或いはひとつの可能性

この小説はフィクションです。小説の中に登場する全ての人物、団体名は、実在の人物、団体等とは一切、関係はありません。



第50話・描かれざる道





   「えー、次に使徒襲来で延期されていた進路相談についてですが、このところ使徒の襲来も無く、ようやく少しだけ

  第3新東京市も落ち着きを取り戻し始めてきましたので、6月29日、つまり2週間後の月曜日から、出席番号順に

  三者面談を始める予定ですので、みなさん、ご家庭の方にそのように伝えておいて下さい。さっき配布したプリントに

  日程が書かれていますので、これで都合が悪い人は早めに私まで申し出て下さい。何か質問はありませんか?」

  2年A組の担任の老教師は、顔を上げて、少しだけずり落ちて来ていた眼鏡を指で押し上げると、生徒たちを見回した。

  いつも昼下がりのこの時間、生徒たちは食後のひとときを心地良いエアコンの風に吹かれているうちに

  集中力を失って、ある者は夢の楽園に、またある者は窓から見える山並みに遠く想いを馳せているものであるが、

  今日は打って変わって、沈黙のうちにひしひしとした緊張感が教室内にみなぎっている。

  「質問も無いようですので、これでホームルームを終わります」

  担任教師は、今日は何かこのあちに所用があるのか、いつもとは違ってセカンド・インパクトの話には移行することは

  なく、あっさりとホームルームを打ち切った。

  「起立! 礼!」

  ヒカリが号令をかけると、生徒たちはのろのろと立ち上がって一礼し、その間に教師は扉から出ていった。帰り支度を

  始める生徒たちが椅子を引く音で教室が騒がしくなる中で、リエも机の中の教科書をカバンにしまい始めた。

  (・・・・進路相談か・・・・お父さん、来れるかな・・・・)

  教科書をカバンに入れる手をふと止めて、リエは僅かに口許を引き締めた。

  (・・・・そう言えば、NERVの内偵捜査の件、お父さん、本当にやる気なのかしら・・・・そうなったら、

  綾波さんや碇君と衝突する日がいつか来てしまうかもしれない・・・・綾波さんや碇君はNERVのやっていることの

  全てを知っているのかしら・・・・でも、それを本人たちに直接尋ねることなんて、私にはとてもできない・・・・

  友達を疑っているような、そんなこと・・・・やっばり近いうちにミサトさんに聞いてみようかしら・・・・)

  教室の中に降り注ぐ太陽の光とは逆に、リエの脳裏には灰色の雲が広がり始めてきたが、そうした思考を中断させる

  ような声がすぐ近くから聞こえてきた。

  「・・・・いよいよ来よったなあ・・・・運命の日やで・・・・」

  リエが顔を上げると、トウジがシンジの前の席に後ろ向きに座って、溜め息をつきながら、シンジに話し掛けている姿が

  見えた。

  「うん。まあ、前から決まってたことだからね・・・ん? どうしたの?なんか元気ないみたいだけど・・・・」

  シンジは、机の中から物理の教科書を取り出してカバンに収めようとしていたが、目の前から漂ってくる

  どんよりとした気配のようなものを感じたのか、ふと顔を上げた。

  「・・・・ええなあ、シンジは・・・・進路が決まっとって・・・・わしなんか、まだなーんも先のことなんぞ、

  考えとらんからのう・・・・」

  憂鬱そうに視線を机の上に落として呟くトウジに向かって、シンジは僅かに苦笑した。

  「進路って言ったって、取り敢えず今は、どこの高校に行くか、とか、そういう話じゃないか。トウジだって

  市立第壱高校に進むって、この間、言ってただろ? そんなに深刻に考えることなんか・・・・・それに・・・・

  なんにも先のことを考えていないのは・・・・僕の方だよ・・・・」

  (・・・・そうさ・・・・生き残れるかどうかすら、まだわからないんだから・・・・遠い先のことなんか、

  考えられもしないよ・・・・)

  最初は穏やかな顔で話し始めたシンジだったが、話しているうちに表情が曇り始め、やがてふっと視線を机の上に

  落として俯いた。

  「そら、確かに第壱高校には進むつもりやけど・・・・そのあと、何になるのか、わしにはわからんのや・・・・

  今回の進路相談ではそこまでは決めろ言われることはないんやろが・・・・シンジは、将来はやっぱりNERVか

  国連の関係機関に勤めるんやろ?」 

  「・・・・はは・・・・NERVの人たちはみんな優秀なんだよ。僕なんかがとても勤まるような職場じゃないんだ。

  国連なんて、もってのほかだよ・・・・使徒がこれからも未来永劫、襲来し続けるならずっとパイロットとして

  NERVに通い続けることになるんだろうけど・・・・」

  (・・・・でも・・・・そんなこと、考えたくもないよ・・・・)

