或いはひとつの可能性



第22話・触れ合った、こころ





   2回目の使徒襲来から8日目、そしてシンジか学校に来なくなってから1週間目。

   2015年5月29日金曜日の朝、リエは新四ッ谷駅前をいつものように

   少し先の舗道を見つめながら、市立第壱中学の生徒達に混じって歩いていた。

   雲一つない晴天の下、アスファルトの舗道はもう僅かに熱を帯び始めている。

   アブラセミの声が蒸し暑さを一層助長するように、緑の少ない通学路に炎炎と響いている。
   
   「あ、リエ、おはよう!!」

   「リョウコ、おはよう」

   リエは舗道から僅かに視線を上げて、リョウコを見つめると、視線を再び舗道に下ろした。

   「ねえ、どうしたの? なんか最近、元気ないみたい・・・・」

   「・・・・・うん・・・・・・・」

   「なにかあったの? あたしで良かったら、相談に乗るわよ」

   「・・・もう1週間ぐらい、お父さんと口きいてないの。それに綾波さんとも・・・」

   「あ、最初の方は月曜日に話してた件ね。結局、お父さんとは話し合わなかったの?」

   「あれから、お父さん、毎日、朝早く、私が寝てる間に出かけちゃうし、夜は夜で

   毎晩すごく遅いし・・・・きっと私のこと、避けてるのよ・・・・・」

   「なんでそうなるのよ?! 純粋に忙しいからでしょ? ケーブルテレビで言ってたけど、

   市議会、かなりもめてるんでしょ? そのうえ、NERV問題も加わってんだから、

   忙しいのは当たり前じゃない?! 別にリエのことを避けてるわけじゃないって!!

