永遠の花(後編)


 体が重い。頭の中に霧がかかっていて、いくら薙ぎ払ってもいっこうに晴れる様子がない。
 自分の体に薄膜が一枚貼られているようだ。薄い膜の上から、誰かが必死に体をさすっている。あぁ、きっとこの小さな手は公績だ……。汗でも拭いてくれているのだろうか。それとも、さすっていないといられないくらい、俺の体は冷たく死の形を描いているのだろうか。
 多分喉の薬か食事に一服盛られていたのだろう。あるいはその両方か? なるほど、さすがに凌家の人間は頭が良い。俺を殺そうと思ったら、病に見えるような毒を使うのが一番だ。どんなにその病が突然で疑わしく思えようと、一応「病死」の判断が下せるのならそれで充分の筈。事情が事情なだけに、誰も公績に問いただすことはしないだろう。
 公績は泣くだろうか。でも、多分この方が良いのだ。きっと九泉の下で、オヤジ殿は公績を誉めてくれるだろう。よくぞ仇をとってくれたと。
 ただ、子明にだけは申し訳なかった。あいつ、本当に怒るかもしれない。いつも俺が公績ばかりを気にしてるって怒ってるし、謝ろうにももう謝ることは出来ないもんな。せっかくこんな俺を愛してくれたっていうのに……。



 意識がフワフワと浮いていて、もう何かを考えるのが億劫になってきたとき、無理に体を起こされて、口の中に苦い液体を含まされた。飲み下すことも出来ずにいると、食道が開くように喉を仰け反らされ、更に注がれる。
 何て乱暴なことをするんだろう。せっかく気持ちよく死ねるところだったのに、目が醒めてしまうではないか。
 やめさせようと身をよじると、その手を誰かに捕まれた。
 しっかりとした肌の感触。目を開けると、そこには初めて会う女性が立っていた。華やかな少女がそのまま年を重ねたようなその女性は、一目見ただけで凌統の母親と分かる面差しをしていた。
「乱暴なことをして申し訳ありませんでした。でもこうでもしないと、あなたとゆっくり話をする機会が得られないと思ったものですから」
「……こうせきどののごぼどうでいらっしゃるのか……」
 かなり聞き苦しいものの、とりあえず言葉であると判別できるほどには喉も回復しているようだった。
「ええ。初めてお目にかかります、甘将軍」
 夫人は優雅に黙礼すると、笑顔で「その薬を飲めば、半刻もしないで体は元に戻りますから」と、顔に似合わないことをさらりと述べた。
「こうせき、どのは……」
「登城させました。あなたの傍を離れようとしないので、追い立てるのはかなり大変だったのですよ?」
 優しい笑顔。これがあの漢の奥方か……。
 夫人はそっと手を伸ばすと、甘寧の首筋に触れた。まだ薬が抜けきっていない甘寧は、されるままにするしかなかった。

「痕、まだ残っていますね。息子が失礼を致しました」
 頭を下げようとする夫人を、甘寧は震える腕で押し止める。
「おれは、あなたにあやまってもらえるようなにんげんではありません」
「息子の不始末を詫びるのは、親として当然の行為です」
「これは、こうせきどのにはとうぜんのけんりです。おれはあなたがなにゆるしをこうつもりはありませんが、でももとよりゆるされるともおもっていません」
 甘寧の視線が夫人の視線と絡まった。夫人の瞳は凌統と似て、はっきりと意志を持った瞳だった。
「甘将軍、私の夫はあなたと同じように将軍でした」
「はい」
「息子も同様です。あなたと同じように、多くの命を奪ってきました。もしわたくしがあなたを責めて夫を返せと詰って良いのなら、そしてあなたがそのことに責任を取らねばならないと言うのなら、わたくしも多くの方々に、同じように責任を取らねばなりません」
「ですが……」
「…もっとも」
 夫人は小さく溜息をついて、甘寧から目をそらした。
「頭で分かっていることと、心で分かることは別です」
 気丈な女性だと思った。真っ直ぐな芯の強さ。これが公績の母親か。公績はこんな女性に育てられてきたのだ……。
「そういっていただけると、おれもきがらくになります」
 甘寧がいつものように口元を歪めて笑うと、夫人もにっこりと笑った。
「今日あなたと話がしたかったのは、このことに関してではありません。わたくしも、あなたの心を楽にしてあげる義理はないと思っていますから。
 ……話というのは他でもありません」
 どう切り出したものか少しの間逡巡していたようだが、夫人はきっぱりうと顔を上げ、甘寧を真正面から見つめた。

