或いはひとつの可能性

この小説はフィクションです。小説の中に登場する全ての人物、団体名は、実在の人物、団体等とは一切、関係はありません。



第47話・危うい平衡感覚





   第3新東京市新中央区の千歳重工の支社では、6月末の年度第1四半期決算の締め日を控え、

   社員たちが慌ただしく仕事をしている。

   経理課のオフィスで、大きく作られた窓からまばゆいばかりの陽射しが差し込む中、

   扶桑ルミはモニターに映る海外現法(海外現地法人の略)の支出構造分析の結果をみつめて溜め息をついた。

   (・・・・やっぱり・・・・何度やっても同じね・・・・私の入力ミスじゃなかったんだ・・・・課長に相談した

   方がいいわね・・・・)

   ルミは無意識のうちに僅かに眉間にしわを寄せ、データをプリントアウトすると、浦風課長のデスクにゆっくりと

   向かった。忙しく働いている同僚たちは、そんなルミの姿を気にも留めず、みんな下を向いて事務消化に余念がない。

   誰かがデスクの前に立った気配に気づいて浦風が顔を上げたとき、ルミは少し困った顔で切り出した。

   「今、よろしいでしょうか? 実は、チトセ・ジャーマン(ドイツ現法)の今期の支出金額を試算してみたんですけど、

   現時点で既に前期の支出実績を15.7%上回る状態となっています。最終的には、2割方の支出増加と

   なることが予想されます。全社を挙げて経費節減に取り組んでいる中で、ドイツ現法の支出だけが突出して

   いるのはやはり問題ではないでしょうか? 支出内容について、詳細にドイツ現法に照会してみたいんですけど・・・」

   ルミを見上げている浦風の顔が曇った。

   「なに、そんなに支出が伸びているのか? それは困ったね。で、どの項目が増えているんだね?」

   「はい・・・・それが・・・・」

   ルミは声のトーンを下げると、眉をひそめて言いづらそうな表情になった。普段は温厚で明るいルミが

   深刻な雰囲気を醸し出すことはあまりないので、浦風も尋常な事態ではないことに気づき、声をひそめた。

   「どうした? 何か異常な事態でも起こっているのかね?」

   ルミは、先程プリントアウトしたペーパーを浦風の机の上に置くと、浦風を見つめた。

   「支出科目の一覧です。今期、チトセ・ジャーマンが連絡してきたデータによると、会議交際費の伸びが異常な

   スピードで伸びています。これって、もしかして、不正の疑いがあるのでは・・・・」

   浦風はしばらくペーパーをじっと眺めていたが、やおら顔を上げると厳しい表情でルミを見上げた。

   「ドイツ現法のデータには異常も不正もない。今後、本件について、さらに調査する必要はない。

   全ては会社の方針通りに進んでいるから、君は何ら心配する必要はない。それから、無用の憶測が

   広がるのも困るから、このことについては他言は無用にして欲しい。いいね?」

   浦風のただならぬ気配に圧倒されて、ルミは無言で肯いた。

   「それじゃ、もういいから」

   追い立てるような浦風の言葉を聞いて、ルミはしっくりいかない思いを抱えて浦風のデスクから立ち去ったが、

   何気なく振り向いた拍子に、浦風が自分の机の一番下の引出しから緑色のファイルを取り出して、ルミの渡した

   ペーパーを大事そうに挟み込んでいる姿が目に入った。
      
   (・・・・課長の様子、尋常じゃないわ・・・・確か、中国支社と米国現法の経費について尋ねたときも

   あんな様子だったような・・・・なんか隠してる気がする・・・・考え過ぎかなあ・・・・

   ・・・・・でも、気になるな・・・・それにあのファイル・・・・何がファイリングされてるのかしら?・・・・・)

   自分の席に戻っても、ルミはもやもやした思いを吹っ切ることもできず、仕事をしているふりをしていたものの、

   実際には頭の中はファイルのことで一杯で、その日はあまり仕事がはかどらなかった。

 