   もうー、一人でずっと考え込んでるから、そういう悪い方向にしか考えられなく

   なっちゃうのよ!! 」

   「でも、私、お父さんにひどいこと言っちゃったから・・・・」

   「だからぁ、それは思い過ごしだって!! リエのお父さん、議会ではもっとひどいこと

   言われてもビクともしないんだから、こんなことぐらいで落ち込んだりはしないわよ。それにね、

   私たちぐらい年頃で、いつもお父さんべったりなんて、やっぱりなんか変よ。だから、

   お父さんと喧嘩したってことは、リエも成長したって証拠なんじゃない?」

   「・・・・そういうものかしら・・・・・」

   「きっとそうよ!! だから、そんなに落ち込まなくても大丈夫よ。明日は学校休みだから、

   今晩はちょっと夜更かしして、お父さんが帰ってくるのを待ってたら?」

   「うん、そうする。ありがとね。なんか少しだけ気分が軽くなったわ」

   「これで、ひとつ解決ね!! で、綾波さんとは何があったの?」

   「あ、この前、リョウコが風邪で休んだ、あの金曜日に綾波さんと一緒に帰って、

   それで途中でユリコの家によって、そこで綾波さんと話してるうちに、

   うっかり私が口を滑らして余計なこと聞いちゃったから・・・それから綾波さんと

   話してないの・・・・・そんなにこじれないと思って、リョウコには今まで

   黙ってたのよ・・・・・自分でなんとかしようと思ったんだけど・・・・・」

   「一体、どんなことを綾波さんに聞いたの? リエのことだから、そんなに

   ひどいこと言ったとも思えないし・・・・・」

   「綾波さんの家族のこととか聞いたの・・・・そしたら、綾波さん、黙っちゃって・・・・・

   そのあと綾波さんがひとりで家に帰っちゃって・・・・・」

   「それで分かったわ。今週は、お昼休みに綾波さんのところに行こうって誘っても、

   リエがぐずるから、なんかおかしいと思ってたのよね。ま、そのうちに話してくれる

   だろうって思ったから、敢えて聞かなかったんだけど・・・・・。結局、それ以来、

   綾波さんと話をするきっかけで掴めないってわけね? ま、リエらしいけどねぇ・・・・」

   「やっぱり怒ってるかな、綾波さん・・・・」

   「そうねぇ、どうかしら? でも、今週は、どことなく淋しそうだったわよ、綾波さん」

   「・・・謝ったら・・・許してくれるかな・・・・」

   「大丈夫よ、きっと。根に持つようなコじゃないってことは、私たちが一番よく知ってるはず

   じゃないの?」

   「・・・・でも・・・・・・」

   「ほら、また、うじうじしないのっ!! ちゃんと誠意を込めて謝れば、きっと

   判ってくれるって!! それに、もっと親しくなったら、きっと怒った理由についても、

   ちゃんと話してくれるわよ。だから、そう自分を責めないの!! 一旦落ち込むと、

   なかなか立ち直れないってところが、リエの悪いところよ」

   「うん、そだね。ちゃんと謝ってみるね。ありがと、リョウコ。なんか今日は

   朝から感謝ばっかりしてるね」

   「あら、そうだと思っているんなら、見返りに、今度の試作品のお菓子、食べて

   くれるわよねっ?」

   「えっ・・・・い、いいわよ・・・・で、でも、この間みたいに失敗しないでね・・・・

   もうおなか痛くするの、やだから・・・・」

   「あ、あれはね、ちょっとだけ餡が失敗しちゃったのよ・・・・・ま、私も発展途上って

   ことで、大目に見てよね! 今度は、大丈夫だからさぁ」

   「・・・・・仕方ない、人類の科学の進歩のため、じゃなかった、リョウコのお菓子作りの

   腕の進歩のために実験台になってあげますか・・・・」

   「ま、ひどいこと言うわね!! 人体実験じゃないのよっ!!」

   灼けつき始めた通学路の上には、はしゃぎながら追いかけあう少女たちの影がくっきりと

   映っていた。


  
   「おはよう、鈴原君」

   「あ、おはようさん、高橋に明石」

   「どーしたのよ、あんたも最近、元気ないわね? ジャージでもなくしたの?」

   「あのなぁ、わしだってジャージ以外のことぐらい、時々は考えるわい。

   おい、高橋、こいつになんか言うとったれや!! ほっとくと、こっちまでアホが

   うつるわい!!」

   「もうー、朝からリョウコに喧嘩売っちゃだめよ。でも、ほんとにどうしたの?・・・

   もしかして・・・ヒカリとなにかあったの?・・・」

   「な、なんで、そこで委員長の名前が出てくるんや?! 高橋まで、一体、わしを

   どんな奴やと思うとるんや?」

   「だ、だって、ヒカリと鈴原君、なんだかんだ言っても、結局、よく一緒に

   帰ったりしてるから・・・・・私、てっきり、二人が・・・・・」

   「リ、リエっ!! なんてこと言うのっ!! わ、私は、ただ、その、そう、す、鈴原を

   一人にしとくと寄り道とかして、校則に違反するから・・・・そう、いわばお目付け役って

   いう立場なのよ、い、委員長としての職責の一環よっ!!」

  「なんや、わしは監視付きの身かいな・・・・やれやれ、信用ないのう・・・・」

  トウジは、ふてくされた表情で、近くの空いている席に腰を下ろした。

  「おはよう、朝から賑やかだね」

  「あ、おはよう、相田君。ジャージおたくが、珍しく考えごとしてるのよ!! ほらっ!!」

  リョウコの指差す方向に視線を移したケンスケは、表情を僅かに曇らせた。 

  「・・・トウジ・・・昨日、僕、碇と偶然会ったんだよ・・・・」

  「な、なんやて? あいつはNERVにおるんやなかったんか?」

  「ああ、どうやら、NERVで訓練ってのは、公式発表に過ぎないみたいだよ。

  僕は、昨日、外輪山の麓で、いつもみたいに野外演習に出ていたんだけど、

  そこで碇に会ったのさ。なんか、えらく憔悴しきってたぜ。服も汚れてたし・・・・。

  ま、あいつはなんにも言わなかったし、僕も理由は聞かなかったけどね・・・・」

  「で、それから、どうしたんや!? もったいつけんと、はよ話せや!!」

  「それで、夕飯おごって、テントに泊めてやったんだけど、明け方にNERVの

  保安諜報部って名乗る男達が現れて、碇を連れてった・・・・・」

  「なんやと!? そんで、お前は黙ってみてただけやっちゅうんかい?」

  「んなこと言ったって、向こうはNERVの保安諜報部、プロなんだよ」

  「それがどないしたんや!! お前、それでもマタンキついとんのか?!」

  「ちょ、ちょっと、ここには女の子もいるのよ、あんたなんてこと言うのよ!!

  ヒカリもこのジャージバカになんとか言ってやってよ!!」

  「す、鈴原・・・や、やっぱりそういうことは・・・リエも赤くなって下向いちゃってるし・・・」

  「明石も委員長も黙っとれ!! わしはケンスケに聞いとんのや!!」

  「勝てない喧嘩するのはバカなの。マタンキは関係ないの!」 

  「この間から碇君が休んでたのは、訓練じゃなかったのね。でも、学校には、訓練で

  休むって、保護者の人から連絡があったのよね。そうよね、ヒカリ?」

  「うん。リエの言うとおりよ。だから、私もそういうことだとばっかり思ってたわ・・・」

  「きっと、この間、使徒が来た時に、僕たちを助けようとして、命令違反したことが

  きっかけでなんかあったんだよ。僕はそう思うな。」

  「でも・・・・綾波さんは、訓練だって・・・・」

  リエは窓際の席に視線を向けた。普段は教室内の出来事には関心を示さないレイも、さすがに

  リエたちの方に紅い瞳を向けていた。

  「高橋、綾波を責めるのは酷だよ。綾波もNERVの関係者である以上、守秘義務を

  守る必要があるんだから・・・・そうだよな、綾波?」

  「・・・・・・」

  レイは黙ってリエの目を見つめていた。リエもレイの目から視線を外さなかった。

  リョウコやヒカリたちには、その数秒間が何十分にも感じられた。

  不意にレイは視線を逸らすと、再び窓側に顔を向けて頬杖をついた。

   (・・・・・・・守秘義務・・・・・・私は規則を守っただけ・・・・・・・

     ・・・・・・・葛城一尉から言われたようにしただけ・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・嘘であっても・・・・必要なこと・・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・私が守らなければならないこと・・・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・私は・・・・・・・・みんなとは違うから・・・・・・・・

