或いはひとつの可能性

この小説はフィクションです。小説の中に登場する全ての人物、団体名は、実在の人物、団体等とは一切、関係はありません。



第49話・アスカ、離独前夜





   ルミは、どこかで聞き覚えのある声に抵抗を止めて、自分の口を押さえている手の辿って、

   少女の顔に視線を移した。

   (あっ、あのときのっ!)

   目を大きく見開いたルミを見て、赤い髪の少女は満足そうに肯いた。

   「あら、アタシのこと、覚えてたみたいね? ま、当然よね。こーんな美少女、そうざらにはいないもんね」

   少女がルミの口を押さえていた手を離し、腰に手を当てて胸を張って立ちはだかったとき、倉庫の外で

   数人の靴音が激しく響き始めた。

   それを聞いたルミが怯えた表情に変わるのを見て、少女も微かに表情を引き締めると、ルミに向かって倉庫の奥を指差した。

   「倉庫の奥にドレッサーがあるから、そこに隠れてて!」

   「・・・・どうして、私を・・・・」

   思いも依らない展開にルミが躊躇していると、少女はいらついたように眉間に皺を寄せて小声で叫んだ。

   「ぼやぼやしてると踏み込まれて、ジ・エンドよ!」

   その声を聞き付けたのか、倉庫の外を歩き回っていた靴音がだんだんと倉庫の扉に近づいてくる。

   ルミは慌てて倉庫の奥に向かって足音を立てないように小走りで駆け込んだ。

   薄暗い倉庫の中には、天窓からの一条の光だけがまるでスポットライトのように差し込んでいる。

   静寂の中に独り取り残された少女は、腕組みをすると深呼吸して、光の源を見上げた。

   (・・・・これでよし、と・・・・・いよいよ来るわね・・・・アスカ、行くわよ!!)

   倉庫の扉の前で靴音は、身構えるかのように一瞬途絶えたが、やがて勢いよく扉が開かれ、4人の背広姿のドイツ人男性

   が飛び込んできた。

   少女は天を見上げていた視線を、騒々しく雪崩れ込んできた男たちに鬱陶しそうに向けるると、一歩前に踏み出した。

   「アンタ達、誰よ! まったく、人が考え事してるときにうるさいわね! 何か用?!」

   男たちは自分の想像と異なり、本来そこにいるはずのない人物の姿を倉庫の中に見て硬直して立ち止まり、辺りを

   見回し始めた。

   「ちょっと、アンタ達、失礼ねっ! 突然入り込んできて、そのうえ人の質問にも答えようとしないなんて最低ねっ!

