或いはひとつの可能性

この小説はフィクションです。小説の中に登場する全ての人物、団体名は、実在の人物、団体等とは一切、関係はありません。



第43話・想い出は限り無く





   「ははは、驚かれました? 探し出すのに、なかなか骨が折れましたよ」

   橋立は頬を緩めてにやりと笑うと、デスクの上に置いてある、飲みかけの清涼飲料水の缶に手を伸ばした。

   「ああ、こんなものが残ってたとはね・・・・当時は彼らも、僅かばかりの誠意ってやつを持ち合わせて

   いたものと見えるね・・・・いずれにせよ、これはたいしたもんだ! 恩に着るよ、橋立君」

   高橋は打って変わったような明るい顔で立ち上がると、その古ぼけた書類を手に取って、コピー機の前に

   立った。

   「しかし、それを実行しようとすると、彼らとは全面対決になりますね。いよいよもって、高橋さんの

   身辺も危うくなることになりますが・・・」

   橋立の心配そうな声が聞こえると、高橋は心持ち半身になって振り返った。

   「それなんだが・・・ちょっと相談しておきたいことがあるんだけど、近いうちに晩飯でも

   食べないかい?」

   高橋のいつになく真剣な顔に、橋立は少し緊張した面持ちで、黙って深く肯いた。

   「さてと、これさえあれば、明日の会議も乗り切れそうだな。多数派工作の方は、松島さんたちに任せて

   あるから、俺はそろそろ帰らせてもらうとするかな。ほんと、使徒が来るようになってから、

   騒音や放置自転車といった身近な問題から、限りなく国政マターに近い問題まで、手広くやらなきゃ

   ならなくなっちゃったから、体がいくつあっても足りないよ。それじゃ、また明日な。今日はほんとに

   助かったよ。ありがとさん!」

   高橋は、ぶつぶつと愚痴を言いながらも、重荷を下ろしたような顔で、議会事務局のドアを開けると、

   節電のために照明が落とされて、すっかり人通りの絶えてしまった廊下に出た。

   (・・・・これがあれば、いける、かもしれない・・・・だが・・・・危険な賭けであることも事実だ・・・・)

   自分の靴音だけが響いている真っ暗な廊下を、高橋は非常口の誘導灯だけを頼りにして歩いて行った。

   誘導灯の緑色の光が柔らかく照らし出している廊下の角を曲がると、エントランスホールに続いている

   長い廊下に差し掛かる。

   廊下の突き当たりには、エントランスホールの警備員詰所から洩れてくる明るい光が僅かに見えているが、

   そこに至る廊下は暗闇に包まれている。

   (・・・・無明の闇か・・・・夜の闇は朝になれば消え失せるけど、あの日から始まった人類の闇は

   いつになったら晴れるんだろうか・・・・・)

   廊下の中ほどまで歩いてきた高橋の目に、火災報知器の所在を知らせる赤いランプがぼんやりと映った。

   (・・・・生き物の眼のようだ・・・・あるいは火星のような・・・・・火星、か・・・・・・

    ・・・・・軍神マルスの名を持つ不吉な星・・・・・)

   感情が沈潜して行くのを自覚しながら、高橋はエントランスホールに足を踏み入れると、

   警備員詰所のすぐ脇に設置されている名票板に向かった。

   暗闇の中で、自分の名前を記した名票板だけに、「議会内に所在」を示す明かりがともっている。

   ゆっくりと指を伸ばし、名票板の下のボタンを押して明かりを消すと、高橋は自動ドアを通って

   雨が止んで、まだ湿気が高いものの、少しだけ涼しさも漂い始めた屋外に出た。

   ふと立ち止まって深呼吸をする高橋の耳に、市営バスとおぼしきエンジン音が聞こえ始めた。

   音の聞こえてきた方角を眺めた高橋は、延々と連なる街路灯を背景にして疾駆してくるバスの姿を

   見つけると、慌てて「市庁舎前」のバス停に向かって駆け出した。



   誰もいないバス停から乗客のいないバスに乗った高橋は、車窓から第3新東京市の市街地を

   ぼんやりと眺めていた。

   まださほど遅い時間でもないが、つい先ほどまで降り続いていた雨のせいか、途中のバス停からは

   誰も乗客が乗って来なかった。

   (市街地の中心部がまだ復興していないから、みんな飲みに行くときには、湖尻とか箱根区の方に

   行ってしまっているんだろうな・・・・そのうえ、雨にまで祟られちゃあ、人気がなくなるのも、

   無理はないか・・・・)

   高橋は腕組みをすると、静かに目を閉じた。

   (・・・・セカンドインパクト以来、ようやく15年にして復興の兆しがみえてきたってのに、

   今度は使徒襲来か・・・・あの日までの生活がまるでうたかたの夢の中のようだな・・・・

   ・・・・・今の子供たちは、あの日以前の生活を知らないから、その分だけ幸せかもしれないな・・・・)

   日頃の激務の疲れと、車体の心地良い振動が、高橋の首をうな垂れさせるには、さして時間は必要ではなかった。

   
   
   「それじゃ、行ってくるよ。最近物騒だから、戸締まりだけはちゃんとしておくんだぜ」

   高橋は少し大き目のスーツケースを持ち上げると、家の奥に向かって声をかけた。

   「うん、ちゃんと鍵かけてから出かけるから大丈夫よ。あ、駅に行く途中で、お義父さん達に一応、挨拶

    して行ったら?」

   ダイニングルームから慌てて玄関に出てきたマキコに向かって、高橋は面倒くさそうに首をかしげた。

   「別にいいよ。前から、俺の出張の話はしてあるからね。ああ、君もわざわざ挨拶なんぞしなくてもいいからな。

   うちのおやじ達に挨拶する暇なんぞあったら、その分だけ早く実家に帰ってお義父さんに顔見せてあげるといい。

   病人には見舞いが何よりの薬だからな」

   高橋は思案顔のマキコに向かって笑顔で手を振ると、マンションのドアを開けて外に出た。

   「今年はまだまだ残暑が厳しいね。やれやれ、福井が暑くないといいんだけど・・・ま、元気で行ってくるよ」

   「それじゃ、ね。私は今月一杯、向こうに行ってるから、今度会えるのは来月の2日かしら?
  
