或いはひとつの可能性



第35話・笑えばいいと思うよ





   
  零号機のエントリープラグの中で、レイは地上に射出されるのを待っていた。

  (・・・・・碇君、怯えてる・・・・)

  右側のモニターに映るシンジの表情は、唇を固く閉じて、やや俯いて、

  足元を凝視しているようにみえる。

  「エヴァ、出撃準備完了。第7射出口から通常射出します」

  発令所のマヤの声がエントリープラグ内に響く。

  「・・・・了解・・・・・」

  レイは手短に答えると、重力に備えるように、少しだけ身を固くして、

  シートに体を押しつけた。



  「山が動きよる・・・・」

  第壱中学の屋上では、トウジをはじめとして生徒たちが手すりの傍に集まって、

  山腹がゆっくりとスライドして、大きな射出口があらわになるのを見つめていた。

  ヒグラシの声しか響いていなかった、夕闇に包まれかけた裏山に警告ブザーの音が

  「ビーッ、ビーッ」と大きくこだまする。  

  やがて、舞台のせりが上がっていくように、2機のエヴァが地上に姿を現した。

  「すごい!! エヴァンゲリオンだ!! 2機とも出てきた!!」

  ケンスケは喜色を満面に現すと、すぐにビデオカメラを回しはじめた。

  「綾波も一緒か・・・」

  トウジは、初めてみる零号機をしげしげと眺めた。

  「ねえ、どっちに綾波さんが乗ってるの?」

  リエは初めて目にしたエヴァの威容に圧倒されながら、トウジに尋ねた。

  「あの紫色のやつはな、この間、わしとケンスケがシェルター抜け出したときに見た奴やから、

  多分、あの黄色い奴に綾波が乗っとんやないか」

  トウジの言葉を聞いて、少女たちは一様に零号機に視線を移した。

  (・・・・あの中に綾波さんがいるのね・・・・・今、どんな気持ちなんだろ?・・・・・

  ・・・・・怖くないのかな・・・・・)

  リエは無意識のうちに手を強く握り締めていた。

  「がんばれよー!! 頼んだぞー!!」

  ビデオのファインダーを覗きながら、ケンスケが大きく手を振る。 

  「頼むでー!! 怪我なんぞしたらあかんでー!!」

  トウジは初号機に向かって大きく大きく手を振って、大声を上げている。

  「がんばってねー!! 碇くーん、綾波さーん!!」 

  ユリコは初めて見るエヴァにもあまり威圧感を感じることなく、物怖じせずに

  快活な笑顔で手を振っている。 

  「綾波さーん、無事に戻って来てねー!!」

  リョウコは戦闘をみたことがあるせいか、明らかに心配そうな表情で、

  それでもクラスメートを励まそうとして力一杯、手を振りつづける。

  「がんばってねー!!」  

  ヒカリは、初めて見るエヴァに圧倒されて、他の少女たちよりも少しだけ小さな声で

  声援を送る。

  そんな中で、リエだけは固く口を閉じて零号機を凝視しつづけた。

  自分の目前に立ちはだかる大きなロボットの中に、あの華奢なクラスメートが乗っているという事実に

  まだ実感が湧かなかった。

  (・・・・・ゲームやドラマの一場面みたい・・・・でも・・・・・私の見ているのは

  紛れもない事実・・・・・なんで私と同じ歳の女の子が使徒と闘わなきゃいけないの?・・・・)

  リエはどうにもできない過酷な現実を目のあたりにして、少しだけ足を震わせながら、

  体を固くすることしかできなかった。

  (・・・・・綾波さん、碇君、無事に戻ってきてね・・・・・この地球上で信仰されている

  全ての神様、お願いです、綾波さんたちを護って下さい・・・・・)

  リエは静かに瞳を閉じると、手を胸の前で組みあわせた。

  (・・・・・私には、こうやって祈ることしかできないのね・・・・・)

  もどかしさと無力感にさいなまれ、リエは少しだけ悲しみが滲んでしまった瞳で

  夕焼けの消えかかった空に立ちはだかる零号機をいつまでも見つめつづけた。


  
  機体が地上に射出されたとき、レイは目の前の第壱中学の校舎の屋上に数人の生徒達が

  集まっているのに気づいた。

  (・・・・・相田君、鈴原君、高橋さん、明石さん、初瀬さん、洞木さん・・・・・

  ・・・・・・どうして、そこにいるの?・・・・・・・・)

  レイはクラスメートたちの姿を、澄んだ紅い瞳でじっと見つめていた。

  クラスメートたちが笑顔で、エヴァに向かって何か叫びながら手を振り始めた。

  (・・・・・そう・・・・碇君を見送りに来たのね・・・・・)

  レイは少しだけ心が波立つのを感じてながら、視線を夕闇の迫りつつある空に移した。

  ふと、洩れたため息に、思わずはっとして、鼓動が早まる。

  (・・・・・いけない・・・・シンクロ率が下がってしまう・・・・)

  レイは、しばらくの間、夕陽が薄れていく空をじっと眺めていた。

  (・・・・・エヴァ・・・・私のたった一つの絆・・・・・・・

  ・・・・・・私はこれに乗るために生まれてきたようなもの・・・・・・・・・

  ・・・・・・エヴァに乗れない私・・・・・死んでいるようなもの・・・・・・

  ・・・・・・許されない絆のために、シンクロ率が下がるのなら・・・・・・・

  ・・・・・・もう考えない・・・・・・・・永遠に・・・・・・・・・・・・・)  

  理性は結論を出しているのに、感情はますます泡立っていく。

  (・・・・・私の絆、エヴァしかないから・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・他の絆は必要ないはず・・・・動揺することなんて何も無いもの・・・・)

  レイは、自分を納得させるかのように心の中で呟いた。

  「レイ、どうしたの? シンクロ率が激しく上下してるわよ。今は操縦に専念しなさい」

  発令所にいるリツコの冷静な声が、エントリープラグ内に響く。

  「・・・・・はい・・・・・・」

  リツコの声を聞いて、少しだけ落ち着きを取り戻したレイは、足を踏み出そうとして、

  再び視線を足元に向けた。

  自分では見ようと意識していないにもかかわらず、どうしても

  視線が校舎の屋上のクラスメートたちに向いてしまう。
  
  レイは、手を振って声援を送っているクラスメートたちの中で、たったひとりだけ

  心配そうな表情で零号機をじっと見つめている少女がいるのに気がついた。

  (・・・・・高橋さん・・・・・私を見てる・・・・・・

  ・・・・・・どうして、そんな瞳でみてるの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・エヴァが怖いの?・・・・やはり、私はヒトを悲しませ、恐れさせる存在・・・・・)

  レイは再び強まり始めた動揺の中で、じっとリエの姿を見つめていた。

  ふっと眼を閉じたリエが何かに祈るように手を胸の前で組みあわせた。 

  (・・・・・あなたは何を祈っているの?・・・・・自分や肉親の無事?・・・・

  ・・・・・・それとも・・・・・あなたと同じヒト、碇君の無事?・・・・・・・

  ・・・・・・私を心配するヒトはいない・・・・・・私が死んでも代わりはいるもの・・・・

  ・・・・・・私は使い捨てにされる工業製品のようなもの・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・だから「感情」なんて必要なかったのに・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・「感情」なんて知らない方が・・・・・よかった・・・・・・・・・・・・・・)

  再び強まりはじめた動揺に、レイは当惑して瞳を閉じた。

  (・・・・・知ってしまった「感情」・・・・・エヴァの操縦には不便・・・・・・・・

  ・・・・・・でも・・・・・・失いたくないような気もする・・・・・なぜ?・・・・・)
  