   こんなののと同じ血がアタシの中にも流れてるなんて、考えただけでもぞっとするわ! ちょっと、何とか言いなさいよ!」

   さらに前に一歩踏み出して、苛立った声を徐々に大きくしていく少女をみて、男たちはその気迫に押されたのか、

   少しだけたじろいだ表情に変わり、黙ったまま顔を見合わせた。

   「この子の言う通りだぜ、ドイツ連邦情報局のお兄さん方!」

   倉庫の中に男の声が響くと、捜査官たちは一斉に倉庫の扉の方を振り向いた。

   外光を背に負い、逆光の中で倉庫の扉にもたれて立っている男の姿を目にするやいなや、少女は一瞬にして表情を

   ほころばせて嬉しそうな声を上げた。

   「加持さん!!」

   その声を聞くと、加持はニヤリと笑い、捜査官たちの間を掻き分けて少女の傍らまで歩いてきた。

   「レディにはやさしく丁寧に、ってのが騎士道精神なんじゃなかったかなぁ?少なくとも英国紳士ってのはそうだって、

   日本では話に聞いてたけどな。おっと、ここは英国じゃなくてドイツだったか。これは失敬失敬」

   ドイツ人の捜査官たちは、EUの中で有力なライバルである英国の名前を出されると、露骨に嫌な顔をした。

   そんな中、鋭い目付きの白髪の男がゆっくりと前に進み出てきた。

   「加持君と言ったかな? 埠頭でも我々の邪魔をした上に、ここでも捜査を妨害するつもりかね? 幾らNERVが

   超法規的組織とは言え、物には限度というものがある。ここはNERVの施設内ではなく、ドイツ連邦共和国の施政権が

   及ぶ地域だ。君たちの勝手は許さない!」

   「私はべつに捜査に妨害しようなんて、露ほども思っちゃいませんよ。ただね、あなた方の探している女性は、ついさっき

   までNERVの重要運搬物資を偵察していたんですよ。これはNERVとしても黙って見過ごすわけにはいかないんでね。

   2011年の国連幹部会決議第981号では、各国の司法・警察権とNERVの自衛権が衝突した場合には、

   NERVの自衛権を優先すると取り決めているのはご存知ですよね? 従って、その女性に関する調査は、まず第一義的には

   我々NERVが行いますのであしからず」

   「加持さん、かっこいいっ!!」

   流暢なドイツ語で毅然と言い放つ加持を見上げて少女は目を輝かせているが、捜査官たちは一様に唇を噛み締めて苦虫を

   つぶしたような顔で二人を睨み付けている。

   「・・・・やむを得ませんな。幹部会決議を引っ張り出してこられると、私たちもぐうの音も出ません。だが、しかしね、

   加持君とやら、こんなことをやっていると、今にNERVも手痛いしっぺ返しを食うことになりますよ、間違いなくね。

   ただひとつだけ、そこの元気なお嬢さんに聞いておきたいんだが、ここには日本人の若い女性は逃げ込んでこなかった

   かね? 加持君が言っていたように、彼女はNERVと我々にとって有力な被疑者なんだが・・・・・」

   初老の捜査官は湧き上がる怒りを抑え、少女に向かって丁寧に尋ね始めた。

   「日本人の女? ああ、来たわよ。アタシがここで独りになってイメージトレーニングしてたら、慌てて駆け込んできたけど、

   アタシが立ってるに気づくと、走って逃げてったわよ。一体、アイツ、何者なの?」

   少女は相変わらず不満気な顔で、捜査官たちを睨み付けながら吐き捨てるように答えた。

   「捜査上の秘密なので、それはお答えできない。とにかく、ここにはいないんですね?」

   初老の捜査官はゆっくりと嘗め回すように倉庫の中に視線を這わせながら、にべもなく答えた。

   「いるわけないじゃないの!! いたら、とっくに、アタシの大切な加持さんに引き渡してるわよ! アンタたちも、アタシが

   誰だか知ってるんでしょ?! NERVに勤めてる人間が、NERVに敵対するヤツを見逃すわけないじゃないの!