   とにかく仕事忙しくても、ちゃんと睡眠だけは採ってよ。あんまり無理しすぎると、この前みたいに

   体調崩しちゃうから・・・・」

   マキコは、前髪に触れながら、心配そうな表情で高橋を見つめた。

   「ああ、わかってるって。なんたって、体が資本ってことは、この前、倒れたときに痛感してるからね。

   まあ、出張中は、国会待機もないから、場合によっちゃあ、いつもより早く寝られるかもしれないし。

   おっと、もうこんな時間だ。さてと、それじゃ高円寺の駅前でタクシー拾って東京駅まで行くとするよ。

   こんな重い荷物抱えて朝の中央線に乗るなんてことは、真っ平御免だからな。それじゃあ、行ってくらぁ!」

   高橋は軽く掛け声をかけると、替えの衣類やら資料やらで重たくなっているスーツケースを持ち上げ、

   マンションのエレベーターに向かって歩き出した。

   「お土産の甘海老、ちゃんとクール宅急便で実家に送ってよ!」

   マキコの少し甘えた声を背中で聞きながら、高橋は振り返りもせずに肩先で手だけ振ってみせた。

   エレベーターを待っている間、高橋は隣室の西田夫妻とばったり会った。

   「あ、ご出張ですか? この暑いのに大変ですね。今度はどちらに?」

   電力会社に勤務している西田サチオは、いつもの朝のようににこやかな笑顔で声をかけてきた。

   「ええ、福井なんですよ。今、建設中の北陸新幹線の関係で、近畿・福井地域の交通網整備政策を

   やらなきゃいけなくなりましてね。あっ、申し遅れましたけど、実は家内の父が体調を崩して寝込んでましてね、

   家内も9月一杯、京都の実家に帰らなきゃいけなくなりまして・・・。留守中、何事もないとは思いますが、

   よろしくお願いいたします」

   高橋は早くも額に滲み始めてきた汗をハンカチで拭いながら、深々と頭を下げた。

   「ええ、安心してお留守になさって下さいね。京都ですかぁ、いいところですよね。しばらく行ってないなぁ」

   電機メーカーに勤めている西田マリは、愛想良く笑ってみせた後、拗ねたような表情で夫の顔を見上げた。

   「ははは、また今度、な。もう少し涼しくなったら、そうだ、紅葉の季節になったら、京都に行ってみよう。

   な、それでいいだろ?」

   西田サチオが慌てて旅行のプランをひねり出す姿を、高橋は微笑ましく思いながら眺めていた。

   そんな話をしているところに、エレベーターが到着した。


   マンションの前で西田夫妻と別れた高橋は、重いスーツケースを手に持ちながら高円寺駅の方向に歩き出した。

   (・・・・まいったなぁ、こんなに暑いんじゃ、駅まで行く間に汗だくになっちまう・・・・)

   高橋は数メートル歩いては立ち止まり、また歩き出す、というようにもたもたしながら、ようやく

   環状7号線まで辿り着くとタクシーを待ち構えた。

   朝の混雑時間帯とあって、なかなかタクシーは来なかったが、5分ほど待つうちにようやくタクシーを

   捕まえることができた。

   「東京駅まで。」

   高橋はタクシーの後部座席に体を滑り込ませると、冷房に当たりながら、ふうっと溜め息をついた。

   「ご出張ですか? えーと、もう乗られる電車の時間、決まってますか?」

   高橋はタクシーの運転手の声に目を開けた。

   「あっ、はい。9時12分発の東海道新幹線です。これで米原まで行って、そこから北陸本線で福井まで

   行く予定なんです」

   「9時12分ですか・・・・じゃ、少し急いだ方がいいですね。抜け道を通って行きましょう。あ、

   お客さん、ラジオでもお聞きになりますか?」

   「じゃ、NHKでも聴こうかな」

   高橋はワイシャツの胸ポケットから、ミントガムを取り出しながら何気なく答えた。

   運転手は前方を眺めながら、手を伸ばすと、ラジオのスイッチを探り当てると、ボタンを押した。

   「おはようございます、8時です。9月13日のモーニングワイドを続けさせて頂きます。初めに

   自由改進党は金融機関の不良債権問題の処理に一応の目処が立ってきたことから、平成9年の与党3党合意に

   従って、財務省から金融関連部局を完全分離し、新たに金融省を創設することを再確認しました。

   早ければ、再来年4月を目処に法制整備などが行われ、これにより前世紀からの懸案となってきた

   財政・金融の分離問題が一応の決着をみることになります。ただ、財務省は破綻した金融機関の

   ペイオフ(預金保険機構による預金者への預金払い戻し)が軌道に乗るまで分離時期を遅らせるべきだとして

   反発を強めており、事態は予断できない情勢です。それでは次のニュースです。昨日、宮城県の栗駒山に登った

   5人が今朝になっても下山せず、地元の宮城県警では遭難した可能性もあるとして、5人の捜索に・・・・」

   ぼんやりとニュースを聞いていた高橋は、タクシーが赤信号で停車すると、何気なく車窓に視線を移した。

   横断歩道では、ワイシャツ姿で腕に背広の上着を抱えたサラリーマンや、薄いワンピース姿のOLが

   一斉に歩き始めていた。

   (・・・・今日も、昨日と同じ一日の繰り返し、か・・・・退屈なものだな・・・・)

   高橋はふと背伸びをして、大きなあくびをすると、再び目を閉じた。

   
   次に高橋が気づいたとき、タクシーは既に赤レンガ造りの東京駅舎の前に横付けされていた。

   「あんまり道が混んでいなかったんで、余裕を持って着くことができましたよ。お客さん、さいさき良いですね」
 
   営業用のお愛想と分かっていながらも、高橋も満更ではないような表情で答えを返した。

   「まったくだね! 天気も見事な日本晴れだし、何か良いことありそうな気がするねぇ。それじゃ、

   お世話さんでした。あっ、お釣はいいよ。さしたる金額じゃないからね」

   夏の名残りの入道雲が天高く立ち上る空の下、高橋はタクシーから降りると、スーツケースを引きずるようにして

   丸の内口から東京駅の中に入って行った。

   改札口でチケットを提示して、少しだけひんやりとした感触のする地下コンコースをゆっくりと八重洲口方面へと

   歩みを進めて行くと、自分と同じようにスーツケースを下げた男たちがたむろしている東海道新幹線の改札口が

   見えてきた。

   (やれやれ、やっと着いたか・・・・ここまでくりゃあ、もう心配はないな・・・・さってと、まだ時間も

   あるようだし、新聞と、そうだ、車中で飲むビールとつまみのソーセージやらサンドイッチまで買うとするかね。

   ま、向こうに着けば仕事漬けになるのは目に見えてるからな。せいぜい、移動時間ぐらいは楽しませてもらっても

   罰は当たらないってもんだ。ははは・・・・)

