或いはひとつの可能性



第39話・不合理な、ヒト





  レイの、ぎこちない、それでも漸く見せた微笑みは、NERV本部で彼女を見続けてきた人々を

  驚愕させるには十分だった。 

  (・・・・・この子、笑ったわ・・・・・笑えるんだ・・・・)

  ミサトは、予期していなかった事象の出現に、あっけにとられながら、レイを見つめた。

  レイは、自分がよくよく考えて微笑んだのに、それがあたりの人々を硬直させているのに気づくと、

  さすがに少し驚いたように目を見張り、そして再び表情を消して俯いてしまった。

  (・・・・・私、笑うと、変なのね・・・・・私、ヒトじゃないから・・・・・)    

  レイの表情の変化にいち早く気づいたミサトは、少しだけ楽しそうに微笑んだ。

  (あらあら、みんながびっくりしちゃってるんで、当人もどうしていいのか、わからないのね・・・・

  それじゃあ、ここはお姉さんの出番といきますか!! うふ、ミサト、行くわよ!!)

  「あーら、レイ、いつからそんなに可愛い顔、できるようになったの? これじゃ、これから、ますます

  レイのファンが増えちゃうわねぇ。そーだわっ、レイの写真集でも出版したら、NERVの新たな収入源に

  なるんじゃないかしら? 最近、派手に戦闘やってるから、いろいろと物入りなのよねぇ」

  「・・・・・私の写真集?・・・・・」

  耳慣れない言葉に、レイは思わず顔を上げるとミサトを不思議そうにじっと見つめた。

  「そーよ、レイの写真集!! 日向君なんて真っ先に買うんじゃないの?」

  いきなり話を振られたマコトは、自分を指差しながら、あたりをきょときょとと見回している。

  「えっ、お、俺っすか?! い、いや、俺よりもシゲルの方が・・・・」

  「おいおい、俺に振るなよ!! そういえば、プラグスーツ姿のレイを見るマコッちゃんの視線、

  なんか熱いものを感じるよなぁ・・・・時々、顔赤らめたりしてるし・・・・」

  「でしょ、でしょ!? なーんか、シンジ君を見るときとは、目の色が違うのよねぇ」

  ニヤリと怪しげな笑いを浮かべながら、顔を見合わせるシゲルとミサト。

  「青葉さんて・・・・・そうだったんですか?・・・・・怖い・・・・・」

  口元を押さえながら、気味の悪いものを見るような目つきでマコトを眺めるマヤ。

  「葛城さーん、マヤちゃんが本気にしちゃってるじゃないすか!! あ、これはじょーだんだからぁっ!!」

  マコトは、「くっくっく」と忍び笑いを洩らしているミサトをひと睨みすると、慌ててマヤに弁明している。

  (・・・・この子の微笑み・・・・私ですら、今まで見たことなかったのに・・・・・ま、そうかもね。

  私、この子に笑ってもらえるようなこと、したことないもの。・・・・それとも、この子の中で、

  何かが変わったというの? これは何かの始まり、なのかしら・・・・・)