  「レイ、どうした? 体調が芳しくないのか?」

  スピーカーを通じて聞こえてきたゲンドウの声に、レイははっと眼を大きく見開いた。

  「・・・・・いいえ・・・・異常ありません・・・・」

  レイの脳裏に、起動実験が失敗したとき、火傷を顧みずに自分を救ってくれた

  ゲンドウの顔が浮かんだ。

  (・・・・・碇司令・・・・・私を心配してくれたヒト・・・・・私に許される確かな絆・・・・・

  ・・・・・・私は、ひとりじゃない・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

  発令所のモニターに映し出されているレイのシンクロ率は、徐々に振れを小さくしていった。





  出撃していくエヴァを見送った後、第壱中学の屋上にいた子供たちは

  それぞれ待たせておいた車に乗るために校舎の階段を降りていった。

  一時の昂揚感から冷めてみると、決戦が迫っているという緊張感と、

  作戦が失敗した場合を予想した不安感が、一同を無口にした。

  重苦しい静寂の中、階段には靴の音しか聞こえない。

  「大丈夫だよ!! きっと勝つさ!! 碇も綾波もきっと無事に戻ってくるよ!!」

  沈黙を破ってケンスケが笑顔で口を開いた。

  「そやな。あいつらに限って、ドジ踏むことはないやろ!! ま、わしらは

  腹ごしらえでもして、シェルターに潜っておけばよろし。なんせ、下手すると

  明日も電気使えんようになってもうて、あったかい飯が食えんようになってまうからな!!

  まあ、果報は寝て待てって言うやろ? そんなもんや!!」

  トウジがおどけてみせるのを見て、少女たちは少しだけ表情を緩めた。

  「もう鈴原ったら、いつでも食べ物の話に結び付けるんだからぁ!!」

  ヒカリの言葉にユリコもリョウコも、そしてリエまでも声を出して笑った。

  「じゃ、またね。あさってこそ、碇君の誕生パーティのプランを練り上げないとねっ!!

  うちは、ここから一番遠いから、もう行くね。そろそろシェルターに入んなきゃいけない時間が

  迫ってるから・・・・じゃーねっ!!」

  リョウコはそう言うと、一足先に校門を出て、外に駐車している「明石屋本舗」の配送車に

  向かって駆け出して行った。

  (・・・・・明日、が来ればの話だけどね・・・・・)

  車のドアを開けたリョウコは、もう一度だけ、名残り惜しそうに友達の方を振り返ると、

  想いを振り切るようにドアを閉めた。

  「あ、そうそう、あさっての数学って、宿題出てたっけ?」

  走り出していく明石屋本舗の配送車を見送った後、ユリコはケンスケの方を振り返った。

  「ああ、72ページの問5から9まで、だったよ。テストも近いし、憂鬱だねぇ・・・・」

  ケンスケは傍に立っているトウジと顔を見合わせながら、ふうっとため息をついた。

  「ま、テストなんちゅうもんは、水物やから、やってみなきゃわからへんて!! まあ、

  あんじょう行きよりますわ!! はっはっは!! おっと、そろそろわしらも帰らんと

  いかんで!! ほな、ケンスケ、委員長、ぼちぼち行こか? じゃ、高橋、初瀬、またあさってな!!」

  トウジは半ばやけのように大声で笑ったあと、ケンスケとヒカリを促して校門から出ていった。

  「あたしたちも、そろそろ帰ろうか?」

  ユリコの言葉にリエもうなづき、二人の少女は、校門の外に駐車しているコンビニの

  ロゴ入りの車に向かって駆け出した。

  (・・・・・みんな、明日とか、あさってとか、強調してる・・・・・怖いのね、ほんとは・・・・)

  リエは一瞬、足を止めて振り返り、自分の通っていた、思い出の詰まった学校を眺めると、

  再び初瀬の車に向かって駆け出した。

  (・・・・・また、ここに戻ってくるんだから・・・・・さよならは言わないもん・・・・・)

  夕陽はすっすり影を薄くし、夜のとばりが迫ってきていた。

  
  
