或いはひとつの可能性



第32話・朝色の涙





   体育の授業が終わり、2年A組の生徒たちは教室に戻った。

   リエは全身に疲労感を感じながら、机を動かしてリョウコと向かい合わせに座ると、

   登校時に初瀬のコンビニで買ったカレーパン、コロネ、ツナサンドを鞄から取り出した。

   「プールってほんとやだな・・・・もう少し回数、減るといいのに・・・・・」

   リエはツナサンドの包装を破りながら、ため息をついた。

   「セカンドインパクトの前までは、プールって1ヶ月くらいしか使えなかったんだって。

   でも、今は一年中暑いから、そういう訳には、ねぇ・・・・ま、あきらめてうまくなる

   しかないわね。」

   リョウコは、くすっと含み笑いをすると、リエを盗み見た。

   「またそういうこと言うんだからぁ・・・・あっ・・・・」

   教室の扉の開く音で、ふと振り向いたリエは、レイが心なしか俯き加減で

   窓際の席に向かって歩いていくのに気づいた。

   レイは、スカートの裾を軽く払って椅子に腰掛けると、頬杖を突いて窓の外を眺めはじめた。

   青い空の下、校庭のあちこちや校舎の屋上では、生徒たちが数人ずつ集まって

   昼食のひとときを過ごしている。

   風が運んでくる、その楽しそうな声を微かに聞きながら、レイは視線を

   遠くの山並みに移した。

   (・・・・・・山の向こう・・・・・使徒が現れる場所・・・・・

   ・・・・・・・使徒・・・・・・・・私たちの敵・・・・・エヴァの敵・・・・・

   ・・・・・・・敵が来なくなったら、エヴァは要らない・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・私の絆・・・・・・・いつか消えてしまうもの・・・・・・・・・)
        
   レイは、ゆっくりと瞬きをすると、頬杖をやめて、鞄からパンを取り出した。

   あのときから食べるようになった、クルミパンとクロワッサンを机の上に置いたレイは、

   クルミパンの包装に白い手を差し伸べ、そして、そのまま手を止めた。

   (・・・・・・クルミパン・・・・・ヒトとしての証・・・・・・・・

   ・・・・・・・この絆も許されないの?・・・・・・・・・・・・・)

   初瀬の無愛想な顔を脳裏に描きながら、レイはクルミパンの包装を破った。

   午後の陽射しを浴びながら、視線を伏せてパンを食べるレイを、リエとリョウコは

   見つめていた。

   (・・・・さっきは少し言いすぎたかな・・・・)

   (・・・・もう綾波さんと話すこともないのね・・・・)

  二人の少女は同時にレイのことを考えながら、それを口に出すこともできず、

  黙って昼食を取り始めた。



  シンジ、トウジ、ケンスケは、いつものように屋上にいた。

  トウジとケンスケは食堂のサンドイッチ、ヤキソバパン、バターロールを、

  シンジは早起きして自分が作った弁当を食べている。

  「あ、あのさ・・・さっきの話なんだけど・・・・・」

  シンジが、「ふと急に思い出した」というような様子を装って、話を切り出した。

  「なんや? わしがゆうべ食いすぎて腹を下したっていう話か? そないなことずっと考えとったんか?

   別にシンジが何考えようと自由やけど、めしどきにそれはちょっとなぁ・・・・」

  トウジは露骨に不快そうな顔をしてシンジを眺めた。

  「へ? い、いや、そうじゃなくて、さっきの綾波の人気の話だよ・・・・綾波が人気あるって

  本当なの? みんなそんな素振り、少しもみせないじゃない?」

  「ああ、その話かい。本当やで!!」

  「僕も、学校に来る途中、電車の中で他のクラスの奴が綾波のこと噂してるのを聞いたことがあるよ。

  綾波ってさ、客観的にみても美人だと思うよ。たださ、あの独特の、近づきがたい雰囲気があるだろ?