   高橋は改札口で駅員に新幹線のチケットを提示すると、ホームに通じるエスカレーターに足を踏み入れながら、

   ちょっとした旅行気分を味わえることを予想して、僅かに頬を緩めた。

   エスカレーターを上り終えると、高橋は真っ直ぐキオスクに向かい、経済紙ではない新聞を2紙買うと、次に

   JR直営の弁当・つまみ等の売店に立ち寄り、黒ビールとつまみのソーセージと鴨のスモークを買った。

   買い物を早々に済ませると、高橋は指定席の車両に向かった。

   (・・・・やっぱり自由席にすれば良かったかな・・・・でも、万一、座れないとしんどいからなぁ・・・・

    しかし、交通省事務官の身には指定席料金はやっぱ痛いよな・・・・・)

   高橋は少しだけ顔を曇らせたが、自分の乗る車両を見つけると、すぐに表情を明るくした。

   (ま、もう買っちまったチケットのことをくよくよしてても始まらねえしな・・・・)

   車両の中はひんやりと冷房が効いており、高橋は無意識のうちにほうっと安堵の溜め息をもらすと、

   スーツケースを網棚の上に乗せ、座席にどっかりと腰を下ろした。

   そして、早速、買ってきたビールのプルトップを引き上げると、ぐいっと一口目を飲み干した。

   (うへえ、旨い!! この一口のために仕事してるって感じだよなぁ・・・・)

   心持ち顔をほころばせながら、高橋は鴨のスモークに箸を伸ばした。

   高橋が2口目のビールを飲み干したとき、車両のドアが閉まり、ゆっくりと新幹線は発車した。

   汗をかいていて体内の水分が減少していたところにビールを飲んだので、列車が丹那トンネルに差し掛かる頃には

   高橋はすっかり良い気分になってしまい、少しとろんとした目でぼんやりと新聞の活字を眺めている状態だった。

   (ほほう、ようやく景気回復の足取りが力強くなってきたか。不良債権処理がヤマを越したからなぁ。

   これで歳入も増えてくるだろうし、そうなればうちの予算枠も少しは増えるかもな。そろそろ、

   前から温めていた首都圏第2空港構想を具体化させる時期かもなぁ・・・・・そういえば、この間、

   同期の石原が言ってたけど、2年前に凍結された首都機能移転計画が再開されるらしいな。そうなると、

   新空港の建設予定地も新首都の近くでないと、やっぱりまずいだろうなぁ・・・・)

   そんなことを考えているうちに、高橋は再び睡魔に襲われていた。

   ガタン、とドアの閉まる振動を感じた高橋は慌ててがばっと飛び起きると、風景が流れ始めた車窓に顔を近づけた。

   (やばっ!! 寝過ごしたかっ!! しまったぁ!!)

   しかし、大きく見開かれた高橋の目は、「岐阜羽島」という駅名表示板を捉えていた。

   (ふひーっ、まだ岐阜羽島だよ。ああ、びっくりした・・・・次は米原だから、もう寝ないようにしないとな・・・)

   短時間に吹き出てきた冷や汗をハンカチで拭いながら、高橋は深い安堵の溜め息を洩らした。

   そして、食べかけのサンドイッチやソーセージをわらわらと片づけると、網棚からスーツケースを下ろして

   空いている隣の座席に置いた。

   (結局、隣は乗ってこなかったなぁ。大阪あたりから乗ってくる客なのかな・・・・)

   高橋は、そうっと背伸びをして振り返り、車内の様子を眺めた。

   (ああ、だいぶ埋まってきたな。ちょっと前までは、指定席なんかがら空きだったのに、やっぱり

   少しずつでも景気が良くなって来てるんだ・・・・・それにしても、随分と長い景気停滞局面だったなぁ。)

   高橋は体を元に戻して席に座り直し、再び車窓に視線を移した。

   車窓は田園の広がる平野の風景から、いつのまにか遠くに山影が望める谷間の風景へと変わっており、

   高橋の見ている前で大きな切り通しを抜けると、山に囲まれた盆地が姿を現した。

   (・・・・ここは関ヶ原あたりかな? スピードもだいぶ落ちているみたいだし・・・・・

   もうすぐ伊吹山が見えてくるはずだ・・・・もう米原は目と鼻の先だな・・・・)

   何気なく覗いた腕時計は、午後0時10分を示していた。

   (・・・・もうマキコは、伊丹の空港に着いて、今ごろはタクシー乗り場かな・・・・)

   そんなとき、僅かな縦揺れが車体を動かし始めた。

   (・・・・やけに揺れるな・・・・風でも吹いてやがるのかな?・・・・)

   突き上げるような縦揺れはますます激しさを増し、列車は明らかに急激に速度を落とし始めた。

   その瞬間、今度はこれまでとは比べ物にならないような激しい横揺れが車体を襲った。

   車内のあちこちで悲鳴が上がり、立ち上がろうとしていた高橋も床に叩き付けられた。

   「うわあっ、こりゃ地震だっ!!」

   咄嗟に高橋はスーツケースを頭上にかざして、座席と前の席の背もたれの間の窪みに体をかがめた。

   あちこちで網棚から何かが通路に落下する音が間断なく聞こえ、同じように通路に叩き付けられた

   乗客が、どこか打ちどころが悪かったのか、低くうめいている声が聞こえてくる。

   (このあたりは、濃尾平野の末端部! とすると、明治の濃尾地震を起こした根尾谷断層が動いたかっ?

   新幹線に乗っているときに地震とは・・・・まあ、もともと新幹線は耐震性を十分に計算してあるし、

   そのうえ急傾斜地でスピードも十分に落としているから、下手に屋外にいるよりはるかに安全だよな。

   少なくとも、うち(交通省)の資料にはそう書いてあった・・・・・)

   そうこうするうちに、新幹線は完全に止まった。

   車内では、腕を捻挫したり、額から血を流している乗客もいたが、大怪我をした者もなく、ようやく乗客たちは

   平静さを取り戻し始めていた。

   一旦消えていた車内灯も、JR自慢の自家発電設備が順調に稼動し始めたらしく、再び点灯し始め、

   それはさらに乗客たちを安心させる上で、大きな助けとなっていた。

   高橋はスーツケースを頭上からどけると、辺りを慎重に見回しながら、ゆっくりと座席の間で立ちあがった。

   (やれやれ、とんだ目に遭ったなぁ。あれだけの地震だ、震源じゃかなりの被害が出たに違いないな。

   こりゃあ、出張どころじゃなくなるかもしれん! 災害援護法が適用されて、内閣に緊急災害対策本部が

   設置されるようだったら、すぐに東京にとんぼ帰りしないとな・・・・それとも、中部地方が震源地なら

   現地対策本部詰めに回されるかもしれないな・・・・・) 