   午後5時過ぎ、海外現法の保有する外債の時価評価に取り組んでいたルミは、課長席のあたりが騒がしいのに

   気がついた。

   「・・・・まずいなあ・・・・どこに落としたんだろう?・・・・やばいなあ・・・・」

   課長席では浦風が、さかんに机の上の書類をひっくり返したり、机の下を覗いてみたりして、

   何かを探している様子である。数人の社員たちが課長席の脇に立って困惑顔で立っている。

   「・・・・仕方ない・・・明日、朝一番に「カギの救急車」に電話をかけて、鍵を開けてもらうことにするか・・・

   ほんとは今日中にやりたいんだけど、この後で会食が入っているんでね・・・・それにしても、

   どこで落っことしたんだろう・・・・まいったな・・・・取り敢えず、その書類の決裁は明日するから。

   認印がなきゃどうにもならんからね。まったく、セカンド・インパクトの影響が払拭されて余裕が出てきたんだから、

   いい加減、うちも電子決裁を導入してもらいたいもんだよな・・・・」

   浦風は探し物をあきらめると、残念そうな表情でNTT東日本の電話番号案内に「カギの救急車」の電話番号を

   問い合わせ始めた。

   「課長どうしたの? なんか探してるの?」

   ルミは、課長席を横目で眺めながら、向かい側の席の常盤マスミに向かって小声で尋ねた。

   「ああ、あれね。机の鍵をどっかでなくしちゃったんだって。まあ、なくしたのが夕方だったのは不幸中の幸いね。

   朝なくしてたら、一日中、仕事にならないもん。」

   マスミは肩をすくめてみせると、再びパソコンのモニター画面に視線を戻した。

   「そうなんだ・・・・私も気を付けようっと・・・・」

   ルミはぽつりと呟くと、再び自分の抱えている仕事に戻った。

   いつものような一日も終わりに近づき、社員たちはおのおの自分の仕事にラストスパートをかけている。

   窓の外に見慣れた夕焼けが空一面に広がる中、第3新東京市のオフィス街は、既に退社したサラリーマンや

   OLで混雑し始めている。

   (・・・・とにかく早く切り上げちゃおう・・・・ここんとこ残業続きでルビーをかまってあげられてないから・・・)

   オフィスの壁にかかっている飾り気のない時計を見上げると、ルミはちょっと表情を引き締めた。




   午後9時、千歳重工の経理課オフィスには、まだ照明がともっていた。

   「そろそろあたし帰るけど・・・あんまり遅くならないうちに帰った方がいいよ。最近、この辺も

   夜は少し物騒になってきたから・・・」

   マスミは机の上を綺麗に整頓し、ちらりとオフィスの壁に掛かっている時計に視線を走らせると、

   椅子から立ち上がってルミを見つめた。

   「うん・・・・もうちょっとやってくわ。もう少しでキリの良いところまで終わりそうだから・・・・」

   マスミの少し心配そうな声に顔を上げたルミは、椅子に座ったまま、少し伸びをしながら答えた。

   「・・・決算が四半期ごとっていうの、ほんとに忙しくて困るわね・・・去年まで半期決算だったのに・・・・」

   マスミは自分の机に軽く腰掛けて、溜め息をついた。

   「仕方ないわよ。アメリカとか外国はみんな四半期決算なんだから・・・・セカンド・インパクトが

   起こってなかったら、日本もとっくに四半期決算に移行してたはずよ・・・・とは言うものの、やっぱり

   疲れるわよね・・・・こういうのも機械化できないものかしらね・・・・ふう・・・・・」

   誰も他に見ている者がいないのを幸いに、課長の机に腰掛けて足をぶらぶらさせているマスミを眺めながら、

   ルミは机の上の飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばした。

   「ま、残業代もきっちり貰ってるし、しょうがないか・・・さってと、それじゃほんとにあたし、帰るね。

   じゃ、お先にぃ・・・」

   マスミが手を振りながらオフィスのドアから出て行った後、ルミは缶コーヒーに向かって伸ばしていた手を引っ込めて

   代わりにしばらく頬杖を突いて、窓の外に広がる漆黒の闇を見つめた。

   (・・・・マスミ、ごめんね・・・・巻き込みたくなかったのよ・・・・)

   ルミは机の引き出しから自費で買っておいたストローを取り出すと、缶コーヒーを手元に引き寄せ、

   プルトップを引き上げた。      

   ストローを差して一口吸うと、ノンシュガーの苦い味が口の中に広がっていく。

   (・・・・さてと・・・・もう誰も残ってないはずね・・・・そろそろ、かな・・・・)