「息子は、いつもあなたの話をします。今日はあなたの弱点を見つけただの、あなたが子布殿に叱られて気味が良かっただの。あなたの話しかしないと言っても良いほどです」
 意味がお分かりですか、と夫人が視線で問う。
 ……甘寧は、どう答えて良いのか分からなかった。握った拳が汗ばんでいる。ただ、夫人の瞳を睨むように見つめ続けるしかできなかった。
 夫人の瞳は厳しかった。
 ……この人は、全て知っているのかもしれない……。公績の気持ちだけではなく、俺達の関係も、俺の想いまでも。
「将軍、あなたは息子をどう思いますか?」
「……おれは…」
 指先が震えるのは、薬のせいだけではないだろう。自分をこんな気持ちにさせる人に会ったのは久しぶりだ。自分が殺した男の未亡人であるにも関わらず、甘寧は夫人に幼い頃に亡くした母親を見る思いだった。
 この人をこれ以上傷つけたくなかった。そう、甘寧はすでにこの人の人生を粉々に砕いてしまっているのだ。幸せになれるはずだったこの人の人生を。
「おれは、これいじょうこうせきどのをくるしめるつもりはありません」
 絞り出すような甘寧の言葉を聞いて、夫人はゆっくりと頭を下げた。再び顔を上げた夫人は、泣いているような、微笑んでいるような、そんな複雑な顔をしていた。
「さ、甘将軍。まだしばらく薬は抜けますまい。お休みなさい」
「ごぼどう」
 甘寧を布団に寝かしつけようと知る夫人を、甘寧は押しとどめた。
「こうせきどのがもどるまえに、かえってもいいですか?」
「そうですね。この家にいては。また何をされるか分かったものではありませんもの。あと半刻お休みなさい。その間に車をしつらえておきましょう」
 さ、と寝台に戻される。甘寧は口の中で小さく感謝の言葉を漏らすと、夫人は優しく笑った。
「あなたとは、もっと違った形で出会えると良かったのですけど」
「どうかんです」
 もう一度軽く頭を下げてから部屋を出ていく夫人の後ろ姿を見送りながら、それでも甘寧は凌家と自分の間に横たわる、地獄にまで届くような崖を意識せずに入られなかった。この崖を渡りきることは出来ないのだ。そう、永久に。



 凌家の家人に付き添われて屋敷の近くまで戻ってくると、甘寧はここで降ろしてくれるようにと頼んだ。奥様にきつく言われているので門まで送るという家人に、俺が凌家にいたことをうちの手下共に知られない方が公績のためだと言い含め、何とか降ろしてもらったは良いが、案の定まだ薬は完全に抜けきっていないようだった。
 おぼつかない足取りで塀につたってなんとか歩いていると、すぐに甘寧は手下に発見されて屋敷の中に運び込まれた。かつての錦帆賊の副頭だった利斉が、慌てて甘寧を寝室まで抱きかかえて運んでいく。
「頭、どうしたんですか、この有様は」
「あぁ、かぜでもひいたらしい。なんだかふらふらする」
「何てぇ声ですか。ほら、さっさと寝て下さい」
 寝台の上で利斉に浴びるほど水を飲むように言われると、甘寧はおとなしくそれに従った。
 甘寧の長兄と同じ年の頃だということもあり、また、役人だった甘寧が死にかけているところを救ってくれた命の恩人だということもあるせいか、甘寧はこの男の言うことには比較的おとなしく従うことにしていた。
「まだ具合、おかしいですか?」
「うん……」
「手っ取り早く汗流して、薬抜きますか?」
「え?」
 返事をするより早く、甘寧は利斉に組み敷かれた。
「よせ、あたまがいたいんだ」
「でも汗にして流しちまった方が、こういうのは早く抜けますよ?」
「なにいって……」
「あのガキの所に行ってたんでしょう?」
 利斉は睨みつけるようにそう言うなり、甘寧の襟元を広げて首筋に顔を埋めた。