  
  初瀬の車が新四谷駅近くまで進んだとき、リエの携帯電話が鳴り出した。

  「あ、もしもし、高橋ですけど・・・」

  「あ、俺だよ、俺!! 早雲山運送の陸奥だよ。そっちは大丈夫かい?」

  「あ、おじさん!! こんにちわ!! ご無沙汰してます!! こっちはなんとか

  うまくやってますけど・・・・」

  「そうかい? それならいいんだけどさ、あんたのオヤジさんから、緊急時には娘のことを

  頼むって、耳にタコができるほど言われてるし、さっきもオヤジさんから電話がかかってきて

  頼まれちまったからね。でも、あいつも、こんなときに出張なんて、ほんとに間が悪い

  野郎だね、まったく・・・・あいつはガキの頃から、いっつもそうなんだよ・・・・」

  「まあ、仕方ないですよ。父もいろいろと大変そうだし・・・・。あ、新箱根湯本は

  どんな様子ですか?」

  「こっち? そりゃあもう、大騒ぎさ!! 銀行には行列ができるし、店屋は早仕舞いしちまうし、
  
  うちの車なんかガソリンスタンドが閉まっちまったんで、商売になんねえよ。あっ、そうそう、

  さっき、三島の方から旧街道通って戻ってきた、うちの若い奴が言ってたんだけど、

  なんか二子山のあたりにNERVの車がたくさん集まって、なんかこさえていたみたいだよ。

  ぶっといケーブルが何本も山積みになってたし、山頂あたりにはなんかでかい大砲の

  化け物みたいな奴が据えてあったらしいよ・・・・・一体、何をやらかす気かねぇ・・・・」

  「私も父に言われて、すぐにコンビニに走ったんですよ。でも、もう売り切れに

  なっちゃってるお店も多いみたいで・・・・・二子山ですか・・・・・もしかしたら・・・・

  そこから撃ち落とすんじゃないかしら、あの使徒を・・・・」

  「ああ、そうかもしれねえな・・・・ま、巻き添えくわねえように、こちとら民間人は

  とっとと穴ん中に潜っとくことにすんのが一番さ・・・・ところで」

  突然、電話回線が切断され、オペレーターの無機質な声が響いた。

  「こちらは新日本電話会社でございます。激甚災害対策基本法第24条の規定に

  従い、政府からの要請を受けましたので、第3新東京市の全域および神奈川県、静岡県、

  山梨県の一部につきまして、民間用電話事業の運営を休止いたしました。お客様には

  ご迷惑をおかけしますが、何卒ご諒解下さい」

  「あーあ、電話、切れちゃった・・・・電話会社の方で電話つながらなくしちゃったみたい」

  リエは、録音が繰り返し流れる受話器を耳から離し、スイッチを切って、ポケットに

  しまい込んだ。

  「誰からだったの?」

  不思議そうにみつめているユリコに向かって、リエは答えた。

  「あ、お父さんの幼なじみの運送会社の社長さん。新箱根湯本に住んでるの。

  あっ、そうだ・・・おじさん、テレビ点けてもいいですか?」

  リエは後部座席から体を乗り出して、運転中の初瀬に話しかけた。

  「・・・・別にかまわないよ・・・・スイッチの場所は・・・・ユリコに聞いてくれ・・・」

  「うん、あたしが点けるわよ。何見たいの?」

  「ありがと。ニュース見ておきたいの・・・・」

  ユリコが車内テレビを点け、チャンネルをいろいろと変えてみたが、

  どの局でもニュースしか放送されていなかった。

  「政府は停電時の犯罪や、信号機停止による交通事故などの混乱を回避するため、

  夜間外出禁止令を出す予定で、関係各省庁が緊急会議を開いて詰めの協議を行っています。

  また、国土整備省は、水力発電所のフル稼動に伴い、主要河川の増水が生じるため、

  先程、全国の土木管理事務所を通じ、河川増水に関する緊急警告を自治体に伝達しました。

  これを受けて、全国の自治体では、消防署または消防団が河川巡回に出動するとともに

  広報車を走らせて市民に警戒を呼びかけております。一方、環境問題や原油価格の高騰のため、

  稼動率を下げていた火力発電所では、久しぶりに煙突から黒煙が勢いよく上がっています。

  さて、第2新東京市でも、24時間営業が売り物のコンビニエンスストアや

  ファミリーレストランが、停電による治安悪化を恐れて早々と店じまいしており、次第に
  
  通りから人気が少なくなっております。なお、全国の官公庁、警察・消防のほか、警備保障会社、

  病院などでは、自家発電装置を稼動させて、停電を乗り切る構えをみせておりますので、

  治安の維持や急病人の治療などは通常通り行われる予定ですのでご安心下さい。

  そて、いよいよ第3新東京市にはあと30分足らずで特別非常事態宣言が再発令され、住民に

  ジオ・シェルターへの避難命令が出される予定です。」

  「・・・・いよいよ、らしいな・・・・・さっきから、警察や警備保障会社の車が

  目立ちはじめたよ・・・・・あちこちで待機して、厳戒体制を敷くつもりだな・・・・・」

  初瀬はそう呟くと、アクセルを踏んでスピードを上げた。

  「それでは、第3新東京市の交通情報をお知らせします。鉄道・道路交通情報センターの

  勢多さん、お願いします。」

  テレビの画面は交通情報に変わっていた。

  「はい、勢多です。まず、第3新東京市への乗り入れおよび市外への移動は規制されて

  おりますが、それにも関らず、国道1号線、138号線、長尾峠、湖尻峠では、市外への

  移動を狙った車によって激しい渋滞が起こっておりまして、激甚災害対策基本法によって

  定められた緊急車両の運行に支障が出始めており、一部では路肩走行を強いられている

  ところもあります。市民の皆さんは、どうか車での移動はお控えになって下さい。

  また、環状線をはじめとする鉄道各線は既に全面運休しておりますので、ご注意下さい」

  窓からぼんやりと外を眺めていたユリコは、リュックサックを背負った人々が
 
  足早に林の中に駆け込んでいくのをみた。

  「ねえ、お父さん。なんかリュック背負った人たちが山の方に走って行ったよ」

  「・・・・・車が駄目なら、歩いて逃げようっていう魂胆だ・・・・・」

  初瀬はフロントガラスから視線を動かすこともなく、淡々と答えた。   

  その時、すぐ近くで砲声が2、3発響いた。

  「スピード上げるから、どっかにつかまってろ!! 体をシートに伏せておくんだ!!」

  初瀬は顔を荒げると、アクセルを目一杯、踏み込んだ。   






  第2新東京市の自改党本部の会議室では、国防部会の議員たちとともに高橋が

  刻々と入ってくる情報を待ち受け続けていた。

  缶コーヒーや天然水「EBIYAN」の小型ペットボトルが林立するテーブル上には、

  各地の情勢を記した、なぐり書きの書類が散乱している。

  高橋は先ほどから腕組みをしたまま、つけっぱなしになっているテレビを睨んでいる。

  「あ、只今、ニュースが入りました!! 第3新東京市北部の新経堂付近で、

  交通規制を無視して徒歩で市外へ避難しようとしていた市民と、これを止めようとした

  警察との間で小競り合いが発生し、所轄の新経堂署の警官が空に向けて空砲による

  威嚇射撃を行っている模様です」

  アナウンサーが興奮気味に原稿を読むと、議員たちはテレビを食い入るようにみつめた。

  「暴動発生の一歩手前ってわけですかね」

  高橋は下唇を噛み締めると、眉間に皺を寄せて呟いた。

  「そもそもこうした事態を想定した法的手当てが全く整備されてないから、こんなに混乱が

  起こるんですよ。激甚災害対策基本法や大規模地震災害対策措置法では、とても対応しきれんですよ。

  やっぱり関連法制の整備が急務だなぁ。まずは、モラトリアム、つまり支払猶予令みたいなものを

  国会の議決があれば発動できるような体制にしておかないと・・・・・・

  今回、政府が採った休日化措置は、関連省庁の多数の通達を駆使して、四苦八苦

  しながら、なんとか法的効力を持たせたわけですけど、結果的に国会の議決を経ていないから、

  限りなく違憲に近いグレーなものになってしまってますよ・・・・・総理は昭和天皇の

  ご大喪のときの対応を引き合いに出してましたけど、あのときも「昭和天皇の大喪の礼の日を

  休日とする法案」をちゃんと国会で可決しているんですよ・・・・・・」

  吾妻も腕組みをしながら、天井を見上げながら呟いた。

  「しかし、NERVも思い切ったことしますね。戦自のつくば技術研究本部で開発中の

  陽電子砲を徴発するなんて・・・・戦自もよく黙って貸したもんですね?」

  高橋は椅子をくるっと回転させると、テーブルの上の缶入りお茶「はんなり茶」に

  手を伸ばしかけている吾妻を見つめた。 

  「戦自だって、「快く」貸したわけじゃないみたいですよ。なにしろ多額の開発予算を

  つぎ込んで、漸く試作機が完成した途端にも有無を言わさず持ってかれたわけですからね。

  きっと、NERVへの対抗心をむき出しにして、大型ロボット開発のピッチを

  上げるに決まってますよ。しかし、確かあの開発プロジェクトも、つくばで手がけていた

  はずだから、もしかしたら、NERVも今回徴発に入ったときに、薄々、戦自のロボット

  開発に気づいたかもしれないなぁ・・・・」 

  吾妻はお茶に向かって伸ばしていた手を引っ込めると、少し髭が濃くなってきた顎を

  下から上に2、3度撫で上げながら、高橋を見つめた。

  会議室の扉が開き、党本部の職員の女性が、料亭から届けられた折詰の弁当を

  議員たちに配りはじめると、少しだけ室内の緊張感が和らいだ。

  「しかし、また野党からは、決まり文句のように「政府の対応の遅れ」を批判する声が

  上がるんだろうなぁ。また財政委員会の質疑がストップするねぇ、こりゃ。ただでさえ、

  今年の予算審議は目茶苦茶遅れてて、暫定予算組んでるってのに・・・・参ったね・・・」

  「でも、解散が近くない分だけ、不幸中の幸いってもんさ」

  「いやいや、本予算が成立した後、むしろ今回の件を梃子にして、国防予算の増額をメインにした

  補正予算を組ませるように執行部に圧力をかけていけばいいんじゃないか。転んでも

  ただでは起きないようじゃなきゃ駄目だ・・・」
  
  まだ使徒を倒していないというのに、その後の党利党略を茶飲み話のように

  繰り広げている議員たちを目の当たりにして、高橋は愕然とした。

  (・・・・・ここの人たちは、使徒の脅威を局地的な自然災害くらいにしか考えてない・・・・

  ・・・・・・使徒が襲ってくる理由も、何を狙っているのかも、全くわかってないっていうのに・・・・

  ・・・・・・こんなんでほんとに使徒から市民を護ることができるのか・・・・・)

  高橋が厳しい表情で立ち上がろうとしたとき、吾妻から背広の据を引っ張られた。
 
  はっとして吾妻の方を見ると、吾妻は真剣な目で黙って首を横に振ってみせた。

  浮かせかけていた腰を再び椅子に沈めた高橋は、奥歯を噛み締めながら、目を瞑って、

  こみ上げてくる思いを押さえた。      

  


