| 第1章:初夏のゲーム |
| 第6節:人生劇場、有為転変 |
| 僕は、今、帰路の新幹線、「新青森発・あおば18号」の中で、頬杖をついて、車窓を眺めている。 僕は面接で失態を演じてしまい、半ば、というより、ほぼヤマトは絶望的と思っていた。あまりにも致命的な失態だったので、かえって変な形で未練が残ることもなく、寒々しいながらも、なぜかすっきりとした気分だった。僕は、明日から大阪の住共四井の面接に行こうと思って、早速、第二新東京駅の「みどりの窓口」で、東京・新大阪間の新幹線チケットを購入していた。 それなのに、帰路の新幹線の中で、僕は車窓に映る自分の顔を、ぼんやりと眺めながら、さっきから、ため息ばかりついている。 (・・・・どうして、いつもこうなんだろう。ここ一番っていう大舞台では、いつも失敗ばっかりしてる・・・・こんなに上がり性で、気が小さいと、どんな職業についても駄目なんじゃないか・・・・・僕は何をやっても大成しない、どうしようもない奴なんじゃないか・・・・・) 確かに、もうヤマトに未練はないのだけど、自分のあまりの情けなさ、小心さ、そして周りの目ばかり気にする性格に、ほとほと嫌気が差していたのだ。 もう暗くなった車窓には、沿線に建つ家の灯火が見える。灯火は、田園の中、山の中、いたるところに散在している。 (あの灯火の下には、人が住んでいるんだ。家族かもしれないし、一人暮らしのお年寄りかもしれない。いろいろな人生が、あの明りの下に、あるんだ・・・・これから、僕も、そんな灯かりのひとつに帰っていくんだ・・・・・母さんに「ヤマト、駄目だったよ」なんて言ったら、露骨に「なんて言って慰めたらいいのかしら」って顔されるのは目に見えてるし、さすがに22にもなって、それは惨めだよなあ・・・・父さんは、きっと新聞でも読みながら「善後策を考えろ、シンジ」って言うんだろうなあ・・・・・) 僕は、これから自宅で展開されるであろう光景を考えながら、ただぼんやりと車窓を眺めていた。車内は、ちょうど満席くらいの感じだったけど、僕の隣席は空いていた。一度、発車前に、通路を通りかかった人が、隣席に座りたいような素振りをみせていたけど、僕があまりにも落ち込んだ暗い表情なのをみて、どこかに行ってしまった。それはそうだ。これから1時間近く、隣席の奴が、暗い顔でため息ばかりつくのを聞かされては、自分の気も滅入ってしまうというものだ。僕も、できれば、隣席がずっと空いたままの方がよかった。ちょっと、一人になりたい気分だったから。 列車が第二新東京駅を出てから、5分くらいしたとき、前の方から、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。カツカツ、というヒールの音からすると、どうやら女性のようだ。女性であろうと、男性であろと、隣席には座って欲しくなかった。でも、残念なことに、その足音は、僕の隣席の近くで、止まってしまった。僕は、うっとうしそうに視線だけ、そっと上げて、車窓に映る人影を見ようとした。 「ここ、よろしいですか?」 やはり女性の声だった。澄んで落ち着いた声が僕の耳に入ってきた。僕は、憂鬱な気分だったけど、拒絶すべき正当な理由がないので、仕方なく、身を起こして、振り返った。 「・・・・ええ、結構ですよ。あっ!」 声の主は、あの、シャギーの子だった。ついさっきまで、ライバルだった相手と隣同士に座るなんて、なんとも気まずい雰囲気になるのはわかりきっている。 (困ったなあ・・・・でも、断る理由もないし・・・・やれやれ、せっかくの自分の時間を邪魔された上に、よりによって、その相手が、自分のヘマの一部始終をみていた人とはね・・・・ついてないよ・・・・) 僕は、内心、ほとほとうんざりしていた。