  笑いさざめく一同の中で、リツコはただひとり少しだけ思案顔でテーブルの上を見つめていた。

  「ほらっ、アンタもそんな辛気臭い顔してないで、どんどん飲みなさいよぉ!! また目尻になんかが

  増えるわよっ!!」      

  ミサトがリツコの目の前にドンと置いた銀色の物体「生樽・TOKYO−3旅情」の注ぎ口からは、

  ビールの白い泡が盛んにふつふつと湧き上がっている。

  「皺よりも、ビール腹の方が殿方の目につきやすいわよ。醜悪、ね」

  「ぐえっ、ごほごぼっ!! あんた、なんてこと言うのよ!! アタシだって最近は少しはセーブして

  飲むようにしてるんだから!! まったく失礼ね!!」

  リツコの思わぬ反撃を受けて、ミサトはビールにむせて咳込むと、リツコを睨み付けた。

  「あら、誰もあなたのことだなんて言ってないわよ。それとも、何か自覚してることでもあるのかしら?」

  「ぬううう、この借りはどっかで返してもらうわよっ!! 利子つけてねっ!! 覚えてらっしゃい!!」

  リツコに痛いところを衝かれて反論できないミサトは、悔しそうに捨て台詞を吐くと、コップのビールを

  ぐいっと飲み干した。

  「ふふ、ぐうの音もでないというところね、葛城一尉」

  「・・・・・ぐう・・・・・」

  「なによ、それ? そのままじゃないの! もうちょっとひねりが欲しいところね。

  それじゃ、座布団はあげられないわよ!!」

  ミサトの苦し紛れの対応にリツコは苦笑しながら、泡が消え始めたコップに手を伸ばした。

  「先輩、それ、笑天ですね? 私も子供の頃、よく見てました!! あれに出ていた人たちって、最近、

  どうしてるんでしょうね? 全然、みかけませんね」

  リツコの隣でマヤが懐かしそうな声を出している。

  「ああ、落語家ね? 旧東京の落語家はセカンドインパクトで一掃されてしまって、今の落語界は
  
  上方落語中心になってしまっているのよ。それに、第3新東京市には寄席もないから」

  リツコは遠い目をして少々、残念そうに溜め息をついた。

  「寄席じゃないですけど、俺の知ってるライブハウス、時々、落語家が来て独演会やってますよ。

  そこらへんのバンドのライブなんかよりも客の入りが良くって、ちょっと複雑な心境っすよ!!  」

  シゲルが話しに加わり、リビングルームでは一気に会話が盛り上がる。

  ようやくリラックスし始めていたレイは、アイス・ティーのコップをテーブルの上に置くと、

  ぽつりと呟いた。
  
  「・・・・・寄席・・・・・落語・・・・・・江戸庶民文化の名残りを残す古典芸能・・・・・」

  その言葉を、既にかなり出来上がっている状態のミサトが聞き逃す筈もなかった。

  「あら、レイ、よく知ってるじゃないの!! もしかして、興味あるの?」

  「・・・・・本に書いてあったかから・・・・・実物は、見たこと、ないです・・・・・」

  少し目の据わりかけたミサトに顔を近づけられて、咄嗟にレイは身を引こうとしたが、

  さすがに身のこなしが速いミサトは、造作もなくレイの華奢な肩を引き寄せた。

  「そうかあ、レイは見たことないのよね。よっしゃ、わかった!! お姉さんにまっかせなさいっ!!」

  にまっと笑って、どんと胸を叩くミサトを、レイは不思議な気持ちで見つめていた。

  (・・・・・お姉さん・・・・・無条件に頼れる肉親・・・・・私にはありえない存在・・・・・

  ・・・・・・どんな感じなのか、わからない・・・・・でも・・・・・)

