或いはひとつの可能性

この小説はフィクションです。小説の中に登場する全ての人物、団体名は、実在の人物、団体等とは一切、関係はありません。



第48話・偽りの迷宮





   しばらくして漸く泣き止んだリエを自宅まで送った後、ルミは憂鬱な気持ちを抱えたまま夜道を歩いて

   自分のマンションに向かった。

   (・・・・あんなことリエちゃんに言ったけど・・・・ほんとは私も不安なのに・・・・)

   小さく溜め息をついてエレベーターから降りようとしたとき、自分の2つ隣の部屋のドアの前でインターフォンを

   押している若い女性の姿が見えた。

   (あ、初めて見たわ、このマンションの住人・・・・やっぱり人が住んでたのね、ここも・・・・

   そう言えば、時々、朝方にドアが開く音と足音が聞こえていたっけ・・・・前に石河不動産のおじさんの

   言ってたNERVに勤めてる葛城さんって、あの人かしら?・・・・)

   女性の背中を見つめながらエレベーターから一歩踏み出すと、ルミのヒールの音が静まり返ったマンションの

   廊下に響いた。

   その瞬間、その女性は驚くほど素早い動作で壁際に身を寄せ、赤いジャケットの内ポケットに手を突っ込んで

   振り返った。

    (・・・・え?・・・・)

