或いはひとつの可能性



第28話・凍りついた、世界





   「あれ? 綾波さんにぶつかったのは、確か初瀬さんとこのカツノリ君じゃないか? 

   休暇で戻ってきたのかな? ま、いいや・・・・ところで利根さん、時間は大丈夫ですか?」

   高橋は利根の方を振り返って尋ねた。

   「ええ、今日はまる1日、休業にしてきましたから・・・・」

   利根は表情を引き締めて答えた。

   「そうですか・・・・じゃ、駅前でタクシー拾って、私の自宅で話しませんか? 

   一応、盗聴器は仕掛けられてないはずなんで・・・・まぁ、それだけ私たち市議会が甘く見られて

   いるっていうことですけどね。嬉しいような悔しいような・・・・あはははは」

    (利根さん、やっぱり、コトがコトだけに緊張してるな・・・・なんか申し訳ないな・・・)

   高橋は利根の緊張をほぐそうとして快活に笑いかけると、駅前に向かって歩き出した。

   「ここに来るのは5ヶ月ぶりですよ・・・・昨年の12月に退職したんで・・・・

   ・・・・思い出したくないような、それでいて懐かしいような、複雑な気分ですね・・・・」

   利根も苦笑いしながら、高橋と並んで歩き出した。

   駅前は雲一つない青空の下で、まぶしく輝いていた。そのうえ土曜日の昼過ぎということで

   ショッピングや映画、あるいは食事に向かう人たちで、駅前の舗道は混雑している。

   タクシー乗り場で並んでいるうち、利根は顔に当たる日光を避けようとして額に手を当てた。

   「あ、そうそう、ここにいたときは、私も髪を伸ばしていたんですよ。仲の良かった同僚に

   青葉って奴がいましてね、そいつも私と同じように髪伸ばしてまして・・・・昔かたぎの

   副司令にはしょっちゅう「利根と青葉は、その頭をなんとかしろ! むさくるしくてかなわん!」って

   文句言われてましたよ、はははは。今は食べ物商売なんで、このとおり刈り上げちゃいましたけど」

   利根は左手で自分の頭を撫で回すと、高橋に向かってニヤリと笑った。

   そして、ビルの間から見える緑色の山並みに視線を移すと、懐かしそうに目を細めた。 
 
   「冬月さんですか・・・・彼は温厚だし人当たりもいいんで、議会での評判は悪くないですよ。

   あ、もっとも、碇さんの評判があまりにも悪いから、相対的にそう思えるのかな?」

   「やっぱり、外の世界でもそうですか・・・・あそこでも、そうなんですよ。司令は、あのとおり

   何を考えているかわからないところがあるし、冗談も通じないし、いや、冗談なんか言ったら

   かえって「・・・・仕事はどうした?・・・・」って言われそうで・・・・だから、みんな

   司令のところには行きたがらなくて、りん議書類の決裁をもらいにいくときも、結局、みんなで

   押し付け合いになってしまいましてね・・・・私、くじ運が弱いんで、よく司令のところに

   判子もらいに行かされましたよ。・・・・そうそう、一度ね、副司令から決裁をもらった書類を

   司令のところに持っていったら、しばらくじっと読んだ後で「・・・決裁はできない・・・・」って

   言うんですよ。「最終段階でひっくり返されるのか?」って思って、冷や汗かいたんですけど、

   取り敢えず理由を聞いておこうと思いましてね、「なぜでしょうか?」って聞いたんですよ。

   そしたら、手を口の前で組み合せながら、「・・・・印鑑を家に置いてきた・・・」って。

   なんか拍子抜けしちゃって、どっと疲れが出たことを覚えてますよ・・・・」

   利根は視線を山並みから兵装ビルに移して、なお饒舌に語りつづけた。その声にはもはや懐かしさが

   明瞭ににじみ出ている。

   そんな利根の横顔を高橋は、ただじっと見つめていた。 

   (彼は最後までNERVが好きだったんだな・・・・退職するとき、さぞ辛かっただろうな・・・・

   それに、私にNERVのことを話そうと決心したときも・・・・・)

