第2章:最初の春
第8節:濃密な予感
今日は週末だということもあってか、外はとても静かで、時々も自転車の通り過ぎる音が聞こえるだけだ。僕は、少し緊張気味に息を飲むと、チャイムを押した。チャイムの隣には、「防犯警戒システム作動中」という謎のステッカーが貼ってある。

「・・・・はい? セールスなら、間に合ってます・・・・」

一見して、非常に不機嫌だということが理解できる低い声だ。僕は、既に予見していたことにもかかわらず、やはり胃液の分泌が促進されているのがわかった。

「あ、ええと、今日、隣に越してきた碇です。ご挨拶にまいりました」

「あー、はいはい、今、開けますよって・・・・」

隣室の主の声のトーンが一段と低くなったような気がした。そのうち、ガチャリとチェーンを外す音が聞こえ、続いて2つある錠のロックを解除する音が聞こえた。

「今日はなんやさっきから、どそどそ音がしよったけど、あんたはんが引っ越してきとったんですか。まあ、いろいろ運び込むものがようさんあったようですな。ほんま、裕福な人はうらやましいですわ。あ、わし、鈴原いいます。今後とも、よろしゅうに」

どことなく見覚えのある顔だ。僕は記憶の糸を必死で手繰り寄せたが、はっきりとは思い出せなかった。ただ、きっと忘れてしまいたいほど、嫌な記憶だったにちがいないと感じていた。先方の言葉も、一応、柔らかい節回しであるものの、目は笑っていない。

(あちゃー、これ、完全に怒ってるよ。早々に挨拶に行けばよかったな。まずった・・・・・)

僕は必死で、最高の作り笑顔を見せながら、一礼した。

「あ、碇です。こちらこそ、よろしくお願いします。ええと、この4月から、ヤマト銀行に勤務することになりました。」

僕が軽く自己紹介をすると、彼は、僕の爪先から頭のてっぺんまでをじろじろと眺めた。

「ああ、ヤマトですかいな。わしは、産島建設です。4月からの新入社員ですよって、あんたはんと同じですな」

相手は「あんたはんと同じですな」などと言っているが、全く親近感を感じさせない、冷たい目で僕をみている。これほど如実に「社交辞令です」という態度を示されると、さすがに、この場を退散したい気持ちが激しく強まってくる。

「あ、そうですね。これからもよろしくお願いいたします。ども、お休みのところ、お邪魔して申し訳ありませんでした」

「とにかく、うるさくだけはせんといて下さい。それじゃ、おおきにさようなら」

鈴原氏は、取りつくしまもないように、素っ気無く言うと、バタンとドアを閉めた。僕は、緊張の糸が切れると同時に、とても激しい疲労を感じた。

(これからずっと、あんな、気難しそうな、イヤミたらたらの関西人と隣り合わせで住まなきゃいけないのか・・・・・なんか、いろいろと気を使わなきゃいけなさそうで、息が詰まりそうだな・・・・あー、気分が滅入ってくるよ・・・・巡り合わせが悪いな・・・・・)

そんなことを考えながら、ドアから離れようとしたとき、部屋の中から、彼の吐き捨てるような声がかすかに洩れてきた。

「ほんま鈍臭そうな、虫の好かん奴やな! あー、先が思いやられるわい!」

(なにが、「先が思いやられるわい!」だ。それを言いたいのは、こっちの方だよ。)

僕はさすがに憤然とした気持ちでドアを睨み付けると、今度は左隣の部屋に向かった。

(また、変な奴だったら、悲惨だよなあ。とっとと引っ越したほうがいいかも・・・・・しかし、会社の借上げ社宅だから、そう簡単にはいかないし・・・・・やれやれ・・・・・・)

僕はずーんと暗い気分に包まれながら、チャイムを押してみた。返事はない。もう一度、押してみた。返事はない。

(・・・・留守か・・・・仕方ない。出直そう)

僕は踵を返しそうとしたとき、明らかに部屋の中で、ごそっ、という音がした。

(誰かいるのか。それならなんで、出で来ないんだよ? もしかして、居留守か?そうか、きっと、ドアのところの覗き窓からぼくのことをみて、それで出てこないんだ・・・・・はは、もうひとりの隣人にも嫌われたってわけか・・・・・上出来だよ・・・・・)