   あまりにも隙のない動きに見とれ、ルミは映画の1シーンを見ているような非日常的な感覚に囚われて

   茫然と立ちすくんだ。

   「あ、驚かせてごめんなさいね。なにせ、いろいろと物騒だから・・・・もしかして、あなた、同じ階に住んでる

   扶桑さん? 」

   一瞬、獲物を狙うような鋭い視線を周囲に走らせたその女性は、ルミが気配に圧されて身動きできないのを

   確認すると、ようやく表情を緩めてポケットから手を出した。一方、ルミは、思いがけなく自分の名前を呼ばれて

   我に返ると、瞬きをしてその女性を見つめた。

   「え、あ、は、はい。扶桑です・・・・あの、もしかして、葛城さん、ですか?」

   ミサトはその言葉を聞くと、にっこりと微笑んでゆっくりとルミの方に歩き出した。

   「あ、やっぱり扶桑さんだったのね。はじめまして。そう、私が葛城ミサト。仕事の関係で、私、いっつも夜遅くに

   帰ってきたり、朝早くに出勤したりしてるから、今まで全然会う機会がなかったのね。当直明けの日には昼まで

   寝てるしね・・・・」

   てへっといった感じで頭を掻きながら笑うミサトを見て、ルミもようやく僅かに緊張がほぐれて微笑んだ。

   「石河不動産のおじさんや高橋リエちゃんから、葛城さんって方が住んでらっしゃるとは聞いていたんですけど、

   この間、私が引っ越してきたときもお留守だったんで、ご挨拶が遅れてしまってすみません。えと、扶桑ルミです。

   NERVとお取り引きさせて頂いている千歳重工に勤めています。よろしくお願いします」

   ルミが丁寧にお辞儀をすると、ミサトは、少しはにかんだような表情で心持ち顔を赤らめた。

   「あらやだ、最近そんなに丁寧に頭下げられたことってないから、なんか照れちゃうわね。あ、何にも気を遣わ

   なくていいから。見てのとおり、私はがさつで神経太い方だから」

   ミサトが顔の前で手を振りながら笑って答えたとき、いきなりミサトの部屋のドアが開いてシンジが顔を覗かせた。

   「・・・ミサトさん、ずぼらもでしょ?・・・・最近、掃除当番、さぼってますよね?!・・・・・」     

   一瞬、ぎくっと体を硬くしたミサトはすぐに振り向くと、ふくれっ面でシンジを睨み付けた。

   「うっさいわねえ! いいじゃないのよ、少しぐらい掃除とかしなくたって死にはしないわよ!」      

   「・・・・生ゴミ、腐ると大変なんですよ、後片付けが・・・・結局、なんだかんだ言っても最終的には

   僕がやらなきゃいけないんですから・・・・この間もショウジョウバエが湧いちゃって僕の部屋まで

   なだれこんできて駆除にひと苦労したんですよ。それに・・・・」

   「あ、あれは、その・・・・そうよ、ゴミの回収車が早く来ちゃって、ゴミを出せなかったのよ!」

   「・・・・ミサトさんが寝坊したってことでしょ?・・・・ま、今度だけは大目にみてあげますけど・・・」

    見事にやり込められ、ぐっと拳を握り締めて、ぐうの音もでないミサトをみて、シンジは、してやったりと

    言わんばかりの勝ち誇った顔をみせた。

   「あの・・・・お取り込み中すみませんが・・・・」

   完全に置いてきぼりをくらった形で立ち尽くしていたルミが、遠慮がちに声をかけると、ミサトは慌てて振り向いた。

   「あ、ごめんなさいね! あれが、私と同居している碇シンジ君、第壱中学の2年生よ。彼もNERVに勤めているの」

   ミサトが自分のことを紹介しているのを聞くと、シンジは玄関に置いてあったサンダルをつっかけて廊下に姿を

   現した。

   「あの、はじめまして・・・・碇シンジです・・・・よろしくお願いします・・・・・」

   NERV職員以外の妙齢の女性と殆ど話した経験がないシンジは、ルミに見つめられると、すっかり顔を赤くして

   緊張した声で挨拶して頭を下げた。

   「あらやだ、シンちゃん、何照れちゃってるの? ははあ、さては・・・・駄目よ、レイを悲しませるようなことは!」

   意味ありげににやりと笑うミサトに気づくと、シンジは慌てて口をぱくぱくさせた。

   「い、いや、ち、違いますよ! あの、その、僕は、えとその、ミサトさんやリツコさんやマヤさんとかしか話したこと

   ないから・・・・だから、ミサトさんが考えているような、そういうことは、その・・・だからその・・・・・・・・

   それに綾波ともまだそういう関係じゃないし・・・・あっ、まだって言うのは別に深い意味があるわけじゃなくて・・・」

   「あーら、そういう関係ってどういう関係なの? お姉さんに教えてくれる?」

    猫なで声でますます目を細めるミサトを見て、シンジは錯乱状態に近くなった。

   「ミ、ミ、ミサトさんっ!! そういう誤解を招くような発言はっ!」

    真っ赤な顔で視線をせわしなくあちこちと動かすシンジをみながら、ミサトは破顔一笑した。             

   「ご覧の通りの多感な少年なのよ、シンジ君は。いい子だから、仲良くしてあげてね」

   ミサトの優しそうな笑顔をみて、ルミもひさしぶりに屈託のない表情を見せた。

   「はじめまして、シンジ君。同じ階の扶桑ルミです。よろしくね! 朝、シンジ君のところにお友達が迎えに

   来るのは知ってたけど、お目にかかるのははじめてね。そうそう、あの関西弁の男の子、いつもテンション高い

   わよね。元気良くていいわね」

   「あ、トウジのことですね、たぶん・・・・ええ、いい奴ですよ。僕の友達です」

   まだ頬に赤みを残しながらも普通に答えるシンジを、ミサトは暖かい眼差しで見つめていた。

   「友達、か・・・・いい言葉ね・・・・良かったわね、シンジ君・・・・」

   「・・・・はい・・・・」

   ミサトの言葉の意味に気づいて、シンジも少し照れながら力強く答えた。

   「なんか仲の良いご姉弟って感じですね。いいなあ・・・・あ、すいません、長い間おひきとめしちゃって!

   もう夜も遅いことですし、そろそろ失礼させていただいてもよろしいですか?」

   (・・・・あんまり二人の時間を邪魔しちゃっても悪いよね・・・・)

   気を利かしたルミは、自分の部屋のドアの鍵穴に鍵を差し込みながら、ミサトたちに軽く頭を下げた。

   「あ、そうね、もうこんな時間・・・・そうそう、せっかくだから、今度、都合の良いときに、うちにご飯食べに

   いらっしゃいよ! うちのご飯はおいしいのよ!」

   「・・・・それ、作ってるの、僕です・・・・」

   「あーら、シンちゃん、硬いこと言わないのっ! あ、扶桑さん、きっと、いらっしゃいね!」

   「ええ、きっとお邪魔させていただきますね! それじゃあ、おやすみなさい」

   ルミは楽しそうな二人をみて軽く微笑むと、ドアを閉めた。

   (・・・・なんかああいうのって、いいかもしれない・・・・)

