或いはひとつの可能性



第36話・護られるべき日常





   「今日も、相変わらず暑いな・・・・・ま、第2新東京市に比べれば涼しいもんだが・・・・」

   高橋は、リニア特急から第3新東京駅のホームに降りると、少し伸びをしながら雲一つない青空を仰ぎ見た。

   (・・・・使徒が退治されてから、2日か・・・・何にも変わっちゃいねぇみたいだ・・・・)

   平日の昼下がりとあって、ホームはがら空きで、キオスクの壁掛けテレビから流れてくる

   若手女性歌手の歌声だけが、途切れ途切れに聞こえている。

   (・・・・喉乾いたな・・・・電車の中は冷房効いてて、乾燥してたからな・・・・)

   高橋はゆっくりと歌声の源に向かって歩き出し、ほどなくキオスクの前に立った。

   「あ、すんません。その「不老緑茶」、もらえますかね?」

   狭い店内で壁掛けテレビを眺めていた中年の女性は、慌てて立ち上がると、冷蔵庫の扉を

   開いて、缶入り緑茶を取り出した。制服の胸には「高根」というプラスチックの名札が留められている。

   「150円です」
   
   無愛想な店員の声に僅かに顔をしかめながら、高橋は、早くも水滴が現れはじめたアルミ缶を

   受け取ると、一気にプルタブを引き上げた。

   (・・・・ま、腹立たしく感じるってのも、生きてるって証拠だからな・・・・)

   冷たい緑茶を一口だけ喉の奥に流し込むと、高橋はゆっくりと強化ガラスの窓に視線を移した。

   見慣れた緑の外輪山を背景にして、青い美しいピラミッドが傾いてそびえていた。

   (・・・・あれが、今度の使徒のなれの果て、か・・・・)

   視線を下にずらしていくと、使徒の下部には焼け焦げた大きな穿孔が

   開いており、その下には兵装ビルや民間の商業ビルの残骸が下敷きになっている。

   「・・・・新銀座か・・・・よりによって市街地のど真ん中に落ちやがったな・・・・

   これで今月の小売売上高は壊滅的だな。それでなくとも不景気だってのに・・・・」

   高橋は、誰に言うともなく、ぽつりと一言つぶやいた。

   「あのときは、本当に大変だったんですよ・・・・それにね、ここから、あれを毎日見てると、

   一見、生き物のように見えないだけに、かえって気持ち悪くてね・・・・」

   返事など期待していなかったので、高橋ははっとして振り返った。

   いつのまにか店外に出て商品の整理を始めていた店員が、手を休めて高橋の方をみている。

   「ああ、そうだったみたいですね。私は、用事があって第2新東京市に行っていたんですけど、

   こっちに娘を置いてきているんで、もう心配で心配で・・・・」

   高橋は、もう一口、緑茶をすすると、ほうっとため息をつきながら答えた。

   「うちもね、息子が第2新東京市に赴任してて、それにお父ちゃんもセカンドインパクトのときに

   亡くなっちゃってるんで、あの時はあたし一人で、ほんとに怖かったんですよ・・・・

   でもねぇ、なんで、ここにばっかり来るんでしょうねぇ・・・・ここが日本の首都になるって

   知ってるんでしょうかね、あの使徒っていうのは? 」

   「さあ・・・・ま、使徒に狙われるぐらい重要な都市だってことは確かなんですよ。

   あ、もう電車とかバスは通常通り動いているんでしたっけ? ここから新駒沢まで帰んなきゃいけない
  
   もんでね・・・・」

   「ええ、あの翌日はいろいろと後始末があるらしくて、まだ外出禁止令が出されてて、電車もバスも

   動いてませんでしたし、商店も銀行も学校もみーんな休みになっちゃいましたけど、昨日からすべて

   平常どおりに戻ってますよ。さあ、早くお帰りになって、お嬢さんを安心させてあげて下さいな」

   店員は売れ残った新聞を手早くスタンドから引き抜きながら、高橋に向かってにっこりと笑った。

   高橋は残りの緑茶をぐいっと飲み干し、空缶を缶用屑入れにほうり込むと、店員に向かって

   心持ち手を挙げて笑った。

   「また邪魔なオヤジが帰ってきたかって、かえって嫌がられるんじゃないかな、あははははは。

   さて、それじゃ、失礼しますかね」

   (・・・・表向き平静を装っているけど、みんな不安なんだ・・・・)