僕は、自然と自嘲気味の微笑みが浮かんでくるのを感じながら、とぼとぼと自室に戻った。とても激しい疲労感を感じて、ベッドの上にひっくり返ると、僕は軽く目を閉じた。

(こんな劣悪な環境とは、想いもしなかったよ。こんなことなら、社宅なんか入らずに、経済的に苦しくても、自分でどっか、部屋を見つければ良かったな。仕事で疲れて帰ってきても、くつろぐこともできないような部屋じゃ、帰宅拒否症になっちゃうよ。・・・・・って、厭世的になっててもしょうがないよな。まず、この荷物をなんとか片づけないと、お茶も満足に飲めやしない・・・・)

春の西日が緩やかに差し込む部屋で、僕は憂鬱な気持ちでベッドから起き上がると、のろのろと引越し荷物の梱包を解き始めた。
当分の間、転勤はなさそうだし、無論、結婚して転居することなんて全く考えなかったので、僕は、ここに長く住むことを覚悟して、いろいろな家具や電化製品を買い揃えていた。パソコン兼用の壁掛け型液晶テレビ、湯沸かしポット、冷蔵庫、エアコン(これは配達業者の人に取り付けてもらった)、食器洗い機、電子レンジ、テーブル、本棚、S−DAT、DVDプレーヤー、アイロン、乾燥機兼用の洗濯機・・・・。
自分としても、実は相当の出費で、家庭教師のバイトで稼いだ貯金はほとんど飛んでしまった。両親に無心すれば、自分の懐を痛めなくても済んだんだけど、やはり、甘えたくなかったから、無理して自分の予算で買い揃えたのだった。ちなみに、僕は車は持っていない。とにかく運動神経というか、反射神経の鈍い僕は、多分、免許を取ってもすぐに人身事故を起こしてしまうことが、容易に想像できたので、学校でも周りの知り合いたちがどんどん車を買う中で、僕はもっぱら公共交通網に依存した生活を送っていた。それに、「彼女とドライブ」なんて、洒落た必要性も、ついに生じなかったし・・・・。おかげで、貯金だけは比較的貯まっていたんだけど、それも、こうした生活物資のために消えてしまった。

いざ、片づけ終えてみると、僕の部屋は生活物資にかなりのスペースを占有されていた。僕は、少し暗くなってきた外の景色をちらっと眺めると、小さな椅子に腰掛けて、ポットからアルミ製の小さな急須にお湯を入れた。
ほんのりと立ち上ってくるお茶の香りに癒されながら、僕は夕方の気配を僅かに漂わせ始めた街の景色に視線を移した。すぐ近所の税務署は、休日なので人の出入りもなく静まり返っている。遠くに見えるガソリンスタンドでは、小型のタクシーが天然ガスの供給を受けていて、愛車の傍らでは、運転手が軽く体操をしている。マンションの近くの歩道をスーパーのレジ袋を提げた母親と小さな男の子が歩いていく。
僕は、そんな二人の後ろ姿をぼんやりと視線で追いながら、煎茶を口に含んだ。口一杯に広がるかぐわしい香りと暖まる体。さっきまでの疲れが、ほんの少し解消されたような気がした。

(・・・・・そういえば、住民票の移動とか、地域電話会社との契約とか、やらなきゃいけない手続きがいっぱい残ってたなあ・・・・)

僕は、残りのお茶をぐっと飲み干すと、コートを軽く羽織って立ち上がった。春とはいえ、夕方近くともなると、やはりまだ薄ら寒い。とくに、ここは東京や横浜よりも北に位置しているうえ、内陸なので、気温が低いような気がする。僕は、小さなカバンを持つと、そのまま部屋を出た。部屋の鍵をかけながら、ふと手を止めて、耳を澄ませて隣室の方に視線を投げかけたが、何の物音もしなかった。

(ま、厄介な隣人とも、四六時中、顔を突き合わせているわけじゃないんだから・・・・・)

僕は自分に言い聞かせるように、そんなことを考えながら、鍵をかけおえると、エレベーターの方に向かった。マンションの中は、しんと静まり返っていて、誰も住んで居ないかのようだった。マンションというものは、通路に面した鉄の扉の内側には、それぞれの生活があるはずなのに、それを微塵も感じさせない。

(所詮は、他人の寄せ集まりだからな・・・・・)

それまで家族と一緒に暮らしてきた僕は、いろいろな制約があるから、そんな生活を必ずしも好きだったわけじゃなかったけど、なんとなく、今の、この冷たい空間には乾いた違和感を感じていた。