   高橋たちの立っているタクシー乗り場にタクシーが向かってきた。結構荒っぽい運転のようで、

   近くのバスターミナルから幹線道路に出ようとしたバスの鼻先をかすめている。

   怒ったバスの運転手が激しく警笛を鳴らす。舗道を歩いている親子連れが、その音にびっくりして

   立ち止まってバスを眺めている。

   タクシーの運転手は眉一つ動かさず、タクシー乗り場に横付けすると、ドアを開けた。  

   第3新東京駅前は、いつもの土曜日の表情で、喧騒に満ち溢れていた。 


    
   「じゃ、お父さん、私、ルビーのところに行ってくるね。夕ご飯までには帰ってくるから。

   それでは利根さん、失礼いたします」

   リエは、リビングルームで利根と高橋に紅茶を出すと、ぺこりとお辞儀をして部屋から出ていった。

   「良いお嬢さんですね」

   「いやいや、いつまでたっても子供でして・・・・ちょっとしたことで舞い上がったり、落ち込んだり、

   まあ、いろいろと忙しいみたいですよ。ほんと見てて飽きませんね・・・・」

   「あのくらいの年頃は、ある意味、不安定ですからね・・・・でも、日常のささいなことでも

   喜べるっていうのは、大事なことらしいですよ。老化しない秘訣だとか言いますし・・・・」

   「あ、じゃ、私も、箸でも転がして笑ってみようかな? 最近、頭が薄くなり始めたような

   気がするから・・・・まだバーコードじゃないですけどねぇ、わはははは」

   高橋はソファにのけぞって笑った。利根も高橋の頭部を見ながら苦笑している。

   「お嬢さん、壱中の2年生でしたよね。何組ですか?」

   「A組です。碇シンジ君や綾波レイさんと一緒ですよ。・・・・ところで、さっきファースト

   チルドレンとかサードチルドレンとか言っておられましたけど、あれはどういう意味ですか?

