或いはひとつの可能性

この小説はフィクションです。小説の中に登場する全ての人物、団体名は、実在の人物、団体等とは一切、関係はありません。



第51話・未来を侵すモノ





  リエは俯いたまま、暗い顔で新駒沢の自宅の玄関を前にして立っていた。

  心の中の混乱を映して顔まで火照っているような妙な感覚のまま、ドアノブに手を伸ばした

  とき、山上の方から吹いてくる一陣の涼風が、リエの前髪を僅かに揺すって通り過ぎていった。

  (・・・・すずしい・・・・あ、私、こんなに汗かいてたんだ・・・・)

  汗がすっと引いていく感触に、リエはようやく我に返ったかのように、俯いていた顔を上げた。

  いつもと変わらない穏やかな午後の景色の中で、顔色を変えて立ちすくんでいる自分に気づいて、

  リエはふっと苦笑いを浮かべた。

  (・・・・何も変わらない景色・・・・昔からずっと変わらない・・・・そしてこれからも

  たぶん変わらない・・・・ヒトは変わり行くもの・・・・変わらなければならないもの・・・・

  みんなは着実に将来のことを考えるようになってたのに、私だけ何も考えてなかった・・・・・
    
  ・・・・・とにかく・・・・私も何をしたいのか、何ができるのか、少しずつでも考えるように

  しなきゃいけないな・・・・まだ何もみえてないけど・・・・考えているうちに、何か見える

  ようになるよね、きっと・・・・)

  額の汗を拭ったまま、しばらく手を止めていたリエは、やがて鍵を開けると、勢い良くドアを

  押し開いた。

  「ただいま」

  いつものように家の中に向かって声をかけるが、いつものように返答はない。

  物音が何も聞こえないのを確かめると、リエは、いつもように無意識のうちに小さな溜め息を
  
  洩らして、靴を脱いでリビングルームに向かった。

  (・・・・・誰もいないってわかってるのに・・・・ばかみたい、私・・・・・)

  リエは、冷蔵庫を開けてミルクを取り出し、制服のまま、リビングの椅子に腰掛けて喉を潤して

  一息ついた。そして、頬杖をついたまま、ぼんやりと狭い庭に広がっている陽だまりを眺めて

  いたが、ふと思い付いたように椅子から立ち上がるとサッシ窓を大きく開けて上半身を乗り出し、

  天を仰いだ。

  蒼く澄み渡った空には、崩れた楕円形の真っ白い雲が2つ3つ浮かんでいて、雲の端は緩やかに

  形を変え続けている。

  (・・・・上の方、風、強いのかな・・・・)

  漠然とそんなことを考えながら、リエはしばらくの間、そのほかのことを考えるのを

  拒むかのように、心持ち目を細めてただただ雲の行方を眺めていた。

  何分間、そうしていたのだろうか。

  やがて不自然な姿勢を長く続けていることによる首の痛みが、リエを無理矢理、現実の世界に

  呼び戻した。

  (・・・・首、痛くなっちゃったな・・・・・さあてと、宿題でもやっちゃおうか・・・・

  現実逃避もいい加減にしないとね・・・・・)

  自分があまりにも冷静なことに、ふとおかしさを感じながら、リエは窓を閉めて自室に向かった。

  着替える前に何気なくカバンを開けて、宿題の問題集を取り出そうとして、リエは蒼ざめた。

  (・・・・!・・・・ない!・・・・・そんなはずないのに!・・・・・)

  みるみるうちに表情を曇らせながら、必死になってカバンの中身を全部床に取り出してみるが、

  探し物は一向にみつからない。一旦引いていた汗が、今度は別の理由で首筋に噴き出してくる。

  (問題集だけじゃない! 数学のノートも教科書もない! どこから落としたのかな? いや、

  そんなはずないわ。だって、学校からここに戻るまでの間、一度もカバン開けてないもん・・・)

  そこまで思い出したとき、リエははっと顔を上げ、両手で口を抑えた。

  (あっ! 数学の時間は、ホームルームの前! そうだ! ノートや教科書なんかを机の中に入れた

  ままホームルームを受けてたんだっけ。ホームルームが終わってあと、片づけている最中に、

  あんなことがあって・・・・ああっ、数学のもの一式、机の中に忘れてきたんだ!・・・・ )