   もうっ、何度も同じこと言わせないでよ! いないもんはいないのよっ!! いらいらするわねっ!!」

   「・・・・なるほどね。あなたが、ドイツ連邦共和国でも名高い秀才であり、今やエヴァンゲリオンのパイロットでもある

   惣流・アスカ・ラングレーさんであることは、確かに知ってますよ。マスコミでも有名ですしね・・・・・わかりました。

   我々はこの保税地区をしらみつぶしに当たりますから・・・・まだ遠くへは行ってないはずだ・・・・・ちなみに、我々が

   先に容疑者の身柄を確保した場合には、国連幹部会決議第981号但し書きに則って、我々の尋問など所要捜査が終了する

   まで容疑者をNERVにはお渡しできませんから・・・・」

   初老の捜査官は加持とアスカを見比べながら捨て台詞を残すと、部下たちとともに倉庫から出て行った。

   彼らの足音がすっかり聞こえなくなるまで、加持とアスカは黙って立ち尽くしていたが、やがて加持はアスカを見下ろし

   ながらニヤリと笑った。

   「さてと、俺も失敬するよ。まだ仕事がすんじゃいないんでね。ドイツを離れるまであと3日、忙しくて目が回りそう

   だぜ、まったく・・・・・」

   軽く伸びをしながら倉庫の扉を目指して歩き出した加持は、ふと立ち止まると、アスカに背を向けたまま呟いた。

   「・・・・・俺はホテルに戻ってるから、いよいよ困ったら、部屋に来てくれよ。力になれると思うから・・・・」

   全てを見通しているかのような加持の呟きを聞いて、アスカはハッとした表情に変わった。 

   「・・・・・加持さん、あのね・・・・・」

   「・・・・・いよいよ困ったら、と言ったろう?・・・・・まだ、その時期じゃない・・・・・」

   アスカに背を向けたまま答えると、加持はポケットに手を突っ込んで、そのままだるそうな歩調で倉庫から出て行った。

   アスカは倉庫の戸口に立ったまま黙って加持の後ろ姿を見送ると、おもむろに扉を閉めて、倉庫の奥に向かい、

   ドレッサーの前に立った。

   「もういいわよ。出てきなさいよ」

   凛とした声が森閑とした倉庫内に響くと、ルミがおそるおそるドレッサーの中から現れた。

   「・・・・あの・・・・ありがとう。助かったわ・・・・・でも、なんで私をかくまってくれたの?」

   ルミは倉庫の中を見回すとほっと安堵の溜め息をついたが、すぐに困惑した表情でアスカに尋ねた。

   「アンタとは、この間、ミュンヘンで会ってて、全然知らない顔じゃなかったからね。倉庫の外を走り回ってる靴音を

   聞いて扉を開けて見たら、アンタが泣きそうな顔で天を見上げてるじゃない! そりゃあ、このアタシも驚いたわよ!

   それにね、まあ、なんか深い訳が有りそうだったし・・・・・あ、ご、誤解しないでよ! 別にアンタを心配してとか、

   そういうのじゃないからね! 最近、訓練もなくてちょっと退屈だったから、これが暇つぶしになればと思っただけよ!

   それよりも、どういうことか、説明しなさいよ! 何で一般民間人のはずのアンタが国家権力に追われてるのよ?!」

   アスカは一瞬だけ僅かに照れたような表情を垣間見せたが、すぐに指をびしっとルミに突きつけて、畳み掛けるように

   尋ねてきたので、仕方なくルミはこれまでの経緯を説明し始めたか、やがてアスカの目が徐々に輝きを増し始めた。

   「ふうん、そういうこと・・・・・じゃさ、今、そのフィルム持ってんでしょ? ちょっと見せてみなさいよ」

   (なんか面白そうね! これからの退屈な船旅の前に、ちょっとしたお楽しみがあってもいいんじゃない?

    そう、加持さんがよく言う言葉、ええと、「行きがけの駄賃」って奴ね! うん!!)

   一方、ルミは、なぜか嬉しそうなアスカの口調に一抹の不安を感じていた。

   (この好奇心たっぷりの表情、ちょっと危ない感じもするれど・・・・・フィルムを見せても大丈夫かしら?・・・・

   とにかく一刻も早くドイツから出国しなきゃいけないのに・・・・・)