   店員に背を向けて、ふと軽く目を瞑ったあと、高橋は地下のコンコースに降りるエスカレーターに

   向かってゆっくりと歩き出した。

   

   新駒沢駅前商店街から高台の住宅街へと続く坂道は、

   相変わらずのセミ時雨の中、時折、メジロの声が響くだけで、あたりは極めて静かである。

   (・・・・閑静な住宅街ってやつか・・・・俺もここに家を買ったとき、石河不動産の

   オヤジにそう紹介されたっけ・・・・)

   ふと苦笑すると、高橋は坂道の途中で後ろを振り返った。

   立ち並ぶ兵装ビルと商業ビル・・・見慣れた風景の中に、使徒の残骸とその周囲に張られた

   作業用のビニールシート、そして駐車しているたくさんの工事用トラックが見える。

   (・・・・人口が減らなきゃいいんだが・・・・ま、どこに行ったって安全なところなんて

   ないんだろうがね・・・・それにしても、今度の復興費用も馬鹿にならねえな。これだけ

   派手に壊されちまうと、政府からの支援がないと市財政は苦しいな。市当局はどうするつもりなんだ?

   まさかNERVにすがって市債を引き受けてもらうんじゃないだろうな・・・・今の市当局ではやりかね

   ないな・・・・また議会が紛糾するな・・・・また磐手さんの事件のようなことが

   起きなきゃいいんだが・・・・)

   しばらくの間、高橋は、暑い陽射しを美しく反射させている使徒の残骸を眺めていたが、

   やがて厳しい表情で歩き出した。

   坂道を登り終えたところにある公園の脇に差し掛かったとき、公園の中から

   幼い子供の声が聞こえてきた。  

   「・・・・まま、でんきとまっちゃうと、まっくらでこわいね・・・・」

   (・・・・こんな時間に誰だ?・・・・)

   怪訝に思いながら、高橋は立ち止まって公園の中を覗き込んだ。

   公園のベンチは、ちょうど日陰になっており、外回りの営業社員らしいワイシャツ姿の若い男が

   顔にハンカチをかけて仮眠している。

   そこから少し離れたベンチには若い母親が腰掛けており、4歳ぐらいの女の子が砂場で遊ぶのを

   愛しげな表情で穏やかに眺めている。

   住宅地の後ろにそびえる山からのそよ風が、時折、母親の長い黒髪を微かにそよがせる。

   高橋は、急に胸の詰まるような想いがこみあげてきて、足早に公園を離れた。

   (・・・・こんな、平和な日常を守るのが俺たちの仕事なんだ・・・・それが原点だったはずなんだ・・・・

   みんなが、「今日よりも明日の方がきっと良い日になる」と思えるような社会を維持するのが、

   俺たちの役割なんだ・・・・NERVがやろうとしていることは、今は何だかわからないけど、

   きっと市民を不幸にするようなものであるような気がする・・・・そんなことを許しちゃいけないんだ・・・・

   やはり、万田長官の申し出を受け入れるべきなんだろうか・・・・しかし、それはシンジ君や綾波さんと

   なじもうとしているリエの気持ちを裏切ることになってしまう・・・・どうしたらいいんだ・・・・・)

   アスファルトからの暑い陽射しの照り返しを浴びながら、高橋は俯き加減のまま、

   自宅に向かって歩きつづけた。

   住宅地の街路は、所々に庭木の作る影が伸びているが、それでも強い陽射しを遮るような

   遮蔽物はかなり乏しく、高橋の額には不快な汗が滲み出てきている。

   ようやく見慣れた自宅の扉が見えてきたが、高橋の憂鬱な気持ちは晴れなかった。

   (・・・・陽炎の立つ舗道が、このままずっと果てしなく続いているような気がする・・・・)

