或いはひとつの可能性

この小説はフィクションです。小説の中に登場する全ての人物、団体名は、実在の人物、団体等とは一切、関係はありません。



第44話・初めての痛み





   レイは、バスの中ほどの座席から、高橋をみつめていた。

   (・・・・あのヒト、泣いてる・・・・なぜ、泣いているの?・・・・・・・・

   ・・・・・ヒト・・・・悲しいとき、そして嬉しいときに涙を流す・・・・・・

   ・・・・・嬉しいという感じ・・・・・体が暖かくなる感じ・・・・・・・・・

   ・・・・・悲しいという感じ・・・・・・・・・・わからない・・・・・・・・

   ・・・・・私が造られしモノだから・・・・・・・悲しいって、なに・・・・・)

   レイは、ゆっくりと気分が沈潜していくのを感じながら、高橋から視線を外すと、

   街路灯がまばらに映る漆黒の車窓を見つめた。

   
   高橋は、レイが車窓に視線を映してしまったあと、レイの姿を素早く一瞥した。

   (・・・・べつに好奇の視線でみられていたわけじゃないようだな・・・・でも、あの子の瞳は・・・・

   ・・・・なんでこんなに複雑な感情が溢れてるんだ?・・・・いくつもの感情が混ざり合って・・・・・

   ・・・・とくに悲しみと当惑が重なっているような、そんな気がするな・・・・どうして俺をみて、

   そんなふうに感じるんだ?・・・・俺の涙の意味を知っているわけでもないのに・・・・

   リエが言ってたみたいに、不思議な子だな・・・・・・・)

   高橋は、職業柄、多くの人たちと接してきたが、レイの投げかけたような視線に遭うのは、はじめてだった。

   その後も、高橋は、ちらちらとしきりにレイの後ろ姿に視線を走らせたが、もはやレイが振り向くことはなかった。



   バスが新駒沢駅前に近づき、高橋が手を伸ばしてブザーを押したとき、レイは心持ち振り返るような仕草を

   みせたが、すぐに姿勢を戻して、再びバスのフロントガラスに映る対向車のヘッドライトの灯りを眺め始めた。

  (・・・・私のほかに、誰かが新駒沢で降りるのね・・・・あの二人のヒトのうち、どちらか・・・・

  ・・・・・どちらのヒトでもいいの・・・・・・・私とはすれ違うだけのヒトだから・・・・・・・・)

   やがてバスは、エンジン音を響かせながら、新駒沢駅前のターミナルに停車した。

   まだ9時過ぎなので、駅前ターミナルには、駅の階段を降りてくる人やバスやタクシーを待つ人で溢れており、

   駅前の商店街も、一部の飲食店は店を開けている。

   高橋は、バスが停車するのを待って、ゆっくりと立ち上がり、降車扉へと向かった。

   降車扉へと続く数段の階段に足を踏み入れようとしたとき、高橋は自分のすぐ後ろに、ささやかな足音を聞いた。

   (・・・・この足音・・・・そうか、綾波さんも新駒沢に住んでいるんだったよな・・・・)

