或いはひとつの可能性



第31話・初めての動揺





   高橋たちが議会内で財政委員会の開会を待っていたとき、

   リエは学校の前の歩道橋のエスカレーターを降りて、通学路を歩いていた。

   いつもように壱中の生徒たちが楽しそうに話したり、あるいは一人で黙って歩いている中で、

   リエは、口元を心なしか引き締め、少し先の路面に視線を落として俯き加減で歩いている。

   (・・・・・いつもと同じ朝・・・・・いつもと同じ通学路・・・・・・

     ・・・・・いつもと同じ光景・・・・いつもとは違う私・・・・・・・

     ・・・・・いつもと同じように振る舞わなければならない私・・・・・・)

   リエはため息を洩らすと、視線を上げた。

   校門がもう目の前に迫っている。

   (・・・・・そうしなければいけないのはわかってるの・・・・でも、うまくできる自信はない・・・・

   ・・・・・・でも・・・・私さえ黙ってれば、全て丸く収まって、みんなもいつもの通りの

   朝を過ごせる・・・・・・たとえそれが時間稼ぎのモラトリアムに過ぎないとしても・・・・・・

   ・・・・・・逃げることはよくないことだけど、今はそれでいいよね・・・・・・・・・・・

   ・・・・でも、リョウコには勘付かれちゃうよね、きっと・・・なんとかしなきゃ・・・・・)

   足を踏み出すたびに校門が近づき、それに比例して、リエの心は沈鬱な色彩を濃くしていく。

   校門をくぐり、校舎の入り口で、小さなリボンのついた革靴を脱いで

   何の飾りも無い無機質な上履きに履き替えているとき、リエは背中をチョンと押された。

   「おはよっ、リエ!! 今日もいー天気ねー! 帰りにアイスでも食べよっかぁ?」

   リョウコはショートカットの髪を揺らしながら、リエににっこりと笑いかけた。

   「あ、ああ、そうね・・・・うん、そうしよーか・・・・・はは、はははは」

   リエが懸命に愛想笑いを返すと、リョウコはちょっと不思議そうにリエの顔をまじまじと見つめて

   小声で囁いた。

   「どしたの? なんか元気ないわね? おなか痛いの? 今日、アレ? 」   

   リエは内心、冷や汗をかきながらも、表面上は平静を装って胸を張ってみせた。

   「べ、べつにそんなことないわよ! 昨夜、遅くまで本読んでたんで、ちょっと眠いだけよ。

   それにアレは来週からの予定・・・・プールの授業あるのに、憂鬱よね・・・・」

   「そう・・・それならいいんだけどね・・・・私も来週からだから、プールの授業、一緒に見学

   できるね・・・・水に入れなくて暑いのがちょっと残念だけど・・・・」

   そんなリエの姿を、リョウコはなおも不審そうに眺めていたが、それ以上はとくに

   深く追及することもなく、二人は2年A組の教室の扉を開けた。

   (・・・・・・いた・・・・・・・)

   リエはまず窓際の席に視線を走らせた。

   いつものように頬杖を突いて窓の外を見つめている蒼い髪の少女が、ぽつんと座っている。

   リエの心の中で、堰を切ったようにいろいろな思いが溢れ出し、そこかしこで渦を巻く。

   「おはよう」という短い言葉が喉につかえて、どうしても口から出てこない。

   「おはよう!!」

   一足だけ早く教室に入ったリョウコは、いつものように明るく大きな声を出した。

   向き合って話していたユリコとヒカリが、リョウコとリエの方に振り向く。

   「おはよう、リエ、リョウコ!!」

   デジタルカメラを操作しているケンスケと、それを覗き込んでいるトウジも、教室の入り口に

   向かって振り向いた。

   「おお、明石に高橋か。おはようさん!」

   「あ、来た来た! 高橋、朝の登校風景、写真に撮ったけどいいよな?  いやあ、いい表情

   だったから、ついシャッター押しちゃってさ・・・・なかなかよく撮れてるだろ、ほら!」

   ケンスケは、朝日を反射して鈍い金属光を放つデジタルカメラを、赤い教育用携帯端末に

   接続すると、再生ボタンを押した。

   「あ! これは・・・・・」

   端末のディスプレイには、明らかにもの憂げな表情の少女がため息をついている

   瞬間が映し出されていた。

   「な、この表情、なんか深みがあって、男なら、こうぐぐっと魅かれるものがあるだろ? 