   高橋はため息を洩らすと、自宅のドアの鍵を開け、玄関で靴を脱げはじめた。

   「お父さん!! やっと帰って来れたんだねっ!!」

   思いがけない声に振り返ると、リエが自分の部屋から駈け寄ってきた。

   「ああ、なんやかんやと向こうでいろんな人に引き合わされたから、すぐに帰ってこれなくて

   すまなかったね。怪我もないようだし、良かった良かった。ん? そう言えばどうしたんだ、学校は?」

   高橋が少し驚いて尋ねると、リエは嬉しそうに目を細めて、にっこりと微笑んだ。

   「今日は、まだ半日授業なの。壊れたビルや住宅の処理とか使徒の解体作業とかで大騒ぎなのよ。

   それに、お父さんが今日帰ってくるって言ってたから、学校が終わってから、急いで帰ってきたのよ。

   ・・・・お父さん、あのね、とっても大変だったの。いろいろあって・・・・私、すごく怖かったし・・・・

   それにね、あの綾波さんが初めて笑ってくれたのよ!! それでね、それでね・・・」

   堰を切ったように喋り出しかけるリエに向かって、高橋は軽く手を振って苦笑した。

   「わかった、わかった! まあ、とにかく、座らせてくれよ。あ、冷たい麦茶かなんかあるかい?

   炎天下ずっと歩いてきたもんで、頭に血が上って具合が悪くなりそうだ。ああ、これ、土産の野沢菜漬けだ。

   晩飯にでも出してくれよ。やれやれっと、うちが一番落ち着くなぁ・・・」

   高橋はカバンから包装紙に包まれた野沢菜漬けを取り出してリエに渡すと、リビングルームに入って

   どっかりと椅子に腰を下ろした。

   「あ、これ、おいしいのよね。そうそう、今夜はねえ、お父さんの好物の治部煮、作ったんだよ!!」

   早速、冷蔵庫を開けて冷えた麦茶を取り出す娘の姿をぼんやりと眺めながら、

   高橋は少しだけ気分が軽くなるような気がした。

   (・・・・・この子には救われる・・・・・)

   「しかし、みんな無事で良かったな。おそらく今までで最強の使徒だっただろうから、

   使徒もこれに懲りてしばらくは襲っちゃこないだろうよ。もしかしたら、これで最後かも

   しれないしな・・・・ほんとにそうだといいんだが・・・・」

   エプロンをつけてキッチンに向かうリエの後ろ姿に向かって、高橋は話し掛けた。

   「そうね。それにね、ここにはエヴァがあるから、大丈夫よね! あれ以来、NERVとエヴァって

   すごい人気なのよ。それでね、今日も学校からの帰り道で、碇君を一目みようとして

   たくさんの人が集まってきて、大変だったんだから・・・・。さすがにケーブルテレビからの取材は

   ミサトさんが断ったみたい。怪我をした綾波さんも順調に回復してて、明日の碇君のバースデーパーティ、

   にも来れるみたいだし・・・・あっ、リョウコやユリコたちと明日の打ち合わせをしなきゃね・・・・・

   お父さん、私ね、今回のことで思ったの・・・・私、平和って、当たり前のことみたいに思ってたけど、

   本当はとても大切なものだったんだね。なんか空気みたいね。なくなってみて初めてありがたさが

   わかるっていうところなんか、よく似てると思うんだけど・・・・」

   高橋は、麦茶を飲もうとしてコップを持ち上げていたが、その手を止めて、娘の後ろ姿を見つめた。

   (・・・・・いつまでも子供だとばかり思ってたけど・・・・だんだん俺の知らない世界を

   増やしていきやがる・・・・)