   高橋は自分の中で納得すると、振り返ることもなく、階段を一気に駆け降り、駅前の雑踏の中に立った。

   雑踏を家路に向かって急ぐ人々は、バスから降りてきた背広姿の男と中学生の少女に注意を払う者もいない。

   そんな見慣れた光景の中、高橋はいつものように商店街を足早に抜けると、初瀬のコンビニに足を向けた。

   「いらっしゃい・・・・ああ、高橋さんか・・・・遅いね、今日は・・・・」

   初瀬はこれまたいつものように無愛想な顔で高橋を眺めた。

   「議会の方がいろいろ、大変でね・・・・今日はちょっと神経が昂ぶっていて寝つきが悪そうだから、

   少しばかり眠り薬を飲んどこうと思ってさ・・・・」

   高橋はニヤリと笑いながらレジの前を離れると、アイリッシュ・ウイスキーのボトルを抱えて戻ってきた。

   「規制緩和のおかげで、コンビニでも酒やら薬やらが置けるようになって、ほんと便利になったよ。

   俺が若い頃なんて、酒屋以外はビールの自販機ぐらいしかなかったし、それも11時になると止まっちまう

   から、夜中に一杯やりたくなっても、どうしようもなかったからねぇ・・・・」

   高橋は背広の内ポケットから電子マネーのICカードを取り出しながら、嬉しそうに微笑んだ。

   初瀬は少しだけ呆れたような表情で、高橋からボトルとカードを受け取った。

   「あまり飲みすぎると、体にこたえるよ・・・・俺たちも、もう若くはないんだから・・・・・・・・

   今更言うまでもないけど、酒は薬にも毒にもなるんだ・・・・リエちゃんに心配かけちゃいけねえよ・・・・」

   初瀬の説教を後ろ姿で聞きながら、高橋は右手を軽く挙げて、親指と人差し指で「OK」というサインを

   造ってみせると、そのまま自動ドアを通り抜けた。


   コンビニからしばらく歩くと、住宅街へと続く、なだらかな坂道に差し掛かる。

   坂道の両脇は草叢で覆われており、時折吹き通る風に背の高い草が頭を揺らしている。

   湿気を含んでいるが、それでも昼間と比べると格段に涼しさを増した風が、何度目かに頬を

   かすめて通り過ぎたとき、高橋は坂の途中で足を止めた。

   坂道を上り切ったところで、先ほどの少女が、制服のブラウスとスカートを風になびかせながら立っている。

   (・・・・第3新東京市の夜景を眺めているんだ・・・・それにしては、表情が硬いような気がするけど・・・・)

   高橋は立ち止まっていても埒があかないので、再びゆっくりと歩き出し、やがて少女の後ろを通りすぎて

   坂道を上り終えた。

   その間も、少女は身じろぎひとつせずに、第3新東京市を見つめている。

   (・・・・何が見えるのかな?・・・・)

   高橋は、ふと好奇心に駆られて、少女と同じ方角を眺めてみた。

   兵装ビルに囲まれた、蒼いピラミッドが見えた。

   (・・・・使徒!・・・・あの子、あれを見つめてたのか・・・・)

   高橋は、蒼銀の髪を風に揺らしながらたたずんでいる少女の後ろ姿と、その向こうに見える使徒の残骸を

   息を呑んで眺めていた。

   少女は、高橋が立ち止まって自分を見ているのを感じているに違いないのに、振り返ろうともせずに

   ただ、黙って、使徒の残骸と、その周りを取り囲むヒトの創り出した灯を見つめている。

   (・・・・人を寄せ付けないような、そんな感じのする子だ・・・・何か、接することをナチュラルに

   拒絶されているような気がする・・・・)

   高橋は、しばし立ち止まった後、何度か振り返りながら、静かにその場を後にした。


   
   レイは、バスから降りると、無言で家路を急ぐ人々に混じって、駅前の雑踏から商店街に向かった。

   レイの視線は、先ほどから、自分の少し前をやや早足で歩く、背広姿の男の背中を捉えている。

   (・・・・このヒトも、家に帰る途中なのね・・・・家・・・・外敵から身を護る休息の場所・・・・

   ・・・・・誰か、待つヒトのいる場所・・・・・・・待っているヒト・・・・・・)

   レイの脳裏に、ゲンドウの顔が浮かんだ。

   (・・・・・・・・・・・そう思いたいのは私・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・でも、違うの・・・・・・・・私は大切にされている、モノ・・・・・

   ・・・・・・・・それだけの存在・・・・・・・たったひとりの世界・・・・・・・・)