   高橋は、車窓から屋根瓦がすっかり落ちてしまった民家を茫然と眺めていた。

   「お客様にご連絡いたします。只今、醒ヶ井観測所で激しい揺れを感知しましたので、この列車は岐阜県

   関ヶ原町付近で停車しております。なお、東京の運行司令室からの情報では、全国で激しい揺れが観測された

   ため、東海道・山陽新幹線をはじめ、東北・上越・北陸の各新幹線のほか、すべての在来線で列車の運行を

   停止しております。お客様におかれましては、今しばらくお席を離れることなく、その場でお待ち下さいますよう

   お願いします」

   車掌の落ち着いた声でのアナウンスを聞いて、乗客たちはひとまず席に座り始めたが、背広姿の若い

   乗客が携帯テレビのスイッチを入れ、民放アナウンサーの緊迫した声が車内に響くと、みな一斉に立ち上がって

   その乗客の周りに群がり始めた。

   「繰り返します! 只今、全国で地震らしい激しい揺れを観測しました。地質気象観測庁で詳しい震源などを

   調査中ですが、取り敢えず海岸に近い地域の方は津波の恐れがありますので、用心のため高台に避難して下さい。

   あっ、ただいま、全国の震度が入りました。えっ、殆どの地域が震度5か6? そんな馬鹿な・・・・

   もう一度、確認して・・・・えっ?・・・・・・」

   アナウンサーは、驚愕の声を発すると、慌ててマイクのスイッチを切った。

   静まり返ったテレビの画面では、アナウンサーや報道局員が明らかに驚愕した表情で会話を交わしている姿が

   映っている。

   「おい、駄目だ、チャンネル変えてみろよ!」

   しびれを切らした乗客の一人が、携帯テレビの持ち主の若手サラリーマンに話し掛けた。

   若い男は無言のまま肯くと、チャンネルを他の民放に合わせた。

   「只今の地震に関しては、北京、ロンドン、ワシントン、モスクワをはじめとする北半球の諸国から揺れを感知し、

   現地で少なからぬ被害が出ているとの報告が寄せられておりますが、シドニー、ブエノスアイレス、ナイロビ、

   ヨハネスブルグといった南半球諸国の支局とは、現在、連絡が途絶している状態です。各支局の報告を

   聞いている限りでは、地震の被害は緯度が下がる毎に、つまり南半球に近づく毎に拡大しているように

   思われますが、これは南半球で何かが発生したということを示しているのでしょうか?」

   (ここが震源じゃなかったんだ・・・・それにしても、モスクワから香港までの地域で揺れを感じるほどの

   地震ってのは・・・・・そんな地震は理論上発生しないんじゃないかな? 地球の地殻の一部が何らかの理由で

   壊滅的な打撃を受けない限りは・・・・・そんなことは到底考えられないし・・・・)

   高橋は腕組みをしながらテレビの画面を見つめていたが、そのうち、はっとした表情で顔を上げた。

   (マキコは? そうだ、携帯電話をっ!)

   慌てて自分の席に駆け戻ると、高橋はスーツケースを乱暴に開け、携帯電話を取り出し、震える指で

   ボタンを押し始めたが、緊張しているせいか、何度も押し間違ってしまっている。

   やっとつながった電話の受話器からは、「只今、電話回線が非常に混雑しております。もうしばらく経ってから

   おかけ直しください」というテープが流れるばかりだった。

   (しまった、網輻輳かっ!! こりゃぁ、電話は当分使えないな・・・・家族とも本省とも連絡がとれないと

   なると、かなりやばいぞ、これは・・・・)

   高橋をはじめとする乗客たちの焦燥をよそに、時間だけが刻々と流れて行った。

   

   結局、その3時間後、線路の被害状況を確認するため、新幹線は当面、運行できないことが伝えられ、高橋たちは

   岐阜県関ヶ原町の中央公民館に集まって夜を越すこととなった。

   地盤が固いこともあってか、この地域の民家の被害は比較的少なかったが、それでも公民館は

   自宅の倒壊を恐れる住民達でほとんど一杯になっていた。

   やがて夕闇が迫り始めたとき、高橋は何気なく公民館の窓越しに空を見上げて、絶句した。

   (さっきから、雲が全然、動いてないっ!! そういえば、風も殆ど吹いていないような気がする・・・・

   これは一体・・・・・)

   そんなとき、つけっ放しになっているテレビの前に陣取っていた人垣から、大きなどよめきが湧き上がった。

   高橋も、慌ててテレビの前に駆け寄ると、さかんに背伸びをして、人々の頭の間から垣間見れる

   テレビの画面を凝視した。

   「只今、地質気象観測庁から発表がありました。今回の地震は、少なくとも北半球全域で観測されており、

   その地震波形の広がりから推測すると、現在、連絡が途絶している南半球、とくに南極付近を震源とするものと

   予想されるとのことです。同時に、地質気象観測庁では、全国各地検潮所から海水面が急激に低下しているとの

   報告があることから、先程、全国の沿岸地域に対して、津波警報を発令しました。沿岸地域の住民の皆さんは、

   速やかに高台に避難して下さい。かつて南半球のチリで発生した津波が日本に押し寄せて大きな被害を出した

   こともありますので、遠くの地震だからと言って甘く見ないで、直ちに避難して下さい」

   高橋はテレビの前からそっと離れると、公民館から外に出て、天を仰いだ。

   (・・・さっきの地震の揺れから考えれると、おそらく南半球では、震度6から7には達しているだろうな。

   とすると、津波の規模は、下手すると数メートル以上の大津波になるな・・・これはえらいことだぞ!!

   一体、南極で何が起こったっていうんだ?!  大阪に着いているはずのマキコは無事なんだろうか?)