   嬉しいような、それでいて若干寂しいような複雑な気分で、高橋はコップをテーブルの上に戻して

   琥珀色の冷たい液面を覗き込んだ。

   そして、椅子に背中をもたれさせると、腕組みをしながら天井を見上げた。

   (・・・・万田長官からの依頼の件、リエに話しておいた方がいいな・・・・下手に隠しておいて、

   後で知れたら、リエはもっと深く傷つくに決まってる・・・・まんざら分別がつかないような年ごろでは

   ないし、世の中のあり方とか、組織と個人の関係とか、自分でいろいろと考えてもらうには

   良いタイミングかもしれないしな・・・・それで、リエが何をどう選ぼうと、それはそれでいい。

   大切なのは、いろいろな問題を自分で見つけて、そして考えて、必要ならアクションを起こすという、

   簡単だけど、なかなか難しいことを覚えてもらうってことだ。学校の勉強じゃ、問題も答えも与えられるし、

   答えをみつけてそれで終わりっていうものだけど、社会にはそうじゃないことも多いんだ。

   問題点と解決方法が分かっても、それを自分で実践しなきゃ、いつまで経っても世の中は良くはならない

   ものさ。リエには、目の前で起こっている問題、それはとても不快なものかもしれないけど、

   それから目を背けて、楽しいことばかりに没頭するようになってもらいたくないんだ。

   世の中に不条理があるとき、あきらめて目をつぶるんじゃなくて、それを変えるように努力するように

   なってほしいんだ・・・・・だが、リエには少しばかり早すぎるかな・・・・どうするか・・・・)

   「どうしたの? 疲れちゃったの? 今日は早く寝た方がいいかもね・・・・」

   高橋はすぐ傍から聞こえてきた心配そうな声で、はっと我に返った。

   「今、時間、大丈夫かい?」

   「うん。もう、お米を研いで炊飯器に入れちゃったし、煮物の材料も下拵えは終わっちゃったから・・・・」

   リエは、急に父親が難しい顔つきに変わったのをみて、不安そうな表情をみせた。

   「実はね、第2新東京市で憲法擁護庁の万田長官に会ったんだ。リエは多分知らないと思うけど、

   ここは内務省の外庁で公安関係、つまり社会の平和を大きく、かつ組織的に乱すような動きを未然に

   防止する役目があるんだ。こういう重要な役所なんで、ここは大臣庁、つまり長官が大臣扱いで、

   内閣の一員になっているんだ。だから、与党の自改党でも、大物代議士を大臣にするようにしていて、

   今の長官も、党内最大派閥の万田派を率いている人なんだよ。ちなみに、この第3新東京第1区から

   選出されている吾妻さんも、万田派に属しているんだ」

   (・・・・そう言えば、リエに改まって政治の話をするのは初めてだな・・・・政治の話をしても

   ある程度わかるような年頃になっていたんだっけな・・・・)

