或いはひとつの可能性



第27話・誇り、失われざるもの





   リニア特急の車内では男性車掌の声で車内放送が流れていた。 

   「本日は、リニア特急「しなの11号」長野行きにご乗車いただきまして

   まことにありがとうございます。この列車は、1号車から5号車と12号車が自由席、

   6号車から8号車までが指定席、グリーン車は10号車、11号車です。食堂車は

   9号車となっております。なお、喫煙できるのは、4号車の全席と指定席および

   グリーン車の一部座席に限られております。電車、定刻の13時15分に第3新東京駅を

   発車いたしました。それでは、主な駅の到着時刻を申し上げます。御殿場 13時23分、

   甲府 13時38分、新茅野 14時15分、塩尻 14時27分、第2新東京 15時ちょうど、

   新屋代 15時30分、終点の長野には15時47分に到着いたします。

   なお、この列車の担当車掌は、JR東日本・第三新東京支社の保津です。ご用の方は

   お気軽に9号車の車掌室までお越しください。」

   車内放送を聞きながら、マヤは座席をリクライニングにセットして、車窓に視線を移した。

   車窓には第3新東京市の街並みが見えていたが、暫くすると列車はトンネルに入り、

   それを抜けると鬱蒼とした森林地帯にさしかかった。

   (初めての出張・・・・うまく行くかしら・・・・でも、私が発言するような場面は

   あんまりないはずよね・・・・先輩も「心配しなくてもいいわ」って言ってたし・・・・)

   マヤはあまり冴えない表情のまま、座席から身を起こすと、足元のスーツケースから

   薄いバインダーを取り出した。バインダーの表紙には、繊細さが感じられる丁寧な文字で

   「出張用資料」と書かれている。

   (足元のスーツケース、邪魔ね・・・・でも出張規定で、携行荷物を網棚に置くことを

   禁止されているから仕方がないわ・・・・それにしても機密保持にはなんて念入りなんでしょ・・・

   職員の労働環境にも同じ位の配慮をしてくれたらいいのに・・・・・) 

   マヤは苦笑すると、バインダーを開いてぱらぱらとページをめくっていたが、やがて、ふーっと

   深いため息をついてバインダーを閉じ、リクライニングシートに背中をもたれかけて

   目を閉じた。

   (・・・・今度の会議、NERVも一応、公的機関だから参加してるけど・・・・・

   参加者の私自身、ときどき保安諜報部の依頼で、国防省や日本重化学工業共同体の

   コンピュータにハッキングしてる・・・・先週は新陽銀行のコンピューターにアクセスして、

   取引データを不正入手させられたし・・・・個人のプライバシーに土足で踏み込むような

   ことも何度もやってる・・・・私は・・・・本当に正しいことをしてるの?・・・・・・

   人の幸せにつながるような仕事をしたくて、ここに入ったのに・・・・・)

   マヤは胸をしめつけられるような不快感に襲われて、思わず目を開けた。

   暫くの間、マヤは、その姿勢のまま瞬きもせずに天井を見つめていた。

   (・・・・先輩のことは、ほかの誰よりも尊敬してるけど・・・・どうしても

   未だに仕事を引き受けるときに違和感を感じるときがある・・・・それが

   最終的には人類のためになることだって理性で判ってても、ヒトとしての感情が

   許さないのかもしれないな・・・・やっぱり割り切らなきゃいけないのかな・・・・)

   マヤは、憂鬱そうな表情のまま、頭だけを動かして再び車窓に視線を移した。

   (このあいだ、公用でタクシーに乗ったとき、運転手さんと話がはずんで楽しかったなぁ。

   でも・・・・私がNERV職員だって言った途端、運転手さんの態度が

   よそよそしくなっちゃった・・・・そう言えば、このあいだ、朝、電車の中で会った

   壱中の女の子、たしか明石さんって言ったかしら・・・・あの子、どうしてるかな・・・・

   お店に行くって約束してたのに、あれから忙しくて、結局、行ってないわね・・・・

   あの子も、私がNERV職員だって知ったら、離れていってしまうのかしら・・・・

   あの子、レイと同じくらいの歳よね・・・・)