   なぁ、トウジ?」

   端末を眺めていたケンスケは、眼鏡を指でずり上げながら得意そうに胸を張った。

   「ま、まあな・・・・高橋も、こないな表情することあるんやなー・・・ほほう・・・・」

   ケンスケの肩越しにディスプレイを見つめていたトウジは、いきなり後ろから耳を

   引っ張り上げられた。

   「いててて、なにすんや!! あ、委員長かいな、何や!? わし、今日は週番やないで!!」

   「鈴原、あんた、昨日、ちゃんと日誌書かなかったでしょ?!」

   少し顔を赤くして、トウジを睨みつけるヒカリ。

   「いや、わし、ちゃんと書いたで!!」       

   「あんたねえ、日誌に1行だけ「今日も平和だった」なんて書いて、それですまされると思ってんの?」

   「しゃあないやろ、ほんまになんもなかったんやから・・・小学生の夏休みの絵日記みたいに

   なんぞ捏造して書き込めいうんか?!」

   ヒカリとトウジが押し問答をしている傍らで、リョウコはケンスケの肩越しに端末を覗き込んだ。

   「・・・・・リエ・・・・・アタシにまで隠し事するなんて水臭いよ・・・・・

   ちょっと悲しいな・・・・・どーしても言いたくないことなら、別にいーけどね・・・・」

   リョウコはちょっと寂しげな眼差しで、リエを眺めた。

   「・・・・別に隠そうと思ってたんじゃないんだけど・・・・でも・・・・・・」

   慌ててリエは、その場に立ち尽くすリョウコに近づいていった。

   「いいよ、別に・・・・リエだってアタシに言いたくないことのひとつやふたつはあるん

   だろうから・・・」

   リョウコは少し拗ねたような表情で、自分の席に向かって歩き出そうとした。

   「違うのよ、違うんだってば!! リョウコ、待ってよ!!」

   リエはリョウコの右腕を咄嗟に掴んだ。

   黙って、その手を振りほどこうとするリョウコ。

   「おはよう。あ、二人ともどうしたの?」

   少し遅れて教室に入ってきたシンジは、何も知らずに不思議そうな顔で二人を見つめた。

   「べ、別になんでもないのよ・・・・」

   リエはシンジの好奇の視線に曝されて、仕方なくリョウコの腕から手を放した。

   「碇君・・・・相談したいことがあるんだけど・・・・放課後、ちょっといい?」

   リエに真剣な眼差しで見つめられて、シンジは狼狽したような、それでいて何かを期待した

   顔つきになった。

   「え、あ、ああ、僕なんかで良かったら、その、相談、に乗るよ・・・・」

   それを聞きつけたトウジとケンスケが早速、ニヤついた顔でシンジに迫る。

   「おっ、これはせんせえ、高橋からの告白かもしれまへんなぁ・・・おお、今日はいつにも増して

   暑い暑い!!  解説の相田アナウンサー、今後、どういう展開が予想されます?」

   「うーん、むずかしいところですねぇ。シンジ君には、綾波レイという親密な関係の女性が

   いますから、彼女の動向が注目されるところです!」

   レイの名前を出されて、シンジとリエは瞬時に動揺する。

   「あ、あのねぇ、私は碇君に、ある人のことを相談するつもりなの!! 告白なんかじゃ

   ないわよ!! いい加減なこと言わないでよ!!」

   「そ、そーだよ!! それにさ、僕と綾波はそんな関係じゃないよ。そういう周囲の誤解を

   招くような発言はまずいよ!!」

   シンジとリエは窓際の席の方にちらちらと視線を走らせながら、顔を赤くしておどおどとした

   口調で反論する。

   レイは自分の名前が呼ばれたので、何事かと思い、頬杖をやめて、席に座ったまま顔だけこちらに

   向けた。

   レイは、リエがさまざまな思いのこもった瞳で自分を見ているのに気づくと、自分も

   澄んだ紅い瞳でリエをじっと見つめた。

    (・・・・・あ、綾波さんと目が合った!・・・・どうしよう・・・・・どうすればいい?・・・・)

   リエの最も恐れていた事態が起こった。

   頭の中をいろいろな思いが錯綜し、顔が一段と赤くなり、立っている脚が小刻みに震えている。

   (・・・・・・取り敢えずなんかしゃべって、この場を収めなきゃ・・・・・)