  「あなた、またレイに絡んでいるのね。困った人ね。まだシンジ君も来ていないのに、もう

  すっかりトラになってしまって・・・・・」

  見かねたリツコがテーブルの反対側の席から立ち上がろうとした時、再びチャイムが鳴った。

  「そろそろ、シンジ君が帰って来たのかしら? まだ料理、全部出来上がっていないのに・・・

  困ったわね。なんか理由付けて追い返そうかしら?」  

  ミサトは「やれやれ・・・」といった表情で立ち上がると、インターフォンを取り上げ、ドア・モニターを

  見た。

  「あ、いっけない!! すっかり忘れてた・・・・・あ、初瀬君、上がって!! いま、ドア・ロックを

  解除したから・・・・」

  頭を掻きながら、その場に立っているミサトを、NERV職員たちは茫然と見上げていた。

  やがて、リビングルームに背の高い、色黒の温厚そうな青年がおそるおそる入ってきた。

  青年は、自分のすぐ近くにミサトが立っているのに気づくと、居ずまいを正して、さっと敬礼する。

  「初めてお目にかかります、葛城一尉殿っ!! わたくしはっ、戦略自衛隊第1師団第1戦車大隊の初瀬カツノリ

  一等陸士であります!! 」

  「あははっ、そーんな緊張しなくてもいいのに。お互い、勤務時間外なんだから、階級をつけて呼ぶのは

  なしにしましょう。えっと、この方はね、そこで料理作ってるユリコちゃんのお兄さんなの。

  なんでも、今日は非番で、第3新東京市に来ているって言うから、あたしが特別にご招待したってわけ」

  ミサトは、カツノリとNERV職員たちの顔を交互に見回した。

  「戦自は対使徒防衛戦では、第3新東京市地区以外の防衛を分担しているから、言わば私たちの友軍よね。

  別にこの場にお呼びしても問題はないわよね。それに、今日は非番なんだし・・・・」

  やや複雑な顔をしているリツコの顔を真っ直ぐ見つめながら、ミサトは少しだけ強い口調で念を押した。

  (・・・・・第1戦車大隊・・・・・御殿場の駒門に駐屯している部隊ね・・・・・使徒に通常兵器は

   効かないのに、それでも存在意義を自己主張するように、無駄な攻撃をしかけている戦自・・・・・

  使徒の足止めすらできたことはないのに・・・・・本音では、私たちのこと、どう思っているのかしら?)

  さすがに表立った反論はしないものの、リツコは視線をミサトからテーブルの上に外しながら、

  無表情な顔のまま黙ってグラスの中のビールを飲んだ。それがミサトへの暗黙の回答であるかのように。

  「あ、お兄ちゃん!! やっぱり来たんだ!! みなさんのお楽しみのところ、うちの出来損ないの兄が

  お邪魔しちゃって、ほんとにすみません!! 良かったね、お兄ちゃん。憧れのミサトさんに会えて!!」

  キッチンから顔を出したユリコがおどけて兄を紹介すると、少しだけリビングルームの緊張は和らいだ。

  「えっ、あ、あたし?! やん、困っちゃうわん! そんなにあたしって、有名なのかしらん?」

  自分の名前を出されて、ミサトはまんざらでもない様子である。

  「はいっ、戦自では、NERVの美人指揮官として、ファンが多いんです!! お目にかかれて、

  本当に光栄ですっ!! 部隊に戻ったら、みんなに自慢しちゃいますよ!!」

  ミサトに至近距離から見つめられて、カツノリは頬を紅潮させ、そして、自分のすぐ近くに座っている

  澄んだ紅い瞳の少女を一瞥した。

  (いたよ!! 綾波さんだよ!! ついにこういうチャンスが来たんだぁ!! 神様ぁ、今まで生かしてくれて

  ありがとうっっ!!)

  心の中で感涙にむせぶカツノリに向かって、ミサトはレイの向かい側を指差した。

  「そーねえ、ちょーどレイの正面、つまり日向君の隣が空いてるから、そこにでも座ってね!」

  「それでは、お言葉に甘えさせていただきまして・・・・」  

  ミサトに一礼すると、カツノリはおずおずとした足取りでマコトの隣に歩を進めた。

  カツノリと視線が合ったマコトが同僚たちを紹介してい 

  「あ、はじめまして。私は、NERV作戦部の日向二尉です。えっと、向こうにいる長髪の奴が

  作戦部の青葉、そのショートカットの女性が技術局の伊吹。いずれも私と同じく二尉です。

  あっ、今、こっちをじろっと見たのが、技術局の赤木博士。ちょっと、怖い人なんで、

  あんまり盾付かないほうが・・・・」

  「あら、怖い人とは、的確なご紹介、感謝するわね。ところで、日向君、今、実験の被験者が足りなくて

  困っているんだけど、やってみない? 公認のいいバイトになるわよ。命は保障できないけどね」

  「い、いえ、せっかくのお誘いですが、ご、ご辞退させていただきます」

  リツコの意味ありげなウインクに、日向は明らかに怯えた表情で首を振った。

  「ま、今日は、いろいろな人が集まっているけど、せっかくの機会だから、楽しくやりましょ!!」

  ミサトの声に一同は、再び近くに座っている者同志で思い思いに話し始めた。

  「・・・・市議会、戦自、NERV・・・・まさに呉越同舟、というところね・・・・」

  そんな一同の姿を眺めながら、リツコは誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。

  

