てきたときのものだったのか!) 僕は自分が可笑しくなった。もともと、そんな感傷に耽るような父さんではない。そりゃ、確かに桜並木では僕のことを案じてみていたかもしれないが、家に戻ってから、ひとりで、そっと旅立つ息子を眺めるなんてのは、父さんの柄じゃない。僕は、なんだか無性に可笑しくなった。笑いをこらえながら、引越荷物の中の、「シ」(下着の意味)の字がマジックで書かれてあるダンボールを開けると、見事に父さんのでかいトランクスが入っていた。大方、僕が慌てて、間違えたのに違いない。 「ああ、あったよ。ごめん。僕が間違えて持ってきちゃったみたいだ。すぐに返送するよ」 「お前には失望した。あれがないと、非常に困る。すぐに返送しろ」 いつものように用件だけ言うと、電話は切れてしまったが、僕は、父さんが困った顔で、必死になって下着を探している姿を想像して、しばらくの間、部屋の中をごろごろと転げまわって爆笑した。おかげで、すっかり感傷は吹き飛んでしまった。すべてが吹っ切れたように、あまりにも長い間、洪笑していると、突然、隣室から、壁をドンと蹴られた。それで、初めて、僕は隣人の存在を認識したのだった。 (いけね・・・・そう言えば、まだ隣に挨拶に行ってなかったよ。引越しでばたばたして、隣にも相当、迷惑かけたからなあ・・・・) 僕は、近隣に挨拶をするべく、部屋を出て、まず右隣の部屋の前に立った。さっき、壁を蹴っていた人へとの対面を控えて、僕はいやがおうにも、緊張していた。 |
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