   リエは混乱した考えの中で、「笑って誤魔化す」という手段を見出した。

   「わ、私なんか碇君には釣り合わないわよ!! やっぱり碇君には、私なんかより、

   綾波さんの方がお似合いよ!! ほら、おんなじエヴァのパイロット同士だし・・・・」

   リエは自ら墓穴を掘った。

   「え、そうだったの? 綾波さんて、エヴァのパイロットだったの?」

   「それ、ほんとかシンジ?! 」

   たちまちユリコ、ヒカリ、トウジ、ケンスケが、リエとシンジの周りに駆け寄ってくる。

   それだけでなく、教室の中にいる者全てが聞き耳を立てている。

   (・・・・・しまった!!・・・・・ああ、もう駄目だ・・・とり返しがつかないことしちゃった・・・・)

   リエは錯乱状態に陥って、身動きもできずにその場に立ち尽くしていた。

   心の中では、「全てが露見してしまった」という焦燥感と「これで楽になれる」という解放感が

   複雑に混ざり合っている。

   「た、高橋、なんでそんなこと知ってるんだよ!? 誰から聞いたんだよ?!」

   シンジは真っ青な顔で慌てて大声を上げた。

   このシンジの不用意な一言で、クラスメートたちはリエの言葉が正しいことを確信した。
  
   レイは、僅かに口元を引き締めた表情で、静かに立ち上がって、リエを見つめている。

   「ご、ごめんなさい、わたし、わたし・・・・」

   その場に居たたまれなくなったリエは、教室から走り出た。

   

   屋上でリエは膝を抱えて座っていた。

   (・・・・教室から逃げ出したって、ほかにどこにも行くところなんかないのにね・・・・・

   授業、さぼるわけにはいかないから、もう暫くしたら、また教室に戻らなきゃ・・・・・・

   ・・・・・憂鬱だなー・・・・なんで私、あんなこと言っちゃったんだろう・・・・・・・

   絶対に言っちゃいけないことだっていうのは、自分が一番良く判ってたはずなのに・・・

   ・・・・・あーあ、私って、駄目だなぁ・・・・・・・次の休み時間には、きっと、みんなから
   
   綾波さんのこと、聞かれるに決まってる・・・・どうしよう・・・なんて言えばいいかな・・・・・)

   リエは、真っ暗な洞窟に落ち込んだような気持ちで、明るい青空を見上げた。

   「キィ」と屋上に通じるドアが軋む音がした。

   反射的にリエは体を硬くして、首をすくめた。

   ゆっくりと、しかし確実に上履きの足音が近づいてくる。

   やがて、足音はリエの隣で止まった。

   目をつむって俯くリエの傍らに、誰かが腰を下ろす気配がする。

   「・・・・・綾波さんがエヴァのパイロットだって知ったのはいつ?・・・・・」

   リョウコのかすれた声に、リエは顔を上げた。

   「土曜日の夜遅く・・・・・お父さんがNERVの退職者の人から聞き出したの・・・・・」

   視線を合わせられないまま、リエは答えた。   

   「・・・・・もしかして・・・・・今朝、様子がおかしかったのは、そのせい?・・・」

   リョウコは顔を近づけて、リエの瞳を覗き込んだ。

   「・・・・・うん・・・・私さえ、黙ってれば、綾波さんには迷惑がかからないと思って・・・・

   ・・・・・・でも・・・・綾波さんに裏切られたような悲しい気持ちもあって・・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・私、綾波さんの味方のつもりだったから・・・・でも、綾波さんの立場もわかるし・・・・

   ・・・・・・どうしたらいいかわからなくて・・・・・・でも、誰にも言えなくて・・・・・・・」

   リエは足元のコンクリートの床を眺めながら、途切れ途切れに呟いた。

   リョウコは突然立ち上がると、リエの腕を引っ張った。

   「授業始まるから、教室、戻るわよ!!」

   思いがけない強い力に、リエはびっくりしてリョウコを見上げた。

   眉間に強い意思を漲らせ、下唇を噛み締めたリョウコの姿に、リエは僅かな恐れを感じた。

   「ど、どうしちゃったの、リョウコ? 私のこと、まだ怒ってるの? 」 

   リョウコは無言のまま、リエの腕を引っ張って教室に向かった。

   何も語らないリョウコを見て、リエは慌てていた。

   (・・・リョウコ、まだ怒ってるんだ・・・どうしよう・・・なんて言って謝ったらいいの?・・・) 