  だから、たいていの場合、「あの子、美人だよな」「ああ、綾波か? やめとけよ、変わりもん

  らしいって噂だぞ」ってことになって、そこから先に話が進まないのさ」

  そう言うと、ケンスケはバターロールをちぎって口に入れた。

  「そう言えば、綾波は今までにエヴァで出撃したことはあるんか?」

  「いや、まだないよ。綾波が乗るはずの零号機はまだ調整中なんだ・・・・起動試験が失敗したから・・・

  ・・・・そのときに綾波は大怪我したんだ・・・・」

  シンジは食べかけのミートボールと弁当箱に戻すと、コンクリートの地面を見つめた。

  (・・・・そうだ・・・・・あのとき、父さんが怪我をした綾波を助け出したんだ・・・・・) 
       
  「ああ、それで綾波は暫く包帯に松葉杖姿で学校に来とったんか! やっとわかったで・・・・」

  「あいつ、何にも言わないし、誰もあいつに聞こうっていう度胸のある奴もいなかったしね」

  「僕がここに来る前も、綾波はずっとあんなふうに過ごしてたの?」

  「そうや。転校してきたときの自己紹介のときも、自分の名前しか言わへんかったし、クラスの奴とも

  必要最小限のことしか話さんかったしな」

  「学校も結構休んでたからね・・・・でも先生が何も言わないから、みんな薄々、なにか事情があるって

  ことはだいたい勘付いていたけどね・・・・綾波に関心持ってるって知れただけで、変な目でみられる

  ようになっちゃうから、みんな口には出さなかったけどね・・・・」

  「そういや、確か1年のとき、綾波のことを生意気だって言うて、学校の帰りに待ち伏せて、

  いちゃもんつけようとした連中がおったけど、翌朝、みんな急にしゅんとおとなしゅうなって

  もうたなぁ・・・・何があったか、よう知らんけど、なんでもえらい怖い目に遭うたいう噂やったな・・・」

  「僕が察するところでは、綾波は大切なエヴァ・パイロットだろ? だから、NERVのことだ、

  きっと屈強な護衛をつけてるに違いないさ。そいつらに返り討ちにあったんだよ、きっと!

  NERVではそういう決まりになってるんだよな、シンジ?」

  ケンスケは眼鏡を日光で反射させながら、得意そうに胸を張った。

  「うん、一応、護衛はついているみたいだけど・・・・でも、僕はその気配すら感じたことないんだ・・・」

  「それは、よっぽとプロの腕だってことさ。確か、この間、山の中でシンジが僕のテントに泊ったとき、

  連れ戻しに来た保安諜報部が、その中でも精鋭を張り付けてるにちがいないよ!」   
        
  「そーかもしれへんなぁ。あ、ところで、シンジは午後の授業は出るんか?」

  「あ、今日もNERVに行かないと行けないんだよ。起動テストとかあるから・・・・」

  シンジはコーヒー牛乳を飲み込むと、少しだけ憂鬱そうにトウジに答えた。

  「それはそうと、シンジ、お前、勉強の方は大丈夫なのかよ? ここんとこ、かなり学校休んでるだろ?

  期末テスト、やばいんじゃないか?」

  「なんや、こないな時にテストの話なんぞ、すんなや!! あんなもん、できんかったって、

  大人にはなれるんやし、うちのおとんだって成績ようなかったらしいけど、今はこうして

  研究所で立派に働いとるで!! あの兵装ビルの重機関砲を開発したんも、うちのおとんたちや!!」

  「そう言えば、トウジの父さんは千歳重工の研究所に勤めてるんだったよね・・・・・

  あのさあ・・・綾波って、成績、どんな感じだったみたい? 結構休んでたんだよね、これまでは・・・」

  今更のように成績のことで頭が痛くなってきたシンジは、果汁100%のオレンジジュースを飲み終えて、

  その紙パックをつぶして折り畳んでいるケンスケに、おそるおそる尋ねてみた。

  「綾波? ああ、いつもトップクラスみたいだよ。そうそう、そういうこともあってさ、綾波には

  みんな近寄りがたい感じを持ってるみたいなんだよな・・・・でも、シンジは、同じパイロットだろ?

