第1章:初夏のゲーム
第2節:人事部長の息子
僕は、自販機のボタンの前で、迷っていた。
もともと、僕は、思い切りの良いほうじゃなく、むしろ、どらちかというと、優柔不断な部類に属すると自分でも感じている。

(疲れているときには糖分の入っている飲み物がいいっていうし・・・・でも、人に会っているときに口の中がベトつくのはいやだし・・・・)

僕の視線は、弱炭酸のジュースとJPご自慢の水「大清水」を行きつ戻りつしていた。

(うーん、水じゃやっぱり味気ないし・・・・うーん・・・・あ、麦茶も捨て難いなあ・・・・)

今度は選択肢に麦茶まで加わってしまい、僕の混迷は更に深くなっていく。

(・・・・いや、待てよ。別にここで買わなくても、東京駅で買って、新幹線の中で飲めばいいんじゃないか・・・・そうだ、その方が落ち着いて飲めるよ・・・・)

さんざん悩んだ挙げ句、僕はポケットにICカードを戻すと、自販機の前で振り向こうとしたけど、背後に人の気配を感じたので、急に少し恥ずかしくなって、足早にその場を立ち去ろうとした。

「ちっ! あんなに悩んで、結局買わないんじゃん。優柔不断なひと。」

立ち去りかけた僕の背中に、あきれたような、小さな舌打ちの音が刺さった。

(誰かずっと待ってたんだ!しまったなあ・・・・迷惑かけちゃった・・・)

その少し高い声の主の容貌を確かめる勇気もなく、僕は逃げるようにその場を去った。なぜか、どっと冷や汗が湧いてくるのを感じながら、僕はホームの一番前、東京寄りの方に向かって足早に歩いていった。いつものように、ホームの端では、待っている人は誰もいなかった。

僕は、人の多いところがあまり好きじゃない。人にぶつかったり、無表情な視線で一瞥されたり、あるいは視界の隅で見られたりするのが、なんとなく居心地の悪さを感じさせるからだ。だから、いつもなるべく人の少ない、ホームの端で電車を待つことが多い。今日に限って、ちょうど駅の階段を降りているときに電車がホームに入ってくる音が聞こえたから、急いで階段を駆け下りたけれど、いきなり軽い立ち眩みを起こしてしまったんだ。

(いつもみたいに、ゆっくりしていれば良かったな。別に時間が押してるわけじゃなかったのに・・・・
慣れないことはするもんじゃないよ、ほんとに・・・・)

いつものように、僕は無表情な顔で線路の向こうを見つめながら、今しがたの自分の行動を反省する。こんなふうに、すぐに自分の行動を責めるのが、僕の昔からの癖だ。でも、こうして得られた「教訓」も、結局、すぐに忘れられてしまい、また同じ過ちを繰り返してばかりいる。軽く反省して、軽く忘れてしまうんだ。軽く反省するだけで済むということは、たいしたことじゃないってわけだから、まあ、それで何の問題もないんだろうけど。

初夏の陽射しが眩しく差し込む中で、僕は通過していく横須賀線をぼんやりと眺めていた。

(横須賀線・・・・逗子・・・そういえば、逗子の叔父さんは、胃潰瘍で入院したって聞いたけど、大丈夫かな・・・・)

僕は、父に似て、いかつい髭づらで眼鏡をかけている叔父、碇ケンイチロウの顔を思い出していた。叔父は、無口でむやみに威圧感だけを漂わせている父、ゲンドウとは違い、口八丁手八丁というタイプのコンビニ店主だ。もとは、大手電機メーカーの広告宣伝部に勤務していたけど、祖父の死後、受け継いだ酒屋をコンビニに改装して、今は近所の奥さんや子供たち相手に軽口を叩きながら、働く毎日だ。そんな叔父のことを、父は密かに軽蔑し、あるいは羨んでいるのが、僕にはわかる。

今朝も、朝食のトーストをかじりながら、母が叔父の入院の話を口にした途端、新聞を読んでいた父が、ジロリと視線を上げて、母を睨んた。もちろん、そんなことに動じる母ではない。「いつまでも新聞ばっかり読んで、ご飯食べないんなら、片づけます」と、ぴしっと言い放たれて、父もしぶしぶ箸に手を伸ばしていた。父が母に反論することはほとんどない。自分の両親ながら、あの夫婦は仲が良いのか悪いのか、今だに僕もよくわからない。

(父さんは、なにかにつけ、叔父さんと比べられてきたらしいからなあ・・・・僕は双子に生まれなくて良かったよ。)

僕は、いつも以上の仏頂面で、スクランブルエッグを口に運んでいた父の顔を思い出し、ちょっとだけ父に同情した。

つい3年ほど前までは、僕は父のことを嫌っていた。あんな男にだけはなりたくない、と思っていた。頑固、人を見下した態度、シニカルな比喩、そのすべてが鳥肌の立つほど嫌いだった。結局、高校生になってから、2年間ほどは、父とほとんど口を聞かない毎日が続いていた。父も、無理に僕と接触しようとしなかったせいもあって、二人の会話は「おはよう」ぐらいだった。その頃、父は、大手百貨店ネルフの取締役人事部長だった。20世紀の最後の年、某大手百貨店が民事再生法を申請して、事実上倒産してから、今年ですでに10年だが、まだ百貨店の業績はなかなか苦しい。父が人事部長だったときには、今以上に百貨店経営は苦しく、そのために父は中高年層の大量一時解雇という大鉈を振るう役回りとなってしまった。毎晩のように、深夜に帰宅し、休日には死んだように眠っている父と、僕が会話する機会がほとんどないのも当たり前だった。