   やがて二人は教室の入り口の扉の前に立った。

   授業がまだ始まっていない教室は、いつものような喧騒に包まれている。

   リョウコは深呼吸をすると、力任せに教室の扉を引き開けた。

   「ガラララーッ」という派手な音に、教室の中が一瞬静まり返る。

   再び教室中の視線を一身に浴びたリエは、怯えた表情で体を硬くした。

   そんなリエを引きずりながら、リョウコは表情を一段と険しく変えながら、窓際の席に

   向かって進んでいった。

   「ちょっと、綾波さん!! 話があるんだけど!!」

   リョウコの刺すような口調にも何ら動揺することなく、レイは自分の傍らに立つ少女を見上げた。

   「・・・・・・・何?・・・・・・・」

   「何じゃないでしょ?! リエはね、アンタがパイロットだってことを偶然、知ってしまって、

   それで悩んでたのよ!! せっかくリエがアンタの味方になっていろいろと世話してあげたのに

   アンタがパイロットじゃないって嘘つくから、リエ、すごく悲しんでたのよ!!  アンタ、

   自分のしてること、判ってんの?!」

   レイはいつもと変わらない無表情のまま、視線を窓の外に移した。

   「・・・・・味方になってほしいと頼んだことはないわ・・・・・・

   ・・・・・・それに、パイロットじゃないって言ったの、私じゃないわ・・・・・」

   (・・・・・明石さん、怒ってる・・・・なぜ?・・・・・自分のことではないのに・・・・・)

   リョウコはレイの机に「バン」という音を立てて両手を突くと、レイを睨んだ。

   「アンタねぇ、リエの思いやりってもんがわかんないの?! 自分が今、どんなにひどいこと

   言ったのか、アンタ、自覚してる?! それに、この期に及んでまで、碇君のせいにするってのも

   アタシは気に食わないねぇ!! そういうこと言ってるから、アンタ、人形みたいって言われるのよ!!

   アンタには人間性ってもんが欠けてるのよ!! わかる?! ちょっと、何とか言いなさいよ!!」

   レイは、激昂しているリョウコに視線すら合わせず、いつもと変わらない声で呟いた。

   「・・・・・・私は人形じゃないわ・・・・・人間性は・・・・ないかもしれない・・・・・

   ・・・・・・・碇君のことは、事実を述べただけよ・・・・・・私は嘘は言ってない・・・・」

   (・・・・人形には魂はないわ・・・私には魂がある・・・・それが偶然の産物だとしても・・・・

   ・・・・・私はヒトの造りしモノ・・・・ヒトと同じ体を持つモノ・・・・でも・・・・・・・

   ・・・・・ヒトと同じ心を持っているのか、判らないモノ・・・・人間性とは心・・・・・・

   ・・・・・人間性、ないかもしれない・・・・生命と魂は与えられているけど・・・・・・・

   ・・・・・魂と心・・・・・・・同じものなら良かったのに・・・・・・・・・)

   無表情なままで言い放つレイを見て、リョウコは顔をさっと赤くした。

   レイの机に突いている手がぶるぶると激しく震え出したのをみて、ユリコとヒカリが駆け寄ってきた。

   「リョウコ、そろそろ授業始まるから、その位で、ね・・・・・」

   ユリコは、真っ赤な顔で激しい言葉を捜しているリョウコと、事態の展開についていけず

   憑き物が落ちたような顔で茫然と立ち尽くしているリエを、彼女たちの席の方に引っ張って

   行った。  

   「綾波さん、お願いだから、あんまり挑発的な言い方はしないでね・・・・クラスが混乱するから・・・」 

   ヒカリは、明らかに困惑した表情でレイに懇願した。

   「・・・・挑発する意図はないわ・・・・・・私は事実を述べているだけよ・・・・・」   

   (・・・・・洞木さん、困ってる・・・・・委員長だから・・・・)

   レイは、いつものように無表情な顔でヒカリを見つめた。

   「・・・・自分ではそのつもりがなくても、他人にはそう聞こえるときがあるのよ・・・・・・

   あなたが碇君の言葉を否定しなかったから、高橋さんもそう信じたわけなんだし・・・・

   ま、とにかく、気をつけるようにしてね。」

   (・・・・うーん、やっぱり、私、この子、苦手・・・・・・)