   静かに目を閉じたマヤは、レイの白くて端正な横顔を思い浮かべていた。

   (・・・・先輩は、レイをNERV本部とかジオ・フロント内に住まわせないで、

   なんであんなところに一人で住まわせているのかしら・・・・レイは別に文句も

   言わないけど、身辺警護の観点からはNERV本部とかの方が安全なのに・・・・

   ・・・・・それに・・・・レイを見るときの先輩の眼差し・・・・憎悪のようなときも

   あれば、愛情に満ちたようなときもある・・・・なぜなの?・・・・・

   ・・・・・そう言えば、レイって、家族は誰もいないし、生年月日も不明・・・・

   ・・・・セカンド・インパクト直後の混乱の中で孤児となって泣いてたのを

   保護されたらしいとかいう噂も聞いたことがあるけど、本当かしら?・・・・

   NERVでも、待機中にはいつも一人で静かに本読んでるし、ましてや笑ったことなんて

   一度もない・・・・もしかして・・・・あの子、本当は、誰にも伝えようのないくらい

   深い虚無の闇の中で、ただひとりで生きてきたのかもしれない・・・・

   ・・・・・だから、死生観も希薄なのかも・・・・そうでなければ、

   あんな危険な任務を表情も変えずに淡々と勤められるわけがないもの・・・・・・

   そんな14歳の女の子やシンジ君を、大人は自分たちが生き残るためにエヴァに乗せて

   戦わせようとしてる・・・・そして・・・・それが判ってても、なにひとつできない私・・・・・)

   列車は幾つめかのトンネルに入り、車内は薄暗くなった。

   それまで、車窓に映っていた森林は消え失せ、自分の顔が映った。

   (・・・・・私って、結局は偽善者に過ぎないのね・・・・むしろ、もっと罪は

   重いかもしれないわ・・・・だって、自分の罪をはっきりと認識しているんだもの。

   悪いことと判らないでやっている人たちよりも何十倍も罪は重いわ・・・・)

   何度目かのため息を洩らしたとき、不意に喉の渇きを感じて、

   マヤはリクライニングシートから身を起こし、窓際に置いた缶コーヒーを取り、

   コーヒーを一口飲んだ。

   「・・・・最近、忙しかったから、疲れてるのかしら、私・・・・・

   ・・・・なんか、こんな後ろ向きのことばっかり考えちゃって・・・やだな・・・」

   そう呟くと、マヤは足元のスーツケースから読みかけの恋愛小説を取り出した。

   列車はいつのまにかトンネルを抜け、車内には再び明るい午後の陽射しが差し込み

   始めていた。



   どこからともなく、民謡「木曽節」を編曲した音楽が聞こえてきた。 

   「まもなく第2新東京、第2新東京です。中央線、篠ノ井線、大糸線、松本電鉄を

   ご利用されるお客様はお乗り換えです。電車、5分間停車いたします」

   (・・・・ん?・・・・もう着いたの?・・・・・・)

   マヤは、ぼんやりとした意識の中で、目を開けた。膝の上には、扉を閉じてしまった

   本が乗っている。  

   「・・・・・あぁ、なんてひどい顔・・・・・」

   スーツケースからコンパクトを取り出し、化粧を直そうとして、マヤは思わず呟いた。

   鏡の中の娘は、座席の背もたれに押し付けられて寝癖のついてしまった髪、ほんの僅かだが

   涎のあとのある口元、そして寝起き特有の赤い目をしている。

   マヤは一段と憂鬱な気分のまま、素早く化粧を整えると、視線を車窓に移した。

   高架の上の車窓からは、盆地を埋め尽くすほどのビル群と、その間から僅かに顔を覗かせている

   旧松本城天守閣の姿が見えた。

   (・・・・何度見ても懐かしいな・・・・ここが第2新東京市・・・・私の育った街・・・・)

   マヤは暫くの間、じっと景色を眺めていたが、気の早い、まわりの乗客たちが網棚から荷物を

   下ろし始めたのを見て、彼女もスーツケースを持ち上げると、席を立ってデッキへ向かった。

   やがて列車が停止し、ドアが開いた。

   盆地特有の蒸し暑い空気が乗降口に流れ込んでくる中を、マヤはホームに降り立った。

   (この前、帰省したのはお正月だったから、ほぼ半年ぶりね・・・・それにしても、またビルが

   増えたみたい。もうすぐ遷都するって言うのに・・・・全てが終わって、あの街に遷都できれば、の話

   だけど・・・)

