翌朝。高橋はリエが起き出してくる前に、家を出た。
高橋は市議会で質問に当たっている日には、いつも早目に家を出て、議会内の会派別控室で質問の草稿を
読み返すことにしているが、今日はさらに早く家を出て、朝霧が立ち込める中を新駒沢駅に向かって、
坂道を下っていった。
「おお、高橋君か。今日は早いね」
「あ、おはようございます、幹事長。今日は質問に当たっていますし、それに・・・・・」
「9時から国会内で定例閣議があるからだろ? 昨日、第2新東京市の吾妻代議士に電話を入れておいたよ。
閣議が終わった後、官房長官の午前の定例会見が始まる11時までには、こちらに閣議の概要を教えてくれることに
なってるよ。さてさて、使徒対策として、政府はどんな対応を打ち出してくるかね・・・・」
「さあ、どんなものでしょうかね。ただ、私は、昨日の臨時記者会見で、政府があっさりと前言を翻して、使徒が
続けて襲ってきたことを認めたのが、少し気になりますが・・・・・」
「政府には何か思うところがあった、と言うのかね?」
「ええ。マスコミは政府の対策の遅れとか情報入手の遅れを非難していますが、こういう時こそ、実は政府にとっては
新規案件をぶち上げて予算を獲りやすくなるものですからね。何でも、「使徒対策」の名目がつけば、錦の御旗を
もらえる訳ですから・・・・・」
「ひょっとすると、災害対策本部の設置や、内務省外局の憲法擁護庁の強化、といった話が飛び出してくるかも知れんな」
「まず確実なのは、戦自の戦力強化策でしょうね。補正予算を組んで、防衛費、科学技術関連予算を上積みし、
エヴァンゲリオンに匹敵するような新型兵器の開発に着手するかも・・・・・」
「そうだね。こういう名目があれば、政府の宿願だった戦自の戦力強化が容易にできるようになるわけだからね。
最近の財政再建のために兵器開発予算を減らされてきた国防省や国防ファミリーの大手企業は泣いて喜ぶよ」
「戦自でもエヴァンゲリオンみたいなロボットを造る、なんて言い出さなきゃいいんですけどね・・・・」
「さあ、わからんぞ。つくばの戦自研究所は、腕まくりして待ち構えてるだろうから・・・。少なくとも、この間、
新聞に載ってた陽電子砲試作プロジェクトは前倒しされるだろうね」
リエは、いつもの時刻に家を出た。
「昨夜、あんなことになっちゃったから、お父さん、私と顔合わせづらかったのかしら?・・・・・」
霧が晴れて暑い陽射しが降り注ぎ始めた坂道を下り始めたとき、
後ろから自動車のエンジン音が聞こえてきた。
「おっはよーん!! リエちゃん!! いい天気ねー。これから学校?」
「あ、ミサトさん!! 今朝も元気ですね!!」
「えへへ、ちょっち昨夜飲みすぎちゃって頭痛いんだけどね・・・・。あ、新四谷駅まで乗ってく? 通り道だから遠慮
しなくていいわよ。」
「えっ? いいんですか? うーん、どうしようかな・・・。ほんとにいいんですか? じゃ、お言葉に甘えて」
「そうこなくっちゃね!! 子供は遠慮なんかするもんじゃないの!! じゃ、行くわよ!! しっかり掴ってて!!」
ミサトの蒼いルノーは、タイヤに悲鳴をあげさせながら、勢いよく走り出した。
「うわぁー、速い!! 気持ちいいわぁ!!」
「でしょ、でしょ?? でもねぇ、みんな、なーんか、あたしの車乗るの怖がるのよねー。ほんっと度胸無いわよねー。
リエちゃんは、こういうの好きなの?」
「ええ!! 私、ジェットコースター大好きですから!! 」
「やっぱ車はスピード出てる方がいいわよねー!」
「なんか、もやもやした気分が、ちょっとの間でも吹き飛びますよね」
「あら?! リエちゃんは、朝からご機嫌斜めだったの?」
(そういえば、リエちゃん、今朝は妙にはしゃいでるわね・・・・)
「・・・・ええ・・・・ちょっと昨夜、お父さんと喧嘩しちゃって・・・・・」
「・・・・・そう・・・・・ま、そういう時もあるわよ、長い人生なんだから・・・・・でもね・・・喧嘩するときには
精一杯、思いっきり喧嘩しておきなさいよね」
「え、なぜですか? 」
「家族が本音をぶつけ合えるって大切なことなのよ・・・・あたしの場合はね、父とも母とも、大きな喧嘩なんか
したことなかったの・・・」
「ご家族、仲がいいんですね」
「・・・・違うのよ・・・・みんな喧嘩すらできなかった、ってこと・・・・・あたしも、父と喧嘩しておけばよかったなぁ」
「今からじゃ、駄目なんですか?」
「・・・・・・・」
ミサトは、リエの問いには答えず、黙ったまま真っ直ぐフロントガラスをみつめていた。
リエはミサトの沈黙に少し狼狽した。
(私、まずいこと聞いちゃったのかしら? なんとか話題を変えなくちゃ!! えーと、えーと・・・そうだわ!!)