   ヒカリはレイから視線を逸らしながら、そう答えると、そそくさと自分の席へと戻ってしまった。

   そんな時、始業のベルが鳴った。



   
   授業中、リエは何度なく、窓際の席に視線を走らせた。

   (・・・・・こんなことになっちゃって・・・・・・私が悪いのよね・・・・・・・

   ・・・・・・もう、綾波さん、口きいてくれないよね・・・・・せっかく仲良くなれそう

   だったのに・・・・・・やっぱり、私が我慢して自分の心の中に事実を封印しておけば

   よかったんだ・・・・・駄目だな、私・・・・・私だけじゃなくて、リョウコまで、

   綾波さんと喧嘩しちゃって・・・・・私、みんなに迷惑かけてる・・・・・ごめんね、

   綾波さん、リョウコ・・・・・・ほんとにごめんね・・・・綾波さん・・・・・・・

   私、綾波さんとみんなの繋がりも断ち切ってしまったのね・・・・・ごめんね・・・・)

   リエは、胸が締め付けられるような思いで、レイの白い横顔を眺めていた。

   レイが隠し事をしていたことへの悲しみは、リョウコがレイに投げつけた言葉で、

   すっかり解消されてしまっている。

   レイの横顔を見つめているうち、リエの目には無意識のうちに涙が滲んできた。

   リエが滲んできた涙をそっと指で拭う姿を、レイは視界の隅で感じていた。

   (・・・・・どうして、あの人は泣いているの?・・・・・なぜ、泣く必要があるの?・・・・・

     ・・・・・ヒトは悲しいときに泣くもの・・・・・悲しいって何?・・・・・・

     ・・・・・判らない・・・・・あの人は何が「悲しい」の?・・・・・・・)

    レイは視線を教科書から外し、リエを真っ直ぐ見つめた。

    リエは、レイと視線が重なったとき、さらに涙の量が増えるのを感じた。
 
    (・・・・・綾波さんは人付き合いが苦手だってこと、私、わかってたのに・・・・・

    ・・・・・・だから、私がしっかりと支えてあげなきゃいけなかったのに・・・・・

    ・・・・・・それなのに・・・・・・・・私のせいで・・・・・・・・・

    ・・・・・・私のせいで・・・・・また綾波さんをひとりにしてしまった・・・・・・)

   レイは、リエが自分を見て泣いているのを知った。

   (・・・・・あなたは、わたしを見て泣いているの?・・・・・どうして?・・・・・

   ・・・・・・私が隠し事をしたから?・・・・・どうして泣く必要があるの?・・・・・

   ・・・・・・私を忌避するなら、黙って離れていけばすむのに・・・・・・

   ・・・・・・ヒトは悲しいときに涙を流すもの・・・・・・・・・

   ・・・・・・私の偽りは、あなたにとって、悲しいことなの?・・・・・・・

   ・・・・・・偽り・・・・・NERV職員としての義務・・・・・

   ・・・・・・エヴァのパイロットとしての義務・・・・・私の絆を守るための義務・・・・・

   ・・・・・・エヴァとの絆を守るために偽りを言う私・・・・・・・・・・

   ・・・・・・ヒトに忌避されるべき存在・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・エヴァ以外の絆・・・・・やはり許されなかったのね・・・・・・・・

   ・・・・・・私の絆・・・・・・・・・ヒトを悲しませるもの・・・・・・

   ・・・・・・私の存在・・・・・・・・忌むべきもの・・・・・・・・・・)

  レイは無意識のうちに胸に手を置いていた。

  (・・・・・なぜ、私、動揺しているの?・・・・・何に動揺しているの?・・・・・

  ・・・・・・ヒトが私のために流した涙を見たから?・・・・なんで私が動揺するの?・・・・・・

  ・・・・・・ヒトの悲しみが私を動揺させる・・・・・これが悲しいということなの?・・・・・)

  リエは、レイの澄んだ紅い瞳の奥で、何かが揺らぐのを初めて感じた。

  (・・・・・綾波さん・・・・・あなたは何を感じてるの?・・・・・・・・)

  リエから視線を外したレイは、机の上を見つめたまま、初めての「感情」に身を硬くしていた。     

  (・・・・・ひとりで生きてきた私・・・・・エヴァ以外の絆・・・・・・・・

  ・・・・・・本来は存在しなかったもの・・・・・・なくしても、もとの姿に環るだけのこと・・・・

  ・・・・・・私が動揺する必要はないはず・・・・

  ・・・・・・それなのに・・・・・動揺している・・・・・悲しい、のかもしれない・・・・・・)