 ぐったりとした体を丹念に拭き清められ、もう一度水を飲まされる。
「どうです?」
「なにが…」
「体、楽になったでしょう?」
 起きあがって頭を振ってみると、確かにすっきりしている。体がだるいのは、これは情事の名残だろう。
「何でサルの家にいるって……?」
 声を出してみると、ずいぶん人間の声に近づいている。散々喘がされたのが良かったのだろうか?
「首筋に指の痕が残ってますよ。まぁ仲謀の旦那にそういう趣味があるって可能性も無くは無いんでしょうが、それだったらそんなやばい薬飲まされたりはせんでしょうし、第一頭も庇い立てたりしないでしょう」
 図星を指されて黙り込むと、「さっさと頭が抱いちまえば良いんですよ」と小突かれた。

「誰が誰を抱くって?」
 ぎょっとして利斉を見ると、利斉は思いの外まじめな顔で甘寧を見つめていた。
「頭が凌統の野郎をですよ。頭に惚れてるんでしょう?」
「バカなこと言うな」
「バカなのは頭の方ですよ。頭が抱かれちまってどうするんですか」
「サルは男だぞ」
「頭だって男だ」
「同じ男でも、俺とあいつじゃ人種が違うんだよ」
 凌統は健全な男子だ。男が男に抱かれることを「最大の屈辱」だと信じて疑っていない。仇討ちを禁じられた凌統が行える、ただ一つの復讐が甘寧を陵辱することなのだ。
「自分の父親を殺した男に犯されるなんて、あいつが耐えられるはずないだろう?」
「頭は案外、何も分かっちゃいないんだ」
「俺達を基準に物事を考える奴があるか」
「色恋に基準もへったくれもねぇよ。あいつは頭に惚れてるんだ。復讐を盾にあんたを抱きたがってるだけじゃねぇか」
「だから抱かせてやってるだろう? あいつがそれを復讐だと信じてるんなら、それでいいんだよ」
「頭……」
 この話は終わりとばかりに、甘寧は利斉に背中を見せた。俺が公績を抱く? ばかばかしい。
「…まぁいいですけどね。頭がこれ以上あのガキに夢中にならないってんなら、あのガキが泣こうが喚こうが俺達の知った事じゃないし」
「うるさい、黙れ」
「ただ言っときますが、あのガキはあんたの気が引きたいだけなんだ。あんたが抱いてやらなけりゃ、この先何をされるか分からねぇぞ」
「俺は黙れと言ったんだ!!」
「頭……!」
 眼差しのきつさに利斉は口をつぐんだ。甘寧を本気で怒らせることがどれだけ危険なことか、利斉は身をもって知っている。

 それでも、あんなガキのことで本気で怒りだす甘寧を見ているのは耐えられなかった。あのガキが甘寧の命を狙っているということも、甘寧に惚れているということと同じくらい厳然とした事実なのだ。
 上掛けにくるまれて後ろを向いてしまった甘寧の首筋に、細い指の痕が見える。忌々しく舌を打ちながら、こんな甘寧に何を言っても無駄だと言わんばかりに、「出過ぎたことを言ってすいませんでした」と利斉は寝台を降りた。
 部屋から出ていこうとする利斉に向かって、背を向けたまま甘寧が声をかけた。
「言っとくが、薬を盛ったのはあいつじゃないぞ」
「誰でも同じ様なもんですよ」
 今度こそ甘寧が怒りだす前に、利斉は急いで扉を閉めた。



 その日一日様子を見てから、甘寧は翌日にはもう登城した。首の痕は何とか言い訳が出来る程度には薄くなってきたし、喉はもう完璧に復活していた。利斉の無理が利いたのか、薬の後遺症も全然見られない。
 ただ、さすがに凌統と顔を合わせるのは億劫だった。あの母親ならば、甘寧が勝手に帰ったことを上手く言ってくれてはいるだろうが、それでも気まずいことに変わりはない。
「興覇、昨日はどうしたんだよ」
 呂蒙が心配そうに寄ってくるのも、後ろめたさも手伝って勘弁してほしかった。
「何でもねぇよ。さぼりさぼり」
「さぼりじゃないだろ? ……その首、どうしたんだよ」
「何でも良いだろ」
「良くないよ!」
「うるせぇぞ。あっち行ってな」
「興覇!」