   ストローにうっすらと残った口紅に気づくと、ルミは微かに微笑んだ。

   (・・・・まるで女産業スパイみたい・・・・でも、これからやろうとしてるのは、それに近いこと・・・)

   ルミは椅子からゆっくりと立ち上がると、ブラウスの胸ポケットから小さな鍵を取り出して、じっと眺めた。

   (・・・・これ拾っちゃったのよねえ・・・・なんで書庫なんかに落ちてたのかしらね・・・・そう言えば、最近、

   課長、よく書庫に入ってるわね・・・・もしかしたら、不倫?・・・・なんて、そんなわけはないわね・・・・)

   ルミは立ち上がってオフィスのドアまで歩くと、ドアをロックして課長席に向かって歩を進めた。

   さすがに非合法のことをやろうとしているので、胸は激しい動悸に満たされている。

   課長席に辿り着いたルミは、すらりと伸びた脚をすっと折ると、片膝をOAフロアーに突いて、

   拾った鍵を課長の机の引出しにゆっくりと近づけた。

   (・・・・やっぱりね・・・・ここの鍵だったんだ・・・・) 

   予想通り、鍵は引出しの鍵穴とぴったり一致し、引出しはゴトリと重い音を響かせながら、ゆっくりと手前に開いた。

   一番上の引出しの中には浦風の事務用品と印鑑が、二番目の引出しには浦風の私物らしい葬儀用の黒いネクタイや

   バーのマッチ、それに多色刷りの角の丸い女性物の名刺が置かれている。

   (・・・・ネクタイ・・・・出社中にご不幸があったときに着用するように常備してるのね・・・・手抜かりのない

   浦風課長らしいわ・・・・でも、それにしては、マッチや名刺は不用心ね・・・・・おっと、私はこんなものを

   見つけるために危ない橋を渡っているんじゃなかったわ・・・・そうそう、ファイル、ファイルっと・・・・)

   ルミは思わず苦笑すると、一番下の引出しに手をかけると、それを一気に引き出した。

   引出しの中央部に収められていた背表紙に何も書かれていないファイルを見つけたルミは、適当に真ん中辺りから

   ファイルを開いたが、その瞬間、思わず自分の目を疑った。

   (・・・・これって・・・・・チトセ・ジャーマンの会議交際費の内訳一覧じゃない・・・・それも支出日時と

   相手先まで書いてある・・・・殆どNERVドイツ支部相手じゃないの・・・・それにしても、すごい金額ね・・・・

   一回につき、相手一人当たり、ざっと7万円はつぎ込んでいるじゃない・・・・そんな接待が

   だいたい10人程度に月に5回・・・・年間4200万円にも達するじゃないのっ!・・・・

   ・・・・これは尋常じゃないわね・・・・それに、この「特別指定枠」っていうところも金額が

   年間2000万円も計上されてる・・・・これって何かしら?・・・・課長に聞くわけにもいかないし・・・・)

   ルミはファイリングされている書類を残らずコピーすると、再びファイルを机の引出しに戻した。

   (・・・・これでよしっ、と・・・・それにしても、ドイツでは何かが行われているわ・・・・確実にね・・・・

   ・・・・何か理由を見つけて、チトセ・ジャーマンに乗り込んでみるしかなさそうね・・・・)

   課長の机の引出しを再び閉めて施錠すると、ルミは自分の席に戻り、取ったばかりのまだ温かいコピーを封筒に入れ、

   パソコンの電源を落とした。そして、オフィス内をぐるっと歩いて、つけっ放しになっているコピー機やプリンターの

   電源を落として回り、自席に戻ると、社内用と決めているサンダルから通勤用のハイヒールに履き替え、

   ハンドバックのひもを肩にかけ、大き目の封筒を持つとドアに向かった。

   (・・・・今月の残業代、すごい金額になってるわね・・・・・使徒様様ってところかしら・・・・・

   ・・・・・こんな状態が一年も続いたら、それこそ蔵が建つわね・・・・それまで生きてられたら、の話だけど・・・)