しかし、いつでも、人によくみられたい僕は、そんなことの片鱗も表情には出さず、愛想笑いを浮かべていた。相手が女性だったことも、その一因かもしれない。一方、声をかけた本人、つまり綾波さんも、僕が相手だと分かると、一瞬にして、複雑な表情に変わった。たちまちのうちに、躊躇の色が彼女の端正な顔に滲んでいく。しかし、彼女も、相手が僕とわかったから一転して断る、というのでは、あまりにも非礼と考えたのだろう。あまり気乗りが進まない様子のまま、僕の隣席に黙って腰を下ろした。僕も、隣席に、多少なりとも面識のある人が座っているのに、車窓に顔を向けているのも、なんか相手を拒絶しているみたいでどうかな、と思ったので、きちんと座席に座り直して、腕組みをして前の座席の背もたれを見つめていた。お互い旧知の仲、というほど親しくないし、むしろさっきまでは、自分の将来を賭して闘っていた相手だ。当然、僕たちの間には、気まずい沈黙が続いた。こういう状態で先に口を開くのは、いつも僕だ。僕は、こういった気まずい緊張状態が長く続くのに、もともと耐えられないんだ。 (・・・・・何か話したほうがいいのかな・・・・・といって、面接の話を持ち出すのも、なんか生々しいし・・・・かといって、気候の話なんてのも、「いかにもご挨拶」って感じで決まり悪いし・・・・・) 僕が話すべきことを探して、四苦八苦しているとき、ふと、彼女が僕の方に顔を向けた。彼女の澄んだ視線が、僕の横顔を照らしている。 「あの、今日、ヤマトの面接で一緒でしたね。その前にも、東京駅でお目にかりましたし、今日はよくお会いしますね」 最後の方で、彼女は心持ち、クスッという含み笑いを洩らした。たぶん、僕が、あの関西弁の男に叱られているときの、情けない姿を思い出していたのに違いない。僕は彼女を一瞥すると、また再び、視線を前の座席の背もたれに移した。今の僕に、彼女の視線を正面から受け止める精神的な余裕はなかった。 「ええ、東京駅では、ひどい目に遭いました。向こうからぶっかってきたのに難癖つけられて・・・・それに・・・・僕は多分、ヤマトは駄目ですよ。面接で、あんな醜態をさらしてしまいましたから、あなたもご存知のように、ね・・・・僕は気が小さいせいか、いつでもああいう場面でトチっちゃうんですよ。・・・・あなたは、ちゃんと面接官に答えられていたし、たぶん、受かっていますよ。・・・・僕は、仕方ないから、明日から、大阪にでも行って、住共四井の面接を受けようと思ってます。でも、第一志望の人は今日、住共四井の面接を受けてるはずだから、ちょっと出遅れてしまったかもしれないな。・・・・仕方ないです・・・・ははは、失敗には慣れてますから・・・・それにしても、インドなんて・・・・苦し紛れとはいえ、あまりにも奇抜な答えなんで、面接官もびっくりしてましたね」 僕は、相手から聞かれもしていないことまで、一気に話してしまった。「一人にしてほしい」という気持ちがある一方で、潜在意識の中では、「誰かに聞いてもらえば、少しは楽になるかもしれない」という矛盾した気持ちがあったのかもしれない。 彼女は、僕が話し終えるまで、じっと僕の横顔を見つめつづけていた。そして、僕が、心持ち、自己嫌悪を含んだ笑いを洩らして後頭部を軽く掻くと、彼女も、正面に顔を戻して、少しだけ俯いて、軽く唇に人差し指を当てた。 (ほら、見ろ。言わんこっちゃない。面接の話なんか持ち出すから、一気に緊張した空気になっちゃったじゃないか・・・・ほんとにしょうがない奴だよな、僕は・・・・・ついつい、言ってはいけないことまで言っちゃうんだから・・・・ほら、彼女も、次に言うべき言葉を捜して当惑してるじゃないか・・・・それはそうだよな。変な慰めを言っても白々しいし、かといって、「あなたは今日の面接、駄目だったから、住共四井で頑張ったら・・・」なんてことも言えないだろうし・・・・) 沈黙の時間はさして長くなかった。