     ・・・・・・・高橋さん・・・・・・いつもと違う目で見てる・・・・・・

     ・・・・・・・怒っている?・・・・非難している?・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・どちらとも違うような気がする・・・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・あの眼差しは・・・・何?・・・・・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・なぜ・・・・私・・・考えているの?・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・義務は果たしたのに・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・エヴァとの絆・・・・守ったのに・・・・・・・・・・・・)


  リエはレイが窓の方を向いてしまうと、心持ち俯いて、ため息をついた。

   (・・・・・・・やっぱり、わかりあうことは無理なの?・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・あなたは・・・・・・それでいいの?・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・淋しくないの?・・・辛くないの?・・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・でも・・・でも・・・前みたいに冷たい視線じゃなかった・・

     ・・・・・・・どこが違うかはよく判らないけど・・・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・そんな視線だった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・ような気がする・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・それが私の思い込みだったとしても・・・・・・・・・・・・

     ・・・・・・・今は、そう信じたい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)   
 
 
  「おい、ケンスケ!! 碇はこれからどうなるんや?」
  
  「あの様子じゃ、もうエヴァには乗らないかもしれないね」

  「どういうことや?」

  「あいつ、第2新東京市から来たんだろ? そこに戻るかもしれないってことさ」

  「このまま、なんも言わずに、か?」

  「ああ、いつも誰かが転校して行く時は、そうだったじゃないか? ある日、突然、

  転校してしまって、僕たちには学校からの事後報告だけ・・・・・・・・」

  「なんとかならんのか? わしは、碇に一言、言っておかんと気が済まんのや!!」
  
  「そうだなぁ・・・・第3新東京駅から環状線に乗るとしても、あるいはNERV本部から

   直接、車で最寄りのリニア停車駅に送り届けるとしても、必ず、新箱根湯本駅を

  通るはずだよ。だから、新箱根湯本駅で待っていれば碇と会える確率は高いと思うよ」

  「そりゃ、本当か?」

  「多分ね。ちょっと待ってろよ。今、駅に電話して聞いてみるから・・・・」

  「駅で、そないなこと教えてくれるんか?」

  「あのねぇ、駅に「碇君が乗る電車はどれですか?」なんて聞いて、教えてくれると

  思ってるのか? 」

  「え? ちゃうのんか?」

  ケンスケは、肩のところで手のひらをひらひらと振ってみせた。

  「碇はエヴァのパイロットだぜ。NERVを辞めても、VIPには変わりはないはずさ。

  NERVの機密も十分すぎるほど知ってるしね。だから、きっと、一般の乗客とは隔離した

  形でリニアに乗せるはずなんだよ。それがどんな方法かは僕もわからないけどね」

  「そういうもんかい・・・・へーえ、お前、くわしいなぁ・・・・」

  「蛇の道は蛇っていうやつさ。少なくとも僕がNERVの幹部だったら、そうするね」

  ケンスケは胸を張ってクラスメートたちを見回すと、おもむろに携帯電話を取り出した。

  周りを取り囲むリエたちの視線も、自然と携帯電話に集中する。

  「あ、もしもし、新箱根湯本駅ですか? 午後6時頃にリニアで厚木方面へ行きたいんですけど、

  ダイヤを教えて欲しいんです。え、あ、はい、毎時10分、30分、50分の3本ですね。

  え? 事故とか工事じゃないですよね? はぁ、あ、そうですか。はい、わかりました。

  どうもありがとうございます」

  「どや? なんぞ判ったんか?」

  「ああ、16時30分の厚木行きリニア特急が運休するんだって。それで、理由を聞いてみたら、

  駅員が「政府専用特別列車が」って言いかけて黙ったんだよ。もし、以前から決まってたことなら、

  今朝のテレビの鉄道情報で運休の話をするはずだし、政府専用特別列車のことも

  別に秘密にする必要はないじゃないか? これまでだって、特別列車のためにダイヤ変更が

  行われることは珍しくなかったし・・・・。どう考えても、この特別列車の運行は、今日、

  それも、ついさっき、突然、やむを得ない極秘事情のために決まったことみたいに思えるんだよ」

  「その列車に碇が乗るってことか?」

  「その可能性はかなり高いよ」

  「よっしゃ、決まりや!! ケンスケ、わしらは新箱根湯本で待ち伏せや!!」

  「ちょっと待てよ!! 学校はどうするんだよ?」

  「んなもん、腹痛うなったことにして早退すりゃいいんじゃ!! 理由は後から

  ついてくるわい!!」

  「相変わらず強引な奴だなぁ、トウジは・・・・」