   玄関の電灯のスイッチに手を伸ばしながら、ルミはひさしぶりにリラックスした気分に浸っていた。



    
   翌朝、ルミが出社してデスクトップパソコンの電源を入れたとき、課長席の電話がけたたましく鳴り始めた。

   「やれやれ、朝一番からいきなり電話かい? 厄介なことじゃなきゃいいんだけど・・・・」

   コーヒーの入った紙コップを片手に部下の一人と談笑していた浦風は、露骨にうんざりした表情で急いで

   自分の席に戻って、受話器をとった。

   「はい、浦風ですけど・・・え、あ、これは! ええ、はい、あ、わかりました。で、時間は? え、今すぐですか?

   いえ、私は大丈夫なんですが・・・・ええ、それじゃ、早速まいります。805会議室ですね。それでは失礼します」

   不愉快そうな顔で話し始めた浦風は、相手の声を聞いた瞬間、驚愕の表情に変わり、声のトーンも1オクターブ

   上げたようだった。

   (・・・・上司からの電話ね、きっと・・・・こんな朝早くに会議かしら・・・・)

   浦風は、受話器を置くやいなや、椅子に掛けていた背広を慌てて着て、ばたばたと机の上の書類をひっかきまわして

   レポート用紙をひっつかむと、そのまま脱兎の如くオフィスから飛び出していった。

   (・・・・なんかやばっちい案件かしらね?・・・・こっちに降ってこなきゃいいけど・・・・)

   ルミは傍らを掛け抜けていった浦風の後姿を見送りながら、ふっと溜め息をついた。


    
   「ねえねえ、会議、やたら長いんじゃない? もう2時間も経ってるよ。何なんだろうね?」

   ルミが、保有有価証券の銘柄別評価損益の一覧表を作成し終えてセーブをかけたとき、向かい側の席から
   
   マスミが声を忍ばせて話し掛けてきた。

   「あ、ああ、もうそんな時間? 朝ってなんかバタバタしてるうちに時間が経っちゃうわよね」

   ルミがなんとも間の抜けた答えを返したとき、オフィスのドアが開いて、いつになく緊張した顔で浦風が

   戻ってきた。

   デスクに座った浦風は、しばらく腕組みをして難しい顔で窓の外を眺めていたが、やがて意を決したように

   振り向くと、机の上の電話に手を伸ばした。

   ルミはワープロを打ちながら、それとなく横目で浦風の様子を盗み見ていたが、突然、自分の机の上の電話が

   鳴り始めたのに気づいて、手を休めた。

   「はい、経理課扶桑ですが」

   「浦風だ。私からの電話だと周りの者に悟られないで欲しい。11時25分、つまり15分後に資料室まで来て

   くれ。大事な話がある。くれぐれも他の者に知られてないように来てくれ。これは会社の運命に関わる話だ」

   突然、浦風の低い声が受話器から聞こえてきたのに驚いて、ルミは課長席に視線を走らせた。

   「こっちをみてはいかん! あくまで私からの電話だと知られてはいけない。君は、「わかりました。

   そのように手配します」と言って電話を切ってくれればそれでいい」

   浦風は机の上の書類に視線を落としたまま、ルミの方など一瞥もせずに受話器に向かって喋っていた。

   「・・・・・・はい、わかりました。そのように手配します・・・・・」

   一瞬、ためらったものの、ルミは浦風の言う通りに答えて受話器を置いた。

   それから15分、ルミは仕事が手につかず、取り敢えず怪しまれないように書類を読む振りをして

   時間をつぶしていた。

   (一体、何なんだろう? まさか、私が昨夜、机の引出しを開けたことがばれたとか? いや、それはありえないわ。

   誰もみてなかったもの。なんで、周りの人に知られちゃいけないのかしら? まさか、私を誘ってるんじゃ・・・・

   それはないわね。課長にはそんな度胸はないわ。まさか指名解雇?! それなら、堂々と席で話すわね。

   あー、気になるなあ!!! 胃に悪いよお!)