   一応、エヴァンゲリオンのパイロットのことを指すらしいってことはわかりますけど・・・」

   高橋は紅茶を一口すすると、不必要に緊張させないように柔らかい表情のまま、

   利根を見つめた。

   「私は、NERVでは総務部住宅課で借上官舎の関係の仕事をしていたんで、あまり詳しい

   ことまでは知らないんですけど、作戦部の知り合いから聞いたところでは、エヴァは

   14歳の子供しかパイロットになれないそうです。しかも、誰でもなれるわけじゃなくて、

   シンクロが・・・ええと、そうですね、言わばエヴァとの相性がよくないと、パイロットには

   なれないんです。その条件がかなり厳しいらしくて、パイロットになれる子供は今までに

   3人しかみつかっていないんですよ。それでそのパイロット適格者を、それぞれファースト、

   セカンドって呼んでいるんです。」

   ここまで一気にしゃべると、利根はほうっと息をついて、ティーカップに手を伸ばした。

   「ほう、なるほど・・・・。そういえば、さっき、駅で、零号機とか言っておられましたけど、

   あればエヴァの型番ですか?」

   「そうですね。現在、エヴァは日本に零号機と初号機、ドイツに弐号機があります。

   確か零号機のパイロットが綾波レイ、弐号機のパイロットは現地の、つまりドイツの人で、

   私が勤めていたときには初号機のパイロットは未定でした。おそらく碇シンジ君が初号機の

   パイロットでサードチルドレンだと思います」

   「へええー・・・エヴァは3機も建造されていたんですか・・・・・その適格者ってのを

   探すのは大変なことなんでしょうね? なんせ人口が減ったとは言え、14歳の子供は

   たくさんいますからねぇ・・・・」

   「ええ。適格者の選定はマルドゥク機関というNERVの兄弟機関みたいなところが担当

   しているらしいんですけど・・・・詳しくは、私も教えてもらえませんでした。作戦部の

   同僚達もよく知らないみたいでしたよ。ま、あそこは、職員に対しても、万事秘密主義でした

   から・・・・・」

   利根は皮肉っぽい笑いを浮かべると、紅茶をゆっくりと口に含んだ。

   「そうなんですか・・・・実は、さる筋から聞いたんですけど、NERVでは補完計画っていう

   ものを進めてるそうですね? それになんとか委員会っていうのが上部機関として、いろいろと

   指示を出しているみたいですし・・・・」

   高橋はティーカップをテーブルの上に置くと、利根の目をじっと見つめた。

   利根はさすがに躊躇しているようだった。視線をティーカップの中に落とし、しきりと

   ティーカップを小刻みに揺らして、紅茶を波立たせている。

   「それがとてもどうやら最高機密の部類に属する事項だということは判ります・・・・・・

   でも、それが判らないと、NERVが何を目指そうとしているのかが掴めないんです。

   なんとかお話を伺えないでしょうか?」

   利根はティーカップをなおも揺らしていたが、やがてティーカップを持ち上げて、

   少し冷え始めた紅茶を一気に飲み干した。

   「いいでしょう・・・・少し話すも、たくさん話すも、守秘義務違反に変わりはないんですから。

   ・・・・・NERVの上部機関は形式上は国連の安全保障理事会ですが、実質的には理事会の上に

   置かれている秘密の委員会「人類補完委員会」がNERVに指示を出しています。そして、委員会や

   NERVの目的は「人類補完計画」というものらしいんですが、委員会の構成者や人類補完計画の

   内容は、私を含めてNERV職員の殆どが知らされていません。仲間内では、「セカンド・インパクト

   で減少した人類の人口を再び増やすことが目的なんだろう」って話していましたが、誰も詳しいことは

   知らないんです。ただ、計画の存在自体を公の場で口にすることはタブー視されてまして、私も

   居酒屋で飲んでるときに、うっかり「補完計画が」って口を滑らして、上司から強く叱られた

   ことがありました・・・・ちなみに委員会はいつも予算査定が厳しくて、NERVから提出した

   予算申請がすんなり通ったことは一度もありませんでしたよ・・・・」

   利根は話し終えると、ほっとした表情でソファに背中をもたれさせた。

   「ありがとうございます!! 取り敢えず人類補完委員会の存在がわかっただけでも大きな収穫

   です。ほんとに助かりました・・・・・あの・・・・・ひとつお聞きしていいでしょうか?