   背中に冷や汗が流れるのを感じながら、高橋は公民館の石段に腰掛けて、ようやく薄暗くなり始めた

   あたりを茫然と見つめていた。

   
   公民館への避難者に食料が配給されたのは、夜9時を回ってからだった。

   町役場の職員の説明では、全国で交通網が止まっているので、政府の救援活動も手薄になってしまっているらしい。

   乾パンと缶入りジュースを配られた高橋は、時々むせたり、胸焼けや喉の渇きに苦しみながら、

   あまり味のしない乾パンを食べ終えると、再びテレビの前に向かった。

   公民館の中は、多数の避難民のためにクーラーが効かなくなっており、蒸し暑くてたまらない。

   女性や老人の中には、既に気持ち悪くなって、横に伏せている人たちも出ている。

   しかし、テレビの報道で、日本は地震による被害は比較的少なく、現在、寸断されている交通網も

   明後日には回復するだろうと伝えられたこともあって、先ほどよりはかなり人々も落ち着いてきている。

   「まったく、えらいことになりましたなぁ」

   高橋は、突然、背後から声をかけられて、慌てて振り返った。

   「ああ、驚かしてすみません。私は、あの新幹線に乗ってた者です。お見掛けしたところ、あなたも

   あれに乗ってた思いまして・・・・」

   少し白髪の混じった初老の男はせわしなく扇子を動かしながら、人なつっこい笑顔で話しつづけた。

   「ええ。この先の米原で乗り換えて、福井に出張に行く予定だったんですけどね。まったく電話も

   つながらないし、まいりましたよ」

   高橋は少し緊張をゆるめると、困ったような笑顔を返した。

   「まったくそうですなぁ。私も大阪の本社に出張に行く途中やったんですけど、こんなことになって

   しもて・・・まあ、これが冬でないだけ、ましですわな。あの阪神の地震のときには冬だったから、
 
   えらいことでしたよ。その頃、私は、堺に住んでましてねぇ・・・今は単身赴任で東京の研究所に

   おるんですけどね」

   「そうかもしれませんね。しかし、一体、今回の地震やら津波は何が原因なんでしょうかね?

   なんかテレビでは、南半球は全滅のようなことを言ってますけど・・・」 

   「さっきテレビでは、米国の国務省が隕石が南極に落ちたらしいと発表した、と言うとりました。

   何でも、そのおかげで地軸の傾きが変わってしまったらしいですわ。これからは、日本はずーっと

   夏のままらしいですよ。まあ、台湾かフィリピンみたいな亜熱帯の気候になるんですかなぁ。

   わしは暑いのが苦手なんで、憂鬱ですわ」
   
   初老の男は少し顔を歪めると、床に視線を落とした。

   「隕石?! 南極に?! そりゃあ、えらいことになりますよ。地軸の変化もさることながら、

   衝突のショックで南極の氷が全部融けたら、水位は少なくとも20メートルは上昇してしまいますよ。

   日本の平野部なんか、かなりの部分が水没ですよ!!」

   高橋は、顔から血の気が引いて行くのを感じながら、声を震わせた。

   「20メートル?! それ、ほんまですか?」

   初老の男も、扇子を止めて、驚愕した顔で高橋を見つめている。

   「ええ。以前に炭酸ガスによる地球温暖化がさかんに議論されていたとき、そんな話を聞いたことがあるんです。

   これは、えらいことですよ!! 水没地域の住民の移転問題、交通インフラの新設、経済活動への打撃、

   そのうえ、地軸が動いたとなると、農業への影響も考えられますからね。今年の農作物は不作になるでしょうし、

   平野部の耕作地域が水没するとなると、これはさらに深刻なことになりますね。有史以来の惨状になりますよ、

   これは・・・下手すると、世界恐慌になりかねませんよ」

   高橋は無意識のうちに拳を固く握り締めていた。

   「日本は、食料の大半を輸入してますからな。それが止まったら大変なことになりますよ。一体、

   大丈夫なんですかね? 何年か前にコメが不作になっただけで、あれだけの大騒ぎになった言うのに・・・・」

   そのとき、テレビの画面が変わり、官房長官の記者会見が始まった。

   「・・・・本日午後0時9分、南極大陸に大質量隕石が光速、つまり光と同じ速さですね、この光速で

   落下しました。現在、各国政府では政府間で緊密な連絡をとるとともに、国際連合や 国際赤十字を通じて

   被害状況を確認しているところですが、南半球の多数の国の政府とは連絡がとれない状態に

   あります。気象衛星からの画像によると、南極を覆っていた氷がほぼすべて融解したと見られるほか、

   大陸自体も大きなクレーターとなっており、ほぼ水没している模様です。今回の隕石落下により、

   わが国では最大でも震度5程度の地震にとどまり、今のところ、被害はかなり限定されたものに

   なっていますが、およそ3時間後に沿岸各地に高さ数メートル以上の津波が押し寄せる見通しであるほか、

   今後、海水面の上昇により、標高の低い地域の冠水が予想されますので、国民の皆様におかれましては、

   引き続き指定された避難所に避難して下さい。なお、政府と致しましても、物資・食料の輸送に全力を挙げて

   おりますので、くれぐれもご安心なさって下さい」

   「日本ですらこれだけの被害が出ているんです。おそらく南半球では、地震と津波で政府機能が麻痺して

   いるんでしょう。惨澹たる被害になっていることは想像に難くないですね」

   高橋は腕組みをしながら、テレビの画面を凝視した。

   「取り敢えず、わたしらは、新幹線が復旧するまでここにおらんとならんのでしょうなぁ・・・・」

   初老の男は、観念した顔でぽつりと呟いた。

   「今は下手に動かない方がいいでしょう。交通機関が復旧するまで、じっと我慢ですよ。私も、出張を

   取りやめて、すぐにでも東京に戻らなきゃいけないんだと思いますが、とにかく岐阜か名古屋に出ないことには

   東京に戻ることすら叶わないですからね。たぶん、東海道経由は津波の影響で通れないと思いますから、

   中央本線経由で戻ることになるでしょうけど・・・・」

   高橋は、テレビの前からゆっくりと離れると、壁際の床に腰をおろした。

   「私は、電車が動くようになったら、自宅が心配なんで、とりあえず堺に戻ってみますわ。

   こんなえらい騒ぎで、家族がひどい目に遭うてるかもしれんときに、会社に義理立てしても何の得にも

   ならしまへんからな・・・会社が家族の面倒まで見てくれるとは思えませんから・・・・あ、なんや

   ばたばたしてるうちに名乗り遅れてしまいましたな。私、こういうもんです。ここで知り合うたのも

   何かの縁ですによって、以後、よろしゅうお見知りおきを・・・・」

   高橋は初老の男の差し出した名刺を受け取ると、じっと眺めた。

   (・・・・鈴原ケンジロウ、か・・・・ああ、あの千歳重工に勤めてるのか・・・・)

  「こちらこそ、よろしくお願いします。私は交通省の交通政策局で係長を勤めてます高橋と申します」

   (・・・・こんなときでも名刺交換をしてしまうサラリーマンって、一体・・・・)