   レイは、はっと顔を上げた。

   (・・・・この気持ち、前にも感じたことがある・・・・そう、零号機の最初の起動実験のとき・・・・

   ・・・・・体が冷たくなる感じ・・・・胸が締めつけられるような感じ・・・・この気持ち、なに・・・・)

   商店街の外れで、レイはいつのまにか立ち止まっていた。

   家路を急ぐ人々に次々と追い抜かれながら。

   レイは、自分の脇を通りすぎて行く人々をぼんやりと眺めていた。

   (・・・・・・・・たくさんのヒト・・・・・・・たったひとりの私・・・・・・・・)

   目の前の光景が、何か、自分とは違う世界、あるいは誰かに描かれた絵のように思える。

   そんな感覚に襲われながら、少し俯いて再び歩き出そうとしたとき、レイの耳に、自動ドアの開く音が聞こえた。

   思わず顔を上げたレイの紅い瞳に、コンビニのレジに立って客に釣り銭を渡している男の姿が映った。

   (・・・・・・・初瀬さん・・・・・・・・・碇君と同じ眼差しのヒト・・・・・・・

   ・・・・・・・・そう、碇君、初瀬さん、そして高橋さんや学校のみんな・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・・碇司令と違う眼差しの、ヒト・・・・・・・・・・・・・・)

   目の前の光景が急に生き生きと動き出したように感じながら、レイは無意識のうちに俯くのをやめて

   少しだけ胸を張って歩き出した。

   (・・・・体が軽くなったような感じがする・・・・体重も所持品も重量は減ってないのに・・・・)

   感情の起伏と、それに伴う感覚の変化に戸惑いながら、レイはしっかりとした足取りで住宅街へと続く

   なだらかな坂道を上り始めた。

   涼しい夜風が頬を撫でるのを感じながら、レイは一瞬、目を細めた。

   (・・・・外の風・・・・気持ち良い・・・・ジオ・フロントの風とは何か違う・・・・)

   レイがそよ風に吹かれながら坂道を登りきったとき、風に乗って救急車のサイレンが微かに聞こえてきた。

   レイは何気なく振り返ると、サイレンが聞こえてきた方向、つまり第3新東京市の中心部を見つめた。

   サイレンはすぐに聞こえなくなったが、レイはそのまま、身じろぎもせずに夜景を見つめつづけた。

   レイの視線の先には、夜空にそびえる兵装ビルと、それに取り囲まれた使徒の残骸があった。

   (・・・・・・・使徒・・・・・・・・私たちの敵・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・使徒を倒すの私の使命・・・・・・・・私の存在意義・・・・・・

   ・・・・・・・・使命が終わったとき・・・・私の存在意義は無くなる・・・・・・

   ・・・・・・・・私は・・・・・・・・消える・・・・・・・・定め・・・・・・・)

   レイは傾いた蒼いピラミッドを見つめながら、いつまでもその場に立ち尽くしていたが、誰かが後ろを

   通り過ぎる気配に気がついて、僅かに振り返った。

   先ほど、自分が背中を眺めつづけていた男の後ろ姿が再び視界に入った。

   (・・・・このヒト、この辺に住んでるのね・・・・)

   それ以上の感慨もなく、レイは再び闇にそびえる兵装ビルに向き直った。

   足音はゆっくりと遠ざかり、そして、レイはまたひとりになった。

   (・・・・・・・消えることは・・・・・・・・怖くない・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・望んでいるのかもしれない・・・・少なくとも前はそう・・・・・

   ・・・・・・・・碇君やみんなと出会うまでは・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・今は・・・・・・・・・・・・わからない・・・・・・・・・・・)

   レイはそれまでの無表情な顔を明らかに硬くすると、少し俯いて自分の白く華奢な手を見つめた。

   少し強さを増してきた夜風が、蒼銀の髪を激しく揺り動かしている。

   (・・・・・・無から産まれたモノが、無に還る・・・・・それは自然の摂理・・・・・・・・

   ・・・・・・・なのに・・・・・・なぜ・・・・・・・・・ためらうの、私・・・・・・・・)