   高橋は噛んで含めるようにリエに話しはじめた。

   リエも、真剣な表情で、父親の話に肯いたり、ときには小首を傾げたりしている。

   「その万田さんから頼みを受けたんだ。それは、NERVのことなんだ。NERV本部は日本国内に

   あるけど、国連所属の国際機関として、日本国内の法律の適用を免れている、言わば治外法権の組織

   なんだ。それは、リエも知っているよな。これまでも、いろいろな噂があったけど、それは

   噂の範囲を出なかったし、何よりも証拠は何もなかったんだ。でも、使徒が来るようになって、

   NERVが極秘に巨額の予算をかけて建造していたエヴァが姿を現すようになってから、

   NERVが日本政府に対して、いろいろな重要情報を意図的に連絡していない、つまり隠してきたって

   いうことが少しずつ明らかになってきたんだよ。NERVは国連の機関だし、日本も国連に加盟してる

   から、本当はそういうことはあってはならないんだけど、実際には、国連の中でも最高幹部会とか

   人類補完委員会っていう組織がNERVをがっちり押さえてて、そういう組織に入ってない日本政府には

   何も情報が流れてこない仕組みになってるらしいんだ。政府や、そして私たち市議会の

   調査でかろうじて少しずつ明らかになってきたのは、人類補完委員会とNERVは人類補完計画という

   ものを進めていて、そのためには市民の自由を踏みにじっても、日本政府を敵に回しても構わないって

   考えているらしいってことなんだ。NERV職員全てがそういう考えではないと思うけど、少なくとも

   碇司令がそう考えているのは確かだよ。・・・・私は市議会議員だ。市民から選ばれた者として、

   市民の自由と平和を守るのが仕事だ。だから、それを脅かす者とは闘わなきゃならん。

   万田長官からの依頼とは、NERVに関する調査を続けて、その情報を憲法擁護庁に流して欲しいって

   いうことなんだ。私は、この依頼を受けようと思ってる。今までのような市議会独自の調査では

   限界があるし、磐手事件でわかったようにNERVもこれからは反転攻勢を強めてくると思うからなんだ。

   そうなると、私は綾波さんや碇君とは立場上は敵ということになる。リエにとっては辛いことになると

   思うけど、私はリエから彼らのことを聞き出そうとも思ってないから、何も心配しなくて良いよ。

   ただ、大事なことだから、リエにもきちんと話しておいた方が良いと思ってね・・・・」

   高橋は、リエの表情が険しさを増してくるのに気づきつつも、自分の考えていることをすべて話した。 
   
   予想通り、リエはしばらく黙ってテーブルの上を見つめていたが、やがて、意を決したように

   顔を上げ、唇を噛み締めて高橋を見つめた。

   「お父さんの言いたいこと、全部わかるよ。でもね、私、碇君や綾波さんが、そういうNERVの計画を

   全部知っててエヴァのパイロットをやっているとは思えないの。碇君も綾波さんも、人を傷付けることには

   すごく敏感だから、きっと知っていたら平気じゃいられないはずよ・・・・だから・・・・

   だから、私も今までどおり綾波さんや碇君と付き合うことにするね・・・・ごめんね、協力できなくて・・・・」

   リエがこの答えを言うために、とても苦しんだのは明らかだった。

   強く握った手が微かに震えている。

   高橋は、いつもと変わらない声で、緊張している娘に優しく話しかけた。

   「別に協力して欲しいとは思ってないよ。これは私自身の信念に基づく仕事だからね。

   そして、リエは、リエの信念に基づいて、こういう答えを出したんだろ?  だったら、

   お前が自分で考えて、自分でみつけた答えに干渉するつもりはないよ。

   私がすることの意義や理由さえきちんとわかってくれるのなら、それだけいいんだ・・・・」

   重苦しい沈黙が訪れたが、高橋の予想に反して、リエは泣き出しもせずに夕食の支度に戻っていった。

   (・・・・泣かなかった、か・・・・俺の留守中に何があったのか知らないけど、少し大人になった

   ような気がするな・・・・それを「少しだけ寂しい」と感じるのは、父親のわがままだな・・・・・

   これで、いいんだ・・・・そうだよな・・・・)

   高橋は、少しだけ夕陽が混じった陽射しが降り注ぐ庭先を眺めながら、黙って麦茶を飲み干した。

   一方、リエは、煮物の支度をしながら、高橋の言葉を自分なりに反すうしていた。

   (・・・・お父さんの立場も分かるけど、私も友達が大切なの・・・・とくに綾波さんはやっと

   私たちに心を開いてくれたばかりの大切な大切な友達だから・・・・それに、碇君も綾波さんも、

   その補完計画っていうものの全貌を知っているとは思えないし・・・・そんなこと知ってて、

   喜んで協力するような子じゃないもの、綾波さんや碇君は・・・・私はそれはもう疑わないもの

   ・・・・ミサトさんはどうなのかな・・・・あのミサトさんが、無関係の市民を犠牲にするような

   計画に賛成するなんて思いたくないな・・・・でも、ミサトさんはNERVの幹部だし・・・・)

   リエは、ミサトの優しい笑顔を思い出し、一瞬、包丁を持つ手を止めた。

   (・・・・ミサトさんには、直接、きちんと聞いてみよう・・・・何もしないでいて、心の中で疑ったり、

   泣いたりするのは、もういやだから・・・・たとえ、それが思い通りの答えじゃなくても、

   答えが出さえすれば、これからどうしたら良いかもわかるはずだから・・・・碇君や

   綾波さんは使徒相手にあんなに辛い思いをして闘っているんだもん、私も辛いことから

   逃げちゃ駄目よね・・・・)