   高橋は心の中で苦笑しながらも、名刺を鈴原に差し出した。

   「はあ、交通省ですか。それじゃ、こんな大災害で交通網が寸断されたら、えらい忙しゅうなってまいますな」

   鈴原は気の毒そうな顔で、高橋を見つめた。

   「仕方ありませんね。天災相手に文句言うこともできませんからね。まあ、これも何かの巡り合わせって

   奴ですよ」

   高橋は悟り切ったような表情で答えると、鈴原に向かって苦笑してみせた。

   

   3時間後、再びテレビの前には黒山の人だかりができていた。

   テレビの画面には、白い波頭を押立てて湘南海岸に押し寄せる津波が映っている。

   先ほどから次々と太平洋沿岸には高さ5メートルから、ところによっては10メートルに達するような

   大津波が押し寄せており、そのたびにテレビの画面では、一撃で破砕されて波間に漂う木造家屋の姿や

   横転してビルに引っかかったトラックが映し出されている。

   津波が押し寄せるまで、かなりの時間的余裕があったため、住民は高台に避難しており、人的損害は

   極めて少ない様子だった。

   津波はその数時間前に、既にシンガポール、マニラ、香港、台湾などを襲っており、これらの都市は海に向かって

   開けた入り江に面していたため、市街地の中心部深くまで津波が侵入し、甚大な被害を受けていた。

   (・・・・急速な経済発展を遂げたアジアも、これでおしまいか・・・・やっと97年の通貨危機の

   影響から立ち直りかけていたって言うのに、天も無慈悲なことをするものだ・・・・)

   高橋はこうした惨状を冷静に眺めていたが、ヘリコプターのテレビカメラが冠水した江東区や葛飾区を映し始めると、

   さすがに見るに堪えられなくなり、そっと俯いて、人知れず目頭を拭った。

   (・・・・たぶん、このまま水は引かなくなり、それどころか水嵩が増して行くんだろうな・・・・

   これが下町の見納めかもな・・・・たった半日前までは、何事もなく、それぞれ不平不満は抱えつつも、

   みんなそれぞれ平和に暮らしていたってのに・・・・もはや、あのような日々は再び戻ってこないんじゃない

   だろうか・・・・)

   
   
   翌日、新幹線はまだ止まったままだったが、東海道本線は大垣・京都間で運行を再開した。

   高橋は鈴原と別れて、垂井駅から東海道線に乗り、岐阜羽島まで出て、そこから既に内陸部での運転を再開していた

   名古屋鉄道に乗り換え、ようやく岐阜や瀬戸を経由して中央西線に辿り着いた。

   名古屋駅が依然として冠水しているため、こんなに遠回りを余儀なくされたのであるが、名鉄もダイヤが

   かなり乱れているため、結局、高橋が中央西線の電車に乗ったときには、夜も10時を過ぎていた。

   結局、そのまま電車の中で一夜を過ごし、翌朝、高橋が目覚めたとき、列車はまだ岐阜県内を速度を落として

   走っていた。

   その日の昼過ぎ、列車が松本駅に到着したとき、山梨県北部で隕石落下の影響と思われる小規模な直下型地震が

   発生し、再び列車の運行は打ち切られてしまった。

   松本付近では地震の揺れは震度4程度であったが、震源地の塩山付近では震度5を記録し、土砂崩れによって

   中央東線の線路が埋まっていたためである。

   やむなく、高橋は松本市内の旅館に泊ることにして、2日ぶりにやっときちんと敷かれた布団に

   入ることができた。

   (・・・・やれやれ、この調子じゃ、いつになったら東京まで帰り着けるかわからんなぁ・・・・

   ま、さっき、やっと電話が通じて、本省の方にも了承をとってあるから、無断欠勤でクビになる可能性は

   なくなったからいいようなものの・・・・・それにしても、マキコと連絡が取れないのは気にかかる・・・・

   たぶん、京都の実家には着いていると思うんだが・・・・後でもう一度、京都に連絡を入れてみるか・・・・)

   高橋は、布団に寝転がって、少し痛み始めた背中をさすると、足を伸ばして、テレビのスイッチを

   足の指で押した。

   「・・・・ニュースを繰り返します。先程、インドとパキスタンがカシミールの軍事停戦ラインを越えて

   交戦状態に入りました。両国は、隕石衝突によって主要国が混乱に陥り、介入する余裕がなくなったのを

   みて、かねてから領有権を主張していたカシミール地方に侵攻したものと思われます。現在、南アジア地域は

   隕石落下の影響と思われる集中豪雨に見舞われており、洪水からの避難民と交戦地域からの避難民が

   入り乱れて、混乱が拡大しています。また、先程、インド国営放送は、中国政府に対して軍事的挑発を

   止めるように繰り返し警告しており、場合によっては戦火が印中国境に拡大する懸念も出てきました。

   さらに、有史以来の寒波に見舞われている中東では、シリアがゴラン高原のイスラエル占領地区に向けて

   部隊を終結されているのが、米国の衛星によって確認されているほか、イランでは保守派によるクーデターが

   成功した模様です。イランの新指導部は、1時間ほど前に国営通信社を通じて声明を出し、その中で

   シャットルアラブ川付近の領有権を放棄する考えがないことを明言しました。これに対して、イラク政府は

   強い反発を示しており、両国は80年代のイラン・イラク戦争以後、最大の緊張局面に入りました。

   それでは、次のニュースです。隕石落下の影響で地震と津波に襲われた南半球諸国では、ようやく

   被災者の救助作業が始まりました。しかし、首都機能が激甚地震を想定して作られていなかったため、

   政府機関の被害が大きく、救助作業にも大きな遅れが続いています。これに対して、国際赤十字は・・・」

   高橋は、むっくりと起き上がると、テレビを見つめていたが、やがて大きな溜め息をつくと、

   テレビのスイッチを消した。

   (・・・この緊急時に何やってんだか・・・戦争なんかやってる場合じゃないだろうが・・・・

   気象激変による農産物の不作と食糧危機が迫ってるっていうのに・・・わが国にしても、早めに手を打たないと

   海外からの食糧輸入が途絶えてしまうぞ・・・・余りまくってるコメだけ食ってればいいっていう

   もんじゃないし・・・・既に大豆や小麦だけじゃなく、ガソリンや石油製品も値上がりが始まってるみたいだし・・・

   下手すると、73年のオイルショックの再来になるぜ、こりゃあ・・・・)

   高橋は苦い顔をして立ち上がると、窓を開け、一昨日から少し暑さが増したように感じられる屋外の空気に

   顔を曝した。

   やがて高橋は窓から離れると、電灯のスイッチに手を伸ばしたが、その瞬間、久しぶりに鳴り出した

   携帯電話のベルに気づいて、何かに弾かれたかのように手を引っ込めた。

   「ああ、高橋君か? こっちに向かってもらってたんだけど、悪いんだが、そのまま富山県に向かってくれないか?