   マヤはホームを階段の方に向かって歩きながら、この1ヶ月の間に次々と襲ってきた使徒の姿を

   思い起こしていた。

   普段は優しい顔付きの彼女だが、今は自然と口元は引き締まり、厳しい表情になっている。

   そんなマヤの脇を20人ほどの人々が通り過ぎた。年齢は中年から老齢に至るまでさまざまで

   「鹿児島トラベル」いう小旗を持った添乗員らしい若い男性に引き連れられている。

   「まっこて、あつかごわんどな・・・・こげんあつかとは思いもはんじゃした。こいは、かごんま

   の方がどげんすずしかち、思いもす!!」

   人々が盆地の暑さを訴えているところへ、恰幅の良い白髪の背広姿の中年の男性と、やや若い、

   これも背広姿の男性が汗みずくで駆け寄ってきた。

   白髪の男性は、素早く白いハンカチをポケットから取り出して汗を拭くと、

   満面の笑顔をたたえて、よく通る声で話し始めた

   「ああ、間に合って良かった!! みなさん、このたびは新枕崎からわざわざお運びいただいて

   ありがとうございます!! 私が万田でございます。お暑いなか、本当にご苦労さまです。

   みなさんにお力で、この第2新東京の国会に送り出していただきました!! まずは、

   ホテルの方に、冷たいお飲み物を用意してございますので、そちらで一服していただき、

   それから、私の秘書が国会や旧松本城をご案内いたします」

   その言葉が終わらないうちに、真っ黒に日焼けした中年の男性が野太い声をあげた。

   「万田先生、先生が大臣なさってる憲法擁護庁は見学できんとですか?」 

   「本当に申し訳ありません。なにぶん、国の公安組織なんで、さすがに私の後援会の方々でも

   ちょっと・・・・そのかわりと言ってはなんですが、みなさんには皇居の前庭まで入って

   いただけるように手配しましたので・・・・皇宮庁の許可を取るのが大変でしたが、

   せっかく皆様にお出でいただいたんですから、私もがんばってみました!! ええと、それに

   今晩のお泊りは明科温泉で、明日は、私は予算委員会があるのでご一緒できませんが、

   秘書が上高地をご案内させていただきます!!」

   万田ヤスノリは一行に向かって胸を張って答えた。

   (あれが憲法擁護庁の万田長官?!・・・・NERV嫌いで有名な代議士ね・・・・

   NERVに対する強硬姿勢を買われて、この前の内閣改造で入閣したらしいけど・・・・

   政府も国会もNERVに対して、かなり警戒心を高めているってことね・・・・・ )

   マヤはふと立ち止まって振り返り、万田をちらっと眺めたが、とくに表情を変えることもなく、

   再び歩き出した。

   エスカレーターを降りて、ごった返している在来線との連絡通路を足早に横断すると、

   マヤは正面の改札口からタクシー乗り場へ出た。

   「すいません、ホテルニューオークラまでお願いします」

   マヤが行き先を告げると、タクシーの運転手は黙ったままドアを閉め、かなりのスピードで

   車を走らせた。

   (・・・・あー、また、こんな運転手に当たっちゃった・・・・やだな・・・・)