   再び、背後から足音が近づき、レイのすぐ後ろで、ぴたりと止まった。

   (・・・・・なに?・・・・・)

   レイは、かつて酔った若い男に夜道で絡まれたことを思い出して、一瞬、身を硬くした。

   「こんな遅い時間に、こんな人通りの少ないところに突っ立ってたら、危ないぞ。使徒が来るようになってから、

   治安が悪化してるからな。若い女の子なら、なおさらだ。さっさと家に帰りな。夜景なんて、いつでも見られる

   ものなんだから。」

   思いがけない言葉に、レイは蒼い髪を揺らして弾かれたように振り返った。

   真紅の瞳に映ったのは、自分が背中を見つめていた男、つまり、バスの中で涙を流していた男だった。



   高橋は、少し照れくさそうに、そして、少し緊張しながら、レイを見つめた。

   「あ、先に言っておくけど、俺は別に怪しい者じゃないよ。あんた、綾波さんだよね? 

   俺は第壱中学2年A組の高橋リエの親の高橋ノゾミっていう者だよ。市議会議員っていう公職に就いている奴だから

   安心してもらって大丈夫だと思うけど・・・。まあ、ご存知の通り、NERVにとっちゃ、眼の上のたんこぶ

   みたいな存在だろうけどね」

   「・・・・高橋さんのお父さん・・・・高橋市議・・・・知ってる・・・・」

   レイが少し表情を和らげたのをみて、高橋は安心した。

   「・・・・さっき、通り過ぎたはずなのに・・・・どうして、戻ってきたんですか?・・・・」

   レイは、NERVで教育されてきたように丁寧な言葉で、しかし何の感情も込めない口調で尋ねた。

   (・・・・このヒト、なぜ、私に関わろうとするの?・・・・NERVは敵なのに・・・・・・・・・・

   ・・・・・NERVの内情を探るのが目的?・・・・・・・・今までのたくさんのヒトみたいに・・・・)

   「ああ、さっき通り過ぎたとき、あんたがなんか思いつめた感じで立ってたから、ちょっと心配になってね・・・・

   それでなくても、ほんとに、この辺りも物騒になってきたし・・・・放って置けなかった、っていうのが

   本当のところだね。NERVご自慢の保安諜報部が警護してるんだろうと思ってたんだけど、

   彼らも人間だからね。何かの手違いで警備が手薄になってるかもしれないって思ってね。

   まったく、親子揃って、とんだお節介焼きだね、うちの家系は。あはははは。 おっと、ぼけっとしてると、

   もう10時になっちまうな。俺が再開発予定地区まであんたを送って行ってもいいんだけど、そうすると、

   NERVからまたなんやかんやと痛くも無い腹を探られることになるからね。とにかく、ここから葛城さんの

   家に行って、葛城さんかシンジ君に家まで送ってもらえばいいよ。取り敢えず、俺は葛城さんの家まで

   あんたを送ってくから、それでいいね? ああ、最初に誤解のないように言っとくけど、あんたから

   NERVの話なんて聞こうと思ってないから。そんなことしたら、リエに家に入れてもらえなくなっちまう

   からな。あはははは」

   高橋は、レイの透き通った真紅の瞳に見つめられて僅かに頬を紅潮させながらも、心配そうな眼差しで答えた。

   レイは、そんな高橋を瞬きもせずに、じっと見つめ続けていた。

   (・・・・私のことが、心配?・・・・このヒトはNERVの敵・・・・NERVの敵は、私の敵・・・・

   ・・・・・どうして、私のことを心配するの?・・・・でも・・・・このヒト、嘘、ついてない気がする・・・・)