「あ、今日は碇君は一緒じゃないんですか?」
その瞬間、車のスピードが微妙に落ちた。
「・・・・・今ね、NERV本部で訓練中なのよ。だから・・・・暫く、学校にも顔出せないかもね・・・・」
「・・・・そうですか・・・・みんな碇君の話が聞きたくて待ち構えているのに・・・・」
「・・・・・そうね・・・・・シンジ君は、みんなに褒められるようなこと、したんだもんね・・・・・」
(それなのに・・・・・あいつ・・・・・・いつまで学校、ずる休みするつもりなのかしら・・・・)
「ミサトさん、そんな暗い顔しないでくださいよ・・・・私まで気分が滅入っちゃいます・・・・ただでさえ、
今朝はちょっとブルーなのに・・・・・」
「あ、そうだったわね。ごめんね。心配なのよね、シンちゃんってほら、あんまり友達を自分から
簡単に作れそうにないタイプじゃない? だから学校でもひとりでぽつーん、ってしてるんじゃないかと思って」
「そうですね。男の子の友達、いないみたいですね。碇君が男の子と話してるの、みたことないですから」
「え?じゃあ、女の子とは話してるの、シンちゃんは?」
「綾波さんと話してることが多いですね。でも、最近は、綾波さんの周りも、女の子が集まってくることが
増えてきたから、碇君もあんまり近寄れないみたい」
「あ、そうなの・・・・ええっ、ちょっち待って!! あたし、最近耳が遠くなったのかしら? 今、レイの周りに
人が集まるようになった、なんて言わなかったわよね!?」
「言いましたよ。最近、ほんとうに少しずつだけど、綾波さんが話すようになったんです、私たちと。
綾波さんって、根は素直でいい子だから、みんなが綾波さんのところに集まることも増えてきたんですよ。」
「じゃ、もしかして、今は、教室では、レイは結構モテモテで、逆にシンちゃんは一人でじめーっとしてるわけ?」
「ええ、そうですよ。明後日の日曜日に、友達の家でお菓子の試食会するんですけど、綾波さんは、それにも
呼ばれてるんですよ」
「そ、そうなの・・・へぇー、まったく驚いたわね!!」
(あちゃー、これはまずいわね。シンちゃんが学校に行きたくなくなる理由が、ほかにもあったとはね・・・)
「あの、ミサトさん・・・・さっきから綾波さんのことをレイって呼んでますけど、綾波さんと仲良かったんですね?」
「え!? あ、ああ、そうよ。よくNERVで会うからね」
「こんなこと聞いちゃいけないのかもしれないけど・・・・綾波さんはNERVとどんな関係があるんですか?」
「シンちゃんから聞いていないの?」
「碇君は「綾波のお父さんがNERVに務めている」って言ってましたけど・・・・・」
「・・・・・・そう・・・・・シンちゃんはそう言ってるのね・・・・・。」
(お父さん、か・・・・そう言えなくも無いわね・・・・・レイのすべてを知っている人、だもんね、碇司令は・・・・)
「・・・・・・ミサトさん・・・・今度、いつか時間があるときに、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんですけど・・・」
「あら、何かしら? 悩み事なら、このミサトお姉さんが手を貸してあげるわよん! 」
(誰かから相談を受けるなんて、久しぶりねぇ・・・・そう言えば、あたし、NERVでは、こんなふうに相談を
持ち掛けられるなんて、ほとんどないものね。・・・・・リツコはほんとに辛いときには、表情には出るくせに
なんにも相談してくれないし、マヤもリツコにばっかり相談してるし・・・・それに、青葉君も日向君も、
言うならばあたしの部下だもんね、やっぱ上司にはプライベートな相談はしにくいのかしら・・・・シンちゃんも、
悩み事があるなら、リエちゃんみたいに、少しでも相談してくれればよかったのに・・・・・あ、なに考えてんだろ、あたし・・・
まさか・・・あたし・・・寂しいの?・・・・そんなわけ、ないわよね・・・・こんな歳になって、今更、寂しい、なんてね・・・)
「そのときは「NERVの葛城部長」ではなくて・・・「知り合いのお姉さん」として、お願いします・・・」
「ええ、いいわよ。結構込み入った話みたいだけど、「知り合いの綺麗なお姉さん」として相談に乗ってあげるわ!!」