   ルミは、僅かに苦笑するとオフィスの照明を落として、ドアを開けた。

   まだ照明がついたままの廊下には全く人の気配はない。

   永遠に続くかと思われるような静寂を破って、ルミはハイヒールの音を響かせながら、エレベーターホールに向かった。


   
   いつものように新駒沢駅で環状線から降りたルミは、赤い顔で酒臭い息を吐いている男たちの間を足早にすり抜けて、

   ホームからエスカレーターに乗って、改札口に向かった。

   改札口の前では、パスケースから定期券を取り出したり、見当たらない切符を探してポケットを

   慌てて探りまくるような者もなく、そのうえ改札機に切符や定期券を入れるような者もいないので、

   改札口前で列はできているが、誰もが立ち止まることもなく、そのままの姿勢で改札口を通り抜けている。

   ルミもそんな人波に加わり、改札口に向かったが、彼女の2人前の初老の背広姿の男は、改札口の

   非接触型カードリーダーが、何かのアクシデントで、ポケットの中の汎用ICカードを読み取れなかったせいか、

   ブザーが鳴って改札口の遮断機が閉まってしまった。

   「ちっ・・・」と小さく舌打ちをして、列から外れた男が顔をしかめながらカバンを開けてカードを取り出して

   いる姿をちらりと視野の端にとらえながら、ルミは改札口を通り抜けた。 

    (・・・・使徒襲来が来る前と比べると、少し、人、減ったみたい・・・・あたりまえか・・・・)

   足を止めることなく、改札口前のコンコースを眺め回すと、ルミは駅前に通じる階段に向かった。

   新駒沢は住宅地なので、こんな時間に電車に乗ろうとする者もなく、人波は駅から外に向かって吐き出される

   動きを示している。色合いに乏しい背広を着た男たちに混じって、これまた少し頬を紅潮させた若い女性が

   やや気だるそうな表情で歩いている。コンコースの所々に立っている柱の影では、別れを惜しんでいるのか、

   若いカップルが黙ってお互いの顔を見つめ合っている。

   (・・・・いいわねえ・・・・私も、早く、誰かいい人みつけなくちゃ・・・・)

   ルミは心の中でほっと溜め息をつくと、無表情のまま階段を降りる人波に姿を消した。

   階段を降りてバスターミナルを抜け、駅前の繁華街を何人もの人を追い越しながら歩いていくうち、

   ルミは前方に肩を落としてとぼとぼと歩く、第壱中学の制服姿の少女を見つけた。

   (・・・・こんな時間に・・・・部活かな・・・・)

   ゆっくりと歩く少女を追い越しながら、ルミはちらりと少女の俯いた顔を一瞥した。   

   「あら、リエちゃんじゃないの?! どうしたの、こんな時間に? 部活?」

   いきなり声をかけられた少女は、一瞬、びくっと肩を震わせたが、すぐに力なく顔を上げてルミを見つめた。

   「あ、扶桑さん・・・・」

   リエの尋常ではない表情をみて、ルミは少し驚きながらも、にっこりと微笑んだ。

   「あらあら、なんかやつれてるわね・・・・なに、失恋でもしたの? 私で良かったら、相談にのるけど・・・・」

   少女はふるふると首を振ると、蚊の鳴くような声を絞り出した。

   「そんなんじゃないです・・・・ただ、その・・・・テストの結果が・・・・ふう・・・」

   溜め息をついてうな垂れてしまった少女をみて、ルミは思わずまた微笑んでいた。

   (ふーん、テスト、失敗しちゃったのね・・・・若い頃はよくあることよね・・・・こんな時って、

   家に帰りたくない気分になるのよ・・・・遠回りしたり、どこかをふらついても、結局、家に帰らなきゃいけない

   ことには変わりないんだけどねー・・・・さあて、なんて慰めてあげたらいいかなあ・・・・)