  「ミサトさんたち、盛り上がってるね。良かったわ、碇君が戻ってくるまでの間、座が白けなくって・・・・」

  リエは、再び賑やかさを取り戻したリビングルームを眺めながら、リョウコに話し掛けた。

  「うん。そろそろ料理もできあがるし、相田君に電話入れておいた方がいいよね?」

  リョウコは水道の蛇口を捻って手を洗い、エプロンで軽く拭うと、キッチンの隅に置いたバッグから

  携帯電話を取り出した。

  「あ、もしもし、明石ですけど、相田君? こっちは準備オッケーよ。そろそろ碇君を連れてきて」

  「あ、明石か? うん、わかった!! じゃ、今やりかけのゲームが終わったら、シンジをそっちに

  連れて行くよ」

  携帯談話からは、少しだけ当惑を含んだようなケンスケの声が聞こえてきたが、リョウコはそんなことには

  全く気づかなかった。

  「それじゃ、よろしくね!!」

  用件だけ簡単に伝えると、リョウコは電話を切って、再び料理の盛り付けに専念し始めた。     

  一方、新駒沢駅前のゲームセンターでは、通話が終了し、微かに「ツーツー」という音の洩れている

  携帯電話を、やるせなく、ただじっと見つめつづけているケンスケがいた。

  少し離れた対戦型レーシングゲーム機の画面では、二位に大きく差を付けて独走態勢に入った

  トウジの黒いレーシングカーと、さっきから側壁に衝突ばかりしているシンジの紫色のレーシングカーが

  映し出されている。





  15分後、新駒沢のマンション「コンフォート17」の廊下を歩く3人の少年の姿があった。

  「なんや、シンジ。しけた面して、どないしたんや!?」

  「いや、あんなにぼろぼろに負けると、やっぱりちょっと、ね・・・・」

  「さっきのゲームか? ま、気にすんなや。そのうち、場数を重ねれば、誰でもうまくなるによってな」

  言葉少なに視線を落として歩くシンジを、ちょっと心配そうな顔でトウジが慰めている。

  「そうさ。何事も慣れ、だね。それにシンジは、エヴァの操縦できるじゃないか?

  あれは、とても僕たちにはできないことだからね。こんなゲームくらいで、落ち込むなよ。

  シンジは、そうやってすぐにまじめに考えすぎるのが、いけないんだよな。世の中、もうちょっと

  気楽に生きないと、胃潰瘍になっちゃうぜ」

  ケンスケは、頭の後ろで両手を軽く組みながら、シンジに向かって笑いかけている。

  「それって・・・・・その、胃に穴が空くってこと? よく副司令が難しそうな顔でそう言って、

  胃のあたりを押さえてたりするけど・・・」

  「そのとおり!! ストレスは人間生活とは切っても切れない関係にあるれど、

  それを上手にコントロールできるかどうかは、その人次第ってものさ。ま、トウジみたいに

  ストレスとは無縁の存在もいないことはないけどな」

  「なんやと?! それやと、わしが極楽トンボみたいに聞こえるやないかい?」
  
  「ほほう。あっ、あんなところに封を切られていないパンが!!」

  「えっ、どこや、どこや!? って、わしは飢えた野良犬かい?!」

  ケンスケとトウジの他愛ない会話を聞き流しながら、シンジは今一つ気分が浮かなかった。

  (・・・・はは・・・・今日は僕の誕生日だってのに、誰も気がついてないや・・・・・そうだよね。

  今までもそうだったし、ここにきても、エヴァのパイロットとしての僕は人気があるけど、

  そういう仕事を離れた僕は、第2新東京市にいた頃と何も変わっていないような気がするし・・・・)