やがて、彼女は、そのままの姿勢で、口を開いた。 「・・・・・・確かに、インドって答えには、私もびっくりしちゃったけど・・・・・・・でも、別に、論旨がおかしいわけじゃないし、話の筋道は通ってるってと思います。・・・・・それに・・・・私、そういう全く新しい発想のできる人、既成概念に囚われないで、モノを考えられる人って、すごいなあって思います・・・・あの面接で、私や、隣の人、えっと、惣流さん、でしたっけ?、が言ったことって、まさにそういう手垢のついた既成概念そのものじゃないですか?・・・・だから、模範解答みたいで、全然、おもしろくない・・・・・」 彼女は、そこまで言うと、澄んだ眼差しをこちらに向けて、僕の次の言葉を待った。僕は思いもかけない彼女の答えに、少し驚きながらも、それでもやっぱり自分が受かっているとはとても信じられなかった。僕は、少しだけ黙ってから、彼女の方を向いた。 「そう言っていただけると、嬉しいけれど・・・・でも、あまりにも突飛な発想だと、やはり抵抗感あるんじゃないでしょうか?ヤマトはベンチャーじゃないんだし・・・・」 僕は申し訳なさそうな苦笑を浮かべながら、ぼそぼそと答えた。彼女は、少しだけ表情を引き締めると、僕の眼を真っ直ぐに見つめてきた。その、僕の心の奥底までを見通すような、澄んだ視線に、僕は耐えられなって、再び前の座席の背もたれに視線を移してしまった。 (・・・・・さぞかし情けない男だって、思われているんだろうなあ・・・・・ま、ほんとにそうなんだけどね・・・・・) 「でも、ヤマトにも、そういう発想のできる人がいないと、世の中の流れを先取りして、ビジネスチャンスを掴むことなんて、できないんじゃないかしら・・・・オーソドックスな考え方しかできない人ばかりじゃ、世の中の変化の兆しを感じ取って、先回りして手を打つことなんて、できないでしょ?・・・・・もし、もしもの話ですけど、私か惣流さんが受かって、あなたが落ちていたりしたら、ヤマトって、古い体質の会社なんだと思う。そんな会社、私は受かってても、いきたくない・・・・これ、私の本音です・・・・」 僕は、あまりにも毅然とした彼女の言い方に少なからず驚いていた。同時に、自分の考えを短時間にまとめて、しかも人にアピールするプレゼンテーション能力にも、舌を巻いていた。正直言って、とても羨ましかった。 (いいよな、プレゼン能力のある人は・・・・・口下手で上がり性の僕なんかの苦しみは、きっと永久にわかってもらえないんだろうな・・・・) 「そういうもんかなあ・・・・・それに、ちょっと僕のこと、買いかぶっているような気もするし・・・・あのインドって答え、僕が考えたものじゃないんです、ほんとは・・・・・・僕の大学のクラスにインド人がいて、彼が言ってたことの受け売りなんです。だから、僕の発想じゃないんです・・・・・」 (あーあ、言っちゃったよ。これで、彼女も、僕のレベルがわかって、きっとがっかりだね。これで、嫌われること、間違いなしだ。でも、人の意見を、さも自分ひとりで考案した意見みたいにして言うのは、もっと後味が悪いよ・・・・・これでも、一応、プライドあるんだから・・・・でも、きっと、絶句されるか、罵倒されるか、どちらかだろうなあ・・・・・) 僕は、予想される彼女の反応に、身を堅くした。彼女は、長い睫毛を二、三度瞬かせながら、僕の横顔をまじまじと見ていた。そして、ふっ、と表情を和らげると、なぜか優しい眼差しを僕に投げかけた。 「・・・・・あなた、ほんとに正直な人ね・・・・・そんなこと、自分から言わなければ誰にもわからないことなのに・・・・」 彼女は、しばらく、僕の横顔を見つめつづけていた。そして、少し小首をかしげながら、言葉を続けた。 