   リエは小さくうなずくと再び力強く包丁を動かしはじめた。



   夕食の支度が整うまで、高橋はテレビの老人向け番組「倶楽部お達者」をぼんやりと眺めていた。

   (・・・・こんな時間に家にいるのは久しぶりだなぁ・・・・なんかすることがなくて

   手持ち無沙汰だな・・・・引退した後って、こんな感じで毎日を過ごすことになるんだろうか・・・・

   これはたまらんなあ・・・・今のうちから、なにか趣味をみつけておいた方が良いかな・・・・

   これまで仕事中心でやってきたからなぁ・・・・でも、趣味って言ってもなぁ、ゴルフはうまくないから

   やってもストレスがたまるだけだし、手先が不器用だから工芸も不得意だし、せいぜいテレビゲーム

   くらいかな・・・・しかし、テレビゲームが趣味って言う老人も、なんか隠微な雰囲気でいやだな・・・・)

   珍しくテレビに感化されて、高橋は弱々しくため息をついた。

   そんな父親の様子をちらっと一瞥して、リエは治部煮の椀をテーブルの上に並べた。

   椀を並べる音を聞きながらも、高橋は敢えて振り向かないでいた。   
  
   (・・・・なんか会話を切り出しにくいな・・・・リエもあれから黙ったままだけど、

   さりとて怒っているわけでもなさそうなんだが・・・・こう黙っていられると、かえって不気味

   だよな・・・・下手に笑い話なんか繰り出して墓穴を掘るのも困るし・・・・まいったな・・・・)

   テレビから6時を告げる時報が聞こえてきた。

   高橋はテレビのリモコンを取り上げると、ニュース番組にチャンネルを変えた。

   「こんばんわ、6時のニュースです。はじめに、2日の第3新東京市への使徒襲来の際に、

   電力各社と売電事業者が国連特務機関NERVに供給した電力の代金について、財政省および

   外交通商省とNERVの間での交渉が難航している模様です。NERV側は、国連総会で

   承認されているNERV規約第51条に基づく徴発であるとして、代金支払いに難色を示しています。

   これに対して、外交通商省は発電費用の保障が行われない場合、電力事業者の経営に大きな損失が生じる

   としているほか、財政省も受益者負担の原則から国費での保障には応じられないと反論しています」

   「ああ、やっぱりな・・・・事業者から見れば、燃料費や運転費を使ったものの、ただ働きに

   なっちゃたまらないもんなぁ・・・・・しかし、あのNERVが支払いに応じるとも思えんし・・・・

   まったく困ったもんだ・・・・・最悪の場合、電気料金値上げって形で国民に負担が転嫁される

   可能性もあるなぁ・・・・そうなると、また景気が悪くなりそうだし・・・・・」

   高橋はいつもの癖で、テレビをみながら、ぶつぶつとつぶやいた。

   そして、ニュースの合間には、新聞の夕刊に目を通しはじめた。

   「・・・・ふーん、北京で人民軍の弾薬庫が大爆発か・・・・・えらいこっちゃな・・・・・」

   高橋は、記事に熱中するあまり、うっかり、箸で新聞のページをめくった。

   「お父さん!! 食事中に新聞読むの、やめてって何回言ったらわかるの!! 一生懸命作ってる

   ほうの身にもなってみてよ!! 読むのか食べるのか、どっちかにしてよ!!」

   突然のリエの大声に高橋はびくっと首をすくめた。

   (・・・・いけねぇ・・・・また、やっちまったか・・・・・)

   新聞から恐る恐る視線を上げると、リエが眉間に深い縦しわを数本刻んで、睨み付けている。

   「あ、、ごめん・・・・気を付ける・・・・」

   高橋はバツが悪そうに頭を掻いた。

   それを見て、リエはさらにまなじりを吊り上げた。

   「あーもうっ、なんでお箸で頭なんか掻くのよ!! 洗わなきゃいけないじゃないの!!」

   それを聞いて、ますます小さくなる高橋。

   そんな高橋をみて、ぷっ、とリエは吹き出した。

   高橋も「てへへへ」と苦笑いをしている。

   凍り付きかけていた時が、再び流れ出した。    




   夕食後、早々に高橋は書斎に入って報告書の仕上げにかかり、リエも洗い物をすませると、

   自分の部屋に入った。

   そして、ふうっ、と深く息を吐いて、少し伸びをしてから、ベッドに仰向けに横たわった。
       
   (・・・・良かった・・・・お父さんとの関係が今までみたいに戻って・・・・)