   向こうの鉄道や道路がかなりひどく冠水してるみたいなんだよ。県庁から何とか助けてくれって

   泣きつかれてるんだけど、こっちからじゃ、新潟県回りで長野県に入って、そこからさらに岐阜県に迂回して

   高山本線で山間部を横断しないと辿り着けんのだよ。そんなことしてたら、この鉄道事情だろ? 

   何日かかるかわかんないよ。そこでだ、君は幸か不幸か、長野にいるわけだから、早速、岐阜まで立ち戻って

   そこから富山に向かってくれよ。ほんと、悪いなぁ。でも、こっちも人手が足らなくて、どうにも身動きが

   とれんのだよ。とにかく、築地辺りは冠水し始めてて、大手町や丸の内あたりまで潮の香りが漂い

   始めてる有様なんだ。霞ヶ関も危ないんで、取り敢えず、府中あたりに避難する計画を立ててる最中でね。」

   電話の向こう側で、戸田課長補佐が一方的にまくしたてるのを、高橋は眉間に皺を刻んだ渋い顔で

   聞いていた。

   「ええ、こうなったのも何かの縁でしょうから、富山でも三途の川でもどこでも行きますけど・・・・

   都内はどうなってるんです? 下町は駄目みたいに報道されてますけど・・・・」

   「ああ、地下鉄も総武線も止まってるよ。ただね、日本は比較的被害が少なかったし、下手すると世界経済が

   崩壊しかねない事態だからね、役所だけでなく、企業もみんな社員が出勤して、捻じり鉢巻きで仕事してるよ。

   国会議員も地方に出てた人たちがようやく東京に戻って来て、善後策を協議してるよ。なにしろ、

   災害復旧と首都機能移転と通商ルート確保と安全保障政策を同時並行的にやらなきゃならなくなっちゃった

   からねぇ。もう、立ってるものは親でも使え、状態だよ。そんなわけで人手が足りないんで、それじゃっ」

   またまた一方的に喋ると、電話は唐突に切られてしまった。

   高橋は、耳から携帯電話を離すと、しかめっ面をして耳の穴を指で撫でた。

   (・・・地方への出張は、まだあんまり戦力にならない若手の係長クラスに行かせるってわけか・・・・

   やれやれ、いつまで経っても、まだ雑巾がけとはねぇ・・・ま、これも大事な仕事っすから、文句は

   申しますまい・・・・)

   高橋は、電灯のスイッチを消すと、ごろんと布団に横になった。

   

   翌日、高橋は、再び中央西線を名古屋方面に向かって戻り始めた。

   相変わらずダイヤが乱れているため、普段の数倍の時間がかかる旅であるため、

   高橋は座席に座りっぱなしで腰がかなり痛くなり始めていた。

   ちょうど昼過ぎ、高橋が窓枠に頬杖をついて、一見、いつもと変わらないような風景をぼんやりと眺めていた

   とき、再び携帯電話が鳴り始めた。

   (なんだよ、また本省からの指示かよ・・・・今度は北京にでも行けって言い出すんじゃないだろうな?)

   高橋は露骨に面倒くさそうな表情をすると、携帯電話を耳に当てた。

   「あっ、もしもし、やっと通じたわっ!! 今ね、京都の実家にいるのよ。何度も電話かけたんだけど、

   全然つながらなくて・・・・取り敢えず、こっちはみんな元気よ。そっちはどう?」

   高橋は、一瞬、目を大きく見開いて絶句したが、やがて、久しぶりに優しげな眼差しになると、

   僅かに微笑んだ。

   「ああ、おかげさんで怪我一つなく、ピンピンしてらぁ。ちょうど新幹線で関ケ原に差し掛かったときに

   隕石が落ちやがって、電車が止まっちまってね。それから、あっちこっち泊まり歩いたり、電車を

   乗り継いだりして、ようやく松本まで戻ってきたら、今度は本省から、富山に出張に行けって言われちゃったよ。

   まったく人使いが荒いねぇ。俺が雑巾だったら、とっくの昔に擦り切れちまってるところだよ、やれやれ」

   高橋はぶっきらぼうな口調で、しかし目は嬉しさを隠せずに電話に向かって話しつづけた。

   「とにかく、無事で良かったわ・・・・生きてさえいれば、いつかは生きてて良かったって思える日が来るもの。

   ニュースで、東京、大変なことになってるって言ってたけど、京都は全然、被害がないのよ。

   一応、いろんなものも買い溜めしてるから、もし、東京にいらなくなったら、こっちに疎開してきたら? ね?

   高円寺のお義父さんたちにも電話が通じたから、そう言っておいたのよ。お義父さんたちも、いよいよ

   水が上がってきたら、こっちに疎開してくるって言ってたよ」

   高橋はマキコの少し甘えた声に苦笑した。

   「役所は府中に引っ越すらしいからな。ま、しばらくの間は東京勤務になるなあ。あ、そうそう、君は

   事態が落ち着くまで、そっちにいるといいよ。なにかと物騒だからな。まあ、無事が確認できて良かったよ。

   こっちも何回も電話かけたけど、つながんなくて心配してたからさ。そうか、おやじ達も無事だったか・・・・

   あんな口やかましい頑固じじいでも、息災だと聞くと安心するねぇ。親子ってのは、因果なものだよ、ほんと・・・

   あ、それじゃ、電車の中だから、そろそろ切るぜ、じゃ」

   「うん、わかった。とにかく、無理だけはしないでね。それじゃ」

   高橋は電話を耳から離すと、いつになく穏やかな表情で、窓から吹き込んでくる風を、胸一杯に吸い込んだ。

   