マンションを出た僕は、そのままぶらぶらと駅の方に歩いていった。予想通り、少しだけ風が冷たい。さっきは、なんとか目的地に着くことばかりを考えていたので、駅からマンションまでの景色は全くといっていいほど記憶に残っていなかったけど、今度は落ち着いて周囲を見渡す余裕があった。

(なんだ、意外と近いじゃないか)

マンションから駅までは、意外と近かった。少なくともさっき、不安な気持ちを抱きながら、駅からマンションまで歩いてきたときに比べて、確実に近いような気がした。でも、時計をみると、さっきとほぼ同じ所要時間だった。

(気の持ちようで、時間とか距離の感覚すら変わるんだな)

僕は、そんな当たり前のような感慨を抱きながら、駅の構内に足を踏み入れた。小さな駅舎なので、目当ての端末はすぐに見つかった。僕は端末に、ICカードを挿入すると、住民票の移動手続きを進めた。このICカードには、電子財布のほかに、社会保険番号や納税者番号などが記憶されていて、それで行政サービスが受けられるようになっている。端末は24時間稼動で、いつでも待たずに住民票の移動や各種届出を受け付けてくれる。おかげで、離婚も、届け出が曜日や時間に関係なくできるようになったので、頭を冷やす時間を置かないまま、離婚に踏み切ってしまう人が増えているらしい。僕は、淡々と手続きを進めながら、そんな新聞記事を思い出していた。ついでに、隣の端末で、地域電話会社との契約を済ませてしまうと、僕は券売機にICカードを挿入して、会社までの定期券を買った。当然、券面は出てこない。ICカードの中に、定期券の情報が記憶されているので、明日からは、駅の自動改札に、このカードを近づけるだけで通れるようになる。

一通りの手続きを済ませてしまうと、僕は少しだけ解放感がこみ上げてきた。

(・・・・・本屋でも探してみるかな・・・・・ミサトさんが言ってた宴会にもまだ時間がありそうだし・・・・・・)

僕は、駅前の商店を軽く眺めながら、マンションに戻ることにした。パチンコ屋、花屋、コンビニ、スーパー、そば屋、中華料理店、チェーンの定食屋や居酒屋、そして焼肉屋・・・・・いろいろな店がある中で、もはや荒物屋、家具屋、洋品店、鮮魚・青果・食肉店は見当たらない。スーバーやロードサイドショップ、大型専門店に取って代わられてしまっているのだ。僕が中学生のときに大規模小売店舗立地法が大幅に改正されて、出店規制が大きく緩和されてから、商店街の様相はどこも一変していた。それまでも、櫛の歯の抜けたようにように、閉鎖店舗が目立っていたけど、法律施行後は、あっという間に小さな商店はほとんど一掃されてしまった。今では、純然たる個人商店は、そば屋や中華料理店ぐらいで、パチンコ屋も花屋も、みんなチェーンやフランチャイズに加盟している。

結局、目当ての書店は見つからなかった。

(やっぱり、こんな小さな駅の近くじゃ駄目なのかな。ターミナル駅まで行かないと駄目か・・・・)

僕は少しだけ落胆しながら、それでも、とくに急ぐわけでもなく、マンションに向かった。商店街を抜け、住宅街に差し掛かったとき、ふと、ある芳香が僕を捕らえた。

(・・・・・コーヒーのばい煎だ。これって、まだ喫茶店があるってこと?)

もうずっと以前から、個人経営の喫茶店なんてものは、ほとんどみかけなくなっている。確かに、一部の高級店は厳然と生き残っているけど、かつてはどこの街にもあった「個人のマスターがやっている喫茶店」は、ほとんどお目にかかれない。みんな価格の低いチェーン店に負けてしまったんだ。僕は、なつかしい、かぐわしい香りにひかれて、その源を訪ねて歩き出した。角を回り込むと、その喫茶店は、あった。マンションの1階に店舗が入っている。

(・・・・どうせ、地主が道楽で喫茶店でもやってるんだろう。あんまり期待できないな・・・・・・)

僕は少しがっかりしながらも、それでも、手は木のドアノブにかかっていた。少し歩きつかれていたせいかもしれないし、心の底で、ちょっとしたノスタルジーを追ってみたかったのかもしれない。木のドアは少しだけ重かったが、音もなく開き、中から暖かい空気と、あの芳香が僕をふわっと包み込んだ。