  同じ頃、第2新東京市中心部にそびえている日本重化学工業共同体の研究所の一室では、

  時田シロウがコーヒーを飲みながら、テレビを眺めていた。

  (使徒の度重なる襲来か・・・・こんなに対応が混乱しているところをみると、

  どうやらNERVのエヴァンゲリオンでも、今回の使徒は退治できなかったようだな・・・・

  日本中の電気を使うっていうことは・・・・・そうか、分かったぞ!!・・・・・・・・

  戦自の陽電子砲を使って、使徒のATフィールドを貫いて攻撃するつもりだな!!・・・・

  しかし、陽電子砲は、試作機の段階のはず・・・・そんなに大容量の電力を使って

  大丈夫なのか?・・・・・・ま、ここはNERVのお手並み拝見といくか・・・・・・

  しかし、残念だな・・・ジェット・アローンが完成してれば、エヴァの代わりに

  陽電子砲で使徒を倒してみせて、世界中にわが国産業の技術力復活を印象づける

  良い機会だったのに・・・・・ま、焦ることはないさ・・・・・もうJAは殆ど開発が

  完了してるんだから・・・・・あとの課題は、いかにしてATフィールドの発生装置を

  JAに搭載するかという点だけだな・・・・・憲法擁護庁がNERVの協力者から入手した

  内部資料だけでは、まだ発生原理が十分には分からない・・・・・まだまだ研究しないとな・・・・・

  石河のおやじさん、おばさん、もうすぐこの俺が桧舞台に上がります。そしたら、おじさんたちに

  そして世の中に、恩返しをすることができます・・・・・待ってて下さい・・・・・・)

  時田はコーヒーを飲み終えると、椅子からゆっくりと立ちあがり、開発資料のファイルを収納した

  キャビネットに施錠すると、テレビのスイッチを消した。

  「そろそろ家に帰るとするかな・・・・今晩は電気も来ないから、蝋燭でもともして

  晩餐とでも洒落込むとしますかね・・・・ま、料理がテイクアウトのピザだってことと、

  男ひとりってのが玉に傷ですがね・・・・ははは・・・・・」

  独り言を呟くと、時田は部屋の明かりを消して、研究室の扉に鍵を掛けた。

  廊下には、多くの研究員たちが殆ど手ぶらに近い状態で帰り支度をして歩いている。

  「あ、時田さんももうお帰りですか? 今日はみなさん早いですね」

  直属の部下の和泉が少し嬉しそうに声を掛けてきた。

  「ああ、そうだよ。電気止まっちまったら、コンピューターもただの箱だからね。

  足元の明るいうちに家に帰ってゆっくり飯でも食うとするよ」

  時田は苦笑いをしながら、まだ若い部下を眺めた。

  「そうですね。こんなところで、電気が止まって閉じ込められちゃかなわないですからね。

  あ、時田さんも、持ち帰りなさらないんですか?」

  和泉は時田が全くの手ぶらなのをみて、不思議そうな顔をした。

  「ああ、こんな時に持ち帰りでもして、資料を紛失してみろ、えらい騒ぎになるからね。

  こんな時は、飯食って、早く寝て、普段不足してる睡眠時間を回復する方が賢明ってもんさ。

  それにしても、こんなに早く帰るのは久しぶりだね。全く、使徒のおかげってことかね、

  皮肉なもんだよ、はははは。じゃ、俺は退散するよ。お先に!! 運が良かったら、

  あさって会おう!!」

  時田は和泉に向かって破顔一笑すると、研究所のエレベーターホールに向かって大股で歩いていった。

  (・・・・JA開発・・・・これが成功すれば、わが国の「セカンドインパクト後」は

  ようやく終わる・・・・・・産業の復興、海外市場への再進出によって、国民の所得水準を引き上げる

  ことができる・・・・・・・それだけじゃない・・・・・兵器の国産化によって、国連での

  わが国の発言力強化も可能なんだ・・・・・・欧米の大国に牛耳られている現状を打破することが

  可能になるんだ・・・・・・もうNERVに、国内で勝手なことはさせないぞ・・・・・

  ・・・・・・俺たち日本人エンジニアの手で、本当の新世紀を拓くんだ・・・・・・)

  時田はエレベーターに乗り込むと、B2と書かれているボタンを力強く押した。





  「・・・・おい、ユリコ、リエちゃんはどこ行った?・・・・・」

  既に市民たちで一杯の新駒沢郵便局地下のシェルターの真ん中あたりで、

  初瀬はユリコに怪訝そうに尋ねた。

  「あれ? さっきまでその辺に座ってたよ。トイレにでも行ったんじゃないの?」

  ビニール製のレジャーシートの上に靴を脱いで寝転がって、少女向け漫画雑誌を

  読んでいたユリコは、あたりをきょろきょろと見回した。

  「・・・・そうか・・・・・それならいいんだが・・・・・・」

  初瀬は一抹の不安を感じながらも、再び手元の雑誌「月刊 コンビニ経営」に

  視線を落とした。

  今回は避難するまでにたっぷりと時間的余裕があったため、人々は貴重品だけでなく、

  雑誌、携帯用ゲーム機、小型将棋盤、カップラーメン、スナック菓子、さらには

  枕や寝袋のほか、アルバムから仏像、先祖の位牌まで持ち込んでいた。

  まるでフリーマーケットが開かれているかのような雑然とした雰囲気の中で、

  リエは漫画に夢中になっているユリコの傍から離れてシェルターの出入口に向かっていた。

  まだ閉鎖時刻になっていないため、たくさんの市民たちが家に荷物を取りに戻ったり、あるいは

  シェルターに入ってきたりして、シェルターの出入口はごった返している。

  リエは素早くそこを通り抜けると、自宅の方向に全力で走った。

  しばらく駆けつづけて自宅の前に差し掛かったが、リエは立ち止まることなく、裏山への遊歩道を

  駆け上っていった。

  (・・・・・私・・・・綾波さんや碇君がどんなふうに闘っているのか全然知らない・・・・・・

  ・・・・・・だから、綾波さんの苦しみをわかってあげられないんだ・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・怖いけど・・・・・・怪我するかもしれないけど・・・・見なきゃいけないよ・・・

  ・・・・・・そうでないと、綾波さんの辛さや苦しみを本当にわかってあげられないような気がする

  ・・・・・・お父さん・・・・もし、ここにお父さんがいたら、きっと許してくれるよね・・・・・)

  リエは荒い息を吐きながら、裏山を駆け上っていった。

  疲れて途中で歩いたりしながらも、ほぼ1時間をかけて遊歩道を登っていき、  

  ようやく山頂に近づいたとき、リエはいきなりライトの照射を受けて、顔を覆って立ちすくんだ。

  「こんなときに、ここで何してる!?」

  野戦服姿の2〜3名の戦自隊員が銃を構えながら駈け寄ってくる。

  「あ、わ、私、エヴァと使徒の闘い、見たかったから・・・・」

  戦自隊員の厳しい声にリエはすくみ上がって、思わず後ずさりした。

  「なんだと?! 一体、戦闘をなんだと思ってるんだ!? これはゲームじゃないんだぞ!!

  わかってるのか、おいっ!? ちょっとこっち来いっ!!」

  戦自隊員はリエの傍まで来ると、肩先を掴んで顔を覗き込んだ。

  「ん? もしかして、あんた、リエちゃんじゃないか? 俺だよ、俺!! 初瀬のどら息子!!」

  戦自隊員は驚いてように眼を見開くと、一転して、懐かしそうな表情をみせた。

  「あっ、ユリコのお兄ちゃん!! ど、どうして、こんなとこに・・・・」

  リエはあっけにとられて、迷彩服姿の初瀬カツノリの顔を見上げて硬直した。

  「今回の使徒については、戦闘はNERVが担当するんだけど、周辺地区の治安維持なんかは

  警察と戦自が共同で担当してるんだ。で、警察は市街地、戦自はこうした山ん中の警備・哨戒を

  分担してるのさ。それより、なんだって、戦闘を見たいなんて気になったんだい?

