雑記帳・かつおの尾

2000年8月〜10月

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2000年

友がみな(10/30)

  友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
  花を買ひ来て
  妻と親しむ

               石川啄木

啄木の有名な歌である。啄木は明治45年、27才で死んでいる。
この歌が何時作られたものなのか、私は知らない。啄木の生活、歌が作られた背景
なども、何も知らないが、ちょっと感じたことを書いてみたい。

青春。志を持って、希望、可能性が身に近く感じている時に多くの人は経験がある
だろう。文学でも、音楽でも、絵でも、それぞれの世界で、良い作品を作るのだ、
すばらしいものを残すのだと日々努力していた若い時である。
啄木の場合は詩、歌だろうか。そして仲間、友人が集まる。詩のこと、歌のこと、
生きるということ、生き方のこと、自分達の将来のことを語り合い、夜の明けるま
で一緒に過ごして、日々が過ぎていく。

まだ始めて間もない若者である。みんな未熟である。そう、彼も彼女も、みんな同
じようなレベルの仲間なのだ。いつも一緒に、泣き、笑い、怒り、話していた仲間
も、日が経つにつれ、一人離れ二人去りして、やがてグループは散り散りになる。
そう、力量に差が出てくるのだ。力をつけた者は新たに同じような力をもった仲間
の集まりへと活動の場を移していく。

いつもみんなが集まる所に行った作者(啄木)は、友から、今度こんな作品を作っ
たんだ見てくれと言われ、見てみると良い作品だ。たしかにキラリと輝く部分があ
る。またある時は、○○さんが△△賞の新人賞を獲ったと聞かされる。そうか、あ
いつが新人賞か。目出度い。目出度いが・・・・・・・・。自分を振り返って見る
と情け無い。アパートに帰る道々、来し方行く末を思う。私には妻がいるのだ。生
活があるのだ。時間だって・・・。でも・・・。

そして花屋の店先に出ている小さな花束に目が行く。

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夏草(10/25)

    夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡   芭蕉

有名な芭蕉の句である。私が初めてこの句に接したのがいつであったのか、思い出
せない。小学校の高学年か中学くらいに学校で教科書に出てきたものだろう。何十
年か経って、ふとした拍子に引っかかってきて、私に取り付いた。少しのあいだ引
きずって過ごした。
夏草ははびこって生い茂る。青や緑が勢い良く生えてくる。夏の暑い陽に当たって
しなえて萎えるが、また次の日には草深く茂るのである。

ぎらぎらの太陽の下、青い草、緑の草が生い茂っている。その奥深く,草の陰に、
赤い色、朱が見えて来る。見えて来るような気がする。補色だからだろう。


この句は芭蕉の「おくの細道」にある。
平泉で高館に登り、城跡やあたりの景色を見て、詠んだようになっている。

 さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あ
 り、城春にして草青みたり。」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としは
 べりぬ。

この文の後に夏草の句が続いている。実際の旅から紀行文執筆まで時間があり、
さらに句はまた後々に作られた、推敲されたものが多いようである。この夏草の
句も後に作られた句らしい。

しかし、私は背景についてはほとんど知らない。
句につき合っているうちに夏草に赤い色を見たのである。
赤い色はすぐに血の色、人の肉の色となり、死人が現れる。
夏草に覆われた地面の下から死人が現れるのである。
鎧を身につけた武士である。
合戦に出て、負け戦となり、夢もろともに土に埋もれることになった。

イメージは合戦の場に飛ぶ。
馬に乗った武士がいる。敵味方、相乱れて戦う中、敵の名のある武将とおぼしき
者めがけて馬を走らせる。遅れじと馬に付いて走る家の子郎党、数人。ある者は
殿を守ろうと、馬上の武士から目を離さずに馬の側を必死に走っている。ある者
はぼうぼうの草に足を取られ、離れてはならじと馬の尻を必死になって追ってい
る。

そして気がつくと、夏草に埋もれている死人は、あちらにも、こちらにも、また
ここにもと、横たわっているのである。

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タグ(9/25)
パソコンのことを何も知らずにパソコンを買ってから、適当にパソコンで遊んで
来た。ホームページを作ったのも他の人のホームページを見て、簡単なものなら
作れるかなあと思い込みで始めたものである。
使っているソフトもInternet Explorerに付属で付いていたFrontpage Expressで
ある。簡易版だから製品版よりは機能限定になっているのかな。ちょっと、こう
したいなあと思っていることがあってもできないこともあり、A がなにやら、P
がなにやら何も知らなかった私も、少しはタグに付いて勉強しなければと思い、
一冊本を買ってきた。HTMLタグ辞典という本である。ツンドクだけにならな
ければ良いのだが。