 とりあえず朝議にだけ顔を出すと、甘寧はもう何をする気にもなれなくて、結局兵練所の裏手にある空き地で横になった。
 だが目を閉じて思い浮かぶのは、凌統とその母親に、利斉の台詞ばかりだ。
「俺がサルを抱く? ばかばかしい……」
 利斉の言うことは分からないでもない。甘寧が自ら凌統を抱けば、それは甘寧が少なくとも凌統を「性の対象」として意識している、という意味になる。凌統が欲しいのは甘寧が自分を意識しているという、その証だと利斉は言いたいのだろう。
 だがそれは、甘寧と凌統の間が普通の関係の時にのみ有効なことだ。凌統は甘寧を好きだということに気がついてはいけないのだ。もし気がついてしまえば、凌統は一体あの世に行ったとき、どうやって父親に顔を合わせればいいのか。
 第一凌統は、甘寧が凌統に抱かれたことを弱みに思っていると信じている。口外されたくないから、仕方なく凌統に体を任せているのだと。そんな凌統のことを今更甘寧が押し倒したりしたら、今まで自分が必死に「傷ついた振り」をしたり「その行為を脅威に感じている振り」をしてきたことが全て嘘だったと打ち明けるようなものではないか。できるものか、そんなこと。
 あいつの母上だって、俺の意見に賛成したじゃねぇか。例えそれが公績を苦しめる結果になろうと、それでもあいつが俺を好きだと自覚するよりはもっとずっとマシなんだ。



 人の気配がして、少し遅れて足音がした。あぁ本当に腹が立つ。
「何で昨日勝手に帰ったりしたんだ」
「テメェの顔が見たくないからに決まってんだろ」
 何で俺がこんなにもテメェのことで色々悩んでるっていうのに、このガキは当たり前みたいな顔して俺の前にのこのこ出て来やがるんだ。
「俺はこれから寝るんだから、とっとと消えな。また首でも絞められたらかなわねぇからな」
 ムッとした顔をしていたが、そのまま凌統は甘寧の前に膝をついて首を仰け反らせた。うっすらとついている痕に手を触れ、凌統は泣き出しそうな顔をする。
「まだ痛むのか…?」
「あぁおかげさんでね。なんならお前にもどんな感じがするのか教えてやろうか?」
 振り払われるだろうと伸ばした腕から、しかし凌統は逃げなかった。
 甘寧の指が凌統の首筋に触れる。まだ若い、しなやかな肌。
「……サル?」
 凌統はただじっと甘寧を見つめていた。大きな目は、今にも泣き出しそうに揺れている。
「俺は、お前が死ぬかと思ったんだ……」
 触れたままの首筋が微かに揺れた。泣くのかと思ったが、凌統は唇を噛みしめて耐えているようだった。
「お前が死ぬって……」

 ……なんて顔をするのだろう。まるで誰よりも愛し合っている恋人同士のようだ。この手をそのまま伸ばして背中を抱きしめてやれば、俺達は永遠を手に入れられるかもしれない。
 だがその永遠は、決して天堂の上に咲く花ではないのだ。
 甘寧はその花をなんの躊躇いもなく握りつぶし、自分の胸に刃を突き立てて隠した。
 この花は、俺の中にだけ咲けばいい。この少年の知らぬ場所で、決してこの少年の目には触れない場所で、永遠に咲き続ければいい。

「そいつは楽しみなことだったろうな。せっかくのチャンスだったのに、悪いことをした」 
 唇を歪めて笑ってみせると、今度こそ凌統の目に涙が浮かんだ。その涙を隠すように甘寧を突き飛ばすと、凌統は勢いよく走り出した。

「お前なんか、死んでしまえばいいんだ……!!」

 凌統の叫び声は、涙の代わりに流れ出した雫のようで、甘寧はそっとその雫を噛みしめた。

 これで良いのだ。自分たちの間には、最初からたった一本しか道は敷かれていなかったのだから。

 甘寧は、凌統の涙を想った。何という純粋な美しさ。
 初めて会った時から、甘寧は凌統の涙の他には何も見てこなかった。これから先も、甘寧は凌統の涙だけを集めていくのだろう。
 これが自分に下された罰だというのなら、それは何と美しい罰なのだろう。そう、自分にはあまりにも不釣り合いなほどに。

 甘寧は少年の涙を想う。

 永遠の罪の花をその胸に見つめながら―――――



この話には番外編があります。番外編は「呂蒙復権委員会」推奨小説となっております。

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