8月1日(日):長江・三峡下り

朝はやはりお散歩。船尾の甲板に出てみると、ちょうど日が出るところで、とても綺麗だった。表紙の写真は、このときとったもので、壁紙にも使えるなと思って、大きめのをもう一枚撮ってきた。もしよかったら、こちらでどうぞ。まだ甲板も涼しい。同じツアーの人とも会い、挨拶する。まだ涼しいですね、今日も暑くなりそうですねというのは合言葉だ。

中華の朝ご飯の後、船内の説明と、今日のスケジュールの説明がされる。とりあえず白帝城まで行って、そこから再び三峡ダムまで戻ってくる日程だ。白帝城までまだ時間があるので、今度は前の甲板に出てみた。そこはタイタニックだった。ポスターにもなったタイタニックの船首、規模は全然異なるが、あれとそっくりの雰囲気だ。他のツアーの人たちも、タイタニックだーと言っている。日本人の考えることは、大体同じらしい。

かなり大きな集落。船着場もある。彼らの家は、2009年までに長江の下に沈む。 しばらくすると、集落が見えてきた。もうすぐ白帝城。この後、袁さんに聞いたところ、三峡ダムの建設で、2003年には135M、2009年には175Mも水位が上がり、100万以上の人の家が長江の下に沈むことになるそうだ。ちょうど千葉市がそっくりダム湖になるようなものだ。中国のスケールの大きさをうかがわせる。写真の集落も、あと10年で水の下となる。中国は土地は国のもののため、立ち退きに対抗できないらしい。若者は良いが、老人などはやはり住み慣れた場所を離れるのはつらいだろう。山の上に国が作った移住用の新しいマンションが出来ているが、そう簡単には割り切れないのが人情なのではないだろうか。

とりあえず長江は長い。行けども行けども茶色い水が流れている。長江は6300KM。中国の人口は約12億、地球人の4人に1人が中国人だが、中国人のうち3人に1人が長江の水を飲んでいるそうだ。つまり地球人の12人に1人がこのあたりに住んでいることになる。すごいことだ。12分の1の確率に当たらなかったのは、幸運だったのか、それとも不運だったのか。

三国志ゆかりの白帝城。李白も訪れて、一編の詩を読んでいる。 お昼頃、白帝城に着く。女王号では船着場まで行けないので、小さい船に乗り込む。白帝城の船着場に着くと、上の方から籠屋が大量に下りてきた。籠と言っても、椅子に日よけの傘を付け、竹の棒にくくりつけたものなのだが、それでも白帝城までの800段の階段を、座ったまま半分の時間で登ってくれる籠を選ぶご年配の方は多い。籠担ぎはみんな若い男の子。掛け声と共に、どんどん上へ登っていってしまった。私は、他の人々と一緒に自分の足で登る。そうすると、今度寄ってくるのは、葉書売りの女の子。女の子と言っても、かなり幼い子たちだ。みんなかわいいドレスを着て、「ジューゲン(10元)、ジューゲン」と達者な日本語でついてくる。しかし、彼女たち、人を見ているらしい。私のような若い人間にはあまり寄り付かない。いかにもやさしそうなおじいさんがターゲット。しかもそうやって毎日観光客について登っている彼女たちに、老人の足が勝るわけもない。結局白帝城までぺったりと「ジューゲン、ジューゲン」がついてくると、さすがのおじいさんおばあさんも根負けして、「わかった、わかった買ってやるよ」となるわけだ。1元=14円くらいなので、10元なら200円弱。そんなもんなら、と思ってしまうところが日本人の哀しいところか。

籠だけじゃなく、果物売りなんかもいる。日本人はいいカモだ。 やはり800段も登ると、景色が良い。ずっと下の方に長江が見える。水位が上がると、この白帝城のある山は、離れ小島になるそうだ。予想図が置いてあったが、こんな風になった長江もまた見てみたいなと思ったりした。ちなみに、2003年までは、今の景色はそれほど変わることはないらしい。スルーガイドの袁さんに、日本に帰ったら、冬のボーナスのために強くそう宣伝してくださいと言われたので、ここに書いておく。白帝城は劉備が志半ばにして病に倒れた場所。子どもを孔明に託したことで有名な城である。その様子が人形で再現されていた。

せっかく登ったので、添乗員さんにデジカメを渡して、私も入れて撮ってもらう。ところがここで大誤算。添乗員のTさん、デジカメを見たことが無かったのだ。押すだけ、というと、液晶ではなくファインダーを覗こうとする。なんとか撮ってもらえたが、これは同行のおじいさんおばあさんには渡せないなと思う。この後も、袁さんに撮ってもらったりしようとするが、結局添乗員さんが出てくることになる。

