永遠の花(前編) |
草むらで微睡んでいると、誰かが自分の後ろに回ったのが分かった。多分、またいつものサルだろう。甘寧は凌統が自分を殺したがっていることを知っていたが、それは当然のことなので敢えてさせるままにしていた。 凌統は自分を殺さなければならない。自分は彼の父親を殺したのだから。 甘寧は武将となる前は錦帆賊として数え切れないほどの人間を殺してきた。人々は彼を「皆殺しの甘寧」と呼んで畏れた。そう、甘寧は誰を殺そうとも、何人の人間を殺そうとも、心が震えることはなかった。 ―――――ただ一人、あの少年の父親を除いては。 凌統は父を殺した自分を憎んでいる。だが心の深い奥底で、凌統自身にすら気づかれないほど密やかに、凌統が自分に惹かれていることも甘寧は知っていた。 凌統は決して好きになってはいけない人物を好きになってしまった。誰よりも憎んでいなければならない、この自分のことを。 だから甘寧は、凌統が自分を殺したいのならば殺させてやりたかった。自分を傷つけたいのならば、辱めたいのならば、全て凌統の望むままにしてやりたかった。 あの時、父の骸に取りすがって泣いていた幼い少年の気持ちを少しでも救えるのならば、甘寧は何をしても良いと思っていた。 甘寧は敢えて凌統を挑発し続けた。凌統が自分の気持ちに気づかないように。凌統にとって甘寧は、憎しみの対象でなければならないのだから。 「甘寧……」 凌統はいつでも自分を字ではなく名前で呼ぶ。自分が凌統を「公績」と呼ばずに「サル」と呼ぶのと同じ事だ。周りの人間はそんな自分達を咎めるが、これは周りが思っているような問題ではないのだ。 「甘寧、寝てるのか……?」 凌統がそっと甘寧の背後から様子を窺っている。甘寧は自分が起きていることを悟られぬよう、呼吸に気をつけた。 「……甘寧、死ねよ…」 凌統がそっと細い指を甘寧の首に巻き付けた。愛らしいほど細い指、よくこれで剣を握れるものだと微笑ましくなる。 呼吸が苦しくなってきた。凌統が必死に首を絞めているのが分かる。 甘寧は過去に何度も首を絞められた経験があるので、どうすれば死なずに済むのか知っている。一瞬、本当に殺されてしまいたいという誘惑が頭を掠めたが、仇討ちを禁じられている凌統が自分を殺せば厳罰に処されることを思いだし、死なない程度に首筋に力を込めた。 「甘寧……?」 凌統の声が遠くに聞こえる、あぁ、酸欠状態に入ってきたな、と、こんな状況なのに冷静な自分がおかしかった。 「甘寧?」 凌統の声が上擦っている。そんな心配そうな声をして人の首を絞める奴があるか。そんなに心配してくれるなら、声帯の上を絞めるのはやめてほしい。そこ絞められると後で声が出なくなって大変なんだよ……。 ふっと意識がとぎれかけた瞬間、大量の酸素が喉を通過した。生理的に涙が流れ、甘寧は激しく咳き込んだ。 「甘寧、甘寧!」 凌統が甘寧を抱きかかえ、必死に背中をはたいている。 「――――」 サル、テメェ、と声を出そうと思ったが、案の定かすれた息しか漏れない。 「甘寧? 声出ないのか!?」 凌統まで涙目になっている。殺すつもりで絞めたくせに。本当に公績は可愛いなぁと手を振って「大したことはない」と示すが、まだ咳き込んでいるので説得力がまるでなかった。 「とにかく立てよ、ほら。……立てるか?」 凌統があんまり強く手を引くので、立ち上がるなり足下がふらついた。そのせいか凌統は自分よりも15センチは大きい甘寧の腕を引いて、怒ったように黙々と歩き出した。 連れてこられた先は凌統の屋敷だった。勿論、甘寧にとってここは鬼門である。凌家の人間が凌繰を殺した自分を見ていて快いはずもなく、勿論それは甘寧にとっても同じことだ。 