  NERVで待機してるときとか、勉強教えてもらえばいいんじゃないか?・・・・」

  「そらそーや! でも、「・・・そう・・・なにもわかってないのね・・・」とか言われて

  逆に落ち込むことになったりして、あははははは。さってと、ごっそさんでした!」

  トウジはニヤリと笑うと、風で吹き飛ばされて足元に散らばったパンの包装を拾い集めて

  白いビニール袋に入れた。

  「そうか、綾波って成績良いんだ・・・・・ふう・・・・・」

  「綾波も成績悪くて苦労してるみたいだ」という答えを密かに期待していたシンジは、

  絶望的な表情で天を見上げて、ため息をついた。

  (・・・・これで僕だけ成績悪かったら、ミサトさんにどやされそうだなぁ・・・・・

  ・・・・・誰かに勉強教えた貰ったほうがいいよな・・・・誰がいいんだろ?・・・・・ 

  ・・・・・やっぱり綾波に・・・・いや、やめとこう・・・・・リツコさんはどうかな?・・・・

  ・・・・・駄目だ!! 「こんなこともわかんないのっ?!」って眉を吊り上げて怒られそうだよ・・・

  ・・・・・青葉さんとか日向さんは・・・・駄目そうだなぁ・・・・・困ったなぁ・・・・・)

  「どうしたんや? 急に暗い顔になってもうて・・・・弁当に当たったか? 蒲鉾とかは気ぃつけんと

  当たるで! 足が速いさかいなぁ・・・わしもおとんの作った弁当で死にかけてから、こうして

  パン食うようにしとるんや」

  トウジは膝を抱えて座り込んでしまったシンジの顔を覗き込みながら、心配そうに尋ねた。

  (・・・・副司令は?・・・・そうだよ! 大学の助教授だったって話を聞いたことがあるじゃないか!!

  ・・・・・あ・・・・まずいな・・・・父さんに話が伝わるよ、きっと・・・・・困ったな・・・・・

  ・・・・・他には誰も頼める人、いないからなぁ・・・・・ミサトさんはあてにできないし・・・・)

  苦悩に顔を歪めているシンジは、マヤの存在をすっかり忘れていた。

  「どうせ成績のことだろ? 心配すんなって! 僕もトウジも、成績はセカンドインパクト状態

  だからさぁ」

  「そやそや! なーんも心配はいらへんで! 3人で歩けば地獄の針の山もこわくないで!」

  陽気にシンジを励ました二人であったが、内心は「僕(わし)もなんとかしないと(なんとかせんと)・・・」

  と、憂鬱な気分が急速に広がりつつあった。

  暗い表情で黙り込んでしまった少年たちの間を、蒸し暑い風が通り抜けていった。

  彼らの悩みはあまりにも深いものだった。

  