   マヤはさらに憂鬱な気分になったが、少しでも車内の重苦しい雰囲気を和らげようとして

   口を開いた。

   「今日は暑いですね!! 最近、ずっとこんなに暑いんですか?」

   「・・・・別に俺が暑くしたんじゃねえよ・・・・・・」

   せっかくのマヤの努力も、無愛想な運転手の一言で、無残にも打ち砕かれた。

   マヤは、一段と増幅した不快感を抱いて、唇を軽く噛み締めながら俯いた。



   
   「あー、もう、なによ、あの運転手!! あんたが気候を変えられるほど偉い存在じゃない

   なんてことは百も承知なのよ、わたしは!! ああ、なんか今日はものすごく疲れた・・・・」

   ホテルニューオークラの905号室で、マヤは旧松本城天守閣を見下ろしながら呟いた。

   「なんか喉乾いたなー・・・・電車の中も、ここも、空調のせいで乾燥してるからかしら・・・

   どうしようかな・・・・冷蔵庫の中のジュース、飲んじゃおうかしら?・・・・でも、自販機で

   買うより高いから・・・・そうよね、出張旅費は交通費と今晩の夕食代だけだから、無駄遣いすると

   足が出ちゃう・・・・取り敢えず、水で我慢しようっと・・・・」

   マヤは洗面台の脇に置かれている、「消毒済」というビニールカバーのついたコップを

   手に取り、カバーを外そうとしたが、すぐに手を止めた。

   「・・・確か、聞いたことがある・・・・この「消毒済」っていう表示、全然当てにならないって

   ・・・・前に泊った人の使ったコップを単にゆすいでタオルで拭っただけで、このカバーをつけちゃうって

   聞いたこともあるし・・・・あー、不潔!! とても使えないわ!!」

   マヤは、汚いものでも扱うように、親指と人差し指でコップを挟んで、洗面台の隅の方に

   そっと置いた。

   「仕方ないわ。足が出ちゃうけど、冷蔵庫を使うとしますか・・・・」

   冷蔵庫からアルカリ健康飲料系のジュースを取り出したマヤは、念入りに洗面台で飲み口を

   水で洗った後、ベッドに腰を下ろすとリモコンを取り上げてテレビを点けた。

   ベッドの脇の机にはめ込まれているデジタル時計は16時15分を表示している。

   「御隠居、お怪我はありませんか? おい、格さん、八兵衛! お前たちがおそばについていたのに、

   このざまは何だ!! 御隠居、もう一刻の猶予もなりません!!早速、代官屋敷に乗り込み

   ましょう!!」

   「助さんや、もうしばらく様子を見ましょう」

   御隠居たちが様子をみていたおかげで、一段と悪化していく事態・・・・。

   マヤは画面を見ながら硬直してしまった。
 
   テレビでは、某時代劇の第41シリーズ(2014年4〜9月放映)の再放送が放映されていた。

   「まだ続いてたのね、この番組・・・・私も学生時代に講義が早く終わって暇なときに家で

   見てたけど・・・・あれから、もう2年かぁ・・・・・明日、ちょっとだけでも実家に

   顔出してみようかしら・・・・あ、でも、公務で出張してるときに、そんな私用なんて入れちゃ

   いけないわよね・・・・そうですよね、先輩・・・・先輩もご実家に帰られていないって

   いうのに・・・・」

   マヤはため息をつくと、テレビのチャンネルを次々と変えたが、他のチャンネルも再放送

   ばかりであった。

   「・・・・こんな時間に家にいることって殆どないから、なんか違和感があるわ・・・・

   それにしても、会合は明日の朝からだから、それまで暇だなぁ・・・・やっぱり一泊出張

   なんて申請せずに日帰り出張にしておけば良かったわ・・・・なんで先輩や葛城一尉は

   一泊出張にするように手配したのかしら?・・・・もしかしたら、私を休ませようとして・・・・

   あ、だから、私が日帰りにするって言ったら、あんなに慌てていたんだ・・・」

   マヤは思わず胸のあたりで両手を軽く組むと、リツコとミサトの笑顔を思い浮かべた。

   「先輩、葛城一尉、ありがとうございます。私のこと、気遣ってくれて・・・こんな大変な

   時なのに・・・・青葉君、日向君、私だけいい思いして、ごめんね・・・・」

   青葉や日向、そして他の職員たちに申し訳なく思う反面、尊敬する上司の自分への配慮が

   嬉しくて、マヤは気分がみるみるうちに明るくなるのを感じた。

   「夕食までまだまだ時間あるわね。ちょっと、デパートのブティックでも覗いてみようかしら?

   最近、休暇とってなかったから、久しぶりだわ!! うふふ」

   マヤはベッドから勢いをつけて、ぴょんと跳び降りると、スーツケースからヘアブラシを取り出し、

   洗面台の鏡に向かった。


   
   「あー、すっかり遅くなっちゃった・・・・さすがにデパート3軒まわると疲れるわね・・・・

   そろそろどこかで夕食にしないと・・・・」

   マヤは第2新東京市の中央地下街を歩いていた。

   かなり買い物をしたが、荷物は第3新東京市の自宅宛に送るように手配しておいたので、

   身軽なままである。

   「でも、一人で外食するのって、なんか落ち着かないのよね・・・・ま、この際、それは

   仕方がないとして、何食べようかなぁ・・・・うふふ、少し奮発してお寿司食べちゃおうかな?

   さすがに出張費では落とせないけど、私の好物だから自腹切っちゃうもん!!」

   マヤは通路の両脇に並ぶ飲食店を眺めていたが、海老がお辞儀をしている「蛇の目寿司」という

   看板を見つけると、思わずにっこりと微笑んで近づいていった。

   「いらっしゃい!! あ、お一人? 生憎とカウンターが一杯なんで、テーブル席で相席になっちゃう

   んですけど、いいすかぁ?」

   おずおずと引き戸を開けたマヤに向かって、鉢巻きをした主人は申し訳なさそうにぺこりと

   頭を下げた。

   マヤは一瞬、躊躇したが、人の良さそうな主人を見て、意を決して肯くと店内に足を踏み入れた。

   「あ、よろしいですか? どうもすんません!! おーい、お一人様、テーブル、お相席だよ!!