「いらっしゃいませ」

よく磨かれたカウンターの向こうには、品の良さそうな白髪の男性が穏やかな微笑をたたえて立っている。僕は、主人とおぼしきその男性に軽く目礼すると、窓の近くの席に腰を下ろした。

そう広くもない店内には、ところどころに額縁に収められた写真が飾ってある。僕は、メニューをみるよりも先に、その写真に視線を移した。ぼうっと見ているうちに、その写真がすべてある都市のものであることに気づいた。やがて、主人がお冷やを持ってきてくれたとき、僕は思い切って尋ねてみることにした。

「あの・・・・全部、パリ、ですよね。それもセーヌ左岸・・・・」

主人は少し嬉しそうに写真のひとつに目をむけた。

「おわかりになりますか? 若い頃、パリに留学していましてね。そのとき、よく行ったんですよ、ここには」

「そういえば、お店の名前も・・・・」

「そう、アンパリッド、つまり廃兵院です。あの近辺、大好きでしたのでね。それに、役立たずの老いぼれの私がいる、ということでも、まさにこの店にぴったりの名前でしょう」

主人は、おかしそうに軽く笑った。

「僕も行ったことあるんですよ、アンバリッドには。前庭に、青銅製の大砲が置いてあって、下関戦争のときにフランス海兵隊が長州藩の砲台から持ってきた戦利品だって説明されていました。なんか不思議な気持ちでしたよ」

僕は高校3年生のときに、父さんに連れられてフランスに行ったことがある。夏休みに入ってすぐ、僕が部屋で本を読んでいると、出張中の父さんから手紙が届いたんだ。開封してみると、たった一言、「来い」って書いてあった。別に、それだけ短い言葉なら、手書きにすればいいのに、律義にワープロで打たれている、その文字を見ながら、「父さんらしいや」って苦笑しながらも、初めての海外旅行という誘惑には抗し難く、そそくさと旅行準備をはじめたんだった。父さんの滞在先のパリでは、お決まりの観光コースを回って、その中でアンバリッドにも行ったんだ。ナポレオンの墓所、というだけの認識しかなかった僕は、初めて、ルイ14世時代の対外戦争によって急増した傷病兵のための国家施設だったことを知って、ちょっと驚いたものだった。

僕の懐かしそうな言葉を聞いて、主人はまた柔和に微笑むと、話を続けた。

「当時、私は会社から派遣されたのです。大学でフランス語を取っていたこともあったんですが、私としては、なんとも不満でしてね。同期は、フランクフルトか、ロンドンに出されていたのに、私だけがパリ。大都市ではありますが、少なくとも、EUの金融経済の中心地とは言えませんからね。あ、いろいろと長話して申し訳ありません。ご注文は?」

「あ、ああ、モカにします」

僕も慌てて答えると、主人はカウンターの内側に入って支度をはじめた。再び静寂が訪れたけど、僕は騒々しいところよりも、こういう静かなところの方が好きなので、とても心地よかった。それに、主人とも話してみて、いい人そうだとわかったので、決して重苦しい静寂ではなかったし・・・。

やがて、コーヒーのかぐわしい芳香が漂い始めてきたとき、店のドアが開いた。

「ただいま。あ、お客さんいらしてたんだ。私が代わるから、お父さんはもう良いよ。仕事も忙しいんだし・・・」

主人の娘らしい、その人は、僕と同じくらいの年齢だった。謹厳実直、冷静沈着を絵に描いたような父親と違い、ショートの茶髪が良く似合う活発そうな女の子だ。主人は、僕に向かって苦笑してみせた。

「娘がいないときだけ、こうして店番をするんです。私自身、別の仕事はあるんですが、ここの店の仕事も好きなものですから・・・・。それじゃ、私は、家に戻ってるよ」

主人はそう言うと、店の奥のドアを開けて、自宅らしい隣室に入っていった。

やがて、先ほどの女の子が、コーヒーを運んできてくれた。僕の大好きな芳香が鼻腔を満たしていき、思わず、僕は目を細めた。

「コーヒー、お好きなんですね」

そんな僕の様子をみて、女の子が嬉しそうに微笑んだ。僕は、自分が緊張を全部解いたような表情をしているのに気づくと、急に恥ずかしくなった。

「ええ、父親がコーヒー党でして・・・・。子供の頃から、紅茶よりコーヒーでしたから。」

僕は、そんな理由にもならないようなことを答えると、照れ隠しのように、カップに手を伸ばした。そんな僕を一瞥して、彼女は再び暖かく微笑むと、「では、ごゆっくり」と言って、カウンターの内側に戻っていった。