  夕刻、リエは、自宅のキッチンで、煮物にするための里芋の皮を包丁でむいていた。

  結局、昼食の間、リョウコとの会話はレイのことが気になってあまり弾まなかった。

  放課後も、リョウコが掃除当番に当たっていたので、リエはひとりで自宅へ帰ってきた。

  「ふぅ・・・やっと7つむけたわ・・・・ちょっと一休みしようっと・・・・」

  リエは包丁を置くと、水道の水で手を洗い、タオルで手を拭いた。

  キッチンには、里芋の土臭い匂いがほんの僅かに漂っている。

  リビングルームのソファに座ったリエは、リモコンでテレビを点けると、適当にチャンネルを

  変えはじめた。

  テレビの画面がケーブルテレビのものに変わったとき、リエは手を止めた。

  画面には、市議会の本会議の模様が流れている。

  「ご覧の通り、市議会では民協党の牛歩戦術によって、審議が大幅に長引いています。

  それでは、先程行われました財政委員会での強行採決の模様と本会議が混乱した場面を

  ご覧頂きましょう」

  アナウンサーの無表情な声が流れると、画面が切り替わり、委員会室の委員長席を取り囲んで

  大声で叫び、あるいはつかみ合いをしている議員たちの姿が映し出された。

  「あっ、お父さん!!」

  テレビカメラは、ねじ切られたネクタイを手に「やれやれ・・・」といった表情で、

  同僚議員に向かって苦笑する高橋の姿をとらえていた。

  「大丈夫かなぁ・・・・なんか大変そう・・・・がんばってね・・・・・」

  リエは、あきらめたような表情でネクタイをぶんぶんと振り回して委員会室から退出しようとしている

  父親の姿をじっと見つめていた。


  
  翌朝、洗面所からキッチンに戻る途中で、新聞を取りに玄関に出たとき、リエは父親の靴が脱ぎ散らかされて

  いるのを見つけ、書斎の方へそうっと足音を忍ばせて歩いていった。

  書斎の扉には「目覚しをセットしてあるから、起こさなくていい。議会は午後からだ。

  朝食は食べないから用意は不要」と、父親が大きく書きなぐった紙が貼られていた。

  そっと扉を開けて中を覗くと、父親はベッドでいびきをかいて熟睡していた。

  リエはそのままダイニングルームで、里芋の入った味噌汁を温めて、簡単な朝食をとると、

  制服に着替えて家を出た。

  
   
  校舎の入り口で靴を履き替えているとき、リエは自分の靴箱の上の段の「綾波」と書かれた

  名札に視線を走らせた。   

  (・・・・・やっぱり、駄目もとで、綾波さんに謝ってみようかな・・・・・でも・・・・・・・

  冷たく突き放されたら、やだな・・・・・・どうしよう・・・・やっぱり謝った方がいいよね・・・・

  綾波さんも仕方がなかったんだから・・・・そうよね、せっかく、仲良くなれそうだったんだもん・・・・

  それに、もっと仲良くなったら、きっといろんなこと、相談してくれるようになるよ・・・・・・

  きっと、友達になって、日が浅かったから、私たちにほんとのこと言い出しにくかったのよね・・・・・

  ・・・・・でも、緊張するなぁ・・・・・・)