「でもね、ああいう場面で、そういうことを思い出すのも、やっぱり実力のうちなんじゃないかしら?・・・・だから、そんなに自分を卑下するのも、どうかと思う・・・・ごめんなさい。出過ぎたこと言っちゃって・・・・・」 彼女は、一瞬、「あっ、余計なこと言っちゃった!」というような表情を浮かべると、さすがに困った顔で、視線を膝の上に落とした。 (なんで、こんなに僕のこと、弁護してくれるんだろう?・・・・・やっぱり、同情されてるんだろうな。まあ、普通の女の子ならそうするよな。落ち込んでる奴に向かって、「あんたなんか、ヤマトに受からなくて当然よ!」なんて、まるで死人に鞭打つようなことを言うような子は、滅多にいないだろうし・・・・・でも、見ず知らずの子に同情なんてされると、さすがに鈍感な僕でも、よけい惨めな気持ちになるよなぁ・・・・・・・) 僕は、ずーんと気分が奈落の底に落ちていくような気がしていた。それに、さっきの彼女の言葉に対して、なんて言ったらいいかも、正直言ってわからなかった。ただ、最後に残されたプライドを踏みにじられたような気がして、なんとも不愉快な気分になった。しかし、またまた、他人からは良い子に見られたい僕は、その感情をあらわにしていいか、数秒間、心の中で煩悶していた。 (「馬鹿にしないでください!」なんて言えたら、いっそすっきりするのにな・・・・・でも、見ず知らずの、しかも女の子にキツイこと言うのは、やっばり気が引けるし・・・・・かといって、愛想笑いで誤魔化すような気にもなれないし・・・・・このまま黙ってるというのも、なんとなく僕が怒ってるみたいにみえちゃって、綾波さんが気にするだろうし・・・・・取りあえず遠まわしに不快感を示しておく程度にしとこうかな・・・・・) 「・・・・・実力がありゃ、こんなにいつも苦労ばっかりしてませんよ・・・・・・」 僕は、自分の手のひらを見つめながら、いくばくかの憤りをこめながら、低い声でぽつりとつぶやいた。そして、会話を拒絶するみたいに、窓の方に顔を向けた。でも、それでいて、綾波さんの反応も気になって、僕は車窓の中に移る彼女を視線だけで探した。しばらくの間、彼女は、困った顔で、僕の背中のあたりを声もなく見つめていたけど、そのうち静かに視線を前の座席の背もたれに向けると、無表情なまま、数秒間、一点を凝視したあと、少し俯いて、ふっ、と瞳を閉じた。 それから、僕たちの間には、もはや会話はなかった。僕は、綾波さんに背を向けたまま、石像のように同じ姿勢で、車窓に映る灯火を眺めつづけ、綾波さんもほとんど体を動かす気配はなかった。さすがに30分も経つと、いつものように、僕はもう後悔し始めていた。 (・・・・・少し言い過ぎたかもしれないな・・・・・・学校の話でもして、関係を修復したほうがいいかも・・・・しかし、いきなり、振り向いて話しかけるのも不自然だし・・・・そうだ!綾波さんが目を開けて、カバンでも開け始めたら、いかにも「その音で我に返った」ってな感じで振り返ろう・・・・) そう決めると、僕は綾波さんの方に振り向くタイミングを見計らうことに全神経を注ぎ始めた。しかし、いつまで経っても、彼女が動く気配はない。僕は、だんだんと、内心、慌て始めていた。 (まいったなあ。これは、相当、僕の言ったことを気にしてるみたいだよ。やれやれ、もう少し、柔らかい言葉にしときゃ良かったかな・・・・・とにかく、これは早めに関係修復を図るに越したことはないな・・・・) 僕は、そう決心すると、恐る恐る、そうっと体の向きを変えて、座席に座り直し、僕のその動きに気づいて、彼女が目を開けるのを待った。しかし、彼女は、まだ目を開けなかった。 (僕の動きを感じているのに目を開けないとは・・・・・彼女も相当、気分を害しているってことだよな・・・・・下手に声をかけて、不愉快そうな返事をされたらどうしよう?