   2日後の正午ごろ、高橋は高山本線の越中八尾駅に程近い辺りで、車内の座席にだらしなく腰掛けて

   富山県庁の担当者から電子メールで送られてきた大量の書類を、ノートパソコンの画面に映し出して

   眺めていた。さすがに目的地が近くなってくると、役人としての習性か、相対する仕事が難しければ

   難しいほど、やる気が出てくる高橋だった。   

   (・・・うーん、北陸新幹線の路線予定地のうち買収済みの土地が、かなり水没するというわけか・・・

   これはだいぶ、予定ルートを内陸部に書き換えないとなぁ・・・まったく予算がいくらあっても足りねえぜ、

   こりゃあ・・・まあ、東北・上越・北陸新幹線も中央リニアも、内陸部のルートが多かったのが幸いしたな・・・

   東海道・山陽新幹線は復旧には相当時間がかかりそうだなぁ・・・とくに浜名湖を大きく迂回するルートに

   変えるなけりゃならないだろうからな・・・おっと、それよりも、富山県の方を先になんとかしなくちゃな・・・)

   突然、列車が明らかに急ブレーキをかけて減速し始めた。

   (・・・なんだよ、また事故かい? おいおい、冗談じゃねえぜ・・・)

   高橋は、うんざりした顔のまま、ノートパソコンの画面を再び眺めようとした。

   「お客様に申し上げます。只今、国防省から防空警報が発令されましたので、電車の運転をここで打ち切ります。

   至急、列車から下車されて、乗務員の指示に従って、次の越中八尾駅まで徒歩で避難して下さい」

   乗務員の明らかに焦った口調のアナウンスを聞いて、高橋は慌てて立ち上がった。

   その拍子に膝の上のノートパソコンが列車の床にずり落ちて、派手な音を立てた。

   (防空警報、だって? なんだそりゃあ? もしかして、わが国に外国の攻撃? そんな馬鹿な!!

   この国は非武装中立じゃないか!! 確かに米軍基地はあるけど、今、米軍に刃向かうような国はないはず・・・)

   床に落ちたパソコンを拾い上げて、カバンにしまうと、高橋は全力で走って列車の乗降口から、線路脇に

   飛び降りた。

   線路脇には、同じように蒼白な顔をした乗客たちと乗務員が茫然と立ちすくんでいた。

   「防空警報って、一体なんなんです? 何が起こったんですか?!」

   高橋は、天を仰いで立ちすくんでいる車掌とおぼしき乗務員を捕まえると、顔を紅潮させて大声で尋ねた。

   「たった今、岐阜の仮本社から連絡が入ったんです・・・・東京に・・・・東京に・・・・」

   「東京がどうしたんですかっ!? 何かあったんですかっ?!」

   思わず眉を吊り上げてにじり寄ってくる高橋に向かって、「男鹿」というネームプレートをつけた車掌は

   絞り出すような声で告げた。

   「新型爆弾が・・・・落とされたそうです・・・・・直前に警報は出されたらしいんですが・・・・」

   「それでっ、被害はっ!? 都民や政府や国会は無事なんですかっ?!」

   高橋はつかみかからんばかりの勢いで車掌に迫った。

   「・・・・東京とは全く連絡がとれないそうです・・・・突然の攻撃だったから・・・・もしかして

   お客さん、東京の方ですか?・・・・なんと申し上げてよいのやら・・・・お気持ち、お察しします・・・・」

   純朴そうな車掌は、心から気の毒そうな目で高橋を眺めると、制帽を脱いで、深々と一礼した。

   そんな姿を見て、高橋は目の前がさあっと暗くなるのを感じて、よろよろとしゃがみこんだ。

   (そんな・・・・・そんな・・・・これから、おやじやおふくろに楽をさせてやろうと思ってたのに・・・・

   旅行とかいろいろと行かせてやろうと思ったのに・・・・兄貴んとこのイズミちゃんは、来年、小学校に

   上がるはずだったんだぞ!!・・・・こんなことってあるかよ! ばかやろう! ばかやろう! あああ・・・・)

   






   高橋は、微かに声を洩らして泣いている自分に気がついた。

   (・・・・なんだよ、また、あんときの夢かよ・・・・あれから15年も経つってのに・・・・・

   馬鹿だな、俺・・・・死んじまった人のことをいつまでも・・・・幾ら想っても還って来るわけもないのにな・・・・

   ほんとに、俺は・・・・馬鹿だよ・・・・こんな想いするんなら、生きてるうちに、優しくしとくんだった・・・・)

   高橋は唇を強く噛み締めて、真っ赤になった目を手の甲で乱暴に拭った。

   それでも吹きこぼれてくる涙を、奥歯を噛み締めながら、何度も手の甲で拭った。

   ようやく涙が止まり、少しだけ落ち着い高橋は、まだ顔を紅潮させたまま、ふと視線を上げた。

   いつのまにか、バスの中ほどの座席には背広姿の白髪の男性が座っており、高橋をじっと見つめていた。

   高橋がバツが悪そうに俯いてしまうと、その乗客は、しばらく黙って、その姿を眺めていたが、

   やがて意を決したかのように口を開いた。

   「・・・・もしかして・・・・あの時のことを思い出されたんですか?・・・・・」

   高橋ははっとして、顔を上げ、少し躊躇してから、黙って肯いた。

   「・・・・そうですか・・・・・私も、今だによく夢に見ます・・・・・夜中に飛び起きることもあります・・・・

   ・・・・・東京の大学に行っていた一人娘を亡くしましてねぇ・・・・・生き残ってしまった我が身を

   呪わしく思ったこともよくありますよ・・・・・でもね・・・・・それじゃ、いけないんだ・・・・・

   ・・・・・死んで行った人たちの分まで、私らが一生懸命、一生懸命、生きて、次の世代に、明るい未来を

   渡してやらなきゃいかんのですよ・・・・・それがあの地獄を生き残ってしまった者の務めなんじゃ

   ないでしょうか・・・・・私もあんまりえらそうなこと言えたもんじゃありませんけどね・・・・・」

   その年老いた乗客は、自分にも言い聞かせるように、淡々と、しかし瞳を伏せたままで語った。

   そして、ポケットからハンカチを取り出すと、そっと目頭を拭った。

   再び、老人が顔を上げたとき、高橋は黙って、しかし、大きく肯いてみせた。

   老人は、少しだけ微笑むと、すぐにまた目を瞬かせると、元のように席に座り直してしまった。

   再び、車内は沈黙に包まれた。

   高橋は、ふと、誰かの視線を感じて、斜め前に視線を移した。

   蒼い髪に紅い瞳の少女が、自分をじっと見つめていた。

   (・・・・あの子、確か・・・・そうだ、リエと同じクラスの綾波さんだ・・・・そしてエヴァのパイロット・・・

   ・・・・・なんか、みっともないとこ、見られちゃったな・・・・・)

   高橋は面映ゆいような気持ちで、ゆっくりと視線を外すと、窓の外に広がる漆黒の闇に目を向けた。

     

     つづく
   
   

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