第1章:初夏のゲーム
第3節:一期一会?
スポーツ刈りの青年は、僕が急に立ち止まったので、追突する格好になってしまったようだった。

「なんやこら! 詫びのひとつも言えんのかい!? なんちゅーしつけされたんや!まったく親の顔がみたいわ!こら、なんとか言うてみい!?」

青年は怖い顔をして、僕を睨みつけながら、なおも毒づいている。こういう構図は、僕にとって最も苦手なシチュエーションだ。周りの人は、立ち止まったり、あるいは歩きながら、好奇心に満ちた、あるいは無関心な視線を容赦なく僕に浴びせ掛ける。僕は、まるで外国の町角に、たった一人で放り出された子供のように、深い深い孤独感に包まれていた。突然の運命の暗転に慌て、羞恥に身悶えしながら、僕は必死で言葉を探した。

「あ、す、すみません。ぼ、ぼうっとしてたもので・・・どうもすみません・・・・」

僕は語尾を消え入らせながら、ようやくそれだけ言うと、やっと立ち上がり、青年に向かって頭を下げてみせた。その時になって気づいたのだが、彼も濃紺のリクルートスーツを着ている。さっきは、気が動転していて、まったく気がつかなかったのだが、彼も僕と同じ4年生なんだ。

(それにしては、老けた顔だな・・・スポーツ刈り・・・体育会かな・・・・道理で血気盛んなわけだ・・・・)

相手が同年齢くらいだとわかると、僕は多少、落ち着きを取り戻して、密かに相手を観察し始めた。取りあえず、その筋の人ではなさそうなので、少しだけ精神的余裕が出た。さすがに僕が立ち上がったせいか、周囲の人たちは、事態が収拾に向かうのを予想して、再び僕たちから視線を外して、自分の人生に戻り始めた。

「ほんまに気ぃつけや! あんたもこれから会社訪問やろ? しっかりせな、落とされてまうで!」

青年は、僕が謝って興奮が解けたせいか、最後は少しニヤッと笑うと、券売機の方に向かって歩き出した。

(ふぅー、やれやれ、えらい目に遭ったよ。たかが、ぶつかったくらいなのに、強盗でもしたみたいに、えらい言われようだ・・・)

彼の背中を見つめながら、僕はふうっとため息をつくと、同じように券売機に向かって歩き出そうとした。周りの関心が失せたとは言え、こういう時はやはりバツが悪い。そのうえ、券売機では、さっきの青年がICカードを差し込んで、まさに乗車券を買おうしている最中だ。僕は、すぐに券売機に並ぶのが、やはりためらわれたので、ちょっと時間差を置くために、改札口上の電光掲示板でも見ようと思って振り返った。

(あっ・・・・)

改札口前のコンコースの柱の脇に、彼女が立っていた。彼女は、じっと静かな視線で、僕を見つめていた。僅かに吹き通る空調の風に、シャギーの髪を揺らしながら、まったくの無表情で、しかし、無関心ではなく、彼女は澄んだ瞳で真っ直ぐに僕を見つめている。僕の周囲からあらゆる音が消えたような感じがした。

(見られてたんだ、ずっと! ・・・・・)

僕は、さっきよりも激しい羞恥心に襲われて、その場に立ち尽くした。その場から駈け去りたい衝動に駆られながら、僕は身動き一つできずに、立ちすくんでいた。ただ、引きつった表情のまま、頬が上気してくるのだけは、自分でもはっきりとわかる。そんな僕の表情の変化に気づいたのか、彼女はちょっと眼差しを険しくすると、僕にくるっと背を向けて改札口に向かって歩き出した。僕には、澄み切った虚空の中で、彼女の靴音がはっきり聞こえたような気がした。少しずつ遠ざかっていく彼女の背中を眺めながら、僕は少しずつ膨らんでいく衝撃に押しつぶされそうだった。

(・・・・嫌われたな・・・そりゃそうだよなあ、あんな格好悪いところを見せたらなあ・・・・)

僕は、自分がひどく落胆していることに気づくと、そんなふうに一喜一憂する自分がなぜか突然、可笑しくなった。

(一体、なにがっかりしてるんだ、僕は・・・何のゆかりもない人に嫌われたって、別になんでもないじゃないか・・・・自分の彼女に振られたわけでもないのにさ・・・・)