   ご案内して!!」

   主人が板場の奥に向かって声をかけると、割烹着姿の中年の女性が笑顔で現れた。

   「どうぞ、こちらです。お客様、すいません、満席なんで、こちらのお客様と相席を

   お願いしてよろしゅうございますか?」

   マヤを案内した女性は、テーブル席でビールを飲みながらトロをつまんでいた若い男に声をかけた。

   「ああ、全然、構いませんよ。こっちこそ、すいませんね、無粋な男なんかで・・・」

   背広姿のその男はマヤに向かって、にっこりと微笑み掛けた。

   (良かったわ、 変な人じゃないみたい。)

   マヤは少し安心して、男の向かい側の椅子に腰を下ろした。

   たちまち蒸しタオルとお茶がマヤの前に置かれる。

   「なんになさいますか?」

   「えーと、そうですね・・・・じゃ、上寿司をお願いします」

   「お飲み物は?」

   「あ、お茶でいいです」

   マヤは蒸しタオルで丹念に手を拭い、鮪、鯉、鰡といった魚の名前を示す漢字がびっしりと

   書かれた湯呑みを持ち、熱い茶を一口飲んだ。

   (・・・・ふぅー・・・・お茶飲むと、やっぱり落ち着くわ・・・・これは静岡茶かしら・・・)

   ふと視線を移すと、相席になった男は鯵のたたきに箸を伸ばしていた。

   (あ、あれは鯵のたたき・・・・あら、レモンが添えてあるのに、この人、使ってないわ・・・・

   レモンの絞り汁をかけると、格段に味が締まっておいしくなるのに・・・・・ )

   マヤは湯呑みをテーブルに置くと、つい鯵のたたきをじっと見つめてしまった。

   「・・・・あの、良かったら、少し召し上がられませんか?」

   マヤが慌てて顔を上げると、相席の男はにっこりと笑って、鯵のたたきの皿をマヤの方に少し

   押しやった。

   「はっ!! い、いえ、そんなつもりで見てたんじゃないんですっ!! わ、わたしは、

   その、鯵のたたきにはレモンの絞り汁をかけると一段とおいしくなるんじゃないかと・・・・」

   マヤは耳まで赤く染め、しどろもどろになりながら、レモンを指差した。

   「ああ、そうなんですか? 僕はから揚げとかにもあんまりレモンを使わないから判らなかったなぁ。

   じゃ、ちょっとやってみましょう。よっと・・・うん、おっしゃるとおり、こうした方が旨いですね!!

   こりゃ、いい勉強をさせてもらったなぁ、あはははは。」

   男は屈託なく笑うと、ビールをコップに注いでごくりと飲んだ。

   (私って、そんなにじっと見つめてたのかしら? あー、恥ずかしいな・・・)

   マヤがなおも赤い顔で俯いているを見て、男は話題を変えた。

   「私は、寿司が好物でしてね。以前、第3新東京市に住んでたときには、よく電車で

   新小田原まで出ていって、寿司を食べてましたよ。あそこは海沿いなんで、ネタが良い上に

   いい寿司屋がありましてね。この第2新東京市は内陸でしょ? だから、寿司屋が少なくて

   苦労してますよ・・・」

   「あ、第3新東京市に住んでいらしたんですか? 私、今日、出張で、第3新東京市からここに

   来たんですよ。私も、時々、同僚と一緒に新小田原のお寿司屋さんに行ってます。えーと、

   寿司善っていうお店でしたけど・・・・」

   「あ、そこ、僕がよく通ってた店だ!! あの、店の前に信楽焼きのたぬきの置物がある店でしょ?」

   「ええ、そうですよ。穴子がとてもおいしくて・・・」

   「あっ、あなたもあそこの穴子がお好きなんですか? いやあ、私も、あの店の穴子のファン

   でしてね、あの焼き加減の巧みさと煮切り醤油の味、思い出すなぁ!! これは奇遇ですね!!

   えーと、あなた、ビールお嫌いですか?」

   「いえ、嫌いな方じゃありませんけど・・・・うちの職場、結構、飲める人が多くて、とくに

   上司にお酒が大好きな人がいて・・・・」

   ミサトを脳裏に描きながら、マヤが遠慮がちに小さな声で答えると、男はすっかり相好を崩した。

   「おーい、おかみさん、この人にもコップ持ってきて!! それとね、ビール中瓶1本、

   エビチュで頼むよ!!」

   「あ、そんなつもりじゃ・・・・それじゃ、悪いですよ・・・・」

   「いいええ、遠慮なさらずに!! 僕、懐かしくて・・・・これは僕のくだらない話に

   お付き合い頂くお礼と、あなたが無事に第2新東京市に着いたお祝いということで・・・」

   マヤは慌てて何度もお辞儀をして固辞しようとしたが、男はコップにエビチュを並々と注ぐと、

   マヤの前に置いてしまった。

   (・・・・どうしよう・・・・むげに断るのもカドが立つし・・・・一杯ぐらいなら、

   問題ないですよね、先輩・・・・)