  リエは教室の扉の前で、一瞬、扉を開けるのを躊躇したが、奥歯をきっと噛み締めると、

  思い切って扉を引いた。

  窓際の席は空いていた。

  「あ、おはよう!! どしたの、怖い顔して?」

  扉の開く音に振り返ったユリコは、不思議そうな顔でリエを見つめた。

  「おはよう・・・・あの・・・・綾波さんは?・・・・・」

  「綾波さんは今日はお休みよ。なんか用だったの?」

  「あ、そうなの?・・・・・あー、緊張して損したみたい・・・・・」

  リエはユリコに向かってほっとしたような顔で笑ってみせた。

  「おお、高橋。おはようさん! ちっといいか? あ、初瀬もこっち来てくれや」

  ヒカリやリョウコと立ち話をしていたトウジは、リエの声を聞いて振り返ると、にっこり笑って

  リエとユリコを手で差し招いた。

  「ん? どーしたのぉ? 朝から集まって、なんの話? まさか、鈴原君がケーキでも

  奢ってくれるとかぁ?! うっれしいわぁ!! ほら、リエ、行って見よーよ!!」

  ユリコは機嫌良く笑いながら、リエの手を引っ張って、トウジたちのところへ連れていった。   
  
  「われ、何言うとんじゃ?! そないな金があったら、ケンスケから借りたゲーム代、とっくに

  返しとるわい!! すまん、ケンスケ、今月の小遣いが出るまで、もちっと見逃してくれい!!」

  トウジは笑いながらユリコを一喝すると、ケンスケに向かって頭をかいみせた。

  「なあに、いいってことだよ。ところでさ、みんな揃ったから、例の話をしてくれよ」

  そんなトウジをみて、ケンスケもにっこりと微笑む。    
  
  「おお、忘れるところやった・・・・実はな、今日は、シンジも綾波もNERVでテストいうのが

  あって、学校は休みなんや。それで、ちょうどいい思ってな、ちっとばかり、みんなに話して

  おきたいことがあるんや・・・・」

  トウジは、一転して真面目な顔になると、4人の少女の顔を見渡した。

  「わしとケンスケは、この間、使徒が来たとき、シンジと一緒にエヴァの操縦室に入ったんや。

  それは、みんな、まだ覚えとるな? あのときの使徒は、ごっつでかいイカの化けもんみたいな奴で、

  ぴかぴか光る触手みたいなもんで、エヴァを攻撃してきよったんや。エヴァの仕組みは、わしらも

  よう知らんが、なんや攻撃を受けると、パイロットまで痛みを感じるようになっとるらしいんや。

  シンジは、ほんま辛そうで、わしらも見ておられんほどやった・・・・それで、わしら、シンジの

  苦しみがちっとは分かるようになったんや・・・・・それにな、近くで見る使徒は、えらい気持ち

  悪うて、鳥肌が立つくらいやったわ・・・・ああいうもんと戦こうてるシンジは、ほんま偉い思うで。

  あいつは、一旦はここから逃げていこうとして、新箱根湯本まで行ったんやが、わしらの、

  この第3新東京市を守るために、思い直して戻ってきてくれたんや! だから、わしは、シンジのことを

  悪く言う奴がおったら、絶対にパチキかましたろうと思とる! ところで、明石、お前も確か

  最初に襲ってきた使徒を、その目で見とったんやなぁ?」  

  「うん・・・・大きくて人みたいな姿してて、でも顔は仮面みたいで・・・・すごく怖かった・・・・」

  リョウコは、体をびくっとすくませると、怯えた目をした。

  トウジは、深くうなずいた。ケンスケも目を閉じて、唇を噛み締めている。

  「やっぱりそう思うたやろ・・・・エヴァのパイロットとして、いずれは、あんな化けもんと、

  綾波も戦うことになるんやで・・・・・それに、この間まで、あいつ、大層な怪我しとったやろ?

  昨日、シンジに聞いたんやけどな、あれはエヴァの起動試験のときの事故が原因なんやて・・・・

  あいつ、なんも言わんけど、相当、辛い思いしてんのとちゃうかなぁ・・・・どや、明石に高橋、

  もういい加減、綾波を堪忍してやったら、どうやろか? このままやと、なんや、わしらまで

  後味悪うてなぁ・・・・余計なお節介や思うかもしれへんけど、これまでのことは水に流して、

  仲直りしたってや・・・・・」

  「僕もトウジと同じ意見だね。あいつ、人付き合いが下手なだけで、根は悪い奴だとは思えないよ。

  だから、高橋や明石が話しかけるようになってから、ほんの少しずつだけど、変わってきたじゃないか。

  これからも、いろいろと面倒みてやったら、もっと僕たちに心を開いてくれるんじゃないかなぁ・・・」

  ケンスケは、椅子に腰掛けたまま、落ち着いた口調で淡々と話した。

  「・・・・・あたし・・・・・ちょっと言い過ぎたね・・・・・・」  

  リョウコは、少しうなだれて、小さな声で呟いた。

  「・・・・・私も、もっと、綾波さんのこと、考えてあげるべきだったわ・・・・・」

  俯きながら、震えてかすれた声を出したリエは、手が小刻みに震えている。

  「まだまだ手遅れじゃないんだからさ、明日、謝ればいいじゃない?」
 
  「そうやで・・・・あいつは変わりもんやけど、決して悪い奴やないから、許してくれると思うで!
  