   約束の時間の10分前になると、浦風は席を立って部下の式根係長を呼んだ。

   「悪いが、今日は早めに昼食を摂らせてもらうよ。大学の同期とひさしぶりに外で飯を食う約束をしててね。

   1時間ばかり席を外すが、よろしく頼むよ」

   「あ、わかりました。とくに今の所、急な案件も舞い込んでませんので、ゆっくりなさってらして下さい」

   式根が微笑みながら答えると、浦風は「じゃ、頼むよ」と声をかけながら、足早にオフィスから出ていった。

   (・・・・あんな回りくどいことして・・・・そんなに難しい話なのかしら・・・・)

   ルミはふと背中に悪寒を感じながら、眺めているだけの書類のページをめくった。

   ルミが心の中で自問自答している間に5分間はすぐに経ってしまった。

   (・・・・さてと、行こうかな・・・・あー、なんか異常に緊張してるなあ・・・・・でも、仕方ないわ。

   行くしかないんだから・・・・よし!・・・・)

   ルミは密かにぐっと自分に気合いを入れると椅子から腰を浮かせて、電卓片手に悪戦苦闘しているマスミに

   声を掛けた。

   「ごめん、マスミ。ちょっと銀行行ってきたいの。お昼は混んじゃってすごく時間がかかるから・・・・

   誰かに聞かれたら、お洗面にでも行ってるって答えといて」

   ルミの囁き声に顔を上げたマスミは、にやりと笑ってみせた。

   「課長もいないことだし、そんなに慌てて戻ってこなくても大丈夫よ」

   ルミは思わぬ所でこれから会おうとしている相手の名前を聞かされて、内心、冷や汗を流しながらも、

   うわべは平静を装って答えた。

   「うん。まあ、そんなに時間かからないと思うから・・・・じゃ、行ってくるね」

   そっと立ち上がると、ルミは足音を忍ばせてオフィスから廊下に出た。

   まだ昼休み前とあって、廊下は行き交う人もあまり多くない。そのうえ資料室は有事の際にはシェルターとして

   使用される目的もあって地下3階に設けられているため、もともと社員が訪れることは少ない場所であり、

   今日もルミは誰にも知られずに資料室のドアまで辿り着いた。

   指がドアノブに触れた瞬間、電流でも流れたように感じて、ルミは思わずびくっと手を引いてしまったが、

   やがてためらいながらも、ゆっくりとドアノブを回して扉を開いた。

   ドアのすぐ向こう側には、書架を前に立たずんで資料を探す振りをしている浦風がいた。

   浦風はドアが開かれると、やや緊張した視線を走らせ、今にも声を出しそうなルミに向かって、

   「声を出すな!」と言うように自分の口に人差し指を立ててみせた。

   ルミが黙ってドアを閉めると、浦風は視線をドアノブに移してた。

   「すまんが、ロックしてくれないか。誰かに聞かれては困る話なんでね・・・・別に変なことはしないから」

   「・・・え?・・・・ええ・・・・」

   ルミは思いがけない言葉に驚きながら、やはり少しためらった後、ドアにロックをかけた。

   「こんなところまで呼び出して申し訳ない。さぞや不愉快な思いをさせたことは想像に難くない。

   時間もないので単刀直入に話させてもらうよ。突然で悪いが、すぐにドイツに行ってもらいたい」

   「え? ドイツですか? な、なんでですか? 出張ですよね? それならなんで、こんな・・・・」

   ルミは昨日から気になっていたドイツのことについて、浦風が唐突に話し始めたので、目を大きく見開いて

   浦風を見つめた。

   「確かに出張だ。これは社用だからね。しかし、君には有給休暇を取ってもらって、個人として観光目的という

   ことで行ってもらいたい。同僚には、第2新東京市のご両親のどちらかが急病ということにして、ドイツに

   出国すること自体を知られてはならない。有給休暇が減少することについては、次回のボーナスを増やすことで

   代償措置とさせてもらいたい。1日当り10万円、合計5日間50万円を上乗せさせてもらうが、行ってくれる

   かね?」

   浦風は、ルミの出方を探るようにじっと見つめながら、小声で尋ねてきた。

   「・・・・ドイツに行くことには別に異論はありません。それで、向こうでは、何をするんですか?」

   (・・・こんなに早くドイツ行きが可能になるとはね。それも、公用で出してもらえるなんてラッキーだわ・・・)