   「仕方ないですね・・・・じゃ、一杯だけ頂きますね・・・・」

   「そうこなくっちゃ!! じゃ、かんぱーい!!」

   男は目の高さまでコップを持ち上げると、一気にコップの半分ほどまでビールを飲み干した。

   マヤも、おずおずとコップを持つと、ビールを口に含んだ。

   (・・・・???・・・・いつもおんなじビールなのに、なんでこんなにおいしいの?・・・・

   なんか今日はいくらでも飲めそうな気がする・・・・いや、だめ!! 私は出張中なんだから・・・)

   「これは、いい飲みっぷりですね。じゃ、もう一杯っと。今日はとりわけ暑いですから、

   ビールが旨いですねぇ・・・・」

   マヤが一口でビールを飲み干してしまったのをみると、すかさず男は空のコップにエビチュを

   注いでしまった。

   「あ、いや、もうこの辺で・・・・ああっ、注いでしまわれたんですね・・・・・」

   (・・・・今日はとくに暑いから・・・・もう一杯だけいいですよね、先輩・・・・)

   マヤは一瞬、躊躇したが、目の前で男が旨そうにコップを空けるのをみて、つられて自分の

   コップに手を伸ばした。

    

    30分後、マヤは久しぶりに開放感に満たされていた。

    「この第2新東京市はほんとに暑いですね。転勤されたとき、そう思われませんでした?」

    男は多少、赤くなった顔でコップの中のエビチュを飲み干すと、にっこりと笑った。

    「いやぁ、ほんとに!! 旧東京も暑かったけど、ここほどは暑くなかったなぁ・・・」

    「あ、あなたも旧東京のご出身なんですか? 私も10歳まであっちに住んでたんですよ。

    世田谷区の瀬田に住んでたんです。あのときは、偶然、叔母が危篤で山梨に行ってたんです・・・」

    「私は、あのときは修学旅行中でしてね。戻ったら、なんにもなくなってて・・・子供の

    いない伯父夫婦が私を引き取って、第3新東京市に移って、大学院まで出してくれましてね・・・・」

    「・・・ご苦労されたんですね・・・・・」

    「いいえ、私なんか恵まれてた方ですよ。だから、今は世の中に恩返しをしたくて、

    その一心で働いていますよ。もっともエンジニアが貢献できることなんてたかが知れてるかも

    しれないんですけどね・・・・」

    男はふっと寂しそうに笑うと、視線をコップの中に落とした。でも、その焦点はコップの底を

    突き抜けて、はるか遠くにある。

    「・・・・私も・・・世の中のためになる仕事をしたくて・・・でも、なかなか理想と

    現実は違うみたいで・・・・意に沿わないような仕事もしなくちゃいけなくて・・・・」

    「それは私も同じですよ。世の中のためになる、いい製品を世に送り出したいっていう気持ちで

    一杯なのに、「外見を派手にして世間への印象を良くしろ」とか、「よその製品は絶対に模倣するな」

    とか妙な注文ばかりつけられて・・・・たとえよその製品であっても、良い部分はどんどん

    取り入れないといけないのに・・・・ウエの方はメンツにこだわりすぎて・・・・

    ほんとに技術開発がなんたるものなのか、全然、わかっちゃいないんだ・・・・エンジニアを

    単なる道具としか見てない証拠ですよ・・・・」

    男はテーブルの上に置いた拳を思わず堅く握り締めた。

    「あ、それ、私もそう感じることあります!! エンジニアって道具としかみられて

    ないんだなって思って、悲しくなることがあったんですよ、これまで何度も・・・・・」

    マヤは目を大きく見開いて、寂しげな男をじっと見つめた。

    「そうなんですよね・・・まったく悲しいもんです・・・・そのうえ、うちは新しくできた

    技術研究組合なんで、共同研究所の研究員も各社からの寄せ集めでして・・・・これがまた、

    大変なんですよ・・・・」

    「技術研究組合ですか・・・・あれって大変だそうですね。私も学生時代にゼミの先生からよく

    聞かされましたよ。共同研究開発は、よほど条件が揃っていないと成功しないって・・・・・。

    だから、1980年代の日本の第5世代コンピュータプロジェクトも、アメリカのMCCも

    結局、当初期待されてた成果を挙げられなかったって・・・・」

    (どこの組合の人なのかしら・・・・最近、政府の方針で組合が乱立してるから、

    ちょっと見当がつかないわ・・・・)