お食事を間にはさみながら、続くは三峡下りである。すぐ入るのが瞿塘峡。すごい狭い峡谷を、まるで縫うようにして進む。小さい船ならまだしも、2600tもある女王号だと、本当にすぐ近くが岸壁。船首の甲板で、ガイドの人がいろいろと説明をしてくれる。続いて入ったのが、三峡中最も美しいと言われる巫峡。ここの見所は山。長江の岩は石灰岩で、筆のようになった山々は、よくある山水画の世界そのものである。巫峡を抜けると、重慶ともお別れ、湖北省に入る。昼過ぎの最も暑い時間帯で、船首の甲板は、本物のサウナ。みんな太陽に焼かれている。最後の峡谷は、西陵峡。この峡谷が最も長い。どの峡谷もあまりに狭いため、一方通行になっている。峡谷の入り口に信号に当たる建物があり(もちろん手作業)、方向を指示している。どこも綺麗な峡谷だった。

最後の夕食は、ちょっと豪華。秋田から来たという国語教師の女性3人のグループと一緒に早めに席について、他の人を待っていた。テーブルの上には、松のように綺麗に飾られたきゅうりのようなものがある。しかし、他の人がくる前に、その皿を片付けられてしまった。きっとあれにさらに花が咲いたりするんだよ、と彼女たちと言っていたのだが、その皿が戻ってこない。夕食の間、その皿の話題が出た。隣に座る父娘参加のTさん(父)は、「そんなに言われると、見たくなるなあ」と残念そう。このお父さんはとっても元気で面白い。昨日は、元大学教授のKさんと食堂で飲んでいて、部屋番号を忘れてしまったらしい。しっかりものの娘さんにいつも怒られている。しかし、誰もその皿の食べ物を食べていないので、本当に残念だった。

船は、出発した船着場で停泊。今日はもう遅いので、船に宿泊する。再び斜め屋敷の風呂に入り、ベッドで眠った。

表紙


8月2日(月):三峡ダム〜荊州古城〜武漢〜西安

長江は三峡ダム建設の真っ最中。しかも最近の大雨で、水位が上がりダムの下まで船で行けなかった。発着の船着場も、ダムの手前。本来なら宜昌まで船で行く予定だったのだが、それは適わなかった。残念。18時半に船を出発する。最初に、船で行けなかったダムの工事現場まで行き、ダムを見学した。確かに大きい。これだけのダムなら、千葉市が沈んでもおかしくない。朝もやに隠れて、向こう岸が見えなかった。

荊州古城の城壁。この中にひとつの町がある。 今日のスケジュールはとってもハード。宜昌から高速に乗り、荊州へ。荊州は昔劉備が城を構えた三国志ゆかりの土地。荊州には「劉備は荊州を借りる」、「関羽は荊州を失う」ということわざがあるそうだ。前者は、借りたものを返さないという意味、後者は頭のいい人でもうっかりして大事なものを失うという意味。三国志が好きな方なら、その深いところもわかるのではないだろうか。

荊州古城は、その三国時代から続く城。中国の城は、町全体が城壁の中になっている。右のような城壁と、城門が町を囲み、その中には市場や普通の商店など、いろいろな店がある。朝早いので、まだ朝市が開かれていた。街路樹がとっても綺麗。ふと見ると、街路樹の下の方が白く塗られている。袁さんの説明では、石灰が塗られていて、防虫と夜間標識になっているという。なるほど生活の知恵だ。

荊州では、荊州博物館へ行った。荊州の北で発見された遺跡の遺物が中心の博物館だ。ここにはミイラがいる。ミイラを上から眺めるようになっていて、横にはそのミイラから取り出された内臓と脳が置かれていた。図らずしてミイラになってしまった彼は、上からいろんな人に眺められて、何を思っているのだろうか。

トイレがすごい。鍵がない。ウェスタン劇に出てくるような観音扉があるだけ。そして真ん中に溝があるだけである。最初みんな戸惑っていた。何分かに一回水が流れるらしい。でも袁さんが言うには、扉があるだけましだそうだ。中国の多くの公衆トイレは扉さえ無い。目があったりするので、「こんにちはトイレ」と言うそうだ。トイレの形はすごいが、中国全般としては、トイレは綺麗。日本の観光地のトイレはとっても汚いところが多いが、中国はちゃんと掃除されていた。

荊州の町をバスから眺める。どことなく下町チックで、店は秋葉原のガード下を思わせる。そんなことを思っていると、パーツ屋があった。中国は結構どこにでもパソコンの看板がある。飛行機の中の雑誌にもパソコンの宣伝が出ていた。Windows98中文版搭載、中国語Officeインストールという日本とほとんど同じ型。スペックも変わらない。ポートにUSB,PS/2などと書いてあったが、同じところに3串というのがあった。これは何なのだろう・・・。