・・・・・でも、このまま声をかけないのは、こっちもかなり怒ってるって言ってるようなもんだし・・・・・) 僕は視線だけ綾波さんの方にさりげなく向けながら、必死になって、話を切り出すきっかけを窺っていた。そのとき、突然、彼女がぱっ、と体を前傾け、立ち上がるような気配を示した。思いもかけない彼女の行動に、僕はすっかり慌てて頭の中が真っ白になってしまった。 (と、とにかく、ここは謝らなくちゃ!) 「ああああ、あの、さっきはすみませんでした! 僕も少し言い過ぎましたッ!」 僕はとっさに大きな声を出して、彼女の方に向き直った。 「・・・・・・あ?・・・・・・・何?・・・・・・・」 僕の眼には、突然の大声に夢の世界から現実に引き戻されたばかりの女の子が映っていた。彼女は、いかにも寝起きというような、ぼんやりとした眼差しのまま、二、三度瞬きをして、なおもよく事態を飲み込めずに、不思議そうな顔で僕を見つめていた。そうだ、彼女は寝ていたのだ!! (くっ、さっきの動きは、船を漕いで、首ががくっと前に倒れたんだったのかっ!ううっ、早まったことをしてしまった・・・・・しかし、彼女を起こしてしまった以上、ここは何とか言って取り繕わないといかん!) 僕は思わずいつもの愛想笑いの顔になった。 「あ、いやいや、もうすぐで東京駅なんで、申し上げた方がいいかな、なんて思ったりしまして・・・・・ごめんなさい、起こしちゃって・・・・」 綾波さんは、なおも数回瞬きをして、目をこすると、ようやく事態が飲み込めたようだった。そして、きょとんとした顔で僕をみていたが、そのうちに自分が意識を失う前に起こった出来事を思い出したのか、一瞬、表情を引き締めたけど、今度はすぐにころっと表情を和らげると、初めて照れたような微笑みをみせた。 「さっきは失礼なこと言って、ごめんなさい。私、すっかり碇さんが怒ってしまわれたとばかり思って、どう謝ったらいいかって、悩んでるうちに、眠っちゃって・・・・・たぶん、面接で緊張して、その疲れが出たのかもしれないですね・・・・・それなのに、碇さんは、私のこと、寝過ごさないように気づかって起こしてくれたんですね!ほんとに重ね重ねすみません!私、なんて言ったらいいか・・・・・」 (・・・・・・うれしい誤解だな・・・・・・災い転じてなんとやら、か・・・・いやいや、こういうのは「怪我の功名」ってやつだよ・・・・・・ま、なんにしても、関係が修復できて、めでたしめでたし、だな・・・・・しかし、まあ、電車を降りれば、もう二度と会うこともないような人にまで気をつかってしまうところが僕らしいというか・・・・・・こういう性格は一生直らないな、きっと・・・・・) 僕はしきりに頭を下げる綾波さんに向かって微笑んでみせた。その微笑みの意味は、「事態が好転したことで、ほっとした」という安堵感と、「自分はなんともしょうがないやつだなあ」という苦笑が入り交じった複雑なものだった。少なくとも、僕は自分では明らかにそう認識していたんだ。しかし、綾波さんは、僕が微笑むと、今度は嬉しそうに、そして少しはにかんだ笑みを返してきた。そして、依然として苦笑している僕と目が会うと、恥ずかしそうに頬を赤く染めて、くすっと笑った。 (・・・・・こりゃ完全に誤解してるよ・・・・・・ま、でも、いいじゃないか。不愉快な気分で別れるより、何倍もマシだよ。誤解歓迎。人生、ほんとに一寸先は闇だね。思うようにならないことあり、思わぬ幸運あり・・・・・だから人生は面白いんだな・・・・・) 僕たちがお互いに顔を見合わせて微笑んでいるうち、列車は上野駅を通過して地下トンネルを抜けて、一路、東京駅のホームに向かっていった。東京駅に接近したことを告げるメロディーが流れ始め、周りの乗客たちが一斉に立ち上がって、網棚の上に上げた荷物を降ろし始め、あたりは急に騒々しくなった。