**********


あまりにも静かで居心地のよいため、僕は喫茶店に長居をしてしまい、ふと、窓の外が暗くなりかけているのに気づき、慌てて店を出た。マンションが見えてくると、胸の中に、なんとも言えない緊張感と不安感がまぜこぜになった気持ちが湧きあがってくる。

(このマンション、一体、どんな人が住んでるんだろ・・・・隣室の鈴原氏のような変な奴ばっかりだったら、やだなあ・・・・・反対側の隣室の人は、表札も出してないし、なんとなく訳ありって感じがする・・・・・まともなのはミサトさんくらいなんじゃ・・・・・いや、ミサトさんも、あの年齢でパチンコとお酒にはまってるみたいで、ちょっと変わってる人みたいな感じもするけどね、取りあえず普通っぽいということで・・・・あ、でも、もしかして水商売のお姉さんかなあ・・・・・いや、それならそれで、いいんだけど、酔って帰ってきて誘惑とかされちゃったりしたら・・・・・・そんなことはないよな・・・・・そういう甘い期待は抱かないほうがいい・・・・・そうだよ、管理人からして、一風変わった雰囲気が充満してるしね・・・・きっと、ここ、変な人だらけなんだよ。類は友を呼ぶっていうし・・・・いや、そういう法則に従うと、僕まで変な人じゃなきゃ説明がつかなくなるし・・・・)

僕はネガティティブ思考にどっぷり漬かりながら、暗くなりかけた街路を急いで、マンションに入った。実は、予定時刻に少し遅れていたので、早速、集会室に向かったが、近づくにつれて、なんだかにぎやかな声が聞こえ出した。もともと、僕は、学生時代から、大勢の人が集まって騒ぐという宴会は好きじゃない。みんな、うわべだけ楽しく飲んでいたって、本当は深くつきあうのを避けて、その場しのぎの仲良しを演じているいるだけなんだ。決して、わかりあえないし、本音の話なんてできないんだ。単に楽しく飲んで騒いで、それでおしまい。それが、僕の宴会観だった。

僕は、集会室のドアの前に立つと、手をドアノブにかけたまま、ほんの少しだけ躊躇した。

(また学生のときみたいに、つまんない薄っぺらの人間関係が始まるのか・・・・・仕方ないよな、これも社会生活、世渡りのひとつだ・・・・ま、適当に流しておこう。せいぜい2時間ぐらいの辛抱さ・・・・)

覚悟を決めると、僕はおそるおそるドアを押し開けた。それまでのざわめきが、一瞬、途絶えると、みんなの視線が僕に集中した。

(うわっ、何度遭遇しても慣れないなあ、こういうシチュエーション・・・・)

僕は、緊張の余り、少し頬を紅潮させながら、ぎこちなく体を動かして室内に入ると、室内の一同に軽く会釈した。

「あ、遅れてすみません。あ、今日、引っ越してきた碇シンジです。よろ」

「あーっ、アンタ、ヤマト受けに来てた鈍臭い奴!期待して損したー!あー、がっかり!」

「碇君! 覚えてる、私のこと!?ほら、面接の帰りの新幹線で隣に座ったでしょ!」

僕の記念すべき第一声は、聞き覚えのある、二人のお嬢さんの大声によって中断されることとなった。

「な、な、え、あ、う・・・・・えーっ!?あ、あ・・・・あー、えっと、惣流さん、綾波さん、だったよね。覚えてるよ。その節はどうも・・・・。またお会いできて、奇遇ですね、はは、はははは・・・・」

僕は、惣流さんのいきなりの罵声に、少し引きつった乾いた笑いを返しながら、茫然と立ちすくんだ。

(なんで、この人たちがここにいるんだよお!!!???)