ある日曜日、僕が夕食を終えたとき、リビングに置いてある電話が鳴り出した。電話の主は、父の同期入社の友人だったので、僕は父に向かって受話器を黙って差し出した。

「どうした? ああ、そのとおりだ・・・確約はできない・・・・みんな苦しいんだ、君だけを特別扱いするわけにはいかない・・・・わかっている。でも、お子さんが小さいのは君だけじゃないんだ・・・・待て、ちょっと話を聞いてくれ! それは」

父は珍しく取り乱して声を大きくしたが、電話は切れてしまっていた。かすかに「ツーツー」という音が響く中で、父は受話器を握り締めたまま、身じろぎもせずに、ガラス窓越しに庭を凝視していた。やがて、受話器が警告音の「プー」という音をたて始めて、父はようやく受話器を下ろした。食卓に戻ってきた父は、さすがに心配そうな母に気づくと、かすれた声でつぶやいた。

「明日、私は旧友に解雇通知を渡す。20年来の旧友にだ」

父は絞り出すような声で言うと、やがて、テーブルをドンと拳で叩いて、無言のまま部屋を出ていった。そのまま、父はどこかに出かけてしまい、深夜になって泥酔して帰ってきた。僕が父の泥酔した姿を見たのは、これが初めてだった。決して大声を上げるわけでもなく、父は苦しそうに低く呻いていた。そして、トイレで何度も嘔吐して、嘔吐の苦しさだけではない涙で、目を赤くしながら、じっと下唇を噛んで何かに耐えているようだった。

僕はそんな父の姿にショックを受けた。冷徹なスタイリストだとばかり思っていた父の醜態に、僕はどうしてよいかわからず、居たたまれなくなって、自分の部屋に逃げ帰った。

翌朝、父は何事もなかったような顔で出勤していった。

「・・・・・冷たいんだね・・・・昨日はあんなにみっともない姿をさらしていたのに・・・・」

僕は父が出勤した後、母に向かってつぶやいた。母は、僕の眼をじっと見つめたあとで、静かに口を開いた。

「それがあの人なりの美学なのよ。『平気で旧友を斬り捨てた』っていう陰口を浴びることになっても、涙を呑んで辞めていった人たちのためにも、ここで情に流されるわけにはいかないのよ」

そうだ、父は迷いを迷いとして正面から受け止め、どうしようもないからこそ、悩み、苦しみ、そして酒で胸のわだかまりを吐き出して、ようやく、表面上は冷徹な人事部長に戻れたんだ。あと数時間後には、取締役室の机のうえで、手を口の前で組み、「ああ、解雇だ。これまで会社に尽くしてくれたことを感謝する。君のパソコンはもうロックをかけたので使用できない。私物は宅配便でご自宅に送るので、このままカバンを持って、オフィスから立ち退いて欲しい」と通告し、彼が部屋を出ていったら、ただちに彼の上司に内線電話を入れ、「機密書類やデータを持ち出さないように監視するように」と告げるのだ。

「私情を挟まない冷徹な人事部長」であるからこそ、いろいろな思惑や圧力、派閥力学が交錯する大きな人事整理を断交できるんだ。たとえ、それが真の顔でなかったとしても。それが、永年、内部管理畑を歩んできた父の得た結論なんだろう。そう思うと、父が不必要なまでに威圧感を漂わせ、すきを見せない理由が、ちょっとだけわかったような気がした。

(・・・・・あいつも人間なんだ・・・・・)

当たり前のことに気がついた僕は、それから父と少しずつ話すようになった。



そんな回想に耽っていたとき、僕は風圧を感じて、はっと我に返った。
いつのまにか、山手線の電車がホームに入ってきていた。僕は、慌てていそいそと、電車に乗ると、吊革につかまって、窓の外を眺め始めた。羽田に向かうモノレール、塩留再開発地区の摩天楼、銀座の喧燥、そして高層ビルの間から、緑に覆われた皇居が見え始めたとき、車内放送が流れ始めた。

「まもなく、東京、東京。東北、上越、中央、東海道の各新幹線にお乗り換えの方、第二新東京に向かわれる方は地下通路から新幹線改札口にお回りください」

どっとホームに吐き出され、いっせいに階段に向かう人波の中で、紺のスーツ姿にはあまり似合わない、シャギーの髪を揺らしながら、東北新幹線の改札口方向へ早足で歩いていく女の子の姿が見えた。

(色の白い、きれいな子だな。あの子も同い年か・・・・大人っぽいよな。それに比べて、僕は童顔だし・・・・)

僕は、行き交う人波の中で、ちょっとしたコンプレックスを感じながら、東北新幹線の改札口に向かった。自動券売機が見えたとき、僕の視線は無意識のうちに、彼女の姿を探していた。券売機の上の路線図を見上げている彼女の白皙の横顔が見えたとき、僕はふと歩みを止めてしまった。そのとき、いきなり、後ろから、誰かに突き飛ばされて、僕は前のめりにつんのめった。

「いきなり立ち止まるからや! 気いつけんかい! ここは田舎のあぜ道とちゃうで!」

スポーツ刈りの青年が、ちょっと怒った顔で、僕を見下ろしていた。
TOPに戻る 第3節へ行く