   重苦しい沈黙からの解放感と安堵感が入り交じって、クーラーをつけたまま、

   リエはすぐにうとうとしかけた。

   そのとき、自己主張するように電話が激しく鳴り出した。

   リエはあわてて飛び起き、机の上のコードレスフォンを手に取った。

   「もしもし、高橋ですけど・・・・」

   「あ、リエ? 明日の碇君のバースデーパーティの件なんだけどさ、飾り付けとかお料理の時間を

   見積もって、午後3時に碇君の家に集合ってことになったから」

   「あ、なんだ、リョウコかぁ、びっくりした・・・・あ、パーティの件はわかったわ。

   で、碇君にはまだ知らせてないのよね、パーティのこと・・・・」

   「だから、2時頃に鈴原君と相田君が碇君をゲーセンに誘い出すことになってるの。

   その間に、ユリコと綾波さんが買い物と飾り付け、あたしとリエで料理をするってことにしたの」

   「それでいいよ。あ、そう言えば綾波さんにはもう電話したの?」

   「うん。さっき携帯にかけたら。もう退院して家に戻ったって言ってたよ。相変わらず口数は

   多くないけど、前に比べると、少しは話すようになったみたいね」

   「ほんと? 良かったわ。きっと、これから少しずついろんな話ができるようになると思うよ。

   でも、まだ慣れてないと思うから、明日は時々、みんなで綾波さんに話し掛けてあげるようにしようよ」

   「そうね。いきなり、「さあ、しゃべれ」って言ったって、あの子もまだ話のネタがないもんね。

   あ、そうそう、明日作る料理、もう決めた?」

   「鶏のから揚げ、パスタ、中華風サラダ、それとオードブルぐらいかな。碇君の好物って

   葛城さんもまだ良く知らないみたいだし、綾波さんに至っては、好物があるのかすら

   わからないからね・・・・ま、このあたりを選んでおけば取り敢えず外れはないでしょ」

   「さっすが、リョウコ!! 明日が楽しみね。じゃ、おやすみ」

   「明日、遅刻しないでね。あ、そうそう、言い忘れたけど、相田君から言付けがあったのよ。
  
   えっとね、明日はどんなに葛城さんが料理を手伝いたいって言っても、絶対に手伝わせないように、だって」

   「ふーん。やっぱり、余計な気を遣わせちゃいけないってことなのかなぁ。場所を提供してもらって

   迷惑をかけるわけだからかしら?」

   「さあ、多分、そんなところなんじゃないかな。それじゃ、おやすみぃ!」

   リエは受話器を机の上に置くと、再びベッドの上に寝転がった。

   (・・・・明日は、初めて綾波さんと一緒に休日を過ごすのね。そう言えば、綾波さんの私服って

   みたことないなぁ・・・・綾波さんも、こっちに転校してきてから、初めて友達と一緒に過ごす

   休日みたいだから、ちょっと緊張してるかな・・・・・あー明日、楽しみだな・・・・)

   リエは、睡魔が襲ってくる前に、パジャマに着替えると、ベッドの上に座ってファッション雑誌を

   眺めはじめた。 



   同じ頃、新駒沢の再開発地区のマンションでは、紅い瞳の少女が窓を開けて、

   窓枠に頬杖を突いて、中空に浮かぶ月を眺めていた。

   (・・・・・明日、碇君の誕生日・・・・・初めてのパーティ・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・学校やNERV本部以外で、誰かと一緒に過ごすのもはじめて・・・・・・・・・