荊州を出て、一路武漢に向かう。武漢まで2時間。ほとんど高速道路である。さすがにみんな朝早くて疲れたのか、また睡眠モードに入る。私もうとうとしながら過ごして、気づくと武漢の町についていた。武漢は中国でもかなり大きな都市。しかも暑いことで有名。重慶、南京と合わせて中国の三大ストーブと呼ばれているという袁さんの説明である。あまりに暑いために、バスの運転手、なんと自分の横のバスの壁をとっぱらってしまっている。郊外にシトロエンの工場があるとかで、タクシーはシトロエン。日本でも結構な値段がするシトロエンZXがタクシーに使われているのを見るのは、かなりカルチャーショックだ。

中国では、40度を超えると、休んでよいことになっているそうだ。実際、しょっちゅう40度を超えているらしいのだが、そうすると仕事にならないため、政府発表は、39.9度までしか出ない。「政府の温度計には40度以上はない」と袁さんが笑って話してくれた。そこで40度以上云々の法律をどうにかするのではなく、40度以上の発表を出さないところに、中国政府の苦悩がうかがえる。

武漢で待ちに待った昼食。武漢亜州大酒店というホテルで、昼食をとる。ちょっと辛めの料理が出て、本当においしい。中国の料理は食べきれないほど出るのが特徴だが、ここでも嫌になるほどの料理が出た。入り口のところで、珍しい食材が売られている。中には蛙とかうつぼのような生物が水槽に入っていて、ホントにこれを食べるのか、という気分。Tさん(娘)と、蛙食べるのかなーとじろじろ見てしまった。

プロペラ機だー。椅子は全部倒れているので、おこさないと座れない。 武漢空港から一路西安へ。武漢発の飛行機は、15時半。袁さんが「プロペラだよー」と言う。プロペラって、もしや・・・と思っていると、やはりすごい飛行機だった。添乗員・ガイドを入れて30人の乗客で、ほぼ満席。プロペラの下に車輪があるので、飛ぶ瞬間も着陸の瞬間も窓から見えた。

プロペラ機の室内は暑い。冷房が効いてないのか、と思っていると、後ろに座っていた添乗員のTさんが、なんか煙出てるよと言う。上を見ると、たしかに白い煙が出ている。袁さんがパーサーに聞いたところ、なんとクーラーだった。上の棚に置いてある荷物がクーラーの煙によって冷やされているのがよくわかる。そういえば同じようなものを見たな・・・と思ったら、冷蔵庫だった。プロペラの乗客は野菜らしい。

天気がよかったので、そんなボロいプロペラ機でもそれほど揺れず、快適だった。西安にも2時間ほどで無事に着き、そそくさと降りる。当然階段で駐機場に降りるのだが、なんと迎えのバスがいない。袁さんが「歩いていくみたい」と言う。向こうに西安と書かれた空港が見える。飛行機に轢かれるかもしれない恐怖と戦いつつ、空港へと向かう。

西安のガイドは、カクさん(男性)。西安は暑いけど、今は涼しい。33度くらいです、と言う。広大なとうもろこし畑の中に、レンガの家が点在する西安郊外は、とても美しいところだった。ふと北海道を思い出す。西安の市内自体は盆地。かつて長安として栄え、72個もの皇帝陵墓と、様々な史跡がある西安は、日本でいうと奈良に相当する。まっすぐな道と、あちこちの寺や城壁は、本当に奈良。もちろん西安がオリジナル。奈良時代、いかに日本が大陸の影響を受けていたかがよくわかる。

ガイドのカクさん、日本語が本当に達者で話が面白い。西安には皇帝陵墓がたくさんあるが、「あっちの泥まんじゅうは、誰々の墓です」と言う。最初、泥まんじゅうって何だろうと思ったが、なんど陵墓のことだった。

市内のホテルで、夕食。ここの料理もおいしかった。日本語を勉強しているという女性のウェイトレスさん、「お客さんたちの日本語聞き取りやすいです」という。ちょっと前に愛知から客がきて、全然解らなかったそうだ。やはり日本語は難しいのかもしれない。錫で出来ているというポットから、紹興酒を入れてくれる。これがまた強いお酒。のどをアルコール!がとおり過ぎるのが解る。そのうち日本に留学したいと言うので、私の職場に来たらどうぞよろしくと言っておいた。

今日のホテルは、唐華賓館。三井だか三菱だかの合弁で、日本人スタッフもいるデラックスホテル。大雁塔の近くで、中庭には中国庭園もあるというすごいところだった。当然NHK BSも入る。またまた私の部屋よりも広い部屋に泊まり、思いっきり一人部屋を満喫する。中国旅行の中では、このホテルが一番気に入った。

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