  リエちゃんがミリタリーマニアだとは、到底思えないけど・・・・・」

  カツノリはリエを伴って、機材が置かれて火が焚かれている場所に向かって歩きながら、

  不思議そうに尋ねた。

  「NERVのエヴァには、私のクラスメートの男の子と女の子がパイロットとして

  乗ってるんです。今回の使徒は強力だって聞いたから・・・・・私、心配で・・・・・

  でも私にできることなんて、遠くから見守ることぐらいだから・・・・・・・・・・・」

  1メートルほど先の地面を見つめながら歩いていたリエは、かすれた声で呟いた。

  「男の子は碇君とか言う子だろ? ユリコから聞いたよ。でも、女の子が乗ってたなんて、

  初耳だな。ユリコやリエちゃんと同じクラスなら、俺も名前くらいは知ってるかもしれないな」

  「あ・・・・カツノリさんは知らないかも・・・・去年、転校してきたばかりの子だから・・・・

  綾波さんって言うの、その子・・・・・」

  「なんだって!! じゃ、あの蒼い髪に紅い瞳の、色白の女の子がエヴァのパイロットだって!?

  そりゃほんとうかい?! 確かに親御さんはNERV職員だって聞いてたけど・・・・・」

  カツノリは目を丸くして、リエを見つめた。

  「え? 綾波さんを知ってるの? どうして?」

  リエも思わぬ展開にびっくりした表情でカツノリの次の言葉を待ちうけている。

  「この間、俺が休暇でこっちに戻ってきたときに、第3新東京駅で見かけたんだよ。

  清楚で芯が強そうで、そしてなんだかわからないけど、どうしても守ってあげたくなるような

  そんな可愛い子だったよ。あ、これ、他の人には内緒だぜ。戦自の奴がNERVのパイロットに

  好意を持ってるなんていうのは、あんまり褒められたことじゃねーからな・・・そうか、

  そうだったのか・・・・あの子がエヴァのパイロットとはねぇ・・・・・・あ、そうだ、

  くずくずしてられねぇや。リエちゃん、ほんとは市街地まで連れてかなきゃいけないんだけど、

  もう時間がないから、戦闘がおわるまで、ここで俺たちと一緒に待機しててくれよ」

  カツノリは慌てて立ち上がると、同僚を呼び集めた。

  「我々、初瀬班6名は、当初予定通り、戦闘中はこの場所で待機する。なお、先程保護した

  民間人1名は、本来は市街地のシェルターまで送り届ける必要があるが、往復所要時間を

  考慮すると、作戦行動に支障を来す可能性があるため、戦闘終了まで当班で保護する

  こととする。以上。それでは、再び配置に戻れ!!」

  カツノリは持ち場に向かって駆け戻っていく隊員たちの姿をみつめながら

  暫く漆黒の闇の中で立ち止まっていた。

  (・・・・・なんてことだよ・・・・・あの子がエヴァのパイロットだなんて・・・・・

  ・・・・・・あんな華奢な女の子をエヴァに乗せるなんて・・・・・・・・・・・・・・
  
  ・・・・・・NERVは一体、何を考えてるんだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

  カツノリは、はるか遠く二子山があると思われる方角に目を向けると、固い表情で闇を

  睨み付けた。




  新駒沢郵便局の地下のシェルターでは、リエを探して走り回っていた初瀬が

  疲れ果てた表情で、ユリコの元に戻ってきた。

  「どうだった? リエ、見つかった?」

  ユリコは父親に駈け寄って心配そうな表情で尋ねた。

  「ああ。あんまり見つからないから、防災課の職員に聞いてみたよ・・・・・

  リエちゃん、火打沢遊歩道で警戒中の戦自の隊員に保護されたそうだ・・・・

  ・・・・まったく無茶なことをする・・・・・」

  「えっ、なんでそんなとこにリエが・・・・・どうして・・・・・・」

  絶句するユリコに向かって、初瀬はため息とともに呟いた。

  「・・・・・どうやら、友達の闘い振りを見届けたかったらしい・・・・・

  よほど心配だったらしいな・・・・・なにはともあれ、一安心だ・・・・・」

  初瀬はレジャーシートにどすっと腰を下ろすと、店から持ってきた天然飲料水

  「EBIYAN」のペットボトルを引き寄せて紙コップに注ぎ、ぐいっと一気に飲み干した。

  「・・・・・どうやら、運良く、こっちに来てたバカがリエちゃんを保護

  したらしい・・・・・よりによってこんな危険なところに派遣されてきやがって・・・・」

  初瀬は忌々しそうに吐き捨てると、再び「月刊 コンビニ経営」を読み始めた。

   が、視線は単に字面を追っているだけで、内容は頭には入っていない。

  「もしかして、お兄ちゃんがこっちに出動してるの? そうなのね!?・・・・・・

  お兄ちゃん、大丈夫かしら? 使徒とエヴァの戦闘に巻き込まれて怪我とかしなきゃいいけど・・・・・」

  ユリコは少しだけ眉をひそめて、心配そうにコンクリート製の天井を見上げた。

  「・・・・あんな奴のことなんかほっとけ!!・・・・どこでくたばろうが、俺たちの

  知ったことじゃないっ!!・・・・俺はあいつがうちを飛び出したときに

  もう死んだものとしてあきらめてるっ!!・・・・そんな奴の心配なんてするなっ!!・・・・」

  初瀬は雑誌から顔を上げると、珍しく強い口調でユリコを睨み付けた。

  「なんでいつもいつもお父さんは、お兄ちゃんのことを悪く言うのよ!! たったひとりの

  息子でしょ!? お母さんが亡くなってから、ずっとあたしたち3人で暮らしてきたんじゃない!?

  それなのに、お兄ちゃんが自分の好きなことしたくて家を出た途端に、死んだものと決め付ける

  なんで、ひどいよぉ!! ほんとは、お父さんはお兄ちゃんのこと、すごく心配なんでしょ?!

  だったら、なんでそんなひどいこと言うのよ!? お兄ちゃんが電話してきたときも、

  電話に出ようとしないでいて、それでいてあたしの後ろでわざとらしく頭痛薬なんか探して
  
  電話を立ち聞きしたりして、ほんっとに素直じゃないんだからぁ!! そんなんじゃ、

  歳とったら、頑固じいさんになって、みんなに嫌われちゃうよ!! ねぇ、わかってるの!?」

  ユリコは顔を紅潮させて、初瀬を睨み返した。

  そのまま初瀬とユリコはしばらく無言で睨み合っていたが、やがて初瀬は売り物の耳栓を

  取り出して耳に詰めると、レジャーシートにごろりと横になって眼を閉じてしまった。

  「あっ、また寝た振りしてる・・・・いっつも、自分の旗色が悪くなるとこうなんだから・・・」

  ユリコは、狸寝入りを決め込んでいる父親の向こう脛を思いっきり蹴飛ばすと、

  再び雑誌を手にとって、ばらぱらとページをめくり始めた。

  その足元で、初瀬は歯を食いしばったまま、ぷるぷると震えて痛みに耐えていた。

   


  火打沢遊歩道の一角で、リエはカツノリやその他の戦自隊員たちと一緒に、

  たき火を囲んで座っていた。リエが保護されてから、既に3時間半が経過している。

  「・・・・そろそろモニターを点けるか・・・・・おい、榊(サカキ)、パラボラの準備はいいか?」

  カツノリは振り向くと、先ほどから機材の調整を続けている隊員に声を掛けた。

  「完璧っすよ!! 旧街道沿いに展開している本隊からの映像、ばっちり受信してます!!」

  榊二等陸士はにっこり笑うと、モニターのスイッチを入れた。

  隊員たちとリエが見つめる中で、モニターには二子山の麓に展開している本隊から送られてくる

  映像が映し出されている。

  「おおっ、あれがエヴァか!!・・・・・いつのまに2機も作ってやがったんだ?・・・・・・」

  カツノリはモニターを食い入るように見つめた。

  月を背にして2機のエヴァが並んで立っており、その肩先とおぼしき部分に人影が見える。

  どうやら腰を下ろしているようだ。

  しばらくすると、そのうちのひとりが立ち上がった。

  女性の体型の美しいラインが月光を背にして浮かび上がる。

  「あっ、綾波さんだ!!」

  リエは思わず大声を上げた。カツノリも身を乗り出している。

  戦自本隊のカメラもレイに焦点を合わせていくため、徐々に白いプラグスーツを着たレイの姿が

  鮮明にモニターに映し出されていく。

  (あれがパイロットの綾波さん・・・・学校で見る綾波さんとは違う人みたい・・・・)