  思わぬ事態に憂鬱な気持ちに満たされながら、リエは再びカバンを持つと、玄関へと向かった。

  (・・・・やっぱり取りにいかないといけないよね・・・・・あーあ、めんどくさい・・・・)

  原因が自分にある以上、不愉快な気持ちを何かにぶつけることもできずに、リエは憮然とした

  表情のまま、もときた道を駅の方に向かって下り始めた。


   
  リエがようやく学校に辿り着いたとき、既に陽はすっかりと暮れてしまい、校舎にはもはや人影は

  全くみられなくなっていた。

  教室へと向かう廊下も暗闇に包まれ始めており、その中でリエの足音だけが陰欝に響いている。

  (・・・・なんか気持ち悪いなー・・・・だから来たくなかったんだよ・・・・・)

  ところどころ暗闇の中に光る火災報知器の赤い光だけが廊下を僅かに照らしている。

  やっとのことで2年A組の教室まで辿り着いたリエが、ドアに手をかけた瞬間、教室の中で

  椅子を引きずる音が聞こえた。

  (!!!誰かいるの?!)

  思いがけない事態の展開に、リエはドアに手を掛けた姿勢のまま、体を硬くして息を呑んだ。

  ゆっくりと小さな足音がドアに近づいてくるのが聞こえる。

  ドアが開かれるまでの数秒間の緊張に耐えられなくなったリエは、多少、逃げ腰になりながらも、

  みずからドアを勢い良く開けた。

  「あれ、まだ残っていたの?」

  リエは、ちょっと拍子抜けしたように、すぐ目の前に立つ蒼髪の少女を、しげしげと眺めた。

  「・・・・・考え事・・・・してたから・・・・」

  薄く暗くなった教室の中で、レイは以前のような無表情の顔つきで、リエをじっと見つめていたが、

  その紅い瞳には、僅かに怯えと不安の色が浮かんでいる。

  (・・・・なんか、様子がおかしい・・・・なにかあったのかしら?・・・・・)

  多少、鈍いところのあるリエも、そんなレイの姿に直感的に異常を感じ取っていた。

  「私、忘れ物しちゃって・・・・今日の宿題できなくなっちゃうから、慌てて戻ってきたのよ。

  まいったわ、やれやれってとこね」

  リエは、大袈裟に首をすくめながら、レイに笑いかけてみせたが、そんなリエを見つめるレイの瞳は、

  ますます光を失っていった。

  「・・・・先・・・・帰るから・・・・」

  (・・・・結論はなにも変わらない・・・・・変えられない・・・・・変えてはならない・・・・・

  ・・・・・そして・・・・私も、それを望んでいたのに・・・・・何を戸惑うの、私?・・・・・・)

  自分の感情の乱れに、自分でも僅かな戸惑いを感じながら、レイはきびすを返すと、

  やや俯き加減のまま、夕陽の残照すら消えかけている廊下を歩き出した。

  (とにかく、なにかあったのは確かよね。急がなくちゃ!)

  リエは、慌てて自分の机の中から宿題を引っ張り出すと、乱雑にカバンの中に突っ込んで、

  レイの後を追って、小走りに廊下へ出た。

  廊下の薄暗い闇の中で、レイの白いうなじがくっきりと浮かび上がっていた。

  「綾波さん! 私も帰るから、ちょっと待ってよ!」

  リエの声が闇の中に響いたとき、レイは何かに弾かれたかのように、ぴくりと頭を上げて、

  ゆっくりと振り向いた。

  レイが取り敢えず拒絶の意思をみせていないのを確認すると、リエはレイが口を開く前に、足音を派手に

  響かせながら駆け寄った。

  「せっかくだから、一緒に帰ろ! ね!?」

  微笑みながら、自分の顔を覗き込む少女の顔を、レイはしばらく声も無く見つめていたが、

  やがて小さく、こくん、と肯いた。

  (そうは言ったものの、なかなか会話が続かないのよね・・・・)