   失礼かとも思ったんですけど・・・・・なぜ、NERVを退職なさったんですか? 」

   高橋がずっと抱いていた疑問を口に出すと、利根は苦笑しながらソファに座り直した。

   「実は、私の先輩がNERVに就職してまして、その人に憧れて、私もNERVに入ったんです。

   その人は、今はドイツ支部にいるんですけどね・・・・私は作戦部勤務を志望していたんでけど、

   実際に配属されたのは総務部住宅課で、要するに職員の住居の手配の担当でした。それだけでも、

   あまり気が進まなかったのに、さらに追い討ちをかけるような出来事がありまして・・・・

   退職した年の5月に民間から借上げたマンションの部屋で失火がありましてね・・・・・

   ・・・・私が大家や延焼した部屋の住人との損害賠償交渉を担当したんですけど、その時に

   いやというほど思い知らされたんですよ。NERVが市民からどんな目で見られてるのかって

   ことを・・・・・それで、初めて自分達のやっていることに疑問を感じるようになって・・・・・

   やっぱり一番大きな問題は、NERVの秘密主義だって思ったんで、同僚にそんな話をしたら、

   みんなも同調して・・・・・それで交渉妥結の後の打ち上げの時に、上司にそのことを話したら、

   翌日の夕方に保安諜報部に呼ばれて取り調べを受けたんですよ・・・・・結局、私だけでなく、

   同僚まで譴責処分を受けてしまって・・・・・そういうことがきっかけとなったんです・・・・

   そのうち、おやじが糖尿病で板場に立つのが辛くなったって言い出したんで、それを機会に

   退職して、とんかつ屋を継いだんですよ・・・・・だから、当時の同僚達にはなんの恨みも

   ないんですよ。今でも手紙のやり取りは続けてますけど、きっと内容は検閲されてる

   だろうなぁ・・・・・青葉とか日向に迷惑がかかってなきゃいいけど・・・・」

   利根は視線をテーブルの上に落とすと、同僚達を思いやるように押し黙った。

   重苦しい沈黙のうちに、リビングルームの花瓶に活けてあったオレンジ色のバラの花から、

   花びらが一枚、グリーンのカーペットの上に舞い下りた。


 
   リエは暑い陽射しの下、陽炎の立つアスファルトの舗道を歩いていった。

   (暑いけど、いい天気だなぁ・・・・・今日はなんか良いことありそう・・・・・)

   いつになく爽快な気分で青空を見上げたあと、リエは立ち止まってポケットから

   白いハンカチを取り出して、少しにじんできた額の汗を拭いた。

   再び歩き出して最後の四つ角を曲がると、ゆらめく陽炎の向こうに石河不動産の

   白い看板が見えてきた。

   (・・・・あと少し・・・お店の中は冷房効いてるよね・・・・)

   リエは残り20メートルを小走りで駆け抜けると、店のガラス戸をがらりと引き開けた。

   「こんにちわぁ!! リエです! ルビー見に来ました!!」

   店の奥のデスクで新聞を読んでいた石河は、眼鏡を額の上にずり上げて、店の入り口を

   眺めると、にっこりと笑った。

   「やあ、いらっしゃい。外は暑かったでしょ。おーい、ばーさん、リエちゃんが来たんで、

   麦茶出しとくれ。あ、俺の分も頼むよ。今、ルビー連れてくるからね」

   石河は自宅に通じる廊下の方に向かって声を上げると、「よっこらしょ」と言って腰を上げ、

   二階に続く階段を上っていった。

   「はい、麦茶よ。毎日、ほんと暑いわね。昔は、暑いときもあったけど、春とか秋っていう

   過ごしやすい季節があってね、私たち年寄りにはありがたかったんだけどねぇ・・・・」  

   石河キイチと入れ違いに店に入ってきた妻のチヨコは、ソファに浅く腰掛けているリエの前の

   テーブルに麦茶を置くと、向かい側のソファに腰を下ろした。

   「そうらしいですね。私たち、生まれたときからずっとこんな季節のままだから、

   なんか想像もできませんけど・・・・・春とか秋ってどんな感じだったんですか?」

   リエは、もう汗をかき始めたコップを取り上げると、麦茶を飲んで喉を潤した。

   「そうねぇ・・・・春はね、毎日、少しずつ暖かくなっていって、今まで土がむき出しに

   なっていたところに草が芽を出したり、花を咲かせたりしてね。何よりも、この国では

   桜が綺麗に咲いてねぇ・・・・今まで家の中に押し込められていた人たちが、ようやく

   暖かくなった気候の下で、お花見に行ったりして、それは賑やかで楽しいものだったわよ。

   今じゃ、桜はもっと北の方に行かないと見れなくなっちゃったけどね・・・・

   秋はね、毎日、少しずつ涼しくなっていって、いつのまにかコオロギの声が少なくなっていって、

   暑さが減ってほっとする反面、なんか寂しい感じがする季節だったわ・・・・でもね、

   あたしはお芋や栗とか、葡萄や梨みたいな果物が好きだったから、もっぱら食欲の秋

   だったけどね、うふふふふ・・・・・そうそう、あの季節は、空が澄んでいるような

   気がしてね、月がそれはそれはとても綺麗だったの・・・・夏に見る月とはどこか違うような

   感じでねぇ・・・・・」

   喪われた季節について遠い視線で語っていたチヨコは、ふっと目を閉じた。

   (・・・・いつかは春とか秋っていう言葉すら失われてしまうんでしょうね・・・・・

   もう、その言葉が指し示す意味を経験することができなくなってしまったんだから・・・・)