   ルミが拒まなかったのをみて、浦風は初めてほっとした表情をみせた。

   「唐突な頼みで本当に申し訳ない。実は、ベルリン郊外のポツダムに行って、チトセ・ジャーマンの大井課長と

   落ち合って欲しい。そこで彼から鍵を受け取って、その鍵を持って北部の港湾都市ウィムヘルムスハーフェンに

   行って、資材倉庫の中に置いてある金庫からマイクロフィルムを取り出して日本に持って来てもらたいんだ」

   思わぬ内容にルミは内心で驚愕しながらも、努めて冷静を装って浦風をみつめた。

   「・・・・理由を聞いてはいけないでしょうか?・・・・私の思い過ごしかもしれませんが、何か危険な感じが
   
   するので・・・・」

   浦風はしばらくの間、黙ってルミを見つめていたが、やがて観念したように話し出した。

   「・・・・まあ、「理由は聞かずに行ってくれ」とは、さすがに言えないよな。わかった。話そう。しかし、これを

   聞いたら、君はドイツ行きを断れなくなるぞ。それでもいいかい?」

   ルミは、ここぞとばかりに敢えて厳しい表情を作って黙って肯いた。

   「・・・・実は、ドイツ政府がかねてから当社の技術力に目を付けて、とくに電子兵器に関する機密を手に入れて、

   それを自国の国策兵器メーカーであるハノーバー・ゲゼルシャフトに与えて、国際競争力を高めようとしている

   らしいんだ」

   浦風は腕組みをして、書架に背中をもたれかけさせながら語り始めた。

   「もちろん、いくらドイツ政府から「出せ!」と言われても、機密を渡せば、いずれブーメランとなって我々に対する

   打撃と言う形で戻ってくることは明白だ。だから、「いくら金を積まれてもそんなことはできない」って断ったら、

   今度は、汚職・脱税容疑で強制捜査に入って、技術に関わる機密資料を押収しようとしているらしいんだ。

   チトセ・ジャーマンでも、そういう動きに気がついて、押収を逃れるために機密資料を国外に持ち出そうとして

   いるんだが、既に社員全員が現地の国税・警察・検察・特務機関に監視されていて、とても出国できそうもない。

   ウエのほうでは、こちらからしかるべき地位の者がドイツに渡って資料を持ち出すことを検討したようなんだが、

   相手方も我々をきっとマークしているから、空港での入国審査の際におそらく見つかってしまうだろう。

   そこで、だ。うちの社員の中でも入社年次が若くて、先方からマークされている可能性が低い者をドイツに送る

   ことになったというわけだ。こういう方針に従って、人事部で適任者の選定を行った結果、ドイツに行った経験が

   ある君が選ばれたということだ。実は、私もさっき緊急課長会議に呼ばれて、この話を知らされたんだよ」

   辺りを気にしながら、浦風が小声で一気に話し終えると、ルミは人差し指を顎に当てて困惑した表情で呟いた。

   「確かに私が個人として観光目的で入国すれば、ドイツ側の警戒網をくぐり抜けることができるかもしれませんが、

   一体、どうやって大井課長と接触するんですか? 彼は当局にマークされているんでしょう? それにうちの会社は

   NERVと関係が深いじゃないですか? 超法規的権限を与えられているNERVの人に頼み込めば、書類なんか

   簡単に持ち出せるんじゃないですか? それに機密文書とは言え、そういうものは本社にもコピーが送られて来ている

   はずでしょう? ドイツ政府の手に渡る前に、オリジナルの方を現地で廃棄すれば問題ないんじゃないですか?」

   ルミの言葉にNERVという単語が混じった瞬間、浦風の頬が僅かに痙攣した。

   「NERVねえ・・・・それは・・・・今、NERVドイツ支部は重要なプロジェクトを抱えていて、それが

   最終段階にさしかかっているんだ。だから、NERVはドイツ政府とは事を構えたくないらしいんだよ。それから

   君と大井君の接触方法だけどね、今の所はまだルクセンブルクの現地子会社を通じて、チトセ・ジャーマンとは

   連絡できる状態が続いているんだ。もっとも、電話回線は全て盗聴されているから、出入りの宅急便業者を

   通じての「口伝え」という方法だがね。その出入り業者についてですら、会社から出てくるときには、警察から

   いちいち尋問を受けて、何か持ち出していないか調べられているようだがね。取り敢えず、今の段取りでは、