「えー、私、「綺麗な」はつけてませんでしたよぉ!」
「あーら、その位言ってもらわないとねー。相談料、前払いで頂いちゃうわよん!!」
ミサトは、助手席で漸く元気な笑顔をみせたリエに向かって、ウインクをしてみせ、そして窓を思い切り開けた。
すがすがしい風が車内に吹き込み、澱んだ空気を押し流した。
「車はいいですよね・・・・風になれるから・・・・」
「まあ、嬉しいこと言ってくれるわね!! 」
「私も早く免許取れるようになりたいな。そしたら、私もミサトさんみたいに蒼いルノーに乗りますよ」
「あら、あたしの愛車、気に入ってくれたの? ますます嬉しいわね!! そうねえ、あと4年先かしらね」
「そうですね。その時は・・・・」
「その時は?」
「・・・・私ももう大人になってますね・・・・本当にそんな時が来るのなら・・・・」
「来るわよ、きっと!! そのために、あたし達は闘っているんだから・・・・。」
赤信号で車を停めると、ミサトは、少し俯き気味に助手席に座っているリエの手に、軽く触れた。
「あきらめちゃだめなのよ、あたしたちは・・・未来はね、それを望む者にしか与えられないのよ・・・・」
「・・・・でも・・・・・私たちは何もできないじゃないですか・・・ただ、運命が決められるのを
みつめてるだけで・・・・そうして決まった運命に抵抗することはできない・・・・・」
「私も偉そうなこと言えないけど・・・・人には、それぞれ持って生まれた責務があると思うの・・・
シンちゃんはエヴァに乗って使徒と闘うという辛い責務・・・・私たちNERVの職員は14歳の子供を
エヴァに乗せて、その闘いを凝視しなければならないという責務・・・・そしてリエちゃんたちの責務は、
与えられた瞬間を自分なりにいつも精一杯生きることだと思うわ・・・・使徒はね、私たちNERVだけで
倒しているんじゃないのよ・・・・・兵装ビルを修理している人たち、NERVに資材を納入している人たち、
戦自の隊員、そして、この第3新東京市を動かしているすべての人たちが、精一杯、自分たちの責務を果てして
いるから、私達は使徒に勝てているのよ・・・・・・確かに使徒は私たちより遥かに強力な生命体よ・・・・
でもね、たった一つだけ弱点があるのよ、わかる?」
「・・・・・いいえ・・・・・」
「少なくとも、これまでの使徒はね、いつも単体で襲ってきたわ・・・・あいつらは個々に完結した存在だから
互いに協力することはないのよ・・・・だから私たちにも勝ち目はあるのよ・・・・」
「・・・・・そうなんですか?・・・・」
「いくら強力でも、所詮、単体は単体なのよ。だから、必ず活動にも、どこかに隙というか限界点があるはずなの・・・・
その点、ヒトは単体でははるかに弱いけど集まって支え合うから強いのよ・・・・ヒトって、面白い生き物なのよ。
1足す1が2にならないのよ」
「・・・・????」
「同じ力を持った人が2人で仕事すれば、仕事は2人分はかどるはずでしょ? でもね、実際には、2.2人分も
処理してしまったりするわけなの」
「へぇ、そうなんですか?」
「いつも襲ってくる使徒は1体なのに、それに対するヒトは、確かにセカンド・インパクトで減ってはいるものの、
何億もいるのよ!! 勝てないはずがないでしょうが!!」
「そうですね・・・なんか少し希望が持てました。ありがとうございます、ミサトさん。やっぱり、「頼れるお姉さん」
ですよね、ミサトさんは」
「てへへ、実はね、今の話は、同僚で学生時代からの友達のコが言ってたことの受け売りなのよ。ちょっち格好良かった
かしらん?」
「ええー、そうなんですか? 私なんか、感心して聞き入っちゃいましたよ」
「ま、たまにはこういうあたしも新鮮でしょ? いつもエビチュばっかり飲んでるわけじゃないのよ、あたしは!!」
「そうですね、この間、おうちに行ったときには、ウイスキー飲んでましたもんね、ミサトさんは」
「そういう意味じゃないっていうの!!」
明るい陽射しが降り注ぐ車内で、リエとミサトは顔を見合わせて笑った。
蒼いルノーのフロントガラスには、新四谷駅の三角屋根が映り始めていた。
つづく
第20話に進むには、このを押してください。
「小説のありか」に戻るには、この を押してください。