  暑さでだれた雰囲気が充満している教室の中では、数学教師がセカンドインパクトの話を

  再び懐かしげに語っていた。



  リエはその後も何度もレイをみつめた。

  リエと視線が合うたびに、レイの瞳の奥では、ほんの僅かながら何かが揺らいでいた。

  しかし、リエは、冷たい言葉を浴びせられるのが怖くて、とうとうレイに話し掛けることができなかった。
 
  4時間目は体育の授業で、シンジたち男子は屋外でバスケットボール、女子はプールである。

  更衣室の中では、少女たちがお互いの体の変化を密かに盗み見しつつ、そそくさと着替えている。

  自分の身体にあまり自信がないリエは、以前から、この着替えの瞬間がとても嫌だった。

  そのうえ、今日はあのような騒ぎがあったので、すっかり憂鬱な気分で、わざと遅れて

  更衣室に入っていった。

  「リエ、なにやってるのよ、もうみんな着替え終わっちゃったわよ!!」

  スクール水着に着替えたユリコは、更衣室を出る間際に、リエの方を振り返った。

  「あ、今すぐ着替えるから!!」

  リエが水着に着替えはじめたとき、更衣室のドアが開いた。

  反射的に体を小さくしたリエは、更衣室に入ってきたレイと目が合った。

  レイは、少し離れた場所で着替えはじめたが、やはり心の動揺は確実に強まっていた。

  (・・・・・・エヴァ以外の絆が欲しかったの?・・・・そうなのかもしれない・・・・・・

  ・・・・・・・ヒトを悲しませるものであっても?・・・・・わからない・・・・・・

  ・・・・・・・でも、もう、終わり・・・・・・手に入れたのは「悲しい」という「感情」だけ・・・・

  ・・・・・・・それがヒトに似せて作られたモノの限界・・・・・・・・・)

  レイが鞄を開け、水着の入った袋を取り出したとき、鞄の中から、ひびの入った眼鏡が転び出た。

  眼鏡を手にとって、じっと眺めるレイ。

  (・・・・・・碇司令・・・・・エヴァとの絆・・・・私には、この絆しかないのね・・・・・)

  レイは思わずため息を洩らした。

   (・・・・・・これは「ため息」というもの?・・・・・・初めてのため息・・・・・・・

   ・・・・・・・どうして、ため息をついたの?・・・・・)        

  リエは、レイが壊れた眼鏡を大切そうに手に持って見つめ、そして小さなため息をついたのを見た。

   (・・・・・・あの眼鏡、誰のかしら?・・・・・もしかして、誰かの形見?・・・・・・

   ・・・・・・・そう言えば、綾波さんの家族の話って、結局、今まで聞いたことがなかったわ・・・・・)