    マヤは、学生時代の、研究だけに純粋にいそしんでいた自分の姿をぼんやりと思い浮かべて、

    テーブルの上を見つめながら、静かに答えた。

    マヤの返事を聞いた男は、ぱっと顔を上げ、「ようやく理解者を得た!」というような

    嬉しそうな目で、一気にまくしたて始めた。

    「よくご存知ですね! そう、そうなんですよ!! ああ、釈迦に説法かもしれませんが、

    共同研究開発が成功するためには、開発テーマが参加各社にとって共通に重要であり、

    反面、実際の生産技術の研究にまで踏み込まないこと、つまり、市場に近すぎも遠すぎも

    しないテーマで、せいぜい試作品の開発までを目標とすること・・・・そして・・・・」

    「共同研究開発に失敗すれば他の勢力に出し抜かれて、企業の存亡の危機に関わる可能性が高い
   
    という危機感が参加各社の共通認識となっていること、さらにその研究開発が業界の
 
    進めようとしている技術の共通標準化に貢献するということ・・・・」

    マヤは、にっこりと微笑むと、男の言葉を引き継いで答えた。

    「ああ、まさにそのとおりだ!! そして、さらに、研究開発コストが膨大で

    参加企業による分担や政府からの補助金や出資などが不可欠であること、という条件が揃う

    必要がありますよね!! だけど、その全てを満たすことはやっぱりとても難しく、例外的って言って

    いいほどで・・・・・ご多分にもれず、うちの組合でも・・・・・僕は残念です・・・・・

    せっかく豊富な予算と時間を与えられて、国家プロジェクトに参加できるっていうのに・・・・」

    「・・・でも、あなたは、困難なのを承知でそれに取り組もうとなさっているわけでしょ?

    あなたのなさっている研究組合が、その「例外」になり得る可能性だってがあるんじゃ

    ないですか? それに共同研究開発だって、いつでも失敗しているわけじゃないでしょう?

    実際に・・・・」

    そこまで言いかけて、マヤは男の瞳をじっと覗き込んだ。そこには、もはや寂しそうな心は

    見えず、代りにきらきらとほとばしる何かが感じられた。

    「1970年代の日本の超LSI技術研究組合、つまり成功例として名高い超L研、そして

    1980年代後半の米国のセマテック、のことをおっしゃりたいんでしょう? 

    でもね、あれはコンダクターとして官庁が各社をうまく調整できたことが大きかったし、

    共同研究所のトップが当時の業界の権威みたいな人物で、みんなが一目置いていたって

    こともあるんですよ・・・残念ながら、うちの組合は官庁の統率力は強いものの、

    研究プロジェクトのトップの人望が欠けてるんです・・・・もともとこの畑の人じゃないから、

    各社とも「あんな奴に研究者のレベルが判るわけはない」って甘く見て、能力の高くない

    研究者を派遣してるんですよ。そうすれば自分のところの負担が軽くなるし、その反面、

    開発成果だけを濡れ手に粟で手に入れられるから・・・・彼らにはわが国の産業全体の利益になる

    プロジェクトだってことが判ってないんだ!! 判ってたら、こんな馬鹿な振る舞いはしない・・・」

    「共同開発プロジェクトへのフリーライドっていうことですね・・・ありがちですね・・・・」

    (・・・ありがちだけど・・・・みんな一生懸命やってる中で手を抜いて、ただ乗りしようなんて

    絶対に許せない・・・・私ならとても我慢できない・・・・)

    マヤは自分のことのように唇を噛み締めた。

    「そのうえ共同研究所での作業から、自社の知識や情報が他社に盗まれるのを警戒して、

    研究者間の情報交換がうまく行ってないんですよ・・・・まあ、私の発案で、

    宿泊セミナーを定期的に開いたり、勤務時間外での飲み会とかの行事を頻繁にやるようにして、

    研究所の雰囲気を良くしようとは努力してるんですけどね・・・・」

    「あ、それは超L研の経験を生かしたっていうことですよね。私も、そういう、人と人との

    信頼関係が大きなポイントだと思いますよ。きっとうまく行きますよ!!

    元気出して、頑張ってください、ねっ!!」

    マヤはにっこりと優しく微笑むと、男の瞳をまっすぐ見つめた。

    男はマヤに見つめられて、一瞬、驚いたようだったが、やがて安心したような微笑みを 

    返した。

     (あ、なんか子供みたいな顔になった・・・・うふふふ・・・・)

    マヤは思わず再び微笑みを返した。

    男はなおも話したそうな表情で口を開きかけたが、思い直したように

    口をつぐんだ。

    (こういう、何かに一生懸命な男の人っていいなぁ・・・・って、私、何考えてるんだろ

    ・・・・少し酔って思考が麻痺してるのかな・・・・足元の明るいうちに

    ホテルに帰ったほうが無難ね・・・・・・・)