   「あ、あのね、アスカちゃん、フィルムを見せるのはいいんだけど、ここじゃ中身を再生することもできないから、

   フィルムの磁気テープだけ見ることになるわよ。そ、そんなの無駄だよね!?」

   内心、困惑しながら、ルミが必死に考えた言い訳を並べていると、アスカはにんまりと笑いを浮かべた。

   「あーら、あの船にはそんな装置はとーっくの昔に搭載されてるわよ。国連大西洋艦隊を舐めてはいけない!」

   勝ち誇ったような表情で埠頭の方向をにびしっと指を向けているアスカを見て、ルミは次の断り文句を考えようと、

   頭をフル回転させていた。そんなルミの様子を眺めながら、アスカは再びニヤリと意地の悪い微笑みを浮かべた。

   「だめなら、いいもん! 早速、このフィルムのことを加持さんに話しちゃうから! そうなったら、アンタ、これから

   先、数年間、陽の当たらない暗い独房で、自分と禅問答を繰り広げなきゃならなくなるわね。まあ、アンタ達、日本人は

   昔から働き過ぎだから、ときにはそういうバカンスの取り方もいいんじゃない?」

   「陽の当たらない独房」という言葉を聞いて、ルミの顔から音を立てるかのように血の気が引いた。

   「あは、あはははは、アスカちゃんは、じ、冗談がうまいのね。て、てへへへへ」

   「冗談じゃないもん。アンタのやってることって、法律的には脱税行為という犯罪そのものだもん。そういう犯罪者を

   発見して、警察当局に突き出せば、アタシは表彰ものよね。あっ、金一封もらえるかもっ! まあ、たいした金額じゃ

   ないだろうけど、お小遣いの足しにはなるわね! そうそう買いたい服があったのよねぇ・・・・」

   唇に人差し指を当てて、考え事をする振りをしながら、ちらちらと意味ありげにルミの方に視線を走らせるアスカ。   

   (・・・・仕方ないわね・・・・それに私もフィルムの中身を見たいし・・・・この子の機嫌を損ねたら、ほんとに

   警察に突き出されかねないし・・・・・えい、もう、でたとこ勝負よ! どうとでもなれ!)

   覚悟を決めたルミは、渋々、バッグの中のマイクロ・フィルムを取り出して、期待に目を輝かせているアスカに手渡した。

   「フィルム、これよ。でも、どうやって、あの輸送船に潜り込むの?」

   「そーんなのお茶の子さいさい! ま、アタシについてきなさいよ!」

   自信ありげに目を細めるアスカを、ルミは心細そうな表情で見つめた。

   (・・・・やけに自信満々だけど、ほんとに大丈夫かしら・・・・)

   「あら、なーんか心配そうな表情ねえ? そんな辛気臭い顔してないで、このアタシを信じなさいよ! 天才美少女、

   惣流・アスカ・ラングレーの辞書に「不可能」なんていう文字は載ってないのよっ!」

   言うが早いか、アスカは倉庫の扉を勢い良くパーンと開くと陽光降り注ぐ屋外へと歩み出していた。

   「ち、ちょっと待ってよ! 私は捜査官に追われてるのよ! こんなに堂々と歩いてたら、それこそ「逮捕して下さい」って

   お願いしてるようなものじゃないの!?」

   さすがにルミは顔色を変え、目の前をずんずんと大股で胸を張って歩いて行くアスカに耳打ちした。

   「だーかーら、凡人は駄目なのよ! こういう時にはね、却ってこそこそしない方がいいのよ! とにかく安心しな

   さいって! 我に秘策あり!」

   陽光を全身に浴びて、その金色の髪をきらきらとなびかせながら、アスカはむしろ歩速を一段と早め、その後ろを

   うなだれた姿でルミがついていく。

   その奇妙な取り合わせは、埠頭にいたNERVドイツ支部の職員たちや港湾荷役関係者だけでなく、たちまちドイツ

   連邦情報局の捜査官たちの目を引き付けてしまった。慌てて駆け付ける捜査官たちをみて、アスカはにんまりと微笑み、

   一方、ルミは口の中で小さく「ひっ!」と悲鳴を上げている。

   「やっと容疑者が見つかったか! お手柄だな、アスカ君! さあ、我々に引き渡してくれ!」

   捜査官の一人がアスカに向かって、笑顔で声をかけた。

   「アンタ、何言ってるの? 頭どうかしてるんじゃないの? この容疑者は、この惣流・アスカ・ラングレーが確保した

   したのよ。つ・ま・り、NERVが確保したってことでしょ? これから、輸送船に連れてって、中で尋問するんだから、

   邪魔しないでよ! あーもう、ほんとに鬱陶しい人たちね! 」

   舌鋒火を吐くアスカの反撃に、捜査官たちはあっけにとられ、次いで心から悔しそうな表情に変わった。

   「尋問が終わったら、速やかに必要な手続きをとるから、それまでおとなしく外で待ってることね。輸送船の中は、

   現在、NERVの所轄管内となってるんだから、アンタ達は入れないわよ! じゃーね!」

   一転して、にこやかな顔で微笑みながら、捜査官たちにきつい内容を申し渡すアスカをみて、ルミは内心、驚愕していた。

   (・・・・この子、なんて度胸が据わってるのかしら?・・・・・この落ち着き振りと頭の回転の速さ、ただ者じゃ

   ないわ!・・・・一体、この子ってほんとは何者なの?・・・・・)

   そんなルミに向かって振り返りながら、アスカは厳しい表情で声をかけた。

   「ほら、さっさと歩きなさいよ! 輸送船の中で、びりびり痛ぶって、何もかも洗いざらい吐かせちゃうんだから!