  いつの間にか、三人はミサトの部屋の前に辿り着いていた。

  いつものようにシンジがインターフォンを押す。

  「シンジです。今、帰りました」

  「あ、シンちゃんなの? 今、ドアロック外したから、上がってきて」

  いつものようにミサトののん気な声が、インターフォンから聞こえてくる。

  シンジは小さな溜め息を洩らすと、ドアノブを回して、ドアを開けた。

  「それじゃ、上がってよ」

  シンジは、トウジとケンスケに声をかけると、一足先に玄関に上がり、二人が靴を脱ぎ終えるのを待って

  リビングルームに通じる廊下を歩き出した。

  「ミサトさーん、そろそろ夕食の支度、始めましょうか?」

  そう言いながら、リビングルームのドアを開けたシンジは絶句した。

  リビングルームは、電気が消えていて真っ暗だった。ご丁寧にカーテンまで引いてあって、何も見えない。

  ただ、その闇の中に潜んでいる者たちの息吹きだけが、そこはかとなく感じられる。

  (・・・・なんなんだよ、これは!!・・・・・ミサトさんはどこなんだ!!)  

  シンジが闇の手前で身構えて様子を窺っていると、いきなり後ろからトウジに闇の中に押し込まれて、

  扉を閉められた。

  「なにするんだよ!! これは一体、なんのつもりなんだ!!」

  狼狽して大声を上げるシンジの目の前が突然、閃光を焚いたように明るくなった。

  「これは!! ミサトさん・・・・あれ、高橋? それにリツコさんたちまで・・・・

  みんな揃って、なんかあったんですか? 」

  シンジは、たくさんの知合いがずらっと席に着いているのを見て、目を見開いた。

  「シンジ君の席は、そこよ」

  リツコが指差したのは、真ん中の席で、レイの隣だった。

  「驚いたぁ!? ふふっ、誕生日、おめでとう!! 碇シンジ君!!」

  ミサトに優しく微笑みかけられて、シンジは漸く事態を把握した。

  「えっ、僕の誕生日のためなんですか?! こ、こんなの初めてです!! 

  ありがとうございます、ミサトさんっ!!」

  「あーら、今日のお祝いは、シンちゃんのクラスメートのみんなの発案なのよ。

  良かったわね、シンジ君。友達にお祝いを企画してもらえて。ちょっち羨ましいわよ。

  アタシやリツコたちは、その便乗でお相伴にあずかるってわけ! ああ、これで今日は正々堂々と

  お酒が飲めるわぁ!!」

  ミサトの声を聞いて、シンジはクラスメートたちの顔を見回した。

  (高橋、初瀬、明石、委員長、トウジ、ケンスケ・・・・そして綾波・・・・僕は、誕生日を

  こんなに盛大に祝ってもらったのは初めてだ・・・・・いろいろ辛いこともあったけど、

  僕はここに来てよかったのかもしれない・・・・・)   