気の早い奴は、もうデッキに向かって歩き始めている。綾波さんは、そんな周囲の変貌を見渡していたが、すぐに慌ててバッグを開けると、手帳を取り出した。 「ここでお知り合いになったのも何かのご縁だから・・・・・それに、就職活動の情報交換もできそうだし・・・・・・これ、私のメールアドレスと携帯の番号・・・・・あ、言い遅れちゃったけど、私、大学は」 「東京国立大学でしょ? 面接のときに聞いて覚えちゃった。法学部なのに金融を目指しているの?普通、東国大法学部の人は官庁志望が多いんでしょ?僕は慶徳の経済だから、定石どおり金融狙いだけど・・・・・」 「あ、私の大学、覚えててくれたんだ!」 綾波さんは、なぜか少し嬉しそうな顔で、僕を見つめた。僕は笑顔のまま、黙ってうなずいたけど、本当は、別に綾波さんのことだけを覚えていたわけじゃない。因みに、惣流さんは、あのお嬢さま学校の白金女子大の文学部英文科だった。この二人、ほんとに容姿も性格も経歴も、何から何まで正反対、好対照だ。だからこそ、この二人の輝かんばかりの強烈な個性に霞んでしまって、僕がすっかり目だなくなってしまったんだ。普段から目立たないのに、そのうえ、こんな人たちと比べられたら、僕なんか真昼の幽霊みたいに霞んでしまうのも道理だった。 「うちの大学、官庁志望の人が多いんだけど、私、財政省とかにはあまり興味がなくて、本当は国民福祉省が本命なの。・・・・・・でも、民間の会社も回ってみて、いろいろな世界を見ておきたかったから・・・・・自分の適性って、自分が思っている姿と他人が客観的にみている姿って、結構違うみたいだから・・・・・・」 綾波さんの口調が急に、面接のときみたいに、淡々とした無感情のものに変わった。一言一言、吟味して、精選された言葉を紡ぎ出している、っていう感じだ。 (仕事とかのまじめな話になると、急に口調の変わる子だなあ・・・・・それだけ気分転換がすんなりできるんだろうな・・・・・でも、どこか、こう、そこはかとない気品があって、冷酷とかシニカルな感じじゃないんだよな。不思議な子だ・・・・・) 僕は、ふんふんとうなずいてみせながら、心の中では、彼女の表層的な変化ばかり考えていて、話の内容はまるで聞いちゃいなかった。 「あ、もし、良かったら、碇さんのメールアドレスと携帯の番号、教えてもらえると嬉しいんだけど・・・・・いたずらとかには使わないから!」 今度は、彼女は、再び、表情を緩めて、最後には少しだけ白い小さな歯を見せて笑った。 「いたずらとかに使っても、すぐにばれちゃうよ。僕のアドレスとか携帯番号なんて、ほんとに限られた人しか持ってないもの。友達少なかったからね・・・・・・」 そうなんだ。大学では、僕は、結局、あまり友達ができなかった。そりゃ、同じクラスとかゼミの友達とは、それなりに親しくなったし、飲み会とかもほとんど皆勤だったから(これは、単に僕がお酒が好きだからかもしれない)、顔見知りはたくさんいた。でも、結局 、僕はあまり大学の雰囲気には馴染めなかった。別に変な人が多いとかいうことじゃなくて、なんとなく、「そこそこ裕福で、そこそこ頭が良くて、そこそこ遊んでいる」っていう人たちとは、肌が会わなかっただけなんだ。だから、サークルに入ることもなく、講義が終わると、せいぜい本屋に寄り道したりするくらいで、ほとんどまっすぐ自宅に帰っていた。もっとも、最近は、ゼミの関係で、ほとんど毎晩、深夜まで学校のコンピュータールームに詰めていたけれど・・・・。だから、大学での僕の知り合いは、そういうofficialな場を通じての知り合いだけで、「苦楽をともにした友達」とか「一晩中、飲み明かしたり、一緒に講義をサボった友達」なんてものは皆無だった。