   ふんっ、このNERVを敵に回すなんて、百億年早いわよ!!」

   アスカのあまりにも堂々とした態度に、捜査官たちも疑惑を抱く様子はなく、ただNERVに先を越されたのを

   悔しがっているだけだった。

   (・・・・ま、ざっと、こんなものよ! でも、あの捜査官たちには、ちょっとばかり悪いことしたわね・・・・・)

   輸送船のタラップを上り終えて船内に入った瞬間、アスカはルミを振り返ってニヤリと笑い、小さく舌を出してみせた。

   そんなアスカをみて、ルミも緊張がほぐれ、ようやく安堵の溜め息を洩らし、小さく笑ってみせた。

   


   数分後、二人は「会議室」と書かれたプレートの下がっている部屋の前に立っていた。

   「なんで、船の中にこんな会議室が・・・・・船旅には不要なんじゃないの?・・・・・」

   ルミはプレートを見上げながら、不審そうにぽつりと呟いた。

   「アンタばかぁ?! 決まってるじゃない! NERVの職員は、今、使徒という人類の脅威と闘っているのよ!

   移動中だからって、ぷらぷら遊んでる余裕なんてないのよ、アンタたち民間人とは違ってね! みんな自分の仕事を

   船内でも続けるわけ! つまり船内にそっくりオフィスが移って来てるってことよ! だから当然、打ち合わせとか

   ミーティングも頻繁に必要となることが予想されるから、こうした施設を持ってきたのよ。ほーんと、何にもわかっちゃ

   いないんだから! 民間人は極楽トンボね! ほら、開けるから、とっとと入んなさいよ!」

   アスカは立て板に水という調子で、ルミにぽんぽんと言葉を投げつけると、ドアを勢い良く開けてみせた。

   「さあてと、映画の始まりよ! ほら、ぼさっと突っ立ってないで、アンタも座んなさいよ!」

   アスカが室内に置かれた再生装置のひとつにマイクロフィルムをセットし、再生開始のボタンを押すと、モニター画面に

   は、一枚の書類が映し出された。

   「なにこれ? アタシ、日本語の文書は不得意だから、アンタが解説してよね!」

   アスカに急かされて、ルミは目を凝らして画面を覗き込んだが、すぐにぶるっと小さく身震いをした。

   「・・・・・これ・・・・・支出承認書よ・・・・・チトセ・ジャーマン、つまりうちの現地法人に出向している

   大井経理課長が決裁したものだわ・・・・特務機関NERVからの情報購入料として・・・・・えーと・・・・

   えっ、四半期で2億8千万円? すごい金額だわ! 現地法人の支出総額の大半を占めるじゃない! でも、こんな

   勘定科目では、本社には連絡は来てないわ・・・・えーと、払込口座名は・・・・あれ? 個人名義だ? エルンスト・

   ガートナーって書いてある・・・・アスカちゃん、この人知ってる?」

   「そんな人、NERVドイツ支部にはいないわよ。それじゃ、次行くわよ」

   アスカは不思議そうな顔でルミの横顔を見つめると、テープを先に進めた。

   「えーと、これは・・・・・本社とドイツ現地法人との取引書類ね・・・・ごく当たり前の取引きよ。なんで、こんな

   ものが機密なのかしらね?」

   ルミは首をかしげながら、画面を眺めた。

   「アンタの目は節穴じゃないの? よくそれで経理の仕事なんかやってるわね? ほら、よく見なさいよ! 取引単価が

   異様に高いじゃないの! それとも日本じゃそんなに物価か高いっての?」

   「あ、ほんとだ! なんでだろ?」

   「アンタねえ、これは移転価格じゃないの!! そんなことも知らないで、よく経理の仕事が勤まってるわねえ?! 