  シンジの中で、幼い頃の悲しい思い出と今の嬉しさが激しくオーバーラップして、

  何かがむくむくと胸にこみ上げてくる。

  シンジが目を閉じて唇を噛み締めて何かをこらえ始めたのを素早く察知したケンスケは、シンジの肩に

  手を軽くかけた。

  「まあまあ、シンジもそんなとこにぼーっと突っ立ってないで、取り敢えず座れよ。

  俺、もう腹が減って立ってられないから、早く始めようよ!!」

  「そーや、わしもおなかと背中の皮がびったりくっつきそうや!! さあて、今日は倒れるまで

  食うたるで!! みなさん、覚悟しとって下さい!!」

  トウジのおどけた声に一同が爆笑する中、シンジは少しだけ目尻を指でこすりながら

  レイの隣に腰を下ろした。

  「あ、綾波も来てくれたんだ。ありがとう、嬉しいよ!!」

  「うん・・・・碇君、誕生日、おめでとう・・・・」

  レイはシンジに向かってこくんと肯くと、次に何を言うべきか考えて、黙ってしまった。

  「退院してから、具合はどう? もう学校には来れるの?」

  シンジは、真っ直ぐ見つめる澄んだ紅い瞳に少々照れながらも、レイに向かって微笑んだ。

  「・・・・・学校、月曜日から行けるわ・・・・・もう大丈夫だから・・・・・心配、しないで・・・・」

  レイはいつものように淡々と答えていたが、ふっとほんの僅かに口許が緩んでいる。  

  ミサトは、騒然とした室内で、少しだけ飲酒ピッチを調整すべく、ぼうっと周囲を観察していたが、

  その耳にシンジとレイの会話が聞くとはなしに届いてきた。

  この単語の少ない会話を続ける二人を、ミサトは気づかれないように横目で眺め始めた。

  (レイは相変わらず用件を手短にしか話さないわねぇ。でも、前と違って、話し掛けてきた相手の顔を

  きちんと見ながら話すようになったような気がするし、それにさっきの微笑み・・・・・シンジ君が

  ここに来てからの僅かな間に、あの子は確かに変わったわ。少なくとも、自分以外の人間を受け入れる

  ようになった・・・・・これはきっとシンジ君だけのせいじゃないわね。シンジ君を触媒にして、

  レイをめぐる様々な人間関係がゆっくりと確実に動き出したからじゃないかしら?・・・・・なににせよ、

  レイが人間らしい感情に目覚めていくのは良いことだわ。・・・・これからもっともっと

  いろいろなことを経験して成長していくのよ、レイ・・・・あなたは、まだ14歳の女の子なんだから。

  エヴァのパイロットという制約は確かに存在するけど、それでもなおかつ、たくさんの可能性が

  与えられているんだから・・・・・・・可能性、か・・・・・・自分たちが生き延びる可能性を

  14歳の子供たちに押し付けている私が、胸張って言えるようなことじゃないかもね・・・・・)

  せっかく昂揚しかけていた気分が少し萎えていくのを感じて、ミサトは自分に活を入れるかのように

  新しいエビチュに手を伸ばした。  



  一方、シンジは通り一遍等のことを話すと、早くもレイとの会話がもはや続かなくなって、内心焦っていた。

  (・・・・・困ったなぁ・・・・何話したらいいんだろう?・・・・綾波との共通の話題って、

  学校のことかNERVの訓練のことだけど、こんな席で「この前のシンクロテストは・・・」なんて

  言い出したら、リツコさんにどやされちゃうし・・・・・・かと言って、学校の授業の話なんか

  しても、それこそ後が続かないし・・・・・トウジやケンスケとなら、ゲームとかテレビの話や

  なんかで話題も尽きないけど・・・・・そう言えば、綾波って、何か趣味があるのかな?・・・・

  まさか、訓練が趣味、ってそんなことあるわけないよな・・・・・思い切って聞いてみようかな・・・・・

  ・・・・・でも、万一「・・・・趣味は碇司令・・・・」とか言われたら、しばらく立ち直れそうも

  ないし・・・・・まさか、そんなことはないよな・・・・でも・・・・・父さんに見せたあの表情・・・・)

  決断がつかないまま、シンジはレイの端正な横顔をちらちらと盗み見て、挙げ句、溜め息をついていたが、

  そんなことを何度か繰り返しているうちに、とうとう気配を察知して横を向いたレイと目が合ってしまった。

  「・・・・・・何?・・・・・・」

  (・・・・・・碇君、私に何か言いたそう・・・・・・私の顔を見ては、溜め息をついてる・・・・・

  ・・・・・・・何か、顔に異常があるのかしら?・・・・・・・)

  さすがに怪訝そうな顔でレイに見つめられ、シンジは一気に窮地に陥った。

  「いや、えと、その・・・・・そ、それは、そのぅ・・・・・つ、つまり・・・・」

  宙を泳いでいたシンジの視線は、テーブルの向こう側でトウジが大口を開けて、

  鶏唐揚げに食らいついている姿に行き当たった。

  (そうだ、これだ!! 取り敢えず、これで場をつなごう!!)
  