   「・・・・・どうして、何も聞かないんですか?・・・・・」

   レイは、高橋の目から視線を離さずに、今度は少しだけ当惑の思いの混じった口調で尋ねた。

   「あんたやシンジ君は、NERVの基本方針や運営を決めているわけじゃない。そういうことは、碇ゲンドウ氏や

   冬月のじいさんが決めてるんだから、あんたらは彼らの指示に従っているだけに過ぎない。NERVと他の組織との
   
   摩擦については、なおさらだ。だから、あんたらを巻き込みたくないんだよ。子供を巻き込んだ闘いほど、

   卑怯で醜いものはねえからな。NERVは、そういうことでも平気でやるかもしれねえが、こちとら江戸っ子の

   末裔は、そんな潔くねえことしたら、あの世に行ってから、ご先祖さんに顔向けできねえんだよ。それに

   あんたらは、NERVの職員であると同時に、この街に住む中学生なんだ。この街の住人であれば、それが

   誰であろうと、安全にそして幸せに暮らせるように考えるのが、この街の公職に就くものの使命だと

   俺は日頃から思ってる。ただ、それだけのことさ。それとも、通りすがりの他人がお節介を焼くなんて

   あんたにとっては、どう考えても理解できない、あるいは信じられないことなのかい?」

   (・・・・・心の奥底まで照らすような、そんな眼差しだな・・・・・澄み渡っていて、一点の曇りも無い・・・・

   ・・・・・・こんな子供をエヴァに乗せて戦わせるなんて、NERVもひでえことしやがる・・・・・

   ・・・・・・今までずっといろんな組織から狙われていたんだろうな・・・・だから、他人の優しさなんて

   おいそれとは信じられなくなっているんだ、この子は・・・・・可哀相にな・・・・・この子も、他の子供たちと

   同じように、幸せになる権利を持ってるってのに・・・・・それを許さないNERVって奴は!・・・・・)

   高橋は、レイの当惑の理由がぼんやりながらも分かるような気がした。

   そして、今更ながら、NERVへの憤りがむくむくと胸の内で湧きあがっていた。

   「・・・・・・・送ってもらわなくても大丈夫です・・・・・」

   レイは視線を高橋からそらすと、壊れた街路灯が点滅している暗い舗道を静かに歩き出した。

   「おいおい、ほんとに大丈夫かい? 夜道は物騒だよ!!」

   高橋は、遠ざかって行くレイの後ろ姿に向かって、慌てて大きな声をかけた。

   その声に、レイは、ふっと立ち止まると、僅かに振り向いた。

   「・・・・・・・・消えるのは・・・・・怖くないから・・・・・・・」

   高橋は息を呑んで立ちすくんだ。

   数秒後。

   高橋は舗道を蹴って走り出した。

   夜道に白く浮かぶレイの肩先を乱暴に掴んで振り向かせると、その白皙の顔をひとつ、大きく打った。

   「ばっきゃろう! 14歳のガキの分際でなんてこと言いやがるんだっ! あんたは怖くないかもしれねえが、

   後に残された親や友達の気持ちを考えたことがあるのかっ? おいっ!? 世の中にはなあ、死にたくないのに

   死ななきゃなんなかった奴が、たんといるんだ! セカンド・インパクトだって、そうだ! あんたは生れる前で

   知らねえかもしれねえが、あん時、死んだ中にはな、明日を楽しみにしてた人たちがたっくさん含まれてるんだ!

   軽々しく「消える」なんてこと言うなっ! いのちってもんはな、大切な大切なものなんだ! 