   どことなく寂しげに見えるチヨコの姿に、リエは言うべき言葉もなく、ただ黙っていた。

   (・・・・お父さんもそうだけど、大人の人たちはみんな、春や秋の話をするとき、

   最後にはこんなふうに黙ってしまうのよね・・・・・そんなに良いものだったのかしら、

   春とか秋って?・・・・・)

   「やあ、お待たせ!! ほら、リエちゃんが遊びに来てくれたよ」

   階段を降りてくる足音が止まると、ルビーを抱いた石河が現れた。

   ルビーは、リエの姿を見ると、石河の腕の中からぴょんとジャンプして飛び出すと、

   リエの足元に駆け寄ってきた。

   「ルビー!! 久しぶりね!! 元気にしてた?」

   リエはルビーを抱き上げると、喉のあたりを撫で始めた。

   「最近ね、ルビー、食べ過ぎで少し太っちゃったのよ、お父さんがご飯の時に、

   あたしに内緒で鰹節とかあげてるから・・・・・扶桑さんが見たら、きっと怒るわよ」

   「そんなこと言ってもな、俺の膝のところに来て、じっと目を見上げられると、

   ついあげてしまうんだよ。まったくネコは魔性の生き物だよなぁ・・・・」

   「またそんなこと言って!! この間、体重測ったら、5キロ近くになってたわよ!!

   あんまり太ると体に悪いのよ!!」

   「ああ、そうだな・・・・ばーさんも、気を付けた方がいい・・・・・」

   石河は、自分を睨み付けているチヨコをものともせずに、麦茶のコップを取り上げると

   涼しい顔で淡々と言い放った。

   チヨコが言い返そうとしたとき、店の表戸ががらりと開いた。

   「こんにちわ! ご無沙汰してます。あ、ルビー、元気にしてたぁっ? やっと一緒に住めるかも

   しれないって!! 石河さん、電話ありがとうございます。ほんとに助かりましたっ!! 

   さっき出張先のドイツから戻ったばっかりなんですけど、留守番電話聞いて駆けつけました!!」

   セミロングの髪に白いワンピースを着た若い娘は、石河夫妻に向かってにっこりと笑うと

   深々と頭を下げた。

   「まあまあ、頭をお上げになって・・・・・やっと、物件が出ましてね。ちょっといわくつきの

   マンションなんですけど、どうかなって思ってご連絡を差し上げたんですよ・・・・・

   ちょっとこちらにどうぞ」

   石河はソファから立ち上がり、店の奥のデスクの引出しからファイルを取り出すと、

   若い娘を手招きした。

    (あ、この人なんだ、ルビーの本当の飼い主って・・・・じゃ、この人が扶桑ルミさんって

    人ね・・・・)