  また、みんなでたのしゅうやろうやないか、なぁ、委員長や初瀬もそう思わんか?」
     
  「そうね・・・・私も、委員長として、それ以前に友達として、綾波さんに接してあげるべき

  だったわ・・・・」

  「あたしも、悪かったよ・・・・・綾波さんのこと、リエとリョウコに任せっきりにして・・・・

  あたしも、もっと話し掛けてあげれば良かったのに・・・・・」

  ヒカリとユリコも、少し俯き加減で答えた。リエたちの涙が伝染しそうになっている。

  「なんやかんや言うても、あいつらは友達なんやから・・・大変なときは支えてやらな

  いかんと思うわ・・・だから、わしらとケンスケも、もっと綾波に話しかけるようにする

  つもりなんや・・・」

  トウジの言葉が引き金になり、リエは鼻をすすりながら目をこすり始めた。 

  「私の・・・・私のせいで・・・・綾波さんも・・・・リョウコも・・・・傷つけちゃった・・・・」

  そのあとは、もう声にならなかった。

  ユリコは、しゃがみこんで顔を覆っているリエの、震える背中を優しく撫でた。

  「人は、ふとしたことで相手を傷つけてしまうことがあるものよ。傷つけないことも大切だけどさ、

  だからと言って、相手に近づかないでいる人よりも、何かしてあげようと思って近づいて

  ふとした弾みで相手を傷つけてしまう人の方が、あたしは好きだよ。人は、相手の心の中を

  手に取るようには分からないんだから、どうしてもそういう行き違いって起こってくるもんなのよ。

  それは、あたしたちが、人の間で生きてく以上、死ぬまでついて回ることなのよ、きっと。 

  不幸にして相手を傷付けちゃったら、まずそれに気づくこと、そして変な意地を捨てて、相手に

  きちんと謝ったり、仲直りしようとすることが大切じゃないかしらね・・・・だからさ、

  明日、ちゃんと綾波さんに謝ればいいよ、リエ・・・・もう泣かないで、ね・・・・・」

  トウジも机に腰掛けたまま、暖かい表情でリョウコを見つめた。 

  「高橋や明石が綾波のことを怒ったんは、綾波が事実をいうてくれなかったことへの

  つまりはメンツつぶされたことへの怒りだけやないやろ? 綾波のことがほんとに心配や

  なかったら、そないに怒らんはずやないか。どーなってもええ奴なら、ほっとけばええんやからな。
  
  つまり、高橋も明石も、それだけ綾波のことを気にかけてるっちゅうことやないか。

  それにな、ケンスケも言うとったが、綾波もな、高橋や明石と話すようになって、ちょっと

  変わったわ。昨日かて、ちっとばかり悲しそうな目ぇしとったような気がするんや・・・

  あの綾波を変わらせたんは、お前たちやろ? だったら、ちっとやそっとのことで、「おまえなんぞ

  もうしらん!」言うて、綾波を放り出してしまうんは、やりかけの仕事を途中で放り出すような

  責任放棄みたいなもんとちゃうやろか? わしの知っとる高橋や明石はそないな

  いい加減な奴とは違うはずや・・・・・だから、きっと、わかってもらえると思うとったわ・・・・

  ちゃんと話して良かったなぁ、なあ、ケンスケ・・・・」

  トウジはケンスケに向かって嬉しそうに微笑んだ。

  「そうだね・・・一言だけ付け加えさせてもらうとさ、綾波のやることを全部認めてあげれば

  良いってもんでもないと思うんだ。駄目なことは駄目と、きちんと意見するのも友達だろ。

  そういう意味で、明石は友達として正しいことをしたと思うよ。ちょっとぐらいのやり過ぎは、

  誰にでもあるってことさ・・・ほらぁ、元気出せよ・・・いつもの明石らしくないぞ・・・・」

  唇を噛み締めて、涙をこらえて立っているリョウコに向かって、ケンスケは

  少しぎこちない微笑みを浮かべて、優しい声をかけた。

  その声にゆっくりと顔を上げたリョウコと視線が合ったケンスケは、

  少し頬を赤くして慌てて目をそらした。

  リエは、淡いビンクのハンカチで涙を吹きながらユリコの手を借りて立ち上がった。

  1時間目の授業開始を知らせるチャイムが鳴りはじめた。

     

  最終授業の終わりを知らせるチャイムが鳴ると、ケンスケとトウジは、

  互いに目配せをした。 

  (わかっとるな、ケンスケ? 今日はこのまま、わしの家まで走り抜けて強行突破するで!)

  (合点承知!! 新作ゲーム、堪能させてもらうよ!!) 

  そんな二人のただならぬ様子に気づいた者が、たった一人だけ存在した。

  「あ、鈴原!! あなた、今日、週番で」

  ヒカリが最後まで話し終わらないうちに、トウジは脱兎の如く遁走した。

  「あーっ!! また逃げたぁ!! もー、ほんと、しょうがないんだからぁ、もうっ!!」

  ぶつぶつと文句を言いながらも、ヒカリはバケツを抱えると、水を汲みに廊下に出ようとした。

  「そんなにいつもサボるんだったら、鈴原のこと、先生に言えばいいじゃないの?