   それを粗末にするような奴は、この俺が許さねえっ! もう一遍、そんなこと言ってみろ、ただじゃおかねえっ!」

   レイは頬を赤く腫らしたまま、真紅の瞳を大きく開いて、豹変した高橋をじっと見つめた。

   「・・・・・親・・・・・いないもの・・・・・・」

   レイは高橋から視線を逸らすと、地面に伸びる長い影にそれを移した。

   「・・・・・親がいねえのは、俺も同じさ・・・・・でもな、俺には護るべき娘がいる・・・・・・・

   あんたにだって、シンジ君たちや葛城さんがいるじゃねえか・・・・・ひとりで生きることが淋しいのは

   よく分かるけど、もう、こんなこと言うなよ・・・・・どうしても淋しくなったら、俺んところか、

   さもなかったら初瀬の親父のところに来な・・・・・・こんな親父だけど、少しでも力になれるはずだからな・・・・

   ・・・・・・ったく、あんたが悲しいこと言うから、こっちまで泣けてきちまったぜ・・・・」

   高橋は、滲みかけてきた涙を乱暴に人差し指で拭うと、打って変わったような暖かい眼差しでレイを見つめた。

   レイは目眩にも似た不思議な感覚に襲われていた。

   (・・・・このヒト、私のこと、心配してる・・・・NERVの職員、エヴァのパイロットしてじゃなく、

   ヒトとしての私を心配してる・・・・このヒトの眼も初瀬さんや学校のみんなと同じ・・・・・・・・・・

   ・・・・・これもきっと絆・・・・・・そう、私、ひとりじゃないもの。みんなと一緒だから・・・・・・

   ・・・・・ずっとみんなと一緒にいたい・・・・・それが今の私の唯一の望みなのね・・・・・・・・・・

   ・・・・・でも・・・・・・エヴァが不要になれば、私のいる理由のひとつはなくなる・・・・・・・・・

   ・・・・・でも・・・・・・エヴァ以外の絆があれば、ここにいてもいいような気がする・・・・・・・・

   ・・・・・でも・・・・・・もうひとつの使命が終わったとき、私は消える定め・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・消えるのは・・・・・・・・・怖い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・私・・・・・・・・・・・・・消えたくないの?・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・それは、碇司令の命令に反すること・・・・許されないこと・・・・してはいけないこと・・・

   ・・・・・でも・・・・・・・・・・・私・・・・・・・・・・絆を失いたくない・・・・・・・・・・・)

   レイは、さまざまな異なった意見を言う、自分の分身に取り囲まれるような幻影を、一瞬、見たように感じた。

   高橋は、レイに起こった異変に気がついて、内心、慌てていた。

   (一体、この子、どうしちゃったんだ? 俯いて何か考えているのかと思ってたら、目の焦点が合ってないよ。

   何か、具合が悪くなっちまったんじゃないだろうな? まいったな、この時間じゃ、医者も開いてねえし・・・

   ・・・・殴ったのは、やっぱ、まずかったかな・・・・・)

   しかし、レイは、ほどなく顔を上げると、少しだけ当惑したような表情を残しながらも、黙って

   ミサトのマンションの方向に歩き出した。

   (・・・・・駄目・・・・・今は考えても答えが出ない・・・・・情報も時間も少なすぎるから・・・・・・・

   ・・・・・・今、私がすべきことは葛城一尉の家に行くこと・・・・・それが最優先・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・まだ、使徒はたくさん来るはず・・・・・・・・・まだ時間は残されてる・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・それまでに、考えればいい、はず・・・・・・・・私がどうすればいいか・・・・・・・・・・・)

   高橋も黙ってレイと並んで歩き始めた。

   (・・・・・どうやら単に考え事をしてたみたいだなぁ。良かったよ、具合いが悪くなったんじゃなくて・・・・

   ・・・・・・でも、この様子じゃ、考え事は、うまくまとまりがつかなかったみたいだな・・・・・・)