  リエは立ち上がったレイが何かを話しているのに気づいた。

  さすがに声は聞こえない。

  (・・・・・話し掛けられてるのはたぶん碇君ね・・・・・何て言ってるのかしら・・・・・)

  リエはレイの唇の動きをじっと見つめた。

  (・・・・・よくわからないけど・・・・さよならって言ってるような気がする・・・・・・

  ・・・・・・さよなら、か・・・・・・・・・なんて寂しい言葉なの・・・・・・・・・・・)

  リエは、身を翻して視界から消えていくレイの後ろ姿を、胸が締め付けられるような

  想いでじっと見つめつづけていた。

  「バッテリーは大丈夫だろうな? 停電の最中に切れたりしたら、目も当てられないからな」

  部下に注意を促すカツノリの声で、リエははっと我に返った。

  「大丈夫です。あっ、そろそろ停電の時間になります」

  榊の声が終わらないうちに、眼下に瞬いていた第3新東京市の灯火が潮の引くように消えはじめた。

  「本隊から連絡入りました。只今、全国が停電したそうです」

  本部からの無線電話に応対していた韓崎(カラサキ)二等陸士がカツノリに向かって大声で

  叫んだ。

  「いよいよ、だな・・・・・泣いても笑っても、この数分が勝負ってわけか・・・・・」

  カツノリが緊張して上ずった声で呟く。

  モニターの画面では、初号機が陽電子砲を構え、そのすぐ前方で零号機が盾を持って立っている

  姿が映し出されている。

  (・・・・・綾波さん、碇君、がんばって・・・・・)

  リエは胸のあたりで両手を固く組みあわせ、瞬きもせずに画面を凝視した。

  数秒間、画面には全く動きがなかった。

  戦自本隊のカメラが長尾峠レーダーサイトからの望遠に切り替わり、使徒とエヴァの双方が

  画面に現れた瞬間、立方体状の使徒が先手を打って過粒子砲を放った。

  「あっ、奴め、先に射ちやがったぞ!!」

  戦自隊員たちが一斉にどよめく。

  まばゆいばかりの光の帯が第3新東京市上空から芦ノ湖に伸びたとき、

  初号機が陽電子砲を応射した。

  二つの光の帯は芦ノ湖の上空で一瞬ぶつかりそうになり、互いに上下にそれて直進していった。

  「やばいっ!! 外したっ!!」

  使徒から少し離れた市街地と、二子山の中腹に赤々とした紅蓮の炎が立ち上った。

  「まずいぞ、こりゃ!! 陽電子砲は一回射撃すると、しばらくの間は二射目が射てないんだ!!」

  カツノリは大声を上げると、思わず立ち上がった。

  隊員たちもリエも総立ちになって、画面を見守る。

  近接映像に切り換えられた画面の中では、初号機が慌ててヒューズを交換し撃鉄を起こして

  いる姿が映っている。

  (・・・・碇君、お願い、がんばって!!・・・・)

  リエは祈るような気持ちでモニター画面を見つめている。

  その願いも虚しく、使徒の方が先に第二射を射った。

  遮るものもなく、軽々と芦ノ湖を飛び越えた光の帯は、初号機に襲い掛かろうとした。

  と、その時、零号機が盾を持って、初号機の前に立ちはだかった。

  「あっ、綾波さんがっっ!!」

  リエは思わずモニター画面に駈け寄ろうとして、カツノリに後ろから抱きとめられた。

  過粒子砲を受けた零号機の盾は見る見るうちに溶解していく。

  「ああーっ!! 盾が融けてなくなるっ!! 綾波さんに当たっちゃう!!」

  零号機がすっかり盾を失ったのを見て、リエが悲痛な叫び声を上げる。

  「おおっ、自分の体で過粒子砲を受け止めてるぞっ!! もう何秒も持たないぞっ!!」

  隊員たちもモニター画面に近寄って身じろぎもせずに、過粒子砲の直射を浴び始めた零号機を

  辛そうに眺める。

  (綾波さん、がんばって!! 死んじゃ駄目よ!! また私たちのところに還ってきて!! お願い!!)

  リエが目に涙を溜めて、刻一刻と損傷がひどくなっていく零号機を見つめていたとき、

  初号機がようやく陽電子砲を放った。

  二子山から真っ直ぐに伸びた光の帯は、芦ノ湖を一跨ぎして、使徒の側面を貫いた。

  使徒は赤々とした炎とどす黒い煙を吐きながら、ゆっくりと市街地に落下していき、その直後、

  リエたちの足元にも微かな地響きが伝わってきた。

  「やったー!! やったぞ!! 使徒に勝ったんだ!! これで死なんですむ!!」

  跳ね回り、あるいは抱き合って喜ぶ隊員たちの傍で、リエは茫然と涙を流しながら

  近接映像に切り換えられたモニター画面を見つめつづけた。 

  画面の中では、満身創痍になった零号機が力尽きて初号機の足元に崩れ落ちていく姿が

  アップで映っている。

  すぐに初号機が零号機の背中の装甲を剥ぎ取り、エントリープラグを引き出す。

  (あっ、碇君だ!!)

  リエは、初号機のエントリープラグから出てきたシンジが、盛んに蒸気を吹き上げている零号機の

  エントリープラグに向かって駈け寄っていくのを見た。

  エントリープラグのハッチに触れたシンジの手は、一瞬、ぱっと反射的に引っ込められたが、

  すぐに強くハッチのノブを強く掴みなおした。

  たちまちプラグスーツから煙が上がり始め、シンジは苦痛に顔を歪めた。

  しかし、その手は力強く、ノブを回しつづけている。

  (・・・・碇君、熱そう・・・・大丈夫かしら・・・・それにあんな熱・・・・綾波さんは・・・・)

  リエは最悪の事態を予想して、立っていられずに顔を覆ってしゃがみこんだ。

  さっきまで騒いでいた隊員たちも、シンジの様子を息を呑んで眺めている。

  ようやくハッチが開き、シンジがエントリープラグ内に身を乗り出した。

  しばらくそのままの姿勢でいたシンジは、やがてプラグ内に入ると、

  レイに肩を貸してハッチから姿を現した。

  (良かった!! 綾波さん、生きてる!! 良かった!! 良かった!! また会える!! 

  この前のこと、謝れる!!)

  差し伸べられたカツノリの手にすがって立ち上がったリエは、カツノリの胸に顔を埋めて

  声を上げて泣き出した。 





  新駒沢郵便局の地下シェルターは、電気が消えて暗闇に包まれたとき、それまで聞こえていた

  話し声がぴたりと止み、細い針を落としても響くような、底知れない静寂に包まれた。

  暗闇の中でユリコは思わず初瀬に抱きつき、初瀬も娘を強く抱きしめて息を呑む。

  少し間を置いて、轟音が二回響いた。

  天井からコンクリートの小片や塵が降り注ぎ、足元からは大きな地響きが伝わってくる。

  一瞬にして、静寂は悲鳴に取って代わり、シェルター内はパニック状態に陥った。

  「シェルターが潰れるんじゃないかっ!?」

  切羽詰まった男の叫び声を聞いた人々は、慌てて立ち上がり、無我夢中で出口に向かって殺到する。

  あちこちで足や手を踏まれた人々の悲鳴が響き渡り、さらに地上へと続く階段で

  老人が転んだために将棋倒しが発生した。

  人々が互いに押しのけあい、一部では殴り合いまで起こっている阿鼻叫喚の有様をみて、

  初瀬は娘の顔を自分の胸に押し当て、その凄惨な姿を見せないようしていた。

  (・・・・・これは・・・・15年前と一緒だ・・・・・なんてことだ・・・・・)