「彼女」という言葉が浮かんだとき、さらに僕は心の中で苦笑せざるをえなかった。

(「彼女」ねえ・・・・そんなもの、いままでいたことなかったじゃないか・・・・僕は振られることさえできないってのに・・・・・やれやれ、ばかな話だ・・・・)

僕は外見上は普通の顔で、心の中は泣き笑いの表情で、券売機に向かって歩き出した。忙しく行き交う人たちの眼には、僕の姿など周りの空気に溶け込んでしまって、もはや残像程度にしか写っていないに違いない。

券売機の前は、結構、混んでいた。季節柄、やはりリクルートスーツの学生がやけに目立っている。みんな目指す目的地はただひとつ、第二新東京市だ。僕はそそくさと切符を買うと、人混みをすりぬけて、東北新幹線の改札口に向かった。

ホームに上がるエスカレーターは、いつものように混んでいるので、僕は少し息を弾ませながら、階段を上っていった。暗い地下から、まばゆい夏の光のあふれる地上に出たとき、僕の乗る「なす12号」は、もうホームに入線していた。
僕は、重厚な赤レンガのドームを右手に見ながら、ホームを歩いていった。僕が子供の頃、このドームは、まだ三角錐のような形だったけれど、高校生になったときには、もう第二次大戦前の丸いドームが復元されていた。ドームの向こうには、真新しい姿を反射させている丸の内の高層ビルがいくつも聳え立っている。そのうちのいくつかには、僕も会社訪問で訪れたばかりだけど、ある階より上では、皇居に面した壁には摺りガラスがはめてあったり、出窓のような構造が採り入れられていたりして、皇居を見下ろせないような設計になっていた。

僕はそんなことをぼんやりと思い出しながら、暑い空気が逆巻くホームを、4号車まで歩いていった。途中、自販機が目に入ったので、今度はためらわずに、「大清水」を買ったけど、田町駅で後ろに立っていた人、たぶん僕と同じくらいの女性から文句を言われたことを、ふと思い出して、なんとなく嫌な気分になった。

(しょうがないんだ・・・・後ろで誰かが待ってるなんて気がつかなったんだから・・・・あれは不可抗力だよ・・・・)

僕は少し陰ってきた気分を払いのけるように、心の中で自己弁護した。

(だいたい、僕は5分も10分も迷っていたわけじゃないじゃないか・・・・たかが1分かそこらなのに、あんなふうに言わなくてもいいのにな・・・・きっと短気な人なんだよ・・・・やれやれ世の中、なんかすさんでるよ・・・・)

僕は少しだけ疲労感を感じながら、4号車の車内に足を踏み入れた。車内は空席が少しだけ残っている程度の混雑具合だった。左右を見回しながら、中央の通路を歩いていくと、運良く進行方向左側の二人掛けの席が空いていた。

(はあ、これでやっと落ち着けるよ・・・気分を切り換えて、面接の準備をしなきゃ・・・・)

僕は備え付けの小さなテーブルに、トンと「大清水」を置くと、スーツの上着を脱いで、窓枠の近くのハンガーにかけ、椅子に深々と体を沈めた。軽く目をつむってから、少しだけ体を起こすと、僕はカバンから、企業説明パンフレットと自作の「想定問答」を取り出した。「ヤマトグループによる金融創造」と書かれた真新しいパンフレットには、山並みを背にして立つ、第二新東京市の本店ビルの写真が印刷されている。

(ヤマトは本命のところだから、しっかりやんなくちゃな。ここが100%、正念場だ。)

僕はさすがに表情を引き締めると、「想定問答」を読み始めた。その途端、頭上から声が降ってきた。

「ここ、空いてますか?」

せっかく気持ちを引き締めたところで出鼻を挫かれてしまい、僕は少しうさんくさそうな顔で、声の主を見上げた。どこにでもいそうな、眼鏡をかけた青年だ。やっぱりリクルートスーツを着込んでいる。ここで断って、嫌がらせをするつもりは毛頭ないので、僕は黙ってうなずくと、心持ち窓際の方に体を寄せた。