   明後日、ポツダム駅前のヴォルフガングというカフェで、大井君が鍵を床の上にそっと落とすから、彼が出て行った

   後で頃合いを見計らって拾い上げて欲しい。くれぐれも彼と話したりしないようにな。尾行されているだろうから。

   それから、コピーについては・・・・その・・・・最近作成したばかりの文書だからな、まだ本社には送られて

   来ていないんだよ・・・・・」

   浦風は一段と厳しい顔でルミに説明したが、ルミはまだ納得しがたいような表情で浦風を真っ直ぐ見つめた。

   「・・・・わかりました・・・・で、ドイツにはいつ出発すればいいんですか?・・・・」

   (・・・・何か嘘ついてるわね・・・・私と視線を合わせられないみたいだし・・・・でも・・・・・

   ・・・・・これは千載一遇のチャンスよ・・・・・現地に行けば、きっと全ての謎が解けるはず・・・・・)

   取り敢えずルミがドイツ行きを承服したので、浦風はほっと安堵の表情を浮かべた。

   「そうか! 行ってくれるか! それじゃ、さっそく、今日の最終便でドイツに行ってくれ。実は、総務部の方で

   ここのところ毎日、ドイツ行き最終便の切符を手配し続けていたらしいんだ。だから、エア・チケットの心配は

   しなくていい。これから総務部の三宅課長のところに行って、チケットと法人カードをもらってくれ。カードの

   方は、飲食交通費など現地での必要経費をまかなうためのものだ。現金が必要な場合も、銀行のATMから

   引き出せるようになっているからね。まあ、費用の上限はないが、使いすぎないようにしてくれ。それじゃ、

   頼んだぞ。私はここからすぐに社外に出るけど、君はもう少しここにいて時間をつぶしてから、総務部に

   行ってくれ。とにかく社命で渡航することは内密にしてくれよ。誰にも勘付かれてはならないんだ。わかったな?」

   ようやく笑顔を見せた浦風は、ルミの肩を軽く叩くと足取りも軽く、資料室から出ていった。

   (・・・・課長もいきなり重荷を背負わされて、相当苦しんだみたいね。私が断ったりしたら、それこそ

   一大事になっちゃうもんね・・・・・それにしても、いきなり今日の最終便とは・・・・相当、事態は

   切迫してるってことね・・・・・とにかく、引き受けた以上はやるしかないわね・・・・)

   ルミは、しばらく書架にもたれて目をつむっていたが、やがて意を決したように身を起こすと、資料室の

   ドアノブに手を伸ばした。





   
   
   その3日後の昼過ぎ、ルミはドイツ北部の後湾都市ウィルヘルムスハーフェンの大通りを歩いていた。

   (・・・・・ポツダムではうまく大井課長と接触できてよかったわ・・・・・私が鍵を拾ったのを誰にも

   見られてなかったし・・・・・あとは資材倉庫の中のマイクロフィルムを手に入れればいいだけね・・・・

   えっと、そのあとは、陸路を鉄道でルクセンブルクに出て、現地子会社の幹部にフィルムを渡すのね・・・・

   そのまえに、なんとかフィルムの中身を見ることはできないかしら・・・・・)    

   見慣れない風景に戸惑いを隠しきれない表情で、ルミは駅前の雑踏を抜けると、一路、港湾地域の保税倉庫地区に

   向かった。途中で何度も振り向いたり、急に街路を曲がったりして様子を窺ってみたが、とくに尾行されている

   様子は感じられなかった。

   (・・・・・どうやら、うまく行きそう・・・・・あと少しね・・・・・・)

   旧市街は既に水底に沈んでいるため、新市街は比較的新しい建築物ばかりで、ドイツの内陸部とは違って

   昔ながらの煉瓦造りの建物は殆どみられない。その無機質なビルの間から、明るい陽光に照らされてきらめく海が

   顔を覗かせており、風に運ばれて汐の香りが漂ってくる。

   倉庫街の屋根のはるか上を数羽のカモメが、優雅に羽根を広げて飛び交っている。

   (・・・・・海かあ・・・・初めて海を見たのは、確か6年前、高校3年の修学旅行のときだったわね・・・・・

   第2新東京市には海がないし、小中学生の頃はセカンド・インパクトの後で海水浴に行く余裕なんて

   とてもなかったし・・・・・そう・・・・・セカンド・インパクトのとき、私は小学校3年生だった・・・・・

   ・・・・・もう考えるのはやめよう・・・・・あれから5年間は楽しい記憶なんてなにもないから・・・・)