   ルミは歩速を落とすと、地面に視線を落としている少女と並んで歩きながら、次に語るべき言葉を捜していた。

   「・・・・私、自分が悪いの、わかってるんです・・・・最近、勉強してなかったから・・・・」

   「・・・・そう・・・・それじゃ、次に向けて頑張ることね・・・・いくら悩んでも、過ぎてしまったことは

   取り返しのつかないことなの。でも、次に挽回すれば、今の悩みは無駄じゃなかったことになるわ・・・・

   ・・・・・うずくまって泣いていても何も変わらないの。立ち上がって歩いていく勇気のある人だけに

   未来は与えられるものなの・・・・って、ちょっと残酷な言い方でしょうね・・・・でもね、これ、

   私も子供の頃に言われた言葉なのよ・・・・私、学生の頃、理系の勉強が全然駄目だったのよねー・・・・」

   リエは突き放したようなルミの言葉に俯いたまま少し顔を曇らせたが、最後の言葉を聞き終えると、顔を上げて

   ルミの横顔を見上げた。

   「・・・・扶桑さんも、テスト駄目だったことあったんですか?・・・・」

   恐る恐る尋ねてくるリエに向かって、ルミはにっこりと笑った。

   「あったもなにも、もう、いつも物理のテストの前の日は胃が痛くてたまらなかったわよ!」

   オーバーに胃の辺りを押さえてみせるルミの姿をみて、リエはほんの少し表情を緩めた。

   「たしか、中学3年のときね、物理の期末試験でヤマが外れちゃって、結果がもうセカンド・インパクト状態に

   なっちゃったことがあってね。うちの親、結構、うるさかったから、なんか家に帰る気がしなくてね・・・・

   その頃、私、第2東京に住んでたんだけど、家の近くの梓川の護岸に腰掛けて、夕方の川面をみてたことが

   あったのよ。私、なんかすっごく思いつめた顔してたみたいで、通りかがりのお姉さんが見かねて声をかけて

   くれたの。その人が、私に言ったのよ、さっきの言葉を・・・・綺麗な人だったな・・・・目尻に泣きボクロのある

   人だった・・・・それでも立ち上がろうとしなかった私に、その人はこう言ったの。「未来は、それを望む人にだけ

   与えられるものなんだから」ってね・・・・あー、なんか思い出すなー・・・・」

   遠くを眺めるような視線で呟くルミを見上げながら、いつの間にかリエは好奇心の湧き始めた表情に変わっていた。

   「それで、扶桑さんは立ち直った、というわけなんですか?」

   ルミはくすっと笑うと、気が紛れ始めている少女の顔を見つめた。

   「そーんなに簡単に立ち直れたら、苦労はしないわよ! まあ、そんなふうに言われて、「とにかく前に進まなきゃ、

   いつまでも、こんなヤな気分のまま過ごさなきゃなんないや・・・」って少し覚悟ができたことも事実だけどね・・・・

   それから、うちに帰って、親にこっぴどく叱られたことはいうまでもないけど・・・・」

   「その綺麗な女の人は、それからどうしたんですか?」

   「私が立ち上がって、スカートの埃を落と始めたら、「もう大丈夫みたいね。じゃ、幸運を祈るわ」って笑って

   どっかに歩いて行っちゃった・・・・さってと、あたしたちもとっとと帰ろう! 遅くなっちゃうからね。

   テスト、この次に頑張ればいいじゃない。この1回がすべてっていうわけじゃないんだし・・・・」         

   ルミの言葉にリエは軽く肯くと、歩速を少し上げた。

   商店街を抜け、住宅地に続く坂道に差し掛かると、人気がかなり少なくなった。 

   「扶桑さんはいつもこんなに遅いんですか?」            
   
   坂道の半ばあたりで、リエは涼しい夜風に僅かに前髪を揺らしながら、隣を歩いているルミを見上げた。

   「今、ちょっと忙しいのよ。普段はもっと早くに上がれるんだけどね。今日も早く帰ろうと思ってたんだけど・・・・」

   ルミは語尾を曖昧に詰まらせると、僅かに俯いてふっと表情を曇らせた。

   「・・・・使徒の処理、の関係なんですか?・・・・」

   リエの硬い声に、ルミははっとして顔を上げた

   「そうじゃないのよ。確かにうちの会社は兵装ビルの復旧工事で現場はてんてこまいだけど、あたしは経理だから

   直接は影響ないの。ちょうど今は定例の決算期だから忙しいだけよ」

   ルミはリエの思わぬ反応に少し慌てて、取って付けたように答えた。

   「・・・・そうですか・・・・・」

   リエは少し先の路面に視線を落としながら、上の空であるかのように、何の感情も含まないような声で呟いた。