   市場価格より高い値段で、本社と関連会社が取引すれば、会社の収益を合法的に付け替えられるじゃないの。

   つまり、こうすれば、チトセの本社からチトセ・ジャーマンに利益を移転できるわけよ。税金の低い国に設立した

   現地法人に利益を付け替えてグループ全体として節税したり、あるいは現地法人の収益支援によく使われる手よ。

   こんなの、アタシ、大学の財政学の授業で習ったわよ!」

   アスカに呆れた顔で見つめられ、ルミは顔から火の出る思いで俯いた。

   「それじゃ、次行くわよ」

   「えーと、これは・・・・NERVドイツ支部との取引記録ね。これも、取引価格が市場価格と比べるとかなり高い

   わね。これは私でもわかるわ・・・・次、お願い・・・・えーと、これは・・・・・ああっ!!・・・・」

   画面を見つめていたルミは、モニター画面に映し出された、ごく簡単な文書をみて思わず声を上げた。

   「どうしたのよ!? 大きな声出して・・・・こっちがびっくりするじゃないの!!」

   「・・・・・これ・・・・・日本の内務省との取引記録よ・・・・・・」

   ルミは声を潜めて、アスカの顔を見つめた。

   「別にチトセと内務省の間に取引関係があったって、全然おかしくないじゃないの」

   「そうじゃないのよ! 千歳重工はね、かつて開発失敗で経営危機に陥っているときにNERVから資金支援を受けて

   経営を立て直した経緯があるのよ。だから、NERVと事ある毎に対立しているらしい内務省との取引なんて、あるはずが

   ない、いや、あってはならないことなのよ・・・・それなのに・・・・・なぜ?・・・・・・そもそも、このフィルム

   だって、技術関係の機密情報って言われてたのよ。私は、経理関係書類が入ってるなんて一言も聞かされてないわ・・・・」

   ルミは画面から視線を落として、厳しい表情で俯いた。一方、アスカはモニター画面を睨みながら、腕組みをして何か

   考え事をしていた。機械のモーターが回るごく微かなブーンという音だけが、静まり返った室内に響いている。

   やがて、アスカは椅子から、すっと立ち上がるとホワイトボートの前に立った。

   「この資料から考えると、どうやらアンタの会社、チトセは内務省とNERVに二股かけてるってことね・・・・」

   アスカの凛とした声が室内の静寂を破ったとき、ルミはさすがに顔色を変えて立ち上がった。

   「そんなこと、ありえないわ!!」

   「どうして、そんなこと断言できるの?」

   「だって、千歳重工はNERVには大きな恩義があるのよ! それを裏切るなんて・・・・」

   立ち上がってお互いに睨み合う二人。先にゆっくりと近づいてきたのはアスカだった。

   「・・・・・ねえ、こういう言葉知ってる?・・・「企業とは、すなわち「存続」である」・・・・アタシは大学で

   習ったけど・・・・つまり、存続するためには手段を選んでいられないってこと・・・・チトセは、日本の本社から

   移転価格によって収益を付け替えてもらったり、NERVドイツ支部に高い値段で資材を納入したりして、資金を作って、