  シンジは自分の口から流れ出た言葉に自ら戦慄を覚えて、僅かに肩先を震えた。

  「・・・・そうか・・・・それじゃ、実現する、しないは別にして、シンジは将来、何になりたいんや?・・・・

  つまり、シンジの夢ってなんなんや?・・・・」

  トウジは相変わらず憂鬱そうな表情で視線を遠く外輪山に向けながら、ぽつりと尋ねた。

  「え?・・・・・」
  
  トウジが何気なく発した一言は、シンジの動きを止めるのに十分だった。

  (・・・・僕は何になりたいんだろう?・・・・それ以前に、僕には、一体、どんな価値があるんだろう?・・・・

  ・・・・確かに、僕は今はエヴァのパイロットとして生きてるけど、使徒が来なくなって、エヴァもいらなくなったら、

  ここに来る前みたいに、普通の子供に戻ることになるんだ・・・・エヴァのパイロットじゃない僕には、一体、どんな

  価値があるって言うんだろう?・・・・もし・・・・何の価値も無いんだったら・・・・みんな僕のことなんか

  見向きもしなくなるに決まってる・・・・みんなが僕に話し掛けてくれるのは、そして優しくしてくれるのは、

  僕がエヴァのパイロットだからなんだ・・・・)

  シンジはいつの間にか固く目を閉じて、頭を腕で覆って机の上に突っ伏していた。

  そうしたシンジの急変振りをみて、トウジもさすがに慌てた。

  「あ、いや、その、答えたくないのを無理に、とは言わんわ。そうやな、まだ、何になりたいなんて決まっとる奴の

  方が少ないもんな・・・・あ、ケンスケはどうや?」

  シンジとトウジの醸し出す深刻な雰囲気を感じて、恐る恐る近寄ってきたケンスケはいきなりトウジから話を振られて

   一瞬たじろいだが、すぐに午後の陽光を背に負いながら胸を張って答えた。

   「おれか? おれは写真か、それじゃなければマスコミに進みたいんだ。報道カメラマンなんて、最高になりたい

  仕事だよ! こうしてみんなの写真を取り捲っているのも、その練習さ! 先々、俺が有名になったら、きっとみんな

  俺の撮影した写真を持っていることが自慢になるぜ。きっと、そんな日が来る! ところで、トウジは、本当になりたい

  ものがないのか?」

  自信たっぷりに話すケンスケの登場は、重くなりがちだったその場の空気を見事に軽くした。

   「いや、全くないというわけやないんや・・・・でもな・・・・」

  トウジは、いつもの強気さとは違って、困ったような顔でケンスケを見つめた。

   「あるんなら、言えよ! おれもしゃべったんだからさあ・・・・」

   「・・・・そらそやけど・・・・実はな、わしは・・・・平凡でいいんや・・・・大学出て、どっかの会社に勤めて、

   それで・・・・その・・・・け、結婚して、子供つくって・・・・それで、夕方に会社から帰って来て、子供を

   膝の上に抱いて、おかあちゃんと差し向かいで楽しく晩飯食えるような・・・・そんな生活がしたいんや・・・・

   わしは、わしは、それで十分なんや・・・・はっ、ちっぽけな夢やろ? せいぜい笑うてくれ・・・・」

   自嘲気味に歯を見せて笑うトウジを遠くから眺めて、ヒカリはふっと急に胸が痛くなった。

   (・・・・鈴原・・・・早くにお母さん亡くしてたから、家族揃って食事した記憶がないんだ・・・・)

   「・・・・そんなこと、ないわ・・・・そういう身近な幸せだって、とっても大切な将来だと思うよ・・・・

   自分の一番近くにいる大切な人たちを守るっていうのは、簡単なようで、実はとても難しいことだもん・・・・」

   少し離れた席で彼らのやりとりを眺めていたリョウコは、自分の普段の喧嘩相手に向かって、珍しく柔らかい笑顔を

   送った。

   「そ、そうか?・・・・ま、そういうことにしとくわ・・・・ところで、明石はどうなんや? そのまんま嫁にも

   いかず、潰れかけた菓子屋に居座るつもりか?」

   ようやく少し元気を取り戻したトウジは、照れ隠しの気持ちもあってか、早速、リョウコに毒舌を投げかけている。

   「まっ! 潰れかけた菓子屋とは何事よ! せっかく人がちょっといたわってやったら、すぐに図に乗って!

   そうよ! 私は嫁になんかいかないもん! 婿よ、婿! 婿取りして明石屋の暖簾を守るのよ! ああ、細腕繁盛記!