  「ちょっと、鈴原!! それはズル早退ってことじゃないの!? 委員長としては

  見逃せないわよ!!」

  「すまん、委員長、このとおりや、見逃してくれい!! ここでなんもせんかったら、

  わしはずっと後悔することになる思うんや!!」

  トウジはヒカリに向かって合掌して、必死の形相で頼み込んだ。

  「ねえ、ヒカリ・・・私とリョウコは、何も聞かなかったわよ。昨日のテレビの

  話をしてたから・・・・。そうよね、リョウコ?」

  「え、あ、ええ、そうよ!! なーんにも知らないわよ、あたしたちは!!」

  「おおー、高橋、ほんま、おおきに!!  明石、この借りは絶対返すによってな!!」

  「もうー、また二人して、そういうこと言う!! これで、あたしが駄目って言ったら

  あたしだけが悪者になっちゃうじゃないの!! わかりました!! あたしも、リエとリョウコと

  テレビの話してました!! 鈴原、相田君、絶対に学校関係者に見つからないでよ!!」

  「あーあ、僕まで悪事の片棒を担がされるとはねぇー」

  「じゃかしい!! あとでタコ焼きでもおごったるさかい、それで帳消しにせえ!!」

  「さすが、トウジ!! 話が早い!!」

  「あたし達もタコ焼き、嫌いじゃないわよ! ねー、リエ、ヒカリ?」

  「まったく、どいつもこいつも、人の足元見よってからに!! こうなったら、

  タコ焼きでも、お好み焼きでも、なんぼでもおごったるわい!! みんな腹が破れるほど

  食いすぎて倒れてまえ!!」

  1時間目の授業が近づいている2年A組の教室に、明るい笑い声が大きく広がった。


  
 

  「今日はほんと災難だったよな。忙しくって飯も食ってない。ああー、腹減った」

  昼過ぎに、高橋は議会内の会派別控室に顔を出したが、今日はあらかじめ議長宛に出張願を

  提出してあったので、忘れ物の手帳を探すのが目的だった。

  高橋が忘れ物を見つけて、控室を出ようとした、まさにその時、環境保護団体が

  陳情のために控室を訪れた。

  不幸にも、その時、控室には議員は高橋しかいなかったため、彼が出張の時間を

  気にしながら陳情団の応接を引き受けざるを得なかった。

  こういう時に限って、陳情者は往々にして饒舌であり、高橋は控室の隅に箒を逆さにして

  立て掛けたい衝動に駆られながらも、悶々として応接を続けていた。

  15時過ぎになって、やっと幹事長の三笠が幹事長・書記長会議から戻ってきて、

  漸く高橋は陳情団から開放され、今こうして環状線に乗っている。

  「こんなことなら、朝飯を家でしっかり食ってくるんだったな。モーニングサービスだけじゃ、

  昼飯抜きの時にはやっぱりちょっとつらいな・・・このところリエとも全然話してないし・・・」

  環状線がトンネルを抜けて緩やかなループにさしかかったとき、車内アナウンスが流れ始めた。

  「まもなく新箱根湯本に到着いたします。厚木行き特急リニアにお乗り換えのお客様は

  2番線でお待ちください。なお、本日の16時30分発の厚木行きは、都合により、

  運休させて頂くことになりました。ご予約のお客様は、すべて16時50分発の

  列車に振り替えていただくことになっております。お急ぎのところ、まことにご迷惑を

  おかけいたします」

  「おいおい、そんな話は聞いてないぞ!! ちゃんと16時50分発に乗れるんだろうな?

  厚木まで立ちっぱなしなんてことになったら、たまらねぇからな。ま、たかだか20分の

  違いだから、あんまり予定には響かないから、まだいいようなもんだけどな。まったく、

  いきなり運休なんて、ちょっと乱暴過ぎるぜ」

  高橋は眉をひそめて呟くと、腕時計に視線を移した。

  「なんだよ、あと40分もあるじゃないか。陸奥のところにでも寄るかな・・・・

  いや、それよりも駅前でなんか食ってったほうがいいな・・・」

  高橋が鞄を引き寄せた時、車内が少し暗くなり、環状線は新箱根湯本駅の

  3番線に滑り込んだ。



  高橋は、背広を軽く二つ折りにして背中にひっかけると、ホームに降り立った。

  女性と老人を中心とした20人ほどの客が改札口に向かってゆっくりと歩いている。

  駅のすぐ脇の林から聞こえてくるセミ時雨の中、高橋もホームをゆっくりと歩いて行った。

  駅前商店街の有線放送が流している歌謡曲が、途切れ途切れにホームまで流れてくる。

  「・・・・少し風が出てきたかな・・・・」

  数歩歩いた時、高橋は僅かながらも心地よい空気の流れを感じて、ふと立ち止まった。

  「・・・・静かだな・・・・・昼寝をしたいような気分だ・・・・・」

  軽く目をつぶって深呼吸すると、高橋は改札口に向かって再び歩き出した。

  駅のすぐ近くの林からは、セミの声に混じって木の葉のざわめく音が聞こえ始めている。

  「いつもこんなに閑散としてるのかい?」

  高橋に突然、声を掛けられた改札口の駅員は、一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに

  軽く微笑んだ。

  「いいえ、あと1時間もすれば、夕方のラッシュが始まりますよ。」

  制服の胸に「三隈」という名札をつけている、その駅員は、提示された議員パスを

  受け取って記載内容を一瞥すると、それを返そうとして、高橋の手の中に握られている

  リニアのチケットに気がついたようだった。

  「あ、もしかして、お客さんは16時30分発のリニアにお乗りになる予定だったんですか?」

  「ああ、そうだよ。突然、運休したんだって? まいったねぇ・・・」

  「申し訳ありませんね、突然、政府専用特別列車が走ることになりまして・・・・・

  あ、これ秘密なんで、ここだけの話にしてくださいね。あー、あと40分もありますねぇ。

  どうですか、それまでの間、駅の近辺でも散歩なさっては?