   それをバックリベートとしてNERVドイツ支部の誰かに贈賄していた。その一方で、NERVと敵対している日本の

   内務省とも取引関係を持っていた。もしかして、そういうことが、ドイツの当局に知られたんじゃない? だから、

   彼ら、血眼になって、このフィルムを手に入れようとしてるんじゃないの? アンタ、事実を隠されたまま、単なる

   運び屋としてドイツに送り込まれたのよ。贈収賄事件の片棒を担がされたってわけ。ご苦労様なことね・・・・・」

   アスカは何事もなかったかのように平然とした顔で、資料の断片から一刀両断になぞ解きをしてみせた。

   「・・・・そんな・・・・そんな・・・・汚すぎるわよ・・・・・そんなことが私の職場で行われてるなんて・・・・

   それじゃ、私は単なる道具として危険な仕事をさせられたってわけなの!? ・・・・・」

   ルミはしばらく茫然と立ちすくんでいたが、やがて放心したように、まるで糸の切れた操り人形のように無気力な格好で

   椅子に腰を下ろした。

   「・・・・大人なんて、みんなそういうものよ・・・・・みんな、自分勝手で、自分ことしか考えない・・・・・

   ・・・・・自分のために誰かが不幸になったりしても、「仕方ない」の一言で済ますのが常套手段・・・・・・・

   ・・・・・自分さえよければ、たとえ実の子供でも、犠牲にするのよ!!・・・・・アタシは、そういう大人なんか

   大嫌い! みんな、みんな大嫌い!・・・・・」

   アスカは唇を噛み締めると、拳を固く握って俯いた。

   「・・・・それじゃ、あなたは大人になりたくないの?・・・・・」

   (・・・・この子の肩、こんなに華奢だったんだ・・・・・・)

   アスカの叫び声を聞いて、ルミははっとして顔を上げ、そして小さく震えている肩先を見つめた。

   「違うわ!! その逆よ! アタシは、そういう大人に犠牲にされないように、早く早く大人になりたいの!

   大人に隙を見せないで生きて、人類を救うパイロットとしてエヴァに乗って、偽善に塗れた大人みんなを翻弄して

   見返してやるのよ! 誰にも侵害されない、一個の独立した人間として、自由に孤高に生きたいのよ!

   ああっ、なんでこんなこと、見ず知らずのアンタに言わなきゃなんないのよ!まったく、むしゃくしゃするわ!!

   みんな、どうかしてるわよ!!」

   ルミの言葉を聞いて、アスカは素早く顔を上げてルミを睨み付けると、顔を紅潮させて猛然として反論した。

   (・・・・この子・・・・心の奥底に何かとても傷ついた部分があるのかもしれない・・・・・そんな気がする・・・・

   ・・・・・でも、私には、どうすることもできない・・・・・・無力ね・・・・・)

   アスカが初めて見せた心の断面の一部。ルミは少なからず衝撃を受けながら、目の前で怒りに震える少女に

   かける言葉を見つけられずに、自分の無力感をひしひしと感じていた。

   (・・・・一体、私には何ができるんだろう?・・・・そして、私は何をしなければならないんだろう?・・・・)