   リエは娘と目が合うと軽く会釈をし、その後ろ姿を目で追った。  

   「えっとねぇ、あった・・・これなんですけどね・・・・実はね、この間までNERVが

   一棟丸ごと借り上げていたんだけど、昨日、向こうの住宅課から不動産賃貸仲介業者協会の

   ほうに電話があってね、「空き部屋を公務員、指定企業の職員に限って再賃貸を行う」って

   言ってきたんですよ。なんだかNERVも最近、経営が苦しいらしくてね・・・・・

   それでね、今朝、現調に行ってきたんだけど、あのマンション、今のところは

   埋まってる部屋がひとつしかなくてね・・・・なかなか作りも良いし、家賃も高くないし、

   それにね、帰りに近所の酒屋に寄って聞いたんだけど、今住んでる人が女性で、その人が

   ペンギン飼ってるみたいなんですよ。それで、どうやらペットOKらしいって判ったし、

   扶桑さんは指定企業の千歳重工にお勤めだし・・・だからね、すぐに電話したんですよ、お宅に。

   ・・・・でもねえ、四六時中、NERVの警備の人がうろうろしてるらしいし、

   あんまり自信持ってお勧めはできなくてね・・・・・あ、気がつかなくてすんません。

   どうぞ、そこにおかけになってください」

   石河は、いつもの癖で光沢の良い頭を何遍も撫で回しながら、若い娘、扶桑ルミに

   物件の説明を始めた。が、説明の途中で、ふと顔を上げたとき、

   ルミを立たせたままだったことに気がつき、慌ててデスクの前の椅子を指し示した。

   「でも、普通は再賃貸なんてしたら、大家さんに怒られちゃうんじゃないですか?」

   ルミは椅子に座りながら、不思議そうな顔で石河に尋ねた。

   「NERVはそういう横車を押すことができるんですよ。なんせ超法規的機関だから・・・・・

   まぁ、この間のあの事件以来、人口増加が止まって、部屋の借り手も減ってるから、

   そんな中でNERVに契約を解消されても、とても部屋が埋まりそうにないからね・・・・

   大家も渋々了承したみたいですよ。私なんか、いっそのこと、空き部屋については、

   賃貸契約を解消しちゃった方が賃貸料が死に金にならないって思うんですけどね、

   NERV側ではやっぱり警備上の理由から自分たちの意にそぐわないような人物が

   入居するのは嫌なみたいで・・・・・それで再賃貸なんてややっこしいやり方を

   とったみたいですよ・・・・なんか話しているうちにますます、自信なくなってきちゃったな。

   後で恨まれるとやだから、もう一度言っときますけど、ほんと、あんまりお勧めはできませんよ」

   石河はすまなそうな顔で鼻の頭をしきりと指で撫でながら、ファイルをルミの方に押しやった。

   「あの・・・・なんでこんなに賃貸料が安いんですか? ちょっと安すぎるような気が・・・・」

   ルミはファイルを一通り読み終えると、ちょっと心配そうな顔で石河に尋ねた。

   「あの事件以来、賃貸料の相場がじりじりと下がってきていてね・・・・そのうえ、いろいろと

   いわくのある物件でしょ? だから、NERVも思い切って賃貸料を値引いたみたいなんですよ」

   ルミは、しばらくの間、腕組みをして考え込んでいたが、やがてにっこりと笑うと椅子から

   立ち上がった。

   「私、ここ、気に入りました!! もし、よろしければ、お部屋をみせてもらえませんか?」

   「え? ええ、それは別に構いませんけど・・・・ほんとによろしいんですか?」

   石河は目を大きく見開いてルミを見上げた。

   「はい!! NERVの警備の人がうろうろしているんなら、かえって防犯対応は万全ってことじゃ

   ないですか! 女性の一人暮らしにとっては、こんなに心強いことってないですよ!! それに

   女の人が住んでいるんなら、そんなにトラブルも起こりそうにないし・・・・あ、その人、もしかして

   年取った方とかじゃないですよね?」

   嬉しそうに話し始めたルミは、突然、眉をひそめて心配そうな表情になった。

   「いいえ。一応、NERVの作戦部長さんですけどね、歳まではよく知りませんけど、どう見ても

   20代から30代前半って感じですよ。以前は、燃えないゴミを指定日以外の日に捨てるとか

   いうこともあったみたいだけど、最近、親戚の男の子を預かり始めてから、生活態度が格段に
  
   改まったって、酒屋のあんちゃんが言ってましたし・・・・・」

   リエは石河とルミの会話に聞き耳を立てていたが、石河の説明を聞いてはっとした。

   (あ、それって、葛城さんと碇君のことだ!! じゃ、石河のおじさんが言っているマンションって

   コンフォート17のことだわ!!)

   「あ、その人なら、ちょっとがさつなところがあるけど、根はとっても優しくて良い人ですよ!!