  リエは、レイとの会話の糸口を探そうとながら、レイの横に並んで歩き始めた。

  (テレビ番組のことでも話そうかしら・・・・)

  薄暗い廊下に重苦しい沈黙が流れる中、リエが口を開こうとした瞬間、突然、レイが足を止めた。

  「えっ!? どうしたの?」

  話の出鼻を挫かれて、リエは慌てて、レイを振り返った。

  レイは、自分の1メートルほど先の廊下に視線を落としたまま、ただ立ちすくんでいた。

  (・・・・・補完計画の発動・・・・・私が無に還るとき・・・・私には将来は用意されていない・・・・・

  ・・・・・・私は、それでいい・・・・それを望んでいた・・・・でも・・・・・・)

  唐突に足を止めた自分を、心配そうに見つめている視線に気づいて、レイは瞳を上げ、

  相手をじっと見つめた。

  (・・・・・高橋さん、初瀬さん、明石さん、相田君、鈴原君、そしてみんな・・・・・

  ・・・・・・私以外の人も、未来を失う・・・・・みんなの将来は、見果てぬ夢に終わる、はず・・・・

  ・・・・・・それは正しいこと?・・・・・それは望まれること?・・・・わからない・・・・・

  ・・・・・・わからない・・・・・わからない・・・・・)

   レイは、初めて感じる葛藤に脳裏が激しく混乱するのを感じ、リエから視線を外すと、

   僅かに顔を歪ませた。

   (・・・・補完計画は正しいもの・・・・・人類を救うはずのもの・・・・・でも・・・・・

   ・・・・・ヒトは、みな、それを望むのでしょうか?・・・・・明らかに未来を楽しみに生きている

   ヒトたちがいる・・・・彼らは、それを望まないような気がする・・・・・補完計画は

   正しいものではないかもしれない・・・・・でも・・・・・補完計画は正しいはず・・・・

   ・・・・・そう、教えられた・・・・・疑問にも思わなかった・・・・なのに、なぜ、今、

   こんなことを考えているの、私?・・・・・何かが変わってしまったの?・・・・・)

   レイは、自分の得た結論に想いを馳せたとき、自分の顔から血の気が引いていくのをはっきりと自覚した。

   それだけでなく、そういう結論を導き出した自分にも、少なからず驚いていた。

   (・・・・・補完計画・・・・正しくて、正しくないモノ・・・・・)

   一方、リエは、レイが自分を見つめながら、顔色を変えたのをみて焦っていた。

   「わ、私、なんか変なこと、言った? だとしたら、ごめん!」

   レイは、視線を床に落としたままで、僅かにかすれた声で静かに答えた。

   「・・・・・変なのは、私・・・・正しく、正しくないものか、わからない・・・・・」

   言い終えるやいなや、レイは走り出した。

   (・・・・・補完計画が誤りだとしたら・・・・私がここにいるのも誤り・・・・

   ・・・・・・私は、存在を許されないモノ・・・・・でも、存在している・・・・・

   ・・・・・・いろいろな絆を持ってしまっている・・・・・どうすればいいの、私は?・・・・)

   走っているレイの脳裏を、幾つもの笑顔が通り過ぎては消えていく。

   レイは、そんな笑顔から逃れるように、闇に包まれ始めた校舎をただただ走り続けた。

   後に残されたリエは、なすすべもなく、走り去っていくレイの後ろ姿を茫然と眺めていた。

   (・・・・・綾波さん、何を悩んでいるのかしら?・・・・少なくとも私が原因じゃないみたい

   だけど・・・・何であんなに取り乱しているの?・・・・・そんなに重大なことなの?・・・・

   ・・・・・・・まだ、私には、話してくれないんだ・・・・・)

   きつねに摘ままれたような、漠然とした違和感を抱えながら、そして、一抹の寂しさを感じながら

   リエは、すっかり暗くなってしまった廊下を俯いて歩いていった。

   静寂を破るように、今日最後のヒグラシの声が、森閑と静まり返った校舎に響き渡った。


    つづく
   
   

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