  人々の叫び声と悲鳴がこだまするシェルター内に放送が流れた。

  「こちらは第3新東京市防災課です。政府の発表によりますと、特務機関NERVが

  使徒との戦闘に勝利したため、特別非常事態宣言が解除されたとのことです。繰り返します・・・」

  再び、一瞬の静寂が訪れ、そして今度は歓声と拍手、そして「ばんざーい!!」という叫び声で、

  シェルター内は沸き返った。

  さっきまでの憎しみと対立はどこへやら、今度は見知らぬ人同士が涙を流して抱き合って

  喜んでいる。

  (・・・・・・ったく、人間ってやつは、どこまで調子良くできるんだろうなぁ・・・・・・

  ま、なにはともあれ、生きて明日のお天道様を眺められるってのはありがたいこった・・・・・・)

  初瀬は目を何度もごしごしとこすると、ユリコを抱きしめていた手の力を緩めた。

  「・・・・お父さん・・・・私たち、助かったの?・・・・・」

  見上げたユリコが目にしたのは、頑固な父親が鼻をすすっている光景だった。

  「・・・・ああ、助かったようだ・・・・・また死に場所を得られなかったな・・・・・・」

  口ではそう言いながらも、初瀬の頬は明らかに緩んでいる。

  「・・・・・お父さん・・・・・明日、お店、早く開けようね・・・・・・」

 (・・・どうして私、こんなこと言ってるんだろ? もっと他に気の利いたこと言えないのかしら?

  ・・・・もしかして、これもお父さんの遺伝かな・・・・・・・・)

  ユリコは、そんなことを思いながらも、父親に向かって最上級の笑顔で微笑みかけていた。





  使徒がゆっくりと傾いて市街地に落下していく様子を、高橋は自改党本部の会議室の

  大画面モニターを通じて身じろぎもせずに眺めていた。

  「・・・・・終わったようだな・・・・・さて、家に帰って風呂にでも入るとするか・・・・・」

  「・・・・・やれやれ、こんな遅くまで缶詰にされるとはね。もうちょっと迅速に処理できんもんかねぇ。

  NERVは、普段いばりくさっているくせに、いざというときにこのざまじゃ、先が思いやられるわい」

  会議室内の議員たちは、三々五々立ち上がると書類をまとめて退室していった。

  (・・・・・取り敢えず、終わったな・・・・・目前の危機は去った・・・・・・・・

  ・・・・・・だが、また新たな闘いが始まるさ・・・・・NERV、戦自、そして憲法擁護庁が

  三つ巴になって争うってわけだ・・・・・・俺も万田長官からの誘いに応じるかどうか、

  遠からず腹をくくらにゃならねえな・・・・どっちにしてもリエにはつらい思いをさせることに

  なっちまうかもな・・・・・それにしても、人類補完委員会って、一体、何者なんだ?・・・・

  ・・・・・・何を企んでるんだ?・・・・・まずは、そいつをあぶり出さないといけないような

  気がするな・・・・・・やれやれ、これから市議選も控えてるってのに、忙しくなりそうだな・・・・)

  高橋はため息をついて、テーブルの上の飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばした。

  「・・・・・終わりましたね・・・・・この後始末、えらいことになりますよ・・・・・

  ・・・・・・ま、NERVも、政府にこれだけ大がかりな要請を出してしまった以上、政府から

  いろいろと根掘り葉掘り聴かれるのは覚悟してるでしょうけどね・・・・・・ 」

  吾妻は疲れて脂の浮いた顔で、高橋に向かって笑ってみせた。

  「・・・・・彼らのことです。どうせ、まともに取り合いませんよ。そこをなんとかするのは、

  国会の役目ですよ。しっかりとお願いしますよ!!」

  高橋は椅子から立ちあがって背伸びをすると、窓の傍に立って第2新東京市の夜景を

  じっと眺めはじめた。

  「おお、もう電気が点きはじめたようですよ、吾妻さん!!」

  高橋の指差す先では、次々と街灯や信号機に光が戻っている。

  「ああ、そうですね。これでようやくテレビを見れますよ。さてと、我々も引き揚げるとしますか。

  今夜は遅いから、うちに泊って下さい。そうだ、今夜は久しぶりに飲み明かしますか?」

  吾妻が憑き物の落ちたような晴れ晴れとした顔で、高橋に微笑みかける。

  「あ、そりゃ、いい考えですね!! 吾妻さんと差し向かいで飲むのは、お父上のお通夜の晩以来

  ですね。今夜は、お父上の思い出話でもしますかね・・・・・バーボンでも頂きながら・・・・」

  高橋は缶コーヒーを飲み干して、空缶をぐしゃっと握り潰すと、吾妻に向かってにやりと笑った。




  

  翌日、金融機関や学校が休日となる一方、商店は早々と店を開き、いつもの土日とさして

  変わらないような一日が始まった。

  たったひとつ、いつもと違うのは市街地の中心部に落下した使徒の残骸と、それを処理するために

  忙しく走り回るNERVの車両の存在だった。

  
  