飲み会でも、たいてい一次会ですんなり帰ってきちゃっていたし、二次会に行っても、今度は酔って醜態をさらしている友達の面倒を見させられたりして、結局、あんまり楽しめなかった。やはり、飲み会は酔ったもの勝ちで、僕は酒に強い自分の体質をうらめしく思ったものだった。さらに付け加えると、周囲が酔って醜態をさらしている中で、一人だけシラフだと、まわりの醜態がひどくみっともないように見えてしまうか ら、少しでも、自分が危険ラインに近づくと、無意識のうちに自制してしまうし、そういう酔った友達と一緒にいたくないなんていう気持ちが強まるのかもしれない。酔った友達を残して、僕はなんとなく疲労だけを感じながら、深夜に帰路を急いだものだった。 「・・・・・でも、これから社会に出ると、友達、いやでも増えるわよ・・・・・・」 ふと、僕は、少し俯いていた顔を上げると、綾波さんがふっと優しげな暖かい眼差しを注いでいた。どうやら、僕は、すっかり回想シーンにはまり込んでいて、無意識のうちに少し暗い顔をしていたようだった。彼女の微笑みは、うわべだけの同情じゃなくて、心の底から滲み出てくるような、真実の香りがした。僕は、乾いてひび割れた心に、すうっと、潤いが戻るような、そんな不思議な感覚に囚われた。 「うん、そうだね。これから、いろいろな人と出会うんだろうから・・・・・既に、こうして、綾波さんと知り合えたわけだしね」 僕は、胸の中がなんとも暖かくなるような思いを感じながら、明るい表情で答えた。そして、内心では、最後の少しキザな言葉が、すんなりと口から出たことに、自分でも相当驚いていた。 (今日、少し、僕はどうかしてるな。奇麗な子と知り合えて、舞い上がってるに違いないよ。いかんなあ・・・・・別に、これから、どうかなるって展望もないのに・・・・・・過大な期待はいだかないでおこう。外れたときにがっかりするのは、こりごりだからね・・・・・) 「うん、そうね。あ、もう東京だ。それじゃ、電車の時間が押してるから、私、これで失礼します。また、どこかで鉢合わせするかもね!じゃ!」 彼女は慌てて席を立ちあがると、僕に向かって小さく手を振ると、そのままデッキへと駆け出していってしまった。後に残された僕は、ほんわかとした気分で、彼女の後ろ姿を見つめていたが、すぐに我に返ると、カバンを持って立ち上がり、一歩踏み出した。途端、彼女のつけていたシトラス系のコロンの、爽やかな香りに、一瞬、僕はくらっときた。ことほどさように、僕は明らかにのぼせていた。 僕は、少し上気した顔で、ホームに下りると、どうせ見えはしないのに、未練がましく、階段に向かう雑踏の中に、彼女の姿を探して、少しだけ歩調が鈍った。その途端、横から猛烈なスピードで歩いてきた誰かが、僕の右手に衝突した。びっくりした僕が相手の姿を確かめるよりも早く、罵声が飛んできた。 「こんとなとこで、ボヤボヤ立ち止まってないでよ! ったく、バッグ落しちゃったじゃない!・・・・・・って、アンタ、今日の面接で一緒だった人じゃない?」 僕は相手の顔を見る前に、なんとも形容しがたい不吉な予感に包まれた。そして、ぎく、しゃく、と、まるで錆付いた音が出るような感じで、恐る恐る右を向いた。・・・・・予感は的中した。 「あ、やっばりそうだ! アンタねぇ、そんなふうにボケボケしてるから、面接でもドジ踏むのよ。わかってる?アンタなんか、ヤマトに受からなくて当然よ!」 紅い髪の女の子、惣流さんは、出会い頭に、僕にとどめを刺した。僕は、心にグサグサと言葉が突き刺さるのを感じながら、今更ながら、自分がヤマトの面接に落ちていた、という実感が急にリアルに湧いてきたのだった。 一方、惣流さんは、言いたいことを吐き出して、一時の感情が収まると、さすがに少しバツが悪いような表情になった。 「ま、アタシも受かってるとは思えないけどね。