「ご主人様、そちらの方は……」 家宰は当然甘寧が誰であるのか知っていながら凌統に問いただした。 「別に、誰でもないから。ちょっと具合悪くさせちゃったから、連れてきただけ」 凌統もさすがに自分でおかしいと思っているのか、怒ったように床を見ながら家宰に向かって言い訳じみたことを言うと「喉に良い薬湯を持ってきて」と告げた。家宰はそこは年の功で不快感を押し殺し、「すぐにお持ちいたします」と頭を下げる。そんな家宰をその場に残し、凌統は甘寧を寝室にと連れていった。 寝室に入ると、甘寧は投げ出されるように寝台の上に転がされた。 ……凌統とはすでに体の関係がある。凌統は甘寧が男なしではいられない体であることを知らないので、「男として最大の屈辱を与えている」と信じて甘寧の体を辱めた。いつもその行為は痛ましく、甘寧には自分を嘲るための台詞に傷ついているのは、凌統本人のような気がしてならないのだった。 まさか自分の屋敷で甘寧と事に及ぶつもりはないだろうが、それでも寝室というのはお互いに気まずい思いをしなければならない場所であることに変わりはない。 「……寝れる格好になれよ」 「――――」 「声、やっぱり出ないのか……?」 心配そうな凌統を安心させようと、もう一度声を出そうとしたが諦め、甘寧は手振りで紙と筆を持って来させた。 『首を絞められると一時的に声が出なくなるけど、これはすぐに治るから、だから俺をとっとと帰してくれ』 紙に目を通すと、凌統は怒ったように首を振った。 「首に痕が残っているだろ。お前を殺そうとしたことがばれたら、俺がまずいんだよ」 『なら俺が治るまで家から出なければいいわけだろ?』 「お前の手下に俺が何されるか分かんないじゃないか」 『テメェに都合の良いことばっかり言ってんじゃねぇよ!!』 「うるさいな! いいからお前はおとなしく寝てろよ!!」 まだ何か言おうとしたらしいが、家宰が入ってきたので凌統は仕方なく口をつぐんだ。 「公績様、薬湯をお持ちしました」 「ありがとう。あと、夕餉も何か食べやすいものを用意してくれるかな」 「畏まりました。こちらで召し上がりますか?」 「うん」 家宰は甘寧に冷たい一瞥をくれると、凌統に向かって深々と頭を下げて退室した。 実際、甘寧はまだ少し頭がふらついていた。今ここで帰れと言われても、多分普段通りには帰れないだろう。ここまでの道中の足取りで、それは明白だった。 だが、だからといって針の筵の上で凌統に介護されるつもりもない。 布団を押しのけて身を起こすと、まだ少し目眩がした。甘寧はそれを無視して寝台から降りようとしたが、凌統に素早く腕を捕まれた。 「帰るな」 「――――」 声が出ないのがもどかしい。力で言えば絶対に自分の方が強いのだから、行動で示してしまえばいいのだと凌統の手を払い落とす。だが、凌統の大きな目は微かに震え、縋りつくように甘寧を見つめていた。 「……帰るな」 ……力で言えば、絶対に自分の方が強い。だが、甘寧は凌統自身に弱かった。そんな眼で見つめられると、どんなことでもきいてしまうほどに。 甘寧はわざとよろけて、凌統の肩に掴まった。凌統に引き留める口実を与えるために。 「ほら、まだそんなによろよろじゃないか。そんな格好を誰かに見られたらどうするんだよ。お前なんか、力が強いのだけで保ってるような奴なのに」 ほっとしたようにそう言うと、凌統は甘寧をもう一度寝台に寝かせ、起きても外に出られないよう、甘寧の上着を脱がせて長持ちの中にしまった。 「飯が来たら起こすから、寝てろよ」 「――――――」 「何?」 唇は動いているが、声は掠れたような息づかいにしか聞こえない。