  リエは午前8時頃に新駒沢の自宅に戻った。

  あのあと、リエはカツノリとともに下山し、戦自本隊経由で第3新東京市警に身柄を引き渡され、

  高橋の知合いの署長から、こってり油を絞られたあと、パトカーで自宅まで送り届けられてきた。

  山道を走りまわったりして汗をかいていたので、さっそくシャワーを浴び、ようやく爽快な

  気分になって髪を乾かしているとき、自室のコードレス電話が鳴り出した。

  「あ、もしもし、高橋ですけど・・・・」

  「あ、リエ!! あんた、昨夜、どこ行っちゃったのよ!? こっちはすごく心配したんだからね!!」

  受話器の中から今にも飛び出てきそうな剣幕で、ユリコが怒っている。

  「あ、ごめん、ごめん・・・・綾波さんたちの戦いを私も見ておきたかったから・・・・・

  そうでないと、綾波さんや碇君の苦しみを理解してあげられないような気がしたから・・・・・

  ほんと、心配かけちゃって、ごめんね・・・・」

  「まあ、事情は理解できるけどさ・・・・あんまり心配させないでよ・・・・・・

  あ、そうそう、聞いた、綾波さんが中央病院に入院したってこと? 碇君が鈴原君のところに

  電話してきたのよ。それでね、鈴原君とヒカリが、みんなで綾波さんのお見舞いに行こうって

  言い出したの。リエも来るよね?」

  ユリコの話を聞いているうち、リエの瞳は輝きを増しはじめた。

  「うんうん、行くよ!! 絶対行く!! 何時にどこに集まるの?」

  リエの弾んだ声が、朝日のさし込んでいる部屋の中に明るく響く。

  「取り敢えず、11時にうちのお店に集合ってことになってるの。お父さんが車で送って

  くれるって言ってるから・・・・」

  「わかったわ!! じゃ、そっちに行くね!! あ、そうだっ!! ひとつ聞きたいんだけど、

  今日は本部の配送センターから商品は送られてきてるの? 」

  リエは少しだけ心配そうに、小首を僅かに傾けた。

  「うん、コンビニって、やっぱりすごいよね!! 交通規制が解除されたら、もう早速、商品が

  送られてきてるのよ。大したもんよねぇ!!」
 
  ユリコの感心したような声を聞きながら、リエは安心したように優しく微笑んだ。
  
  「ふーん、そうなんだ。私、昨夜から何も食べてないのよ。だから、そっちに着いたら、

  ちょっと買い物しようと思って・・・・」

  朝日が輝きを増していく中で、リエは晴れ晴れとした顔で、少し乱れた前髪をさらりと

  かきあげた。



   
  「それじゃ、ノックするわよ」

  ヒカリが少し緊張した顔で、クラスメートたちを見回した。

  少女たちだけでなく、トウジやケンスケまでが真剣な顔で黙って肯く。

  ヒカリは病室のドアに手を伸ばしたものの、ノックするのを僅かにためらって、手を止めてしまった。

  「委員長、はよせいや!! こんなんやったら、日が暮れてまうで!!」

  「わ、わかってるわよ!! 今、ノックするところなんだからぁ!! もうっ!!」

  トウジに急かされて、ようやくヒカリは病室の扉をコンコンとノックした。

  「はい。どうぞ」

  病室の中から聞こえてきたのは、シンジの声だった。

  一同は、ちょっとほっとした表情で、それでもおずおずとドアを開けた。

  「あ、みんな来てくれたんだね!! ほら、綾波、みんながお見舞いに来てくれたよ!!」

  シンジはクラスメートたちとレイの顔を交互に、嬉しそうに眺めた。

  「・・・・・お見舞い?・・・・・・・」

  レイは、ベッドから身を起こすと不思議そうな表情で、シンジとクラスメートたちを見つめた。

  「そうだよ。みんな、綾波のこと、心配して来てくれたんだよ。みんな、綾波が生きてて

  良かったって思ってるんだよ!!」

  嬉しそうなシンジの声に、レイは少しだけ驚いたような顔で、クラスメートたちの顔を

  ひとりひとり眺めていった。

  (・・・・みんな、碇君と同じような表情・・・・・・・・・・

  ・・・・・私が生きてたことを喜んでるの?・・・・・・・・・

  ・・・・・どうして?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・私は、ヒトに悲しみや恐れを与えるモノ・・・・・・

  ・・・・・エヴァとの絆を守るため、偽りを言うモノ・・・・・

  ・・・・・ヒトに忌避されるべき存在・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・それなのに・・・・・・どうして・・・・・・・・・)

  レイは、どう反応して良いかわからず、ただ黙って目を伏せた。

  「なんや、せっかく助かったっちゅうのに、そんなしけた顔すんなや!!」

  トウジの元気の良い声に、レイは僅かに顔を上げた。

  すぐ目の前に立っていたリエと目が合った。

  リエは、レイと目が合うと、頬を少しだけ紅潮させながら、紙袋をレイの膝の上に置いた。

  「・・・・・・・これ、何?・・・・・・・」

  レイは膝の上の紙袋を怪訝そうに眺めた。

  「この前は、綾波さんに迷惑かけちゃってごめんなさい。あのあと、みんなで話し合ったの。

  綾波さんは、NERVのパイロットとして、私たちに嘘を言わなきゃいけない、つらい立場だった

  のに、私はそれをわかってあげられなかった。でもね、今度の使徒との戦い、私、この眼で

  はっきり見たの。見なきゃ、綾波さんの苦しみをわかってあげられないような気がしたから・・・・

  それで、よくわかったの・・・・ごめんね・・・・あんなつらい思いして、頑張ってるのに、

  今までわかってあげられなくて・・・・ほんとにごめんなさい・・・・・でも、でもね・・・・・

  綾波さんが無事で良かった・・・・戦自のモニターで融けた零号機を見たとき、私、心配で心配で

  思わず泣いちゃった・・・・ほんとにほんとに良かった・・・・・また会えて・・・・・・・・」

  リエはレイを見つめているうちに、また涙ぐんでしまった。

  (・・・・・高橋さん、泣いてる・・・・・・でも、悲しそうじゃない・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・今日の戦闘のとき、碇君も泣いてた・・・・悲しそうじゃなかった・・・・・・・

  ・・・・・・「自分にはほかに何もないなんて、そんなこと言うなよ」って言ってた・・・・・

  ・・・・・・これは絆・・・・・・確かに絆・・・・・エヴァ以外の、絆・・・・・・・・・・

  ・・・・・・私にもエヴァ以外の絆、あったのね・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・エヴァ以外の絆・・・・・胸が暖かくなるもの・・・・・心地良いもの・・・・・)

  レイは俯くのをやめて、リエを真っ直ぐに見つめた。

  その澄んだ紅い瞳には、初めて暖かく柔らかい眼差しが浮かんでいる。

  シンジは、そんなレイの様子を微笑みながら眺めている。

  (・・・・・昨日、僕に微笑んでくれてから、綾波が少し変わったような気がする・・・・・)

  リエは流れ出した涙をハンカチで拭うと、レイの膝に置いた紙袋を指差した。

  「これ、綾波さんがよく食べてた、クルミパン・・・戦闘の後で、おなか空いてると思って・・・」

  レイの脳裏に、初瀬からクルミパンをもらったときの記憶が甦り、そしてぽっと体が熱くなった。

  リエはレイを見つめながら、まだ泣いている。

  「・・・・・・なぜ泣いてるの?・・・・・・・」

  レイは、今まで誰も聞いたことの無いような優しい声で尋ねた。

  「・・・・・だって、だって・・・・・綾波さんに迷惑かけちゃったし、

  それに綾波さんが無事でいて嬉しいし・・・・いろんな気持ちが混ざっちゃって

  なんか涙が止まらないの・・・・・・・・・・・どうしよう・・・・・・・・・・」

  レイは、リエを見つめると、穏やかな顔で微笑んだ。

  「・・・・・笑えばいいと思うわ・・・・・・・」

  シンジ以外のクラスメート達は、レイの笑顔を息を呑んで茫然と見つめていた。

  シンジだけは、そんなレイを嬉しそうに見つめている。

  (・・・・・綾波、わかってくれたんだ、僕の言葉・・・・・・)

  クラスメートたちが驚愕した表情で自分をみつめているのを見て、レイはわずかに俯いてしまった。

  「・・・・・私、笑うと、変?・・・・・・」

  「何言い出すんや!! 仏頂面しとるより、笑った方がええに決まっとるわい!!」

  トウジが慌てて大声を上げる。

  「そうだよ。綾波は、笑った顔の方がよく似合うよ。」

  ケンスケも頭を掻いて、少し照れながら綾波に微笑みかける。

  「あたしも、いろいろきついこと言ってごめん。これからは仲良くしてね」

  リョウコがレイに向かって頭を下げると、レイはまた顔を上げて、にっこりと微笑んだ。

  「・・・・・いいの・・・・・あれは、明石さんが高橋さんを思う気持ち・・・・・

  ・・・・・・あなたは悪くないもの・・・・・」

  レイはユリコに視線を移すと、紙袋からクルミパンを取り出して、また微笑んだ。

  「・・・・・これ・・・・・おいしい・・・・・」

  「そ、そう?! じゃ、これからも毎日、買いに来てね!! おまけしちゃうから!!」

  ユリコも嬉しそうにレイに向かって笑った。

  「あの・・・・勉強のことなら心配しなくていいわよ。だから、元気になるまでゆっくりと

  休んでね。委員長として、しっかりサポートするから安心してね!」

  ヒカリは慣れないレイの微笑みに緊張して、明らかに頬を紅潮させている。

  「・・・・・・わからないところあったら、聞くから・・・・・・」

  レイはヒカリに向かっても暖かく微笑んだ。

  最後にレイはリエを再び見つめた。

  「・・・・・・あなたも笑わなきゃ、駄目・・・・・・」

  レイは、目を細めると、さらに暖かく嬉しそうに微笑んだ。

  「・・・・・・うん・・・・もう泣かない・・・・・綾波さん、これからはずっと一緒だよ!!」

  リエは涙の跡を頬に残しながら、にっこりと笑ってみせた。

  (・・・・・・胸が暖かい・・・・・・・これが嬉しいという感情?・・・・・・・

  ・・・・・・・とても快いもの・・・・・いつまでも続いてほしいもの・・・・・・

  ・・・・・・・私の絆・・・・・・・・・エヴァだけじゃなかった・・・・・・・・)  

  レイは、ほんのりと桜色に頬を染め、手に入れたばかりの新たな感情に身を委ねていた。 
  
 
 
    つづく
   
   

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