  「それでは、点呼をとります!」

  プールサイドから聞こえてきた教師の声で我に返ったリエは、慌てて水着に着替えて更衣室から
   
  駆け出した。



  準備体操が終わり、リエたちはプールサイドで教師から授業内容の説明を受けていた。

  「今日は、リレーをやりますので、出席番号の奇数と偶数に別れて下さい」

  リエとリョウコ、レイとユリコがそれぞれ同じグループに分かれ、

  昼近くの炎天下でリレーが始まった。

  レイとリョウコは出席番号が若いので、最初の方に泳いでおり、今はそれぞれプールサイドに

  腰を下ろしている。

  リョウコはヒカリの隣で、水泳帽からはみ出た長い髪の先から雫を滴らせて、息を整えている。

  そこから少し離れたフェンス際で、レイはいつものようにポツンと俯いて座っている。

  リエの番が回ってきた。

  あまり水泳が得意ではないリエは、水に飛び込むとき、思い切りおなかを水面に当ててしまった。

  「うむうううー」

  強い痛みに泣きそうになりながらも、リエはとにかく必死の思いでクロールで100メートルを泳ぎ切ると、

  ふらつく足取りでプールサイドを歩き、崩れるようにリョウコの隣に腰を下ろした。

  「大丈夫? なんか派手な音がしたけど・・・・あっ、おなか真っ赤じゃないっ!」

  リョウコにみつめられて、リエは慌てておなかを隠した。

  「すっごく痛いよー・・・・だから水泳なんか、やなんだよー・・・・」

  ごく弱い塩素を吹くんだ水滴と涙で、リエの目は充血して痛々しい。

  その目の前で、ユリコが綺麗なフォームでプールに飛び込んだ。

  水しぶきが飛んでくるプールサイドで、リエは俯いて荒い息を整え、

  ようやく少しだけ息苦しさが薄れてから、ゆっくりと顔を上げた。

  「リエ、大丈夫? 唇、紫色になってるよ」

  リョウコが心配そうにリエの顔を覗き込む。

  「大丈夫じゃ、ない・・・・男子はバスケットボールできて羨ましい・・・・・」

  リエは、プールサイドの鉄製のフェンス越しに、下のグランドで走り回っている

  男子の姿を恨めしげに眺めた。

  その傍では、泳ぎ終わった少女たちが、グランドにいるシンジを見つけて

  「いかりくーん」と嬌声を上げてからかったり、「なんか鈴原の目つきって

  やらしー」などとしゃべりあっている。 


  一方、グランドでは、シンジたちが、炎天下でバスケットボールをやらされて

  へとへとになっていた。

  「まったく、異常としか考えられないよ! こんな暑い日に屋外で運動なんかさせるなんて!!