   気まずい沈黙が支配する中で坂道を登り終えたとき、リエはふと足を止めて振り返った。

   「ん? どうしたの?」

   リエの足音が止まったのに気づいて振り返ったルミは、声を失って立ちすくんだ。

   リエは、端正な横顔を激しく歪めながら、第3新東京市の中心部に傾いて聳え立つ使徒の残骸を見つめていた。

   「・・・・使徒はまた襲ってくるんでしょうか?・・・・もし、エヴァでも勝てなかったとき、私たちは

   どうなっちゃうんでしょうか?・・・・」

   リエは使徒の残骸から視線を外さずに、震える声でルミに尋ねた。

   「・・・・使徒はまた来るかもしれないし、もう来ないかもしれないわ・・・・それはNERVにもわから

   ないんじゃないかしら・・・・・まさに神のみぞ知る、ってとこかしら・・・・仮にまた使徒が襲ってきても、

   エヴァは使徒に勝つわよ、きっと・・・・そのためのNERVとエヴァでしょ? 」
  
   (・・・・本当にそうだと、いいんだけど・・・・)

   ルミは努めて明るい声で答えて、ぎこちなく微笑んだが、すぐに軽く俯いてしまった。

   「でも、いつもNERVは苦戦してるじゃないですか!? 碇君や綾波さんが怪我したりしながら

   ようやく勝ててるんじゃないですか!? そんな気休め、言わないで下さい!! 」

   リエは珍しく言葉を荒げると、身を翻して振り向いて険しい顔でルミに詰め寄った。

   「・・・・そうね・・・・気休めかもしれない・・・・でもね・・・・そうとでも思わないと毎日を生きていけ

   ないわ・・・・本当のことなんて、誰にもわかりはしないんだから・・・・私たちには信じることしかでき

   ないのよ・・・・今は、NERVとエヴァを信じて生きていくほか、何もできないんだから・・・・」

   ルミは初めて見る取り乱したリエの姿に衝撃を受けながらも、努めて淡々と諭すように答えた。

   「・・・・私・・・・怖いんです・・・・いつ、また使徒が襲って来て・・・・それでまたここが戦場に

   なって・・・・今まではエヴァが勝ったけど、次はどうなるかわからないって・・・・そう考えると・・・・

   ・・・・みんな、使徒が襲ってくるようになっても、特別非常事態宣言が解除されると、なにもなかったかの

   ように、いつもの生活に戻っているけど・・・・私・・・・なんかそういうの、欺瞞みたいで・・・・

   ・・・・使徒襲来が現実で、日常生活は仮想現実みたいな、そんな気がして・・・・うまく言えないけど・・・」

   リエはルミの瞳を真っ直ぐに見つめると、怯えたような目で途切れ途切れに呟いた。 

   「・・・・みんな、ほんとは怖いのよ・・・・最悪の事態に目を向けるのが・・・・毎日、恐怖と背中合わせで

   生活していたら、誰でも神経が参ってしまうから、本能的に考えないようにしてるのよ、きっと・・・・

   それにね、みんな心のどこかで「NERVとエヴァがなんとかしてくれる」って信じてる、いいえ、信じようと

   してるのよ・・・・それはNERVのことを嫌っている人たちも同じ・・・・今は、みんながNERVとエヴァに

   良くも悪くも期待してるの・・・・その期待が裏切られないうちは、「使徒襲来が非日常で、平和な生活が日常」

   なの・・・・・ねえ・・・・信じてあげようよ・・・・エヴァのパイロットとNERVを・・・・」

   ルミはリエの背中に手を回して抱き寄せると、使徒の残骸を見つめながら、自分に言い聞かせるように語りかけた。

   「・・・・ルミさん・・・・私・・・・私・・・・」

   リエの鳴咽が微かに聞こえ始めると、ルミは優しくゆっくりとリエの背中を撫でた。

   「・・・・いいのよ・・・・怖いとき、寂しいとき、辛いときには泣いたって・・・少なくとも、私の前では

   頑張る必要なんてないんだから・・・・」

   優しく語りかけるルミの声を聞いて、リエは涙で濡れた顔を上げた。

   「・・・・・うん・・・・・」

   リエはかろうじてそう答えると、再び顔をルミの胸に埋めて、堰を切ったように泣き出した。

   (・・・・・暖かい・・・・なんだか落ち着くような気がする・・・・なんだろ、この感じ・・・・)

   夜風が吹き抜ける坂道の上で、ずっと抑えていた感情を発散させながら、リエは延々と泣きつづけた。


 
    つづく
   

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