  「あ、綾波は、その、り、料理とか得意そうだよね? き、今日は何作ったの?」

  シンジにしてはまさに会心の切り返しであったが、そう思って得意になっているのはシンジだけだった。



  永遠の沈黙が一瞬にして葛城邸のリビングルームを包み込んだ。



  (・・・・・あちゃー、シンちゃん、そりゃまずいわよ・・・・・レイは料理したことないから、

  今日も手伝いできなくて、アタシと一緒にサスペンス劇場みてたんだから・・・・・それを言っちゃあ、おしまいよ)

  ミサトは左手で後生大事にビール缶を抱えたまま、思わず右手で目を覆った。

  (・・・・・溺れるものは藁をもつかむ・・・・・シンジ君がつかんだのは虎の尾だったみたいね・・・・)

  ただただ天を仰ぎ、長嘆息するリツコ。

  (・・・・・先輩が料理を教えるわけないわよね・・・・私がもっと気を付けてあげれてれば

  良かったな・・・・・ごめんね、レイ・・・・・これからはいろいろ女の子らしいこと、

  折りに触れて教えるようにするから・・・・・)

  マヤは、レイの生活環境を思い出して、自責の念に駆られて、思わず辛そうに俯いた。

  (・・・・・碇とかいう、このクソ坊主!!・・・・・人にはな、得手不得手ってもんがあるんだよ!!

  それをこの野郎は!!・・・・・今度、使徒が来たとき、誤爆の振りして一発かましてやろうか!?)

  カツノリは、自分が恥をかかされたかのように、一人で顔を紅潮させて、血走った目でシンジを

  睨み付けている。

  (・・・・・シンジ君、墓穴を掘ったな・・・・・こうして人間は成長していくのさ・・・・・)

  シゲルは完全に傍観者の態度でパスタに手を伸ばそうとしている。

  (・・・・・同じ言葉を葛城さんに言ったら、きっと泣きをみてるぞ・・・・・シンジ君、鬼門というものを

  学ぶ良い機会だ・・・・・俺とマコトが何度も潜り抜けた試練なんだから・・・・・)

  マコトは、レイとミサトを何度も見比べた後、誰にも気づかれないように小さく微笑んだ。

  (・・・・・シンジ、お前って奴は・・・・綾波がいつも昼飯時にパン食うとるのを忘れたんか!!)

  トウジは、口の中一杯に頬張った鶏肉を噛むのを忘れて、レイを凝視している。

  (・・・・・綾波さん、かわいそう・・・・・料理したことない、なんて男の子の前で言えないよね・・・・)

  リエは、レイを心配そうな眼差しで眺めた後、返す刀でシンジを睨み付けている。

  (・・・・・だから、碇君って、女の子にもてないのよね・・・・・駄目な子・・・・・)

  リョウコは軽蔑したような目つきでシンジを眺めている。

  (・・・・・今度、綾波さんに「簡単に調理できるお惣菜セット」、薦めてみようかしら・・・・)

  ユリコは、咄嗟に頭の中で算盤を弾いている.

  (・・・・・これで綾波がどう出るか、これは見物だ!! このシャッターチャンスを逃す手はないっっ!!

  「今、音のない炎が少女の目の中で燃え上がる」なんてタイトルをつければ、売れ行き倍増間違いなしだっ!!)

  ケンスケは、頭の中で電卓をピッピッと押している。

  (・・・・・なんとかしなきゃ!! 委員長として、波風が立つのを座視するわけにはいかないわっ!!)