   ルミは心持ち顔を俯かせながら、辛い思い出から逃れるかのように少しだけ足を早めた。

   30分ほど歩くと、保税地区の倉庫街に差しかかったが、ルミの抱いていたイメージとは異なり、

   人通りや車の往来もかなり多く、保税地区全体が活気に満ちていた。

   (・・・・・もう少し森閑としているかと思ったけど・・・・・セカンド・インパクトの打撃から

   いち早く立ち直って、貿易が活発化しているのかしら・・・・・日本は工場地帯が軒並み沈んでしまって

   技術力の高い中小企業がかなりなくなっちゃったから、今や貿易収支も赤字で、過去に蓄積した対外資産を

   切り売りして、資本収支の黒字で、食料品とかの輸入品の外貨決済を凌いでいる状態なのに・・・・・

   その点、ドイツは内陸部にも工場が多かったから、産業への打撃は日本よりも小さかったのかしら・・・・・) 

   辺りを見回しながら歩いているうち、ルミは最も岸壁寄りの小さな倉庫の前に辿り着いた。

   (・・・・・第31番倉庫・・・・・ここね・・・・・)

   倉庫の扉に附設されているカードリーダーに自分のIDカードを読み取らせ、本社の総務部から教えられた

   暗証番号を入力すると、カチャッと扉の解錠される音が昼下がりの倉庫街に微かに響いた。

   ルミは倉庫の中に入ると、天窓から差し込む日光を頼りに広い倉庫の中を歩きまわり、ようやく倉庫の隅に

   忘れ去られたようにぽつんと置かれている古い金庫の前に辿り着いた。

   (・・・・・あった・・・・・これね・・・・)

   金庫のダイヤルを会社の創立記念日の日付に合わせ、鍵穴に鍵を差込んで捻ると、扉はいともたやすく開き、

   広い金庫の中に、たったひとつぽつんと小さな樹脂製の箱が置かれているのが見えた。

   (・・・・・これ?・・・・・なんかやけに簡単に手に入れられたわね・・・・やっぱりマークされてない

   私が入国して正解だったみたい・・・・・さてと、中身を覗く方法はゆっくりと列車の中で考えようかしら・・・・

   今夜の夜行で国境を越えながらね・・・・・)

   緊張感をすっかりなくした顔で、ルミが倉庫から出てきたとき、先ほどから騒がしかった埠頭のほうで、

   ひときわ大きな歓声が沸き起こった。

   (・・・・・何かしら?・・・・船の進水式でもやってるのかしら?・・・・・)

   大きな仕事をやり遂げて気が緩んだルミは、潮風にグレーのスーツをなびかせながら、岸壁沿いに埠頭に向かって

   ゆっくりと歩き始めた。

   (・・・・・すごく大きな輸送船ね・・・・・でも、変な形・・・・・コンテナ船でもないし、鉄鉱石や

   穀物を積むためのバラ積み船でもないわ・・・・・タンカーに近いみたいだけど、こんなので何を運ぶのかしら?

   ・・・・・・大きさからみると、この船、パナマ運河を通り抜けられない「オーバーパナマックス」ね・・・・・

   だとすると、積み荷の行き先は米国東海岸か、あるいは中東、アジア方面・・・・・)

   ルミが輸送船にかなり近づいたとき、背後からパトカーのサイレンが聞こえ始め、だんだんと音が大きくなった。

   (・・・・・何かしら?・・・・事故?・・・・・・港湾荷役は事故が多いって聞いたことがあるし・・・・・)