  早川沿いの遊歩道なんか川風が涼しくて良いですよ。お勧めです」

  「ああ、ありがとう。ちょっと腹がすいてるんだけど、なんか軽く食べられる店は

  この辺にあるかな?」

  「あ、それなら、すぐそこに「エム」っていう立食喫茶がありますから、いかがですか?」

  「そりゃあ、ちょうどいいや。ありがとさん!!」

  改札口を抜けた高橋は、観光案内板が並べられている通路を進んで、駅前ロータリーに

  出ると、辺りを見回した。

  「なんだ、ほんとうに「そぐそこ」じゃねえか。はははは」

 


  高橋がナポリタンの皿に手を伸ばした時、店の前に車が止まった。

  車のドアが閉まる音に、反射的に振り向いた高橋は、

  NERVの公用車が店の前に止まり、その傍らにサングラスをかけた男が2名、

  立っているのを見た。そして、車の中からは、さらに、一人の少年が降りてきた。

  「あ、あれは碇の息子!!・・・ええと、シンジ君とか言ったな・・・・

  ・・・なんだ、やけに大きなバッグ持ってるなぁ・・・・旅行かな・・・・」

  高橋は皿を持ったまま、店の正面のガラス窓に歩み寄った。

  「誰だ、あれは? ・・・・・どこかで見覚えがあるな・・・・・ああ、そうだ!!

  あのジャージ姿、リエのクラスメートの、確か鈴原君だったな。その隣の眼鏡の

  少年は相田君かな。 思い出したぞ、確か、去年の体育祭の時に、リエと話してた

  2人だ!! あれ、まだ授業中のはずだが?」

  トウジはケンスケに背中を押されると、シンジの正面に立ちはだかった。

  店の中にいる高橋には外の物音は聞こえない。

  「鈴原君はなんか緊張した顔してるな・・・・シンジ君に何を話しているんだろ?

  あ、なんだ、どうしたんだ?! なんで、シンジ君が鈴原君を殴ってるんだ?

  喧嘩か? いや、それにしては、相田君も含めて、みんな落ち着いてるぞ?」

  トウジの言葉を聞いて、シンジがはっと表情に変わり、そして口を開きかけた時、
  
  サングラスの男がシンジの肩に手を置いた。

  「あいつら、シンジ君をどこに連れて行くつもりだ? あ、リニアの乗降口の方に

  連れてくぞ!! ひょっとして、政府専用特別列車に乗せるつもりなのか?」

  高橋は、ナポリタンの皿を慌てて店のカウンターの上に置くと、外に駆け出した。

  リニアの乗降口に通じる階段の近くまで辿り着いた時、高橋の耳に、シンジの

  叫び声が聞こえてきた。

  「殴られなきゃならないのは僕だ!! 僕は卑怯で臆病でずるくて弱虫で!!」

  「これ以上、世話を焼かせるな!!」

  高橋が、二人の少年たちの後ろから、階段を見上げた時、そこには

  誰の姿もなく、遠ざかっていく、幾つかの靴音だけが響いていた。

  「君たち、ここでなにしてるんだ?」

  「あ、高橋のおやじさん!! やべっ!!」

  「あ、これにはちぃーと事情がありまして・・・」

  「さっきはシンジ君も一緒だったみたいだね? どうしたんだい?
 
  私も話のわからない野暮じゃないつもりだよ。事と次第によっては、何も

  見なかったことにするよ」

  「実は、碇がNERV辞めて第2新東京市へ帰ることになったんで、

  トウジと二人で見送りに来たんです」

  「それにしちゃぁ、さっき、鈴原君はシンジ君に殴られてたみたいだが・・・」

  「あ、あれですか? あれは、こないだ、わしが勝手な思い込みで、碇を2発どついたんですわ。

  でも、その後、エヴァの中で苦しむ碇を見て・・・・碇もつらかったんやいうことに気がついて・・・

  このまま碇と別れてしまったら、なんや気が済まん思うたんです・・それで碇に借りを

  返させてもろたんです・・・・」

  「そうだったのかい・・・・・・私は、何も見ずに立食喫茶でナポリタンを食ってた・・・

  だから、君たちの姿は見てないよ・・・・」

  「すんません!! 恩に着ます!!」

  「ありがとうございます!!」

  「大方、仮病でも使ったんだろう・・・・帰り道では、学校関係者に見つからんように

  気をつけなよ。じゃ、私は、ナポリタンを引続き楽しむとするよ」


  高橋が店に戻った時、彼がカウンターに置いたナポリタンの皿はなくなっていた。

  「あ!? あのー、ここに置いといたナポリタン・・・・」

  「あれ、お客さん、戻ってきたの? 皿を置いて出てっちゃったから、いらないと思って

  もうかたしちゃったよ。」

  「えええーっ!? ・・・・しょうがない・・・・もう一つ作ってもらえませんかね?」

  「あいにく、さっきのが最後で・・・・すまないねぇ・・・」

  「いや、私の方こそ・・・・なんか別のものにしようかな・・・・」

  高橋は、がっくりと肩を落として、店の入り口の食券販売機の方に向かおうとした。

  が、忍び笑いの声を聞いて足を止めた。

  振り返ると、他の数人の客たちが高橋の方を見て笑っていた。

  さすがに高橋もいたたまれない気分になった。

  (取り敢えず・・・・駅前で別の喫茶店を探そう・・・・)