   全然、心配いりませんよ!!」

   さっきから飼い主の方をじっと見つめているルビーを床の上に降ろすと、リエはソファから

   立ちあがってかなり大きな声でルミに話し掛けた。

   「あの・・・・その人とお知り合いなの?」

   突然、後ろから声をかけられたルミは驚いた顔で振り返って、微笑んでいるリエを見つめた。   

   「ええ。仕事には厳しいらしいけど、普段は細かいことはごちゃごちゃ言わない、明るくて

   いい人ですよ!! 私、時々、いろいろと相談に乗ってもらってるし・・・・」

   「そう・・・・じゃ、大丈夫そうね・・・・良かった・・・・」

   ルミはほっとした表情で、リエに向かってにっこりと微笑み返した。

   (あ、この人も、綺麗な笑顔だ・・・・なんか悪い人じゃなさそう・・・・)

   「あの・・・私、この近くに住んでる高橋リエって言います。時々、ルビーと遊びに

   ここに来ているんですけど、もしコンフォート17に引っ越されるんでしたら、

   私、時々、遊びに行っていいですか?」

   ルミは、一瞬、目を丸くしたが、すぐに声を立てて笑い出した。

   「うふふふ、全然、構わないわ! それにしても気の早いお嬢さんね!! 

   私ね、扶桑ルミ。千歳重工に勤めているの。会社、今、結構忙しくて残業が多いんだけど、

   休日はきっちり確保してるから遊びに来てね!! もともとの出身が第2新東京市なんで、

   ここでは知合いが少なくてつまらなかったの・・・・ええと、今、中学生?」

   「はい!! 市立第壱中学の2年生です」

   (・・・・良かった、変な人じゃなくて・・・・なんかかわいくて優しそう・・・・・)

   リエは、目を細めて朗らかに笑うルミを見て、心の中にゆっくりと暖かい液体が広がっていくような

   感覚を感じていた。



   
   7時のニュースをテレビで見ながら、高橋は心の中では別のことを考えていた。

   (・・・・補完委員会・・・・人類補完計画・・・・・どうやらこの二つが全てを解く鍵に

   なりそうだな・・・・・と言っても、もう独自調査では限界があるし・・・・どうするか?・・・・

   NERVが使徒の襲来を予測していたってことですら、大問題になるっていうのに・・・・・・   

   エヴァンゲリオンが3機も極秘裏に建造されていたことも、国連予算内容のディスクロージャーの

   観点から見ても大問題だし、なぜ14歳の少年だけがこんな危険な任務の適格者となれるのかって

   いうことも、人道上の問題があるような気がするし・・・・・そろそろ、ひとつマスコミも

   巻き込んだ方がいいな・・・・・そのためにはマスコミがNERVや政府の圧力があっても、

   どうしても取り上げざるをえないような、そんな何かが必要だな・・・・・)

   高橋は番茶の入った湯呑みを持ち上げると、ふーふーと番茶を吹き冷まして、少しだけ口に

   含んだ。

   (・・・・・うーん、議会で取り上げてみるか・・・・でもなぁ、そんなことしたら、

   今度は第2新東京市の党本部が黙っちゃいないよな・・・・・選挙も近いし、除名されると

   当選はおぼつかないし、そうなると議会活動もできなくなる・・・・・なんか良い方法は

   ないかな・・・・・まいったねぇ、八方塞がりかい・・・・・)

   高橋は湯呑みを持ったまま、リエが洗い物をする水音と食器の触れ合う音を聞きながら、

   うつろな目で暫く動きを止めていた。

   (・・・・こうなったら、ほんとは嫌だけど、不知火の奴に話してみるか・・・・・

   民主協同党が議会で騒いでマスコミが取り上げるように仕向ければ・・・・いや、不知火は

   党を完全に掌握してないからな・・・・下手をすると収拾がつかなく恐れもあるし・・・・

   しかし、今はこれしか方法はなさそうだな・・・・これは賭けになる・・・・・)