あんな保守的な会社、こっちからお断りよ!」 彼女は、小さくフンと鼻を鳴らすと、僕に後ろを見せて、二、三歩、歩き出しかけたけど、すぐにクルリと振り返った。 「思い出したわ! アンタ、今日の昼にも、田町の駅の自販機の前で、オロオロしてたでしょ?!たかが飲み物買うぐらいで、なんであんなに時間かかるのよ?周りが迷惑するんだから、ちょっとは、しっかりしなさいよね!」 彼女は新幹線のホームで、腰に手を当てて、仁王立ちになって、僕を睨んだ。その迫力に、階段に向かう人波が、まるで聖書に出てくるモーゼの海渡りのように、さあっと真っ二つに分かれた。まさに衆人環視の中で、僕はしどろもどろになって、とにかく謝った。 「すすすす、すみません。ちちょっと、ぼうっとしてたんで・・・・」 僕は、それだけをようやく口にすると、とにかく小走りに、現場を逃げ出した。さすがに惣流さんも追っては来なかったけど、僕は背中にたくさんの視線を感じて、もう、たまらない気分だった。ようやく、別の階段に向かう人込みに紛れ込んで一息つけたけど、もう、頭の中は、焦りと羞恥心で一杯だった。そのうえ、少し時間が経ってくると、面接に落ちたという実感が再びジワジワと僕を責め苛んできた。僕は、足が地に付いていないような感じで、まさにほうほうのていで、自宅にたどり着いた。 家の灯かりが見えてきたとき、僕は、ようやく安堵のため息を洩らし、そして、ふっと我に返った。 (・・・・・暗い顔で戻ったら、いろいろと聞かれるだろうなあ・・・・・それも、なんとなくうっとうしいから・・・・・・) 「ただいまぁ、っと!」 僕は、玄関のドアを開けるなり、無理して景気の良い声を出した。その声を聞きつけて、キッチンからパタパタとスリッパの音を軽く響かせながら、母さんが現れた。 「あら、遅かったのね。・・・・・ご飯はすぐに食べる?」 「いや、ちょっと、書類の整理をしたいから、後で食べるよ。自分であっためて食べるから、別に準備しといてくれなくていいから・・・・」 僕は笑顔のまま、そう言うと、自分の部屋に向かって階段を上り始めた。 (・・・・・おかしいな? あの詮索好きの母さんが何も聞かないなんて・・・・・僕の様子を見て、聞くまでもなく、受かったって思ったんだろうな・・・・・) 僕はなんとなく後ろめたい気分で、ふと、階段の中ほどで足を留めた。 「シンジが帰ったんじゃなかったのか?」 「ええ、書類整理した後でご飯食べるって」 その時、キッチンで父さんが母さんに僕のことを尋ねている声が微かに聞こえてきた。僕は、そのまま、そうっと足音を忍ばせて、階段を降りて、廊下の隅で聞き耳を立てた。 「そうか・・・・・・ところで、面接はどうだったんだ? 何か言っていたか?」 「・・・・・にこやかに笑ってましたよ」 「そうか、ならば、問題ない」 「いえ、多分、失敗したんじゃないかしら?」 「なぜだ? 笑っていたんだろう? さっきも、あんなに元気良く帰ってきたではないか?」 「いえ、確かに笑ってはいたんですけどね・・・・・・・あの子、高校のときに、女の子に振られたでしょ?あのときとおんなじ顔してたから・・・・」 (・・・・・・ぐっ・・・・・母さんはお見通しってわけか・・・・・・) 僕は、足音を忍ばせて階段を上がると、自分の部屋に入って、スーツも脱がずにベッドの上に大の字に寝ころがった。 (・・・・・・ふう、今日はほんとにいろいろあって疲れたなあ・・・・・・・ここできちんと気分切り換えておかないと、明日まで尾を引くからなあ・・・・・・住共四井まで落ちたらシャレにならんからなあ・・・・・・) 僕がそう思って、ごろりと寝返りを打ったとき、階下から電話の音がけたたましく聞こえてきた。 |
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