  高橋は店を出ると、線路沿いに歩いて駅前商店街に出ようとしたが、

  列車がホームに入線してくる音を聞いて、ふと足を止めた。

  「2番線に厚木行き特急リニアがまいります。危ないですから黄色い線の内側まで

  お下がりください」

  女性の声のアナウンスの後、続いて男性の駅員のアナウンスが聞こえてきた。

  「2番線の電車は16時20分発、厚木行きの政府専用特別列車です。

  一般の方は柵の内側には入れません。なお、許可のない方のご乗車は堅く禁じられております。 

  くれぐれもご注意ください。」

  高橋が反射的に駅のホームに視線を移したとき、うな垂れた一人の少年が

  ステンレス製の柵の内側にたたずんでいるのが視界に飛び込んできた。

  「・・・やはり14歳の少年には、使徒との戦闘はつらいんだろうな・・・・・

  ・・・・碇・・・・お前は自分の息子を犠牲にしても心配じゃないのか・・・・・・」

  一瞬、ゲンドウの顔を思い浮かべた高橋は表情を強ばらせたが、気を取り直して、

  再び歩き出そうとした。

  しかし、今度は駅前ロータリーの脇のベンチに腰掛けている少年たちが視野に入ってきた。

  「君たち、まだいたのかい? 学校関係者に見つかっちまうぜ!」

  「わしら、せめて碇が行ってまうまで見届けてやりたいんですわ!!」

  「そうか・・・・ま、見つからんように、な・・・」

  発車ベルが鳴り、列車のドアが閉まる音が聞こえた。

  高橋と2人の少年は、ゆっくりと動き出していく「7723型」と書かれた

  車体を黙ってみつめていたが、車のエンジン音と急ブレーキの音に気づいて一斉に振り返った。

  青いルノーから慌てた様子で、髪の長い娘が降りてきた。

  「あ、葛城さんや!!」

  「君たちは葛城さんを知っているのかい?」

  「この間、碇の家にプリント届けに行った時に知り合ったんです」

  高橋とケンスケが話している間、ミサトは走り去っていく列車を見つめていたが、

  やがて線路に背を向けて車によりかかり、天を仰いだ。

  列車の音が聞こえなくなると、駅前ロータリーには商店街の有線放送から流れる

  歌謡曲だけが響いている。

  少しだけ強くなった風が長い髪を僅かに揺らした時、不意にミサトは振り返り、そして

  ゆっくりと視線を上げていったが、すぐに驚愕の表情に変わった。

  ミサトの様子を眺めていた高橋たちも、彼女の視線を追い、そして目を見開いた。

  ホームにはシンジが、やはり驚いた顔でたたずみ、ミサトの方をみつめていた。

  「まもなく4番線に強羅行き各駅停車がまいります。危ないですから、黄色い線の内側まで

  お下がりください。小さいお子様をお連れの方はとくにご注意ください。」

  女性の声のアナウンスの後、男性の駅員のアナウンスがホームに響いた。

  「4番線の電車は16時32分発、強羅行き折り返しの各駅停車です。

  ご利用の皆様はご乗車になってお待ち下さい。はい、まもなく電車入ります。

  黄色い線の内側まで下がってください」

  少しだけ涼しくなった風が、立ちすくむ人々の頬を撫でて通り過ぎた。

  「・・・・・ただいま・・・・・」

  「・・・・・おかえりなさい・・・・・」

  シンジとミサトは少しだけ照れたように微笑みながら、線路を挟んでたたずんでいた。

  「碇はここに残ることに決めたみたいだね。良かったな、トウジ!!」

  「そうやけど・・・・碇、またエヴァの中で一人で苦しむことになるんやろな・・・・」

  「でも、少なくとも、学校では、もう一人じゃないだろ!?」 

  「・・・・そやな・・・・よっしゃ、今度、タコ焼き屋で碇の歓迎会やったろやないか!!」

  「あ、その話、私も乗った!!」

  「あ、葛城さんも来るんですか? あれ? あのー、碇はどこ行っちゃったんですか?」

  「シンジ君なら今、改札口の方に歩いていったわ。もうすぐここに出て来るわよ。

  そう言えば、なんで高橋さんがここにいるんですか?」

  ミサトはようやく高橋の姿に気がつくと、訝しげに見つめた。

  「ああ、偶然、通りかかりましてね。ちょっと用事があって新小田原まで行くんですよ。

  私はこの後のリニアに乗るんで、もう行くとしますよ。それじゃ失礼しますね」

  (・・・・やっぱり厚木に行くってことは伏せといた方がいいよな・・・・・

  この人もNERV職員だからな・・・・・)

  高橋はミサトと二人の少年に軽く会釈をすると、改札口に向かって歩き出した。

  (・・・・なんで、シンジ君はここに残ることにしたんだ?・・・・・・

    ・・・・第2新東京市に帰る方が、エヴァに乗って闘うよりも辛いってことなのか?・・・)

  高橋が改札口で駅員に議員パスを見せていた時、すぐ脇をシンジが駆け抜けていった。

  「ミサトさん!! 鈴原君、相田君!!」

  「おう、やっと出てきたか! おい、碇! 「鈴原君」なんて気色悪い呼び方はよせや!