  ヒカリは、レイの反応次第ではシンジをどやしつけようと考えて、早くも立ち上がる素振りをみせている。


  シンジは、周囲の沈黙と自分を見つめる目から、最悪のシナリオを選択したのを感じ取っていた。

  (・・・・・まさか、綾波、料理したことないんじゃ・・・・・だったら、綾波を傷つけてしまったな・・・・

  ・・・・・・苦し紛れにあんなこと言うんじゃなかった・・・・・・僕って、駄目だな・・・・・・)

  今更ながら後悔しているシンジは、善後策も思い付かず、重苦しい静寂の中で、

  顔色を失って黙り込んでしまっている。
 
  
  レイはしばらくの間、そんなシンジの苦しげな顔を見つめていたが、やがて視線をふっとテーブルの上に

  滑り落とした。

  「・・・・・外食で済ませてるから、料理、したことないの・・・・・今日も、見てただけ・・・・・・」

  (・・・・・コンビニのパン、NERV本部の食堂の野菜カレー・・・・・栄養はとれているはず・・・・

  ・・・・・・生きていく上で、問題はないはず・・・・・ヒトはなぜ、手間を掛けて自分で料理するの?・・・

  ・・・・・・外食は時間の節約になるし、費用面でも効率が良いはずなのに・・・・・・・

  ・・・・・・アマチュアは、プロには勝てないのに・・・・・・ヒトは合理的で、合理的じゃない・・・・

  ・・・・・・どうして・・・・・わからない・・・・・わからないのは、私がヒトでないから?・・・・・・)

  「えへへえ、あったしも今日は見てただけ!! まぁ、レイは料理したことないから、やってみたら、

  案外うまくできて、はまっちゃうかもしれないけどぉ、アタシは数々の尊い犠牲者を輩出した結果、

  とーっくの昔に料理戦線からは全面撤退しちゃったわよ!!」

  「・・・・・撤退どころか、無条件降伏ね・・・・・・」

  ビール缶を片手に大笑いするミサト、そしてあまりにもタイミング良い突っ込みを飛ばすリツコ。

  凍り付きかけていたその場の空気が少し和んだ。

  (・・・・・葛城一尉・・・・・私を庇ってくれたの?・・・・・私の絆、ここにもあった・・・・・)

  レイは呵呵と大笑するミサトの横顔を、先ほどの冷たい表情とは打って変わった穏やかな眼差しで

  見つめていた。自然に、口許が少し緩んでくる。

  「ねえ、この際だから、綾波さんも料理やってみない? なかなか面白いものよ」

  脇からいきなり聞こえてきた声に、レイは蒼銀の髪を揺らして慌てて振り返った。

  「綾波さんのうちにも、キッチンあるよね? だったら、やってみたら? そうだ! 綾波さんさえ

  いいなら、今度、まず簡単なお料理、教えに行ってあげるよ!!」

  リエは、思わぬ展開にきょとんとした顔をしているレイに向かって、にっこりと笑いながら言葉を続けた。

  (・・・・・料理・・・・・ヒトが生きていくために必要な作業・・・・・一種の肉体労働・・・・・

  ・・・・・・ヒトはなぜ楽しんで料理をするの?・・・・・・わからない・・・・・・・
  
  ・・・・・・自分で料理をしてみたら、わかるかもしれない・・・・・・・)

  右手の人差し指を軽く唇に当てながら、しばらく思案していたレイは、やがてリエを紅い瞳で

  真っ直ぐ見つめると小さく肯いた。

  (・・・・・これで綾波さんも料理に興味を持ってくれるといいんだけど・・・・・そうすれば

  きっと料理を通じて、もっといろんな人と知り合えて友達が広がっていくはずだもの・・・・・・・・・

  綾波さんときちんと話すきっかけさえあれば、みんなきっと綾波さんと仲良くなれるはずだから・・・・)

  再び騒然とし始めた宴席で、リエもレイに向かって優しく微笑みながら肯いてみせた。

  
    つづく
   
   

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