   無意識のうちにルミは、頭を抱えてうずくまっていた。そんなルミを、アスカは興奮も覚めやらず、息を弾ませたまま

   じっと見下ろしていた。

   永遠に続くかと思われた静寂は、いとも簡単に破られた。

   「おっ、ご両人! こんなとこにいらしたんですかい? これまた、大胆なことをするねぇ! さては、アスカの発案だな?」

   会議室のドアを開けて、加持は室内に半身を入れながら、白い歯を見せてニヤリと笑ってみせた。

   「加持さん!? ホテルに戻ったんじゃないの?」

   加持の顔を見た途端、アスカは物の怪から解放されたようにふっと自然に表情を緩めた。

   「ああ、船内の自分の部屋に忘れ物をしちまってね。いやはや、歳を取ると、物忘れがひどくなって困るねえ。

   ははははははは」

   快活に笑う加持の声は、室内に漂っていた重苦しい空気の残滓を吹き飛ばすには十分だった。

   「それはそうと、お嬢さん。これからどうやって日本に帰るつもりだい? 船の外には、捜査官たちが手ぐすね引いて

   待ち構えてるぜ」

   いきなり現実に引き戻されたルミは、困惑した顔で目をしばたたかせた。

   「・・・・・どうやってって・・・・・どうしたらよいのやら・・・・・」

   途方に暮れているルミを見て、加持はやれやれとでも言うように、両手を肩の辺りに挙げて天を仰いだ。

   「仕方ないな。奥の手を使うか・・・・アスカ、ちょっと船底の資材倉庫に降りて、NERV女子職員の制服を

   一着持って来てくれないか? 日本人に合うのがあるといいんだかな・・・・」

   加持は無精髭の生えた顎をさすりながら、アスカの方に視線を走らせた。

   「あるわよ! アタシ、ミサトの服、預かってるから。制服を発注したまま、転勤が決まって本部へ移っちゃったから、

   ドイツ支部に残ってたんだけど、今度、アタシ達が日本へ行くときに一緒に持ってきてくれって、ミサトから頼まれた

   のよ」

   さっきまでの激情振りはどこへやら、アスカが得意そうに胸を張るのを見ながら、加持は思わず苦笑した。

   「まったく葛城らしいや。大方、制服を注文したまま、忘れて転勤しちまったんだろうが。まあ、地獄で仏とは、この

   ことだな。それじゃ、アスカ、悪いけど早速、船室から服を持って来てくれないか?」

   「はーい!」

   加持に頼まれ事をされたのが余程嬉しいのか、アスカは足取りも軽く会議室から駆け去って行った。

   その後ろ姿が廊下の端で見えなくなるのを待って、加持は会議室に戻ると、ドアを閉めた。

   「さてと、扶桑ルミさん。君に言っておかなきゃならないことがある」

   一転して厳しい顔に変わった加持を見て、ルミは表情を凍り付かせた。

   「な、なんで私の名前を?!」

   明らかに怯えている様子のルミに気づくと、加持はほんの少しだけ表情を緩めた。

   「別に取って食おうとか言うんじゃないから、安心してくれ。でもな、もう、これ以上、素人が危ないことに首を

   突っ込むな、と忠告しておきたい。今回はたぶんうまく日本に出国できるだろう。それは俺が保証する。だがな、

   次に危ない目に遭ったときには、今度は現地警察じゃなくてNERV本体が動くだろう。そうなれば、たぶん、君は

   二度と明るい太陽の下を歩くことはできないだろう。NERVは、そんなに甘い組織じゃないからな。今回は、ちょっと

   ばかり俺も、君には迷惑を掛けてるんで、それに免じて助けてやるけどね」

   「あ、は、はい、ど、どうもすみません。もう、二度とこんな怖い思いはゴメンです。日本に帰ったら、ちょっと

   自分の身の振り方について考えてみることにします。あ、あの・・・・・加持さんが私に掛けた迷惑って、何ですか?」

   ルミは加持の言葉に震え上がりながらも、勇気を振り絞って問い返した。

   「エルンスト・ ガートナーは俺だ。いいか、これは他言無用だ。今、この瞬間に忘れて欲しい。」

   加持はルミの傍らに立つと、ふっと背をかがめてルミの上半身を抱き寄せながら、その耳元で囁いた。

   「えっ!?」

   思わぬ言葉に体が硬直し、加持の腕から逃れることも忘れて茫然と立ち尽くすルミに向かって、加持はもう一度囁いた。

   「これから、君をNERV職員として偽装して船から連れ出し、保税地域の外れに止まっている車に乗せる。

   運転手が待機しているけど、彼には何も聞くな。そのまま、ここからルクセンブルクの現地法人まで送り届ける手筈に

   なってる。いいか、もう二度とNERVには近づくな。わかったな? それから、俺たちは、もうすぐ日本に向けて

   出航するが、君と同じマンションに住んでいる葛城ミサトには、ドイツに行ったことや俺たちと出会ったことは、

   俺たちが日本に着くまで言わないでおいてくれ」

   ようやく我に返ったルミは加持の手を解きながら、不審そうな目で加持を睨んだ。

   「どうして、葛城さんには秘密なんですか?」

   その言葉を聞くと、加持はふっと優しそうな笑顔を浮かべて呟いた。

   「ちょっと訳ありなんでね。突然、目の前に現れて驚かせてやりたいのさ。」

   一瞬の静寂の中、アスカが廊下を走る音がだんだんと近づいてきた。


    つづく
   
  
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