  わしのことはトウジでええで!! 」

  「右に同じ! 僕のことはケンスケって呼んでくれよ!」

  「じゃ、じゃあ、そ、その、僕のことは・・・シンジでいいよ!!」

  「よっしゃあ!! まずはシンジの帰還祝いにどこぞで飯でも食わんか!?」

  「そーいうことはあたしに任せなさい!! 3人とも、今日は給料前だけど奮発して

  焼き肉おごっちゃうわ!!」

  後方で盛り上がるシンジたちの声を聞きながら、高橋は改札口からホームに向かう

  地下通路を歩いていった。

  (・・・・・彼らにとっては・・・・・これで良かったのかもしれないな・・・・・)

  高橋は漠然とそんな想いを抱きながら、後ろを振り返ることもなく歩き続けた。

  

  高橋が地下通路から階段を上がって2番ホームに辿り着いたとき、ミサトは車に乗り込もう

  としていたが、舗道を駆けてくるハイヒールの音に思わず振り返った。

  セミロングの髪の若い娘が息を切らしながら、新箱根湯本駅の改札に向かって走っていた。

  (あららら・・・大きなバッグ持って、そのうえスーツにヒールだから走りにくそうねぇ・・・

   ・・・・転ばなきゃいいけど・・・・)

  ミサトがそんな思いを抱いた時、案の上、その娘は足をもつれさせて前のめりに転んだ。

  「あなた大丈夫? あ、大きな怪我はなさそうね。気をつけてね」

  「あ、す、すみません!! ちょっと手をすりむいただけです!! じゃ、電車に遅れそうなんで!!」

  若い娘は顔を赤くして、ミサトの差し出した手を頼りにして立ち上がると再び走り出そうとした。

  「どの電車に乗るの?」

  「16時40分発の厚木行き特急リニアです!!」

  「え??? それって16時50分発の間違いじゃないの? リニアは毎時10分、30分、

  50分のはずよ。」

  「あ、僕もそうだと思いますよ。さっき学校から電話で駅に確かめたときも、そう言われたから」

  「えーっ!? あー、急いで損しちゃったわ!! 駅前の喫茶店でコーヒー飲んでるうちに

  うとうとしちゃって・・・目が覚めたら36分なんで慌てて飛び出してきたんですよぉ!!」

  「スーツにヒールじゃ、やっぱり走りにくいわよね。あら? あなた、伝線してるわよ!」

  「えっ!? あぁーっ!! 重ね重ねどうもすみません・・・トイレではき替えなくっちゃ・・・」

  「あの、葛城さん、伝線ってなんですかいな? わし、初耳ですわ」

  「ストッキングって結構やわなのよ。それでちょっとした衝撃で裂けちゃったりするのよ」

  「ほほう、これで伝線ですか? なるほど縦に裂け目が入ってますねぇ・・・」

  「ちょっと相田君、女の人の足をあんまりじろじろ眺めちゃ駄目よ!!」

  「じゃ、そろそろ私、行きますね。ほんとお騒がせしました!」

  若い娘はぺこりと一礼すると、今度は落ち着いた足取りで改札口に向かって歩いていった。

  「じゃ、あたしたちも、焼き肉レストランに向けて出発よ!!」

  「うはぁー、肉や、肉が食えるで!!」

  「トウジはいつも飢えてるからなぁ。家でどんなもの食ってるんだよ?」

  ケンスケは、歓声を上げているトウジを胡散臭そうな目で見つめた。

  「そやなぁ・・・おじいの作ったラーメンライスとか・・・・」

  「・・・な、なんか、不健康そうだね、それって・・・・」

  「なんや、シンジ、結構うまいんやで!! ま、シンジは葛城さんの手料理を

  毎日食うとるさかい、口がおごっとるんやろな・・・」

  「・・・・あは、あははは、ま、いろいろ、とね・・・・・そうですよね、ミサトさん?」

  なんとも曖昧な微笑みを浮かべて、言葉を濁すシンジに、ミサトはにっこりと笑って答えた。

  「うふ、模範的回答ね、シンジ君。今度、鈴原君と相田君にもあたしのカレーを

  ご馳走してあげるわね!!」

  「おおっ、そりゃ楽しみやなっ、ケンスケ!!」

  「相田ケンスケ、万難を排しててでも必ずやミサトさんのカレーを頂戴いたします!!」

  「・・・・あ、あの・・・・ミサトさん・・・あの二人にいきなりカレーっていうのは・・・・

  その・・・ちょっと刺激が強すぎるんじゃ・・・・」

  狂喜している二人を横目で見ながら、シンジはミサトに小声で囁いた。

  「うーん、確かにちょっち強すぎるかもね・・・でも、ま、死にゃしないから大丈夫よ・・・」

  絶句するシンジを横目に、ミサトはアクセルを踏んでスピードを上げた。

  目の前には、塔の沢に通じる函嶺トンネルが真っ暗な口を開けている。


  
  高橋はリニアの座席に座ると、売店で買った缶コーヒーのプルトップを引き上げた。