内心で滝のような涙を流しながら、僕は助けを求めるような視線をミサトさんに投げかけた。しかし、それは、本当に無駄と言うものだった。

「なーんだ、知り合いだったの? それで、どういう関係、三人とも? まさか、シンちゃんの、彼女だったとか!え、もしかして、それって、三角関係!?いやー、お姉さん、興味津々だなあ!!」

格好の酒の肴を見つけて嬉しそうな叫びを上げるミサトさんに向かって、僕は慌てて説明した。

「いや、あの、その、就職活動のときに、たまたま知り合って、ねえ?」

僕は、たまたま近くにいた惣流さんに助けを求めるような視線に向けた。

「そうそう、面接で一緒だったんだけど、これがほんとに鈍臭くてボケボケしてて、いらいらさせられたわ!アンタ、就職できたの?どんな奇特な会社が採用してくれたのかしらねっ!?」

「でも、碇君は、独創的なことを言ってたわ。それは傾聴に値すること・・・・・。通俗的なことを答えた私たちとは対照的・・・・」

綾波さんは、僕に助け船を出してくれたのはいいんだけど、なんとも言えない冷たい視線を惣流さんに向けて、これまた挑発的な発言をなげ返している。一触即発の雰囲気の中、惣流さんが言い返そうとしたとき、機先を制して、ミサトさんが椅子から立ち上がった。

「まあまあまあ、前振りはそれくらいにして、お楽しみはこれからよ! シンジ君、そんなとこに突っ立ってないで、靴脱いで、あがってらっしゃい。そうそう、その辺に座っててね。さてと、えーっと、皆さん揃ったようなので、新人歓迎会を始めたいと思います!!今年は、結婚、転勤などで1月から2月にかけて、たくさんの人が、このコンフォート17から引っ越されましたが、代わりに、新しい入居者がたくさん来られました。しかも、みんなぴっかぴかのニューフェイス、新人さんばかり!新しい入居者は9名で、古参の住人は6名だから、大きな入れ替わりよね、これは!詳しいことはともかく、まずは、新しい入居者を歓迎して、乾杯したいと思います。皆さん、ビール、行き渡りました?それでは、ご唱和お願いします。乾杯!」

まったく型通りの乾杯をすると、早速、おなじみの拍手が起こる。僕は、少し焦って早足で歩いてきたこともあって、喉が渇いていたので、冷たいビールがなんともおいしく感じた。父さんの決め台詞を借りると、「うむ、五臓六腑にしみわたる・・・・問題ない」というところだろうか。
さっき、ミサトさんに促されて咄嗟に座ったところには、近くに低いテーブルがあって、テーブルの上には、お定まりの酒の肴、つまりいわゆる「乾きモノ」と呼ばれる柿の種やらポテトチップやらスルメなんて物や、一口大のチョコレート、そして、温かそうなピザや鳥のから揚げが所狭しとならべられている。
テーブルを囲んでいるのは、僕のほか、3人だ。3人とも、僕と同年代くらいだで、少し栗色かがった髪の女の子、そして、僕なんか足元にも及ばないような、かっこいい色黒の男、そしてどこかで見覚えのあるようなないような眼鏡の男だ。みんな初対面らしく、まだ言葉も交わしていないので、なんともいえない妙な緊張感が漂っている。

一息つくと、またまたミサトさんが司会進行を続けている。

「新しい入居者は、名前呼ばれたら立ってね、自己紹介してもらうから! まず、ここに立っている子が、碇シンジ君!」

場慣れた手際で、宴会をしっかり仕切っているミサトさんに指示されて、僕は自己紹介を始めた。こういう満座の視線を集めるような、自己紹介は苦手なもののひとつだ。ましてや、いろいろと質問でもされたりしたら、上がってしまって、しどろもどろになるのが関の山だから。

「ええと、碇シンジです。横浜から越してきました。3月に慶徳の経済を卒業して4月からヤマト銀行本店営業部に配属される予定です。そこにおられる惣流さんのご指摘どおり、超鈍臭い奴ですが、どうぞよろしくお願いします。」

一方的にやられてばかりいるのも癪なので、僕は軽い皮肉を込めて惣流さんの名前を出したが、火に油を注ぐ結果となった。完全な情勢判断ミスを犯してしまったのだ。僕の自己紹介が終わるや否や、惣流さんはそれこそ、悪鬼のような形相で僕を睨み付けて、すっくと立ち上がった。

(わ、わわっ、こ、こわいっっっ! 顔だけは殴らないでー!)