    「あの・・・・・そろそろ、私、時間が・・・・」

    「あ、そ、そうですね! ごめんなさい、話に夢中になって気がつきませんでした。

    今日はなんか愚痴を聞かせてしまって・・・・でも、おかげで、またやる気が

    出てきましたよ。ほんとは、もうやめちまおうかと思ってたんですけど、

    うちのプロジェクトを「例外的な」成功例にできるんじゃないかって思えて

    きましたから・・・・あの、そ、その、もしもですよ、もし、あなたが

    お嫌ではなかったら、名刺とか頂けるとうれしいなぁ、なんて・・・・」

    男は急に視線をマヤの顔から外すと、ちらちらとテーブルの上とマヤの目を交互に

    見て、明らかに躊躇しつつ切り出した。

    (・・・・どうしよう・・・・せっかく楽しい時間だったのに・・・・

    ・・・・・きっと、NERVの職員だって知れたら、いつものように悲しい幕切れに

    なっちゃうわよね・・・・今夜ぐらいは、楽しい気分で眠りたいの・・・・)

    「あ、私、まだ名刺なんか持たされてない新入社員なんですよ。えへへ、なんか生意気な話を

    しちゃったけど、あれ、教授の受け売りで・・・・それに・・・・・たまには、こんな

    余韻のあるお別れっていうのも、いいんじゃないですか?・・・・」

    (あー、私、なに恋愛小説みたいな台詞言ってるんだろ・・・・でも・・・・・

    ほんとは・・・・きっと一度くらい言ってみたかったのね・・・・名前も知らない

    あなた・・・・ありがとう・・・・・)

    マヤはすっと立ち上がると、とびっきりの笑顔で男に微笑みかけ、席を離れた。

    男は無言で身じろぎもせずにマヤの背中を見つめていた。

    そのままマヤは振り返ることなく店を出て、さらに地下街から地上に出た。

    まだそんな遅くない時間なので、行き交う人の波は大きなうねりとなっている。

    そのうねりに呑み込まれながら、マヤはふと空を見上げた。

    ビルの陰から、ネオンや街路灯の光に妨げられながらも、月が顔を覗かせている。

    (・・・・どうしたのかしら?・・・・なんか嬉しいような悲しいような変な気持ち・・・・

    でもね、これで良かったの。それは確かなこと。・・・・でも、でも・・・・・

    全てが終わって平和になったら・・・・・もう一度会ってみたいな・・・・・そんなの

    確率的には無理かしら? 名前も知らないし、その時になって転勤しちゃってるかもしれないし

    ・・・・でも・・・・きっとこんな暑い晩にあのお店に行ったら・・・・あ、私ったら

    どうかしてるわね。そんな非科学的なことあるわけが・・・・ま、いっか。ひとつぐらい

    非科学的なこと、信じておいても・・・・誰に迷惑がかかるということでもないしね・・・・

    ・・・・・先輩、ごめんなさいっ!!・・・・・・)

    マヤは、心の中で「そういう非科学的なことを言ってるから!!」と怒った表情のリツコを

    思い浮かべると、くすっと微笑んだ。



    男は寿司屋の中でテーブルに頬杖をついて座っていた。

    (・・・・あーあ、振られちまったい!! いや、待てよ。なんか含みのある言い方だったよな、

    最後の言葉・・・・・もう一度、会えたら・・・・いや、もう一度、会えるさ。なんかそんな

    気がする・・・・って、そんな非科学的なこと、あるわけないか・・・・ま、いいさ。取り敢えず

    研究続ける気になれたんだからな・・・・・さしずめ、あの人は落ち込んでいる俺を励ましに

    降臨してくれた天使、みたいなもんか・・・・)

    男はふっと苦笑すると、湯呑みに残っていた茶を飲み干した。
    
    その途端、隣の椅子にかけてあった背広の内ポケットで携帯電話が鳴り出した。

    (・・・・やれやれ、またトラブルですかい?・・・・お伽の時間は長続きしないねぇ・・・・)

    男は一瞬、顔をしかめると、携帯電話を耳に当てた。

    「あ、もしもし、時田さんですか? 和泉です!! また熱暴走しちゃいました!!」

    「はいはい、わかったよ。今行くから・・・・」

    男は携帯電話を切ると、足元の鞄を持ち上げて、中から「日本重化学工業共同体」と書かれた

    IDカードを取り出し、背広の内ポケットにねじ込んだ。

    (さてと、新たな「神話」ができるようにひと働きしますかね・・・・)

    時田シロウは、寿司屋の引き戸をがらっと開けると、人の波の中に身を投じていった。

 
    つづく
   
   
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