  「あーあ、なんかごたこだしてて、また飯食いそびれちまったよ・・・・厚木の彼の店で

  とんかつでも食うとするかな・・・でも、話がこじれたら、とんかつどころじゃなくなるかも

  しれんなぁ・・・やれやれ・・・ほんとシンジ君と出会うとろくなことにはならねえ・・・」

  高橋が窓の外を眺めながら心の中でシンジに責任転嫁した時、頭の上から若い娘の声が聞こえた。

  「あの、すみません。ここ、私の席なんで、荷物を・・・」

  「あ、すんません!! 今すぐ片づけます!!」

  高橋は頭を掻いて謝ると、鞄を隣席から引き寄せて自分の足元に置き直した。

  グレーのスーツ姿の若い娘は軽く会釈すると高橋の隣席に腰掛け、大き目のバッグから

  缶入り紅茶と紙製のパックに入ったサンドイッチを取り出した。

  高橋は、隣人がサンドイッチを食べ始めると、横目でみつめてしまっていた。

  (・・・・うまそうだな・・・・・あー、腹減った・・・・・・こんなときに

  俺の隣でメシなんか食うなよぉ・・・・・・)

  ぼんやりとサンドイッチを見つめていた高橋がふと我に返ったとき、隣席の娘が不安そうに

  自分を見つめているのに気がついた。

  二人の視線がかち合ってから、気まずい沈黙が1、2秒続いた。

  高橋は内心「しまった」と思い、冷や汗をかき始めた。が、娘はにっこりと笑うと、

  高橋にサンドイッチのパックを差し出した。

 「・・・・・あの、良かったら、お召し上がりになりませんか?・・・・・」

 「え、いや、そういう訳じゃ・・・それにあなたの分が・・・・いやそうじゃなくて・・・」

  高橋はしどろもどろになりながら、慌てて顔の前で手を左右に振った。

  「私、さっき、駅前の喫茶店で一休みしたときにコーヒー飲んじゃったんで・・・・

  ほんとは、その時にこれも食べようと思ったんですけど、持ち込みになっちゃうから

  まずいと思って、食べられなかったんですよ・・・」

  「・・・・でも・・・・ほんとによろしいんですか?・・・・なんかやっぱり悪いような・・・」

  「どうぞご遠慮なさらずに!!私、 少しおなか一杯になっちゃってたところなんで!!」

  「・・・じゃ、お言葉に甘えて、ひとつだけ・・・・ほんとにすみません・・・・

  忙しくて朝からなにも食ってないんで・・・・お恥ずかしい・・・・」

  顔を赤らめつつハムサンドを口に入れた高橋は、やがて目を大きく見開いた。

  「これ、旨いですねぇ!!  どこで買われたんですか?」

  「うふふ、それ、私が作ったんですよ」

  「ああ、なるほど!! いやぁ、お料理がお上手なんですね! これ、ほんと旨いですよ!!」

  「いいええ、そんなに上手じゃないですよ。一人暮らしが長いんで、単に慣れてしまった

  だけなんです・・・・そんなに褒められると、私、照れちゃいますよ・・・・」

  娘は少し顔を紅潮させると、照れを隠すように話題を変えた。

  「・・・・どちらまで行かれるんですか?・・・・」

  「あ、私ですか? 私は終点の厚木まで行きますよ。厚木で人と会わなくちゃいけないんで・・・」

  「そうですか。じゃ、終点まで一緒ですね。私は、そのあと乗り換えて成田まで行くんです」

  「外国にでも行かれるんですか?」

  「ええ、急にドイツに出張しなきゃいけなくなったんです。荷物はもう先に送っちゃったんで、

  身軽で行けるから別に大変ではないんですけどね・・・・」

  「ドイツですか・・・あそこも復興著しいですからね。商談かなんかですか?」

  「いいえ、私は経理担当なんで・・・・」

  高橋は少し答えにくそうな娘の様子に気づくと、再び頭を掻いて謝った。

  「あ、これはいろいろと立ち入ったことを聞いてしまってすみません!! 私はこういう者でして・・・

  決して怪しい者ではありません。ま、皆さんからみると、私らの存在自体がすでに

  胡散臭いかもしれませんがね。あっはっはっは」

  高橋は笑いながら背広の内ポケットから名刺入れを取り出すと、おずおずと娘に名刺を手渡した。

  「ああ、市会議員さんだったんですね。それじゃ安心ですね。これ、私の名刺です」

  娘は、耳にかかったセミロングの髪を手で後ろに流すと、名刺入れをバッグから取り出して

  少し微笑んで高橋に名刺を渡した。

  女性には似つかわしくない武骨な名刺には、長い役職名と彼女の名前が書かれていた。

  「千歳重工 第3新東京支社 財務部経理課 経理第2班 扶桑ルミ」


 
    つづく
   

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