  日射病、あるいは紫外線過照射による皮膚疾病になったらどうするつもりなんだよ!!」

  グランドの端で、ケンスケは既に暑さでへばって座り込んでいる。

  「なんや、しっかりせいや!! いい若いもんが、こんな暑さでへばっとってどうする?!」

  さすがに黒いジャージは履いていないトウジが、元気な声でケンスケの背中をばしばしと叩く。

  「へえへえ、わかりましたよ・・・女子はいいなあ、水に入れて・・・・涼しいだろうなぁ・・・・」

  ケンスケはリレーの応援の歓声が聞こえてくる方向を、羨ましそうな目で眺めた。

  シンジは少女たちが自分の名前を呼んでいるのを聞いて、プールの方を見上げた。

  「おっ、せんせえ、なに熱心な目で見とんのや? 」

  先ほどから血眼になって少女たちの水着姿を眺めていたトウジは、

  シンジが、プールサイドのフェンス際でぽつんと座っている蒼い髪の少女を

  みつめているのに気がつき、ニヤリと笑う。

  シンジの視線の先を一瞬にして辿ったケンスケがさらに止めを刺す。

  「綾波か、ひょっとして!?」

  シンジは、さっき教室でレイとのことをからかわれたのを思い出し、咄嗟に追及をかわそうとした。
   
  「ち、違うよ!!」
  
  「またまたぁ、あ・や・し・い・な!」

  にやけた顔のトウジが、シンジに赤い顔を近づけてくる。 

  「綾波のむねっ、綾波の太ももっ、あ・や・な・みのふーくーらーはーぎぃー!」

  最後の部分で見事にハモったトウジとケンスケの声に、シンジは圧倒されて首をすくめた。  

  「だ、だから、そんなんじゃないって!」

  「だったら、何みてたんだよ?」

  「わしの目ぇはごまかされへん!!」

  仕方なくシンジは、再び視線をプールサイドに向けた。

  「どうしてあいつ、いつもひとりなんだろうって思ってさ・・・・」

  その声に、トウジとケンスケも、プールサイドで他の少女たちから離れて座っている

  蒼い髪の少女の華奢な白い背中に視線を移した。     

  「最近、高橋や明石たちが綾波に話し掛けたりしとったけど・・・・さっきあんなことが

  あったさかいなぁ・・・・また、ひとりに戻ってしまったんやろな・・・・ようやく最近は

  ぎこちないものの、やっと挨拶らしいもんができるようになっとったのに・・・・・・・」

  「なんとなく近寄り難いんだよな・・・・悪い奴とは思わないんだけど・・・・」

  「ほんまは性格悪いんちゃうか?」

  「エヴァのパイロット同士なんだろ、シンジが一番よく知ってるはずじゃないのか?」

  「そらそや!」       

  トウジとケンスケの好奇の視線に曝されて、シンジは一瞬、絶句した。

  「・・・・・・殆ど、口きかないから・・・・・・」
  
  「なんや、シンジとも口きかんのかいな?! じゃ、高橋や明石と口きかんようになってもうたら、

  この壱中では誰も口きくもんはおらへんで・・・また、昔に逆戻りやな・・・・」

  トウジは、さすがに馬鹿話のネタにするのも気が引けて、レイから視線を逸らして黙ってしまった。

  「シンジには悪いけどさ、さっき、教室でもめたとき、やっぱり綾波を弁護してやる

  べきだったんじゃないかな?」

  ケンスケは、プールサイドに座ってリレーの選手にさかんに声援を送っているリョウコに

  視線を移しながら、ぼつりと呟いた。

  「え、ど、どうして? 同じパイロットでも、全然、話もしないんだよ! 前に、僕が
  
  綾波はパイロットじゃないってみんなに言ったのは、NERVの規則だからそう言えって、

  ミサトさんから言われてたからなんだよ・・・・別に綾波をかばったわけじゃ・・・・」  

  シンジはケンスケの意外な発言に驚いて、目を見張った。

  「綾波も立場上、明石や高橋に本当のことを言えなかったんだろ? だったら、やっぱりさぁ、

  その辺の事情をよく承知してるシンジが、明石たちに「あれはやむを得ない事情があったから、

  あんまり綾波を責めるのは酷だ」って説明してやるべきだったんじゃないか?・・・・少なくとも

  あの場で、綾波を弁護することができたのはシンジだけだったんだから・・・・・

  別にシンジと綾波が深い仲かどうかは知らないけど、やっぱ、たとえみんなにからかわれたとしても、

  たとえ相手がいけすかない奴だったとしても、女の子を庇うのが男ってもんじゃないのかい?」

  ケンスケは、努めて深刻そうな雰囲気を醸し出さないように柔らかい口調で笑いながら、

  シンジに質した。

  「おっ、今日は、相田せんせぇも、やけに格好ええなぁ!!」

  トウジも、その場が険悪な雰囲気にならないように、敢えて茶々を入れている。

  「ま、たまにわっ、僕も好青年っぽく振る舞いたいからねぇ、あはははは。さってと、

  水道の水で顔でも洗ってこようっと!!」

  ケンスケはくるっと後ろを向くと、校舎の脇の水道の蛇口に向かって、いかにも「だるい!」と

  いった感じで歩いていった。

  「あいつも悪気があって言うたんやないで! ま、あんじょう許したってや・・・」

  トウジは、表情を暗くして俯いているシンジの肩を軽く叩くと、眩しそうに青空を仰いだ。

  「・・・・・ケンスケの言う通りだよ・・・・・僕は自分が巻き込まれたくない一心で

  黙ってたんだ・・・・・それで綾波はまた一人ぼっちになってしまったんだ・・・・半分は

  僕の責任だよ・・・・・・僕は、どうしたらいいんだろう・・・・・・」

  足元の地面に視線を落とし小石を蹴っているシンジに向かって、トウジはにっこりと笑いかけた。

  「その辺のところをちゃーんとわかるのがシンジのええところや!! 今度の土曜日の

  試食会、綾波も誘われとるが、さっきのことがあるさかい、このままやったら、

  いくら普段ものに動じない綾波でも、さすがに行きづらい思うんや。だから、わしらが

  綾波と高橋たちの間に入って仲裁してやったらどやろか? 取り敢えずわしとケンスケが

  高橋と明石に話つけるよって、シンジは綾波に話してやってや!」

  シンジははっと顔を上げて、この気の良い色黒の友人を嬉しそうに見つめた。

  「わかったよ!! 明日、一日中、綾波と一緒にNERVにいるから、その時にでも

  話してみるよ!! あ、でもなあ・・・また冷たく突き放されたような言い方されるかなぁ・・・・」

  せっかく元気を出しかけたシンジは、「・・・・行かない・・・・」とたった一言で

  レイに拒絶されている自分を想像して、早くも気持ちが萎えかかりそうになった。

  「大丈夫やて! 綾波かて、シンジをとって食うようなことはせえへんて!! 

  案ずるより産むが易し、や! それにな、これを機会に綾波にお近付きになれたら、シンジも

  一石二鳥やないか! 綾波は美人やから、実はなかなか人気あるんやで! この先、少しずつでも

  口きくようになったら、たちまちファンクラブのひとつやふたつできてまういう噂やで!!

  まだ誰も接近してない今がチャンスやないか?! そないに思わんか、せんせぇ?!」
 
  トウジはシンジの背中をトンと軽く叩くとニヤリと笑ってみせた。

  正午近くの暑い陽射しの下、少年たちと少女たちは、いつもと変わらぬ瞬間を

  確実に生きていた。

 
    つづく
   
   
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