甘寧はイライラと凌統の手を取ると、「お前がいると目障りだから消えろ」と書きつけた。 「そんなのお互い様だろ! 俺だってお前の看病なんてしてやるつもりはないんだから! ただ、俺はお前を見ればどうしたって殺したくなるし、だから……!」 言ってから気づいたのだろう、凌統ははっとして下を見ると、小さく「この家の中ではお前のこと殺したりしないから安心して寝てろよ……」と呟いた。 甘寧が布団の中に収まっても、凌統はその場を離れようとはしなかった。少し離れた机の上で書物を広げる風を装いながら、甘寧の様子を窺っている。 最初こそ気になったものの、そのうち凌統の視線にも馴れると、甘寧は大きく伸びをして眠ってしまうことに決めた。とにかく気を使うことだけは間違いないのだから、眠りの中に逃げてしまえばいいのだ。 そう、甘寧は凌統の前ではいつも最大限に気を使っていた。凌統に好ましい印象を与えぬようにし続けねばならないのだから。 以前、甘寧の情人である呂蒙に、甘寧のそんな態度が逆に凌統を惹きつけているのではないかと窘められたことがある。 今まで、呉の国に凌統を邪険に扱う奴なんていなかった。可愛い顔をしてやんちゃな凌統のことを、誰もが愛して甘やかしてきたのだ。だから、初めて自分にそんな態度をとる甘寧に、反発しながらも惹かれてしまうのではないか、と。 だが呂蒙は「甘寧が凌統を気にしすぎる」と嫉妬心を隠そうともしないような男だ。こいつの言うことなど当てにはならないだろう。 本当はその意見に同調して、凌統に対しても空気のように自然に振る舞ってしまえれば楽だと言うことは分かっているし、普通に接したからと言って甘寧の性格上、今とあまり変わりのない態度になることは容易に予想できる。だがきっと、やはり「普通」になど接することは出来ないだろう。 なぜなら、相手は凌統なのだから。 父の骸に縋りつき、涙で汚れた顔で、悔しさのあまり切れた唇から滴る血を拭おうともしないで甘寧を睨み付けた、あの幼い凌統なのだから。 普通に接することが出来ないというのなら、努めて嫌われるしかないのだ。 例え武将のならいとはいえ、凌繰を射抜いてしまったという事実が消えない以上、甘寧に出来ることは凌統をこれ以上苦しめないことだけなのだ。 父の仇。自分はこれ以外の存在には、決してなってはならないのだ―――――。 いつの間にか眠っていたのだろうか。食事の匂いで目が醒めた。そっと体を起こすと、凌統がすぐ脇に座っていた。 「匙、持てるか?」 何だか妙にだるかった。眠りの中でも神経を尖らせていたからだろうか。多分眠っている間にほどかれたのだろう髪がうっとおしく、手荒く払いのけてから匙を受け取った。 「お前、何だかさっきよりだいぶ具合悪そうだぞ」 「――え、―――く、ん……」 少しだけ声が戻りかけているようだが、まだ聞き取れるほどではない。その声に凌統が眉を寄せていることに気づいて、甘寧は嫌そうに手を振って、凌統を追い払おうとした。 「……本当にこのまま、声、治らなかったらどうしよう……」 凌統は甘寧の態度に馴れているせいか、いっこうに気にした様子もなく、食事を摂る甘寧の顔を覗き込んだ。 大きな目だ。今にこぼれ落ちるんじゃないかと、ハラハラしてしまうほど。 その目を見ていたら、頭が鈍く痛んだような気がした。 「……甘寧?」 「―――ぐ」 凌統が甘寧の肩に触れる。細く小さな手。重くなった頭を、凌統が薄い肩に受け止めた。 「おい甘寧、どうしたんだ? 甘寧? 甘寧!?」 後編へ行く |
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