「や、どうもすみませんね。」

青年は軽く笑顔を作ると、やはりスーツの上着を脱いで席に座った。そのまま、上着を畳んで膝の上に置くのをみて、とっさに僕は口を出してしまった。

「あ、ハンガー、1つ空いてますよ。スーツがしわになっちゃいけないでしょ?」

青年は一瞬「えっ?」という顔をしたけど、すぐににっこりと笑った。

「ああ、助かりますよ。これから面接ですからね。この暑いのに、スーツなんか着なきゃいけなくて、ほんとうんざりですよ。そもそも夏の日本では、スーツなんて着るのはおかしいんですよ。5月は、グアムと同じ平均気温なんですから・・・・・」

僕は自分がなんでお節介なことをしたのか不思議だった。いつもの僕なら、他人のことなど放っておくのに・・・・。「旅は道連れ」とかいう、古い言葉がふと頭の片隅をよぎった。あるいは、同じような境遇に置かれている者同士の連帯感なのかもしれない。

「ええ、毎年、どんどん暑くなってますからね。そのせいか、夕方になると、スコールみたいな夕立が毎日降るし・・・・でも、第二新東京は涼しくて良いところらしいですよ。」

僕はいつもより饒舌な自分に多少驚いていた。もしかしたら、面接を前にして気分が高揚しているのかもしれない。彼も、軽く天然パーマのかかった前髪を手串で整えながら、にこやかに応じてくれている。

「あなたも第二新東京なんですか? 私も同じですよ。これから四菱インダストリーに行くんです。」

「ああ、四菱ですか。私はヤマトです。で、四菱のどこですか? 電機部門とか重工部門とかありますよね?」

「重工部門を狙ってるんです。ガキの頃から、ミリタリー関係が好きだったもんで・・・・あ、別に危ない奴じゃありませんよ。単に、技術的に好きなだけですから、兵器が。なんかこう、無駄なところを削ぎ落として、効率性を究極まで追求しているから・・・・」

青年は僕と志望が違うことですっすり気を許してくれたみたいだ。僕としても、これからライバルになるかもしれない人と隣り合わせで1時間近くをすごすよりは、はるかに快適な旅になりそうだ。僕は開きかけていた「想定問答」を閉じると、すっかりリラックスした気持ちで、彼との会話に踏み込んでいった。

「もしかして、理系、ですか?」

「ええ、神奈川国大の工学部でセラミックスをやってます。そちらは?」

「僕ですか? 僕は慶徳の経済です。金融論のゼミなんです。でも、今年は、うちのゼミはみんな大阪に行っちゃって、こっちで就職活動してるのは僕ともうひとりぐらいなもんです。もうひとりの方は、四菱狙いだから、第二新東京まで行くのは私だけなんです」

「大阪というと、金融省とか日本準備銀行とかですか? 民間でも、住共四井とかUSJとかもありますしね。そういえば、中央証券取引所もありましたね」

「金融省や準銀なんて、とても手が届きませんよ。中証だって高嶺の花です。こう見えても、僕はスチャラカ学生ですからね。あ、こんなこと自慢にはなりませんけど」

僕は、首筋を軽く掻きながら思わず苦笑した。

「それはこっちも同じですよ。中学のときに親父にカメラ買ってもらってから、すっかりハマっちゃって、山野を這いずり回ったおかげで、単位はスレスレですよ。あ、女性が被写体の方がほんとは嬉しいんですけどね」

彼も、すっかり相好を崩してくつろいでいる。僕自身も、こうやって誰かと他愛もない話をしているだけで、すっかり気分転換ができてしまっていた。ふと周りを見渡すと、車内はほとんど満席となっていて、やっぱりほとんどが学生らしかった。みんな思い思いに書類を見たり、あるいはぼんやりと窓の外を眺めたり、あるいは友達同士で話したりしている。

(この中に、さっきのシャギーの子や、僕を一喝した奴も乗っているんだろうな・・・・まあ、もう会うこともないだろうけど・・・・まさに一期一会ってやつだ・・・・)

隣席の彼が駅売店のサンドイッチをレジ袋から出すのをぼんやりと見ながら、僕が漠然とそんなことを考えていたとき、「お江戸日本橋」のメロディーとともに車内放送が聞こえ始めた。

「この列車は11時50分発の第二新東京行きシャトルライナー、なす12号です。途中の停車駅は、大宮、宇都宮です。」

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