   高橋がようやく湯呑みをテーブルの上に置いたとき、洗い物を終えたリエが、反対側の

   ソファにぽんと座った。

   「お父さん、なに考え事してるの? またNERVのこと?」

   リエは眉間に皺を寄せてテレビを睨んでいる父親に向かって、努めて明るく尋ねた。

   「あ、ま、そんなもんだよ・・・・・やれやれ、財政問題とかの、もともと市が抱えている

   問題に、NERV問題まで加わって、ほんとに体がひとつじゃ足りねぇや。まったく

   もう・・・・」

   (・・・・・あ、そうだった・・・・リエに綾波さんのことを話すかどうかも考え

   なきゃな・・・・どうしよう・・・・言えばリエがショックを受けるのは確実だし

   ・・・・かといって言わなきゃ、知らないままに何かトラブルに巻き込まれる可能性も

   あるし・・・・・命にかかわるという観点で考えると、やっぱり言っておいた方が・・・・

   それにリエには綾波さんだけでなく、リョウコちゃんも傍にいるし、まぁなんとか

   なるだろう・・・・可哀相だが、背に腹はかえられん・・・・)

   高橋はしばらく考えた後、結論を出すと、厳しい表情でリエを見つめた。

   「・・・・リエ・・・今日な、利根さんから聞いたんだけど・・・・・言いにくいんだけど

   ・・・・綾波さんのことなんだが・・・・・彼女は、碇君と同じように、エヴァンゲリオンの

   パイロットだそうだ・・・・碇君は初号機、綾波さんは零号機のパイロットだ・・・・」

   リエは表情を変えないまま、じっと高橋をみつめていた。

   「・・・・・そうだったの?・・・・・」

   リエは、一瞬、心の中が空っぽになったような、そんな感情に陥っていた。

   体が麻痺して少しも動けないような感じがする。

   「お、おい、大丈夫か?・・・・」 

   高橋はリエの反応が異常に少ないことに驚いていた。

   「・・・・うん・・・・平気・・・・・」

   (・・・・そう言えば、相田君が言ってた・・・・女性用プラグスーツの話とか、

   初号機とか零号機とか・・・・やっぱり・・・・・そうだったのね・・・・・・・・・

   ・・・・なんで何も言ってくれないの?・・・・碇君まで私たちに嘘を言って・・・・

   ・・・・守秘義務があるっていうのは判るけど・・・・・でも・・・・でもね・・・・

   私、綾波さんの味方のつもりだったのに・・・・・友達のつもりだったのに・・・・・

   私だけの思い込みだったの?・・・・・あなたにとって・・・私って何?・・・・・・)

   リエは思わず瞼を閉じると、レイの真紅の澄んだ瞳を思い浮かべた。

   心の中のレイは、いつものように無表情な白皙の顔でリエを見つめていた。

   最初にリエが声をかけたときのように。

   リエは自分の体温が下がっていくのを、他人のことのようにぼんやりと感じていた。   

   涙が溢れそうになった。

   リエは涙を必死にこらえて、無表情のまま歯だけ強く噛み締めると、

   父親と目を合わせるのを避けるように、すっとソファから立ち上がった。

   「・・・・ちょっと気分が悪いから、部屋で休む・・・・」

   高橋は娘の後ろ姿を黙って見つめていたが、やがてほうっとため息をついて

   すっかり冷めてしまった番茶をすすった。

   (やっぱり酷だったみたいだな・・・・・でも、隠していても、いつかは判って

   しまうことなんだ・・・・早い段階で事実に触れた方がまだましさ・・・・・・

   こうして、みんな汚れていくのさ・・・・・それを「成長」という人もいるけど・・・・

   それは生きていく上で、やむを得ないことだし、これから先もたくさん

   乗り越えなきゃいけないものなんだ・・・・どうしようもないことなんだ・・・・)

   リエの部屋のドアが力無く閉じられた。

   高橋は娘にかけてやるべき言葉を何一つ持たなかった。

 
    つづく
   
   

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