本能的に身の危険を感じた僕は、思わず後ずさりした。

「へー、アンタ、ヤマトに入ったの? ふーん、そーなのー? ヤマトももう長くはないわねえ。アタシやこの女(綾波)を落として、代わりにアンタみたいなのを採用するなんて、まったくもって摩訶不思議よね。あ、そーかあ、ヤマトにもリテール要員が必要だからかあ。まあ、せいぜい、地面に這いつくばって、どぶ板営業でもやってがんばんなさいよ!」

惣流さんは、皮肉たっぷりに笑うと、僕がもっとも気にしていたことをズバリと言ってのけた。

(なんてこと言うんだよ! 銀行は、利鞘の厚い個人向け営業で稼がなきゃ駄目なんじゃないか!だから、リテール営業<個人向け営業>は銀行にとって大事なものじゃないか!でも、いつまでも、僕はリテールはやりたくない・・・調査部とか企画部とか、そういうところで働きたい・・・・いつまでも、自転車に乗って戸別訪問なんて、そんなこと・・・・・でも・・・・・もしかしたら、ヤマトは、そういうリテールで使うためだけに、僕を採用したのかもしれない・・・・そうでなきゃ、ぼくみたいなのが、天下のヤマトに採用されるわけないよな・・・・・・)

僕は、暗い思考のループにはまり込んで、ビールの入ったコップを片手に持ちながら、視線を集会室の畳の上に落とした。

「銀行は、最初から、こいつはリテール要員だ、なんて決め付けて、新人を採用してなんかしないさ。碇君、だったな、まあ、最初は、営業部門に配属されるかもしれないが、それからあと、どこに配属されるかは、君の適性次第さ。とにかく最初は職場に慣れることが最重要課題さ」

隣の卓にいた30代くらいの人がフォローしてくれたので、取りあえず、多少、雰囲気が和んで、僕はようやく少し微笑んで「ええ、がんばりますよ」と言って、座ることができた。

(惣流さん、やはり危険な爆弾娘だったか・・・・しかし、彼女がヤマトを落ちていたとはね・・・・・世の中、わからないもんだね)

僕は気を落ち着けるように、ふーっとため息をついてから、ビールをぐーっと飲み干した。

「次、そこでビールを浴びるように飲んでいる惣流・アスカ・ラングレーさん!」

ミサトさんのご指名を受けて、惣流さんが立ち上がった。前に会ったときには、面接で失敗をぶちかましていたり、駅の公衆の面前で罵倒されたりして、とてもそんな余裕はなかったけど、よくよく落ち着いてみると、美人だし、プロポーションもすばらしい。

(・・・・まったく、いいとこなしの僕とは、月とすっぱんだよな・・・これで、さっきみたいな悪口雑言さえ吐かなければいいのにねえ・・・・黙って座ってりゃ、極上の美人なんだけどね。天は二物も与えず、か。いや、頭脳も美貌も与えられてるからねぇ、さすがに性格まで望まれちゃ、天も困ってしまうよな。天も財政危機なんだよ、きっと・・・・)

僕がそんなことをぼんやりと考えながらみていると、いきなり惣流さんが僕のことをびしっと指差した。

「そこ、いやらしい顔で、あんまりじろじろ見ないように!」

どっと笑いが起こる中、僕は耳まで赤くなったように感じて、慌てて視線を逸らした。

「えーと、惣流・アスカ・ラングレーです。名前を聞いてわかるように、日本人とドイツ人のクウォーターですけど、小学校のときから日本に住んでます。白金女子大学文学部英文科を卒業して、4月から四菱物産原油部に勤務します。どうそ、よろしく!」

凛とした声で、胸を張って自己紹介する彼女に、僕は軽い羨望を感じた。あんなふうに堂々と人前で話すなんて、僕には到底できないことだから。

「アスカは、4月から私の下で働くの。内定が決まってから、いろいろと会ったりして、アドバイスしたりしているうちにすっかり意気投合しちゃってね。」

(そうか、ミサトさんって、四菱だったんだ。そういえば、ほんとに商社って感じだよな。)

そんなことを呑気に考えながら、テーブルの上の柿の種に手を伸ばしたとき、ふと、僕の向かいに座っている栗色の髪の女の子が、僕のとなりの色黒の男をなんとも厳しい視線で睨んでいるのに気がついた。

(どうしたっていうんだ! なんかあったのかな? え、テーブルの下で、いきなり手とか握ったとか?さすがハンサムボーイは手が早いなあ・・・・なんてね。そんなことあるはずもないよ。でも、どーしたんだろう・・・・)

僕の感じた疑問は、やがて思いもかけぬ形で晴らされることとなった。
TOPに戻る 第9節へ行く