  うふ、ま、ヒカリはそんなことできっこないとおもうけどねぇ・・・」

  机を教室の前方に寄せていたユリコは、そんなヒカリをみてニヤリと意味ありげに笑った。

  「ユリコも、くだらないこと言ってないで、さっさと机を片づける!!」

  頬をほんのりと赤く染めたヒカリは、ユリコをひと睨みすると、廊下に出た。
  
  「おお、こわいこわい・・・・うふふふふふぅ・・・・・」

  そんなヒカリをおどけて怖がってみせながら、ユリコはまた楽しそうに頬を緩めた。

   
   
  リョウコとリエは、蝉時雨の中、新四谷駅に向かって歩いていた。

  「あのさ・・・・リエ、どうしたの? まだ今朝のこと、気にしてんの?」

  リョウコは歩きながら、歩道に視線を落としているリエの顔を覗き込んだ。

  「そ、そんなことないよ・・・・元気だよ、ほらね」
  
  少しだけ背の高いユリコを見上げて、リエは作り笑顔で答えた。

  そんなリエを怖い顔で睨むリョウコ。

  「あんたね、隠し事はしないって言ったでしょうが!! 元気な人が

  授業中、ずっと死んだ魚みたいな目で、ぼうっと端末を眺めてる訳はないでしょ!!

  どうしたの? あたしにも相談できないことなの?」

  ちょっと寂しそうなリョウコの声に、リエは慌てて立ち止まった。

  「ち、違うのよ・・・・・あのね・・・・・朝、みんなの話を聞いてたら、

  みんな真剣に生き方とかいろんなことを考えてるんだなって思って・・・・・

  私なんか、毎日、笑ったり泣いたりしてるだけで、なんにも考えずに生きてるみたいで・・・・・

  それで、私って、なんか、まだまだ子供なんだなって思ったら・・・・・・」

  「私たち、まだまだ子供だから、子供らしくしてていいんじゃないの?

  無理に背伸びしなくたって、いやでも大人にはなっちゃうんだから。それにさ、一番最初のとき、

  一人ぼっちの綾波さんを放っておけないって言い出したの、リエでしょ? あたしは、そういう

  リエの考えも、十分に大人だと思うよ・・・・他人のことなんか全然構わずに、むしろ押しのけて

  生きていくような困った人たちだって多いんだから・・・・・」

  リョウコは微笑みながら、リエを見つめた。

  「え? そ、そうかなぁ・・・・・ありがとね、リョウコ・・・・・やっぱりリョウコは

  頼りになるよね・・・・・」

  リエは、今日は初めて笑った。

  「あーあ、どうして男どもはこんないい女を放って置いて、エミちゃんみたいな

  アイドル系のコにお熱を上げんのかしらねぇ・・・・あいつらの方がよっぽど子供よね!!」

  少しだけ機嫌が悪くなりかけたリョウコを見て、リエは慌てて話題を変えた。
 
  「今度の土曜日の碇君の誕生日&歓迎パーティ、いろいろと企画考えなきゃね!!」

  「あっ、そうだったね! あたし、お菓子作って持ってくわ!! 当日のお料理とかは
  
  碇君の家で、あたしとリエとヒカリとユリコで作ればいいよね? あっ、そうすると、

  準備できるまで、碇君を家から追い出しておかないと駄目よね? それは鈴原と相田にやらせよう・・・・」

  こういう企画が大好きなリョウコは、すっかり機嫌が直ったようだった。

  リエは密かにほっと安堵のため息を洩らすと、この勝ち気で、でも本当はとても優しい友達を

  嬉しそうに見つめた。  

  「じゃあ、これから駅でユリコとヒカリを待って、どこかでパーティの企画、相談する?
  
  そろそろ準備しないとまずいとは思ってたの、私も・・・・・」

  そんなリエの言葉に、リョウコはにっこりと嬉しそうに笑顔で肯いた。


  2015年6月2日(火曜日)午後2時、第3新東京市はいつもような

  暑い昼下がりを迎えようとしていた。


 
    つづく
   
   

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