   二人が歩き始めて数分が経ち、ミサトのマンションが見えてきたとき、高橋の耳に囁くような声が届いた。

   「・・・・・なぜ、バスの中で泣いていたんですか?・・・・・」

   はっとして横を見た高橋の目に、まだ当惑したような表情を残したまま、自分を見上げているレイの顔が

   映った。

   「ああ、あれかい? ちょっと、夢をみてしまってね。ずっとずっと昔の、あんたらが生れる前の

   ことさ・・・・・ちょっとばかり・・・・・いや、とても悲しいことがあってね・・・・・」

   高橋はいつになく歯切れの悪い口調で呟いたあと、思い出すのを拒むかのように口を閉じた。

   「・・・・・悲しい、夢・・・・・」

   レイは、再び前方の闇を見つめながら、高橋のことばを繰り返した。

   「そうだよ、セカンド・インパクトの時の夢さ・・・・今までに何度も何度も見たけど・・・・・・

   ・・・・・・胸が締めつけられるように苦しくなって、涙が自然に湧きあがってくるんだ・・・・・

   あんまり頻繁に見たいもんじゃないね・・・・・」

   「・・・・・どうして、悲しいんですか?・・・・・」

   「・・・・・大切な人たちを喪ったから・・・・・あんなこと、二度とごめんだよ・・・・・」

   高橋の返事は、最後の言葉だけ強い感情がこもって、吐き捨てるような口調になってしまった。

   (・・・・・大切な人たちとの別れ・・・・・それが悲しいということなの・・・・・

   ・・・・・・大切なヒト・・・・・碇君、学校のみんな、葛城一尉・・・・・・・・・

   ・・・・・・消えるときには、私もそう思うはず・・・・悲しいと・・・・・・・・・

   ・・・・・・彼らは、悲しいと思うかしら・・・・・私との別れを・・・・・・)

   レイは無意識のうちに唇を固く閉じながら、俯いて歩いていた。

   高橋もそれ以上は何も言わず、ただ二人は黙って歩きつづけた。

   夜の住宅街は静まり返り、二人の足音だけが虚ろに響いている。

   マンションのエントランスホールが見えてくると、高橋は立ち止まった。

   「ここまで来れば安心だね。俺はここから引き返すとするよ。葛城さんと顔合せると、何言われるか

   わかったもんじゃないからな。それじゃ」

   高橋は、レイに背を向けると、またゆっくりと舗道を引き返し始めた。

   が、すぐに振り返ると、自分を見つめているレイに向かって声をかけた。

   「前から言っておきたいことがあったんだ。・・・・・あんたの人生はあんたのものなんだ。・・・・・

   ・・・・・NERVのものでも、誰のものでもない・・・・・だから、いよいよというときには、

   自分の幸せを第一に考えなきゃ駄目だぜ・・・・・これだけは忘れちゃいけねえよ。じゃっ」

   (うへえ、我ながら、キザなこと言っちゃったよ。やっぱり照れるなぁ。誰か他の人に聞かれたら、

   遁世しちゃいたいほど恥ずかしいねえ。やっぱ、こういう言葉は、俺には似合わねえな)

   高橋は、自分の言った言葉に自分で照れてしまい、レイにそんな表情をみられたくないので、

   そそくさと足早に闇の中に消えて行った。

   レイは、高橋の残した言葉を反芻していた。

   (・・・・・私の、幸せ・・・・・幸せ・・・・・幸せって、なに?・・・・・) 

   立ち尽くすレイの背後から聞き慣れた声が聞こえた。

   「レイ、遅かったじゃないの! 保安諜報部から、高橋議員に送ってこられてるって連絡があってから、

   かなり経つから、何かあったんじゃないかって心配してたのよ! すぐに車で送って行くからね。

   あ、そうそう、高橋議員からは何も聞かれなかったわね?」

   ミサトは、高橋の去っていた方向を見つめているレイの肩に優しく手を置いた。  
   
    「・・・・はい・・・・私や碇君を巻き込んだ闘いはしたくないからって・・・・・葛城一尉は分かって

    いたんですか?・・・・・・」

   レイはミサトを見上げながら不思議そうに尋ねた。

   「ええ。リエちゃんやいろいろな人から、あの人のことは聞いてるから。あの人らしいわね」

   (・・・・・自分たちが生き残るため、あなた達をエヴァに乗せているような私たちとは違って・・・・)