   銭の花は白くて綺麗だけど、その蕾には涙と汗が滲んでいるのよ!!」

   腕まくりをしてみせるリョウコを眺めて、トウジもケンスケもやれやれという顔で呆れている。一方、シンジは

   ようやく思念のループから少しだけ解放されて、弱々しく微笑みをみせているが、依然としてその顔にはまだ暗い

   影が消え去っていない。

   「さ、さよか・・・・それじゃ、初瀬はどうや?」

   自分の机の上に腰掛けて、脚をぶらぶらさせながら、事の成り行きを高みの見物と洒落込んでいたユリコは、

   突然の指名に目を見張って、思わず自分の胸を指差した。

   「えっ、あたし? 決まってるじゃない! お嫁さんよ、お嫁さん! どこかで私を待っててくれてる背の高い

   裕福なお兄さんにプロポーズされて、ホテルニューオークラで華麗な結婚式を挙げるのよ! それで、大きな

   お家に住んで、犬、そう、コリーを飼うの!」

   「た、たいした具体的な夢だね・・・・」

   うっとりとした表情で立て板に水と語り出すユリコを見て、ケンスケは苦笑混じりに呟いた。

   「ようわかった・・・・要するに玉の輿ってことやな・・・・やれやれ・・・・それじゃ、高橋はどうなんや?」

   俯き気味に席に座っているリエは、それまでの友人たちの会話は耳に入っていたが、父とNERVの確執が心に重く

   のしかかっていたせいもあって、いつになくぼんやりと聞き流していた。

   「え、あ? ああ、将来のこと? ええと・・・・・」

   突然、友人たちの注目を浴びてリエはうろたえつつも、必死に思考を巡らせ始めた。

    「ええと、そうね・・・みんなと同じように第壱高校に進んで、それからたぶん、どこかの大学に進んで、ええと

   ・・・・・それから、それから・・・・・」

   そこまで呟いたとき、リエは、突然、口をつぐんでしまった。

   (・・・・私、大学で何を学びたいの?・・・・大学を出た後、何をしたいの?・・・・私、どんな仕事したいの?

   ・・・・・私にできることって何?・・・・・・そうなんだ・・・・・私、なんにも考えてなかったんだ・・・・・

   ・・・・・駄目だな、私って・・・・・みんな、それなりに生き方を考えているっていうのに・・・・・毎日、何事も

   なく楽しく過ごせればいいって、考えてた・・・・・そしたら、みんなに置いていかれちゃったみたい・・・・)

   石のように押し黙ってしまったリエを見て、リョウコは心配そうにリエの傍らまで歩いてきた。

   「言いたくないなら、無理に言わなくてもいいのよ、リエ・・・・」

   リョウコの瞳を見上げているうちに、リエの顔はますます曇っていく。

   (違うの! 違うのよ! 私には、なんにもないの! みんなと違ってなんにも考えていなかったの! 私はみんなより

   ずっとずっと子供なの! だから、だから・・・・優しくなんかしないで!・・・・私にかまわないで!)

   羨望、焦燥感、劣等感、反発・・・・いろいろな感情が心の中で激しく渦巻いていくのが自分でもはっきりと

   感じられる。いつのまにか固く握った手のひらが、湿り気を増しているのがぼんやりとわかる。

   「私、用事思い出したから、帰る」

   リエは、血の気の引いた顔で突然立ち上がると、傍らのリョウコとも視線を合わせず、逃げるように教室から

   早足で歩き去った。後に残された一同は、陽だまりの中で、気まずい思いを抱えて、誰かが言葉を発するのを待って

   みな無言のまま顔を見合わせている。

   いつになくはっきりとしたリエの物言いに気押されて、リョウコやユリコもリエの後を追うことを躊躇していた。

   「まあ、高橋にも虫の居所が悪いことがあるちゅうことがわかったってことや・・・・」

   凍り付いた雰囲気を和ませようとしてトウジが、一同の顔を見回しながらおどけた口調で呟いた。

   「そうだな。なんか気に入らないことがあったんじゃないの?・・・・さあてと、帰るかな・・・・トウジ、

   今日ゲーセン寄ってく?」

   トウジの意図を見抜いたケンスケは話題をさりげなく切り換えた。それを合図に呪文を解かれたかのように、一同は

   黙って自分の席に戻って帰り支度を再開した。

   「リエ、どうしたのかな? 後で家に行ってみようか?」

   やがて帰り支度を終えたユリコは、椅子から立ちあがろうとしているリョウコに向かって声を掛けた。

   「うーん、きっと進路の話が原因だと思うけど・・・・なんで、こんなふうになったのか、わからないわ・・・・

   そうねえ・・・・今日の所はそっとしておいた方がいいかも・・・・なんかあたしが声を掛けたのが却って気に障った

   みたいな気がするの・・・・少し時間を置いて、夜にでも電話かけてみようよ・・・・」

   リョウコは、少し悲しそうに瞳を伏せながら、ユリコに答えると、心持ち肩を落として重い足取りで教室から出ていった。

   そんなリョウコを心配そうに見つめながら、ユリコも黙って後に続いた。

   教室の中のざわめきが次第に小さくなる中で、生徒たちは一人、また一人と三々五々、下校の途についていった。

   リエほどではないが、やはり落ち込み気味のシンジも、ケンスケとトウジに無理に誘われて、あまり気乗りしない

   様子だったが、新水道橋に新しくオープンしたゲームセンターに行ったようだった。



   教室の中で物音がしなくなってから、数時間が過ぎた。

   もはや教室に差し込む陽光も輝きを失い、校庭にも樹木の長い影が伸び始めている。

   僅かに残っていた陽光が外輪山に隠れ、第3新東京市が夕闇に包まれようとした、その刹那、  

   2年A組の教室の中で、ひとつの影が音もなく、すっと立ち上がった。

   瞳に、言葉では語り尽くせぬ悲しみを浮かべ、胸には、初めて感じる激しい困惑を抱きながら・・・・。   


    つづく
   
   
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