   ・・・・・・あのとき、病院で、碇君は「綾波にも友達ができて良かったね」って言ってた・・

   ・・・・・・友達って、何?・・・・・碇君と鈴原君や相田君は友達らしい。クラスの人たちが

   そう言ってるのを聞いたことがある・・・・・友達って、いつも一緒にいて、いろいろなことを

   話すものなの?・・・・明石さんや相田君は、明日のことを碇君に話してはいけないって言ってる

   ・・・・・・友達なのに、どうして隠し事をしようとするの?・・・・・わからない・・・・・・  

   ・・・・・・碇君・・・・・私は明日もまた笑うことができるの?・・・・・・・・・・・・・・)

   レイは、しばらく考え込んでいたが、夜風にあたって冷えたせいか、くちっと小さなくしゃみをして

   慌てて窓を閉めた。

   そして、いつものようにエアコンのスイッチを入れると、学校の制服を脱いで裸になり、ベッドに入った。

   (・・・・・なかなか眠れない・・・・・早く寝ないと、睡眠不足になってしまうのに・・・・・)

   レイは自分の眠れない原因が、期待と不安であることには気づかなかった。

   ただ、自分の目を覚まさせているものが、決して不愉快なものではないことだけは確かだった。

   レイは何度も寝返りを打ったが、それでも眠れなかった。

   (・・・・・こんなに眠れないのは初めて・・・・・体に異常が生じてるのかも・・・・・・)

   レイはベッドから起き上がると、タンスの上の壊れた眼鏡の脇に置いてある携帯電話を取り上げたが、

   ボタンに白い指を伸ばしかけて、その動きを止めた。

   (・・・・・誰に質問すればいいの?・・・・・赤木博士・・・・今日は報告書の提出期限で

   忙しいはず・・・・・伊吹二尉・・・・・同じ・・・・・葛城一尉・・・・・どこでもすぐに

   眠れるのが取り柄だって自分で言ってた・・・・・碇司令・・・・・些細なことで電話しては

   いけないはず・・・・・冬月副司令・・・・・朝が早いからもう寝てる・・・・・青葉二尉、

   日向二尉・・・・・話したことない・・・・・碇君・・・・・突然電話したら、驚くと思う・・・・・)

   レイはNERVの人々を次々と脳裏に思い浮かべたが、気軽に相談できそうな相手はいなかった。

   そのまま携帯電話を握ったまましばらく思案していたが、やがてレイは携帯電話をタンスの上に

   静かに戻すと、小さなため息をついてベッドにうつ伏せに横たわった。

   さっきまで暖かかった体が、少しずつ冷えていくような気がして、レイはそのまま眠りに落ちた。

   
   
   
   その頃、初瀬邸では、ユリコが戦自の新厚木駐屯地に電話をかけていた。

   「もしもし、お兄ちゃん?」

   「おう、どうした? オヤジになんかあったのか? さては、とうとうくたばったか?」

   「もう、縁起でもないこと言わないでよね! この前、お兄ちゃん、言ってたでしょ?

   パーティの日時が決まったら教えろって。あれね、明日の午後6時からなのよ。葛城さんに

   お兄ちゃんのこと話したら、戦自隊員としてではなく初瀬ユリコの兄という立場なら参加しても

   問題ないって言ってたよ。取り敢えず、明日来るんだったら、2時半頃にうちに来てね」

   「おおっ、さすがわが妹!! かたじけない!! 今度の休暇にはなんか旨いもんをご馳走するからな!!

   あ、当然、来るんだよな?」

   「綾波さんでしょ? 来るわよ。あ、そうそう、綾波さんね、最近、微笑むようになったのよ。

   どう、見たいでしょ?うふふふ」

   「えっ、そりゃほんとか?! そりゃ見たいに・・・・おっと、こら、人をからかうもんじゃない!!

   何はともあれ、明日はユリコの保護者として、普段、ユリコが世話になっている友達にお礼を言うために

   行くんだからなっ!! あの頑固オヤジじゃ、そこまでの配慮はできねえだろうから、俺がこうして

   忙しい中、わざわざ休暇をとって・・・・」

   「はいはい、分かりましたよ。なんとでも言っててよ。とにかくっ、一回、貸しを作ったからね!!

   忘れたら承知しないからぁ!!」


  
   それぞれの期待と不安をよそに、日付はあと数時間で2015年6月6日に変わろうとしていた。   
    
 
    つづく
   
   
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