   ルミは別に深く考えようともせずに、輸送船の近くの人だかりに紛れ込んで、岸壁に横付けされた大型の

   輸送船をぼんやりと眺めていたが、突然、後ろから肩をつかまれた。

   驚いて声も出せずに振り返ったルミの目に、にやりと笑いながら立っている無精髭の男の姿が映った。

   「お嬢さん、ここは関係者以外立入禁止だぜ。ほら、あっちでNERVドイツ支部の怖い兄さん方が

   君を睨んでるぞ。どこから入ってきたのか知らないけど、ここからは立ち去った方が・・・・・おっと、

   どうやらそういうわけにもいきそうにないみたいだな・・・・」

   無精髭の男が厳しい表情で遥か後方へと視線を移したのをみて、ルミは咄嗟に振り返って息を呑んだ。

   「・・・・ドイツ連邦情報局のお出ましか・・・・どうやら君のお忍び旅行の目的がばれたみたいだぜ・・・・」

   鷲のような鋭い視線を放ちながら、ゆっくりと近づいてくる背広姿の3人の男たちの姿が視界に入ると、
   
   たちまちルミの表情は恐怖で凍り付き、脚が震え、心臓が早鐘を打つように激しく動悸を始めた。

   「ど、どうしよう!? た、たすけて下さい!! 私は、た、ただ頼まれただけで!」

   ルミが蒼ざめた顔で振り向き必死に懇願するのを聞くと、無精髭の男は再び、にやりと笑った。

   「仕方ないな。綺麗なお嬢さんにこうまで頼まれたのを見殺しにしたら、この加持リョウジの名がすたるって

   もんだ。同じ日本人のよしみで、ここはひとつお助けするとしますかね。ちょっと、ここで待っていてくれないか?

   話をつけてくるから・・・・」

   加持はそう言い残すと、ルミをその場に残して捜査官たちの方に向かって歩き出した。

   その落ち着き払った態度に不思議な安心感を覚えながら、ルミは加持の後ろ姿を見つめていたが、

   やがて大事なことに気がついた。

   (あの加持って人、私の旅行の目的を知ってるみたい!? 一体、何者なの、あの人? とにかく一刻も早く

    ここを離れなきゃまずいわ! )

   捜査官と加持が話しているのを見ながら、ルミは少しずつ後ずさりを始め、加持がワイシャツの胸ポケットから

   取り出した職員証らしきものに捜査官たちが視線を移した隙に、倉庫の間の細い通路に向かって駆け込んだ。

   後ろでは、ドイツ語の大きな叫び声と激しく走り出す靴音が聞こえているが、ルミは一目散に細い通路を

   どこという当てもなく全力疾走で走り続け、追手の目から逃れようと、幾つも露地を曲がった。

   (こんなことになるならヒールなんて履いてこなきゃよかったっ!)

   足をもつれさせながら、ルミは自分の軽率さを心の底から悔やんだが、確実に追手の足音との距離は近づいて

   いるようだった。

   息を切らせながら走っていたルミは、やがて、今走っている通路が行き止まりになっていることに気づいた。

   (やばいっ!! どこかにわき道か隠れる場所はっ?)

   素早く辺りを見回したが、視界に入るのは倉庫の薄汚れた壁と固く閉ざされた倉庫の扉ばかりで、

   わき道はおろか、身を隠す場所すら全く見当たらなかった。

   狼狽したルミは、焦った目つきで、手当たり次第に倉庫の扉を叩いたり、ドアノブを捻ったりしたが、

   扉は開く気配はなかった。

   (あーっ、もう見つかる!! もうだめっ!! )

   最後のひとつの扉も固く閉じられているのがわかったとき、ルミは絶望して扉に背を向けて茫然と立ちすくんだ。

   追手の叫び声と靴音はだいぶ近くなっており、彼らに追いつかれるのは時間の問題に思えた。

   頭の中が真っ白になり、思考停止状態に陥ったルミは、引きつった顔のまま虚ろな視線を天に向けた。

   (・・・・私、どうなるのかな?・・・・拷問に遭わされて、もう日本には帰れないかもしれない・・・・

   ・・・・・ああ、空が青くて綺麗だな・・・・もう、二度とこんな青空を見ることはないかもしれないわね・・・・)

   ルミが暗い予想を抱いて俯いたとき、突然、今まで閉じられていたドアが開き、ルミは強い力で倉庫の中に

   引きずり込まれた。

   「誰っ? むっ!?」

   大声を挙げかけたルミの口は、柔らかい小さな手で封じられた。

   「いいから静かにしてるのよっ! でないと、アンタ死ぬわよっ! それでいいわけ?!」

   低く抑えた少女の声が、静まり返った薄暗い倉庫の中に凛と響いた。


    つづく
   

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