   ミサトは、レイの顔を見ずに、星が瞬いている天空を見上げながら答えた。

    「・・・・・高橋さんから、叱られました・・・・・」

   レイは少し腫れの残る頬を手のひらで触れながら、ぼつりと呟いた。

    「ええ、保安諜報部から、連絡を受けているわ。彼らも飛び出そうとしたけど、思い止まったみたいね」

   ミサトは、くすっと笑うと、レイの頬をひと撫でした。

    「・・・・・叱られたの、初めて・・・・・・痛かったけど・・・・・暖かかった・・・・・気がします・・・・・」

   レイは僅かに俯くと、小さなかすれた声で囁いた。

    「・・・・・そうかあ・・・・・・・レイは誰かに叱られることなんてなかったもんね・・・・・」

   小さく溜め息をつくミサトを見つめながら、レイはためらいがちに口を開いた。

   「・・・・葛城一尉の幸せって、何ですか?・・・・」

   唐突な質問に、ミサトは腕組みをして考え込んでしまったが、やがてニヤリと相好を崩した。

   「そうねえ、あたしの幸せはねえ、ゆっくりと朝寝して、目が覚めたら、朝ご飯ができていて、

   そのうえちゃーんと冷えたビールまで用意されてて、さらに仕事は忙しくなくて給料がそこそこ高くて

   残業は少なくて早く家に帰れて、また夕ご飯が用意されてて、そのあとでサスペンス劇場みながら

   ビールを飲むっていう、そういう生活を送ることね!」

   ミサト流の幸せの解説は、レイを混乱させるには十分だった。

   難しい顔をして考え込んでしまったレイを見つめながら、ミサトは優しい声で付け足した。

   「・・・・要するに、平和な日常ってことよ・・・・・」

   レイは思わず顔を上げると、ミサトを見つめ返した。

   「そして、それは、たぶん、あたしだけじゃなく、今、みんなの望む幸せだと思うの。そして、いずれ、

   あたしたちは、きっと、そんな幸せを手に入れられると思うわ。そのためのNERVだから。」

   ミサトは、いつになく真剣な顔でレイに答えていた。自分自身に言い聞かせるように。

   「・・・・葛城一尉・・・・私の幸せって、何でしょうか?・・・・・」

   レイはミサトに向き直ると、いつもよりはっきりとした声で尋ねた。

   「自分の幸せは、自分で見つけなきゃ駄目よ。人に教えてもらうようなものじゃないわ。いい機会だから、

   レイも考えてみたら? 訓練や読書だけじゃなくて、自分のことについて、例えば何をしたいかとか、

   何が幸せかとか、将来何になりたいかとか、そういうことをきちんと考えることも大事なことよ。

   使徒だって、このまま未来永劫、襲来し続けるとは限らないんだから、その後のこともきちんと

   考えておいたほうがいいわよ。あ、でもね、訓練とか実戦の最中は、そんなこと考えてちゃ駄目よ!」

   (・・・・・本当にそんな日が来るのか、あたしも確信できないのに・・・・でも、この子達には

   刹那的に生きて欲しくないから・・・・・) 
 
    「・・・・はい・・・・・考えてみます・・・・・」

   レイが心細そうな小さな声で答えると、ミサトはレイを力強く抱きしめた。

    「えっ、葛城一尉?」

    驚いた顔でレイが見上げると、ミサトはいつになく優しい笑顔を見せた。

    「・・・・レイ・・・・きっと幸せを見つけるのよ・・・・・こんな時代だからこそ・・・・・」

    (・・・・葛城一尉の体温、暖かい・・・・何だか気持ちが落ち着くような気がする・・・・

    誰かに抱きしめられるのって、こういうものだったの・・・・ずっと、このままでいたい気がする・・・・)

    レイは深い安心感に包まれて、静かに目を閉じた。    


     つづく
   

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