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自転車と言えば(8/29)

自転車で一番の長い距離を走ったのは東京ー青森、往復である。
もうずいぶん前の話だが、この時は自転車にテント、その他こまごまとした荷物
を積んで走った。朝早くに出発したのだが、最初、荷物の重さ、バランスに慣れ
ずに、早々に下り坂で転けてしまった。どうなることかと思ったが、慣れてくる
となんとかなるものだ。3泊4日で青森に着く。途中、ミニバイクで北海道まで
行くという人や、自転車で山を越えて、新潟のほうに行くという人もいた。大き
な荷物を背負って歩いている人もいた。私はテントを持っていたが、夜は虫除け
スプレーだけで、野宿だという人もいて、ううむたいしたものだと思う。
この時は普通の軽快車、水平ハンドルの自転車で、腕が振動でがくがくと大変で
あった。

日帰りだと、練馬区上石神井に住んでいた頃にたびたび鎌倉まで行ったことがあ
る。なんのことはない、海を見て帰ってくるだけだが、それで良いのだ。くたび
れても、心地良い疲れである。

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夏場は自転車(8/28)

夏場はもっぱら自転車を愛用している。
仕事先まで片道1時間ゆっくりと走っている。高校生くらいの若者が飛ばして走
れば30分くらいだろうか。私でも急げば45分くらいか。でも急がず、あわて
ず、ゆっくりと走る。ゆっくりが良い。ここ埼玉南部でも、少なくなったが田圃
もあるし、畑はまだまだたくさんある。

今の季節だと穂を付けた稲も見ることができるし、トンボを目の前にすることも
たびたびである。右を見て左を見てゆっくりと走る。

前は今みたいに落ち着いていなかった。少し早めに走っていたようだ。1年に1
回は転んでいた。車との接触も5回ほどある。信号待ちをしている車の列の左を
走っていたら、いきなりドアが開いてぶつかったこともあった。左ハンドルの車
だ。信号の無い十字路で止まったら、後ろからドンと来たこともあった。

まあ、車との接触は軽いもので、怪我をするほどのものでは無いが、自分で転ぶ
こともある。工事用の電線が道路を横切って置かれていたのだが、斜めの置かれ
ていたためタイヤで"ずって"しまって転んだこともある。嵐の後で倒れた木の枝
を、これくらいはまっすぐに行っても越えられるだろうと思って走っていったら
越えられずに転けたこともあった。ははっ。

自転車で困るのが、パンクと雨である。
雨の時、雨が降りそうなときは電車+歩きだ。これも1時間くらいになる。電車
+バスだと早いのだが、なるべく歩くことにしている。

パンクは突然にやってくる。先日も帰り道半ばで突然やってきた。自転車を適当
なところに置いて電車で帰る。だいたい電車の線路沿いに走っているので、こん
な時はありがたい。後日、パンク修理道具を持って直しに行く。やれやれだ。

愛用の自転車はいわゆるママチャリというやつ。買い物用、大量生産の安いやつ
である。これが乗りやすくて良い。

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頑張れ!谷川(8/25)

将棋界は今、羽生五冠王と、羽生と同世代の棋士を中心に動いている。
これからも当分はこの状態が続くだろう。この世代の棋士を負かすのはこの羽生
世代よりも下の世代の棋士になるのだろう。

そのなかで、ひとり力を示しているのが谷川九段だ。今、無冠の九段である。こ
ところの大事な対局での敗戦は残念である。王座戦、竜王戦でもタイトル挑戦ま
でもう一息というところまで来ていたのだが藤井竜王、羽生五冠に敗れた。

もう少しというところで敗れたのは残念であるが、そこまで勝ちあがって来たと
いうことでもある。羽生世代より上の世代でタイトルを取る可能性を感じるのは
谷川九段の他には、どうだろう、森下八段くらいではなかろうかと思う。

羽生を中心とした羽生世代対谷川という構図も見える。
谷川までの棋士はアナログ、羽生世代はデジタルという感じもする。もちろん、
そんなに割り切れるものでは無い。私個人の中だけでもいろいろな面を思ったり
するのである。それでも何か隔たりを感じるのは確かなのだ。

あるいは、谷川までは、将棋の道を切り開いてきた世代、羽生世代はレールの上
を走っている世代とも言えようか。幸せな道を歩いて来たとも言えよう。
私も古い人間である。古さを引きずっている谷川が好きなのだ。

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真夏のスーパーはつかり8号(8/20)

青森発8時45分のスーパーはつかり号は思ったよりも空いていた。
15,16日が帰省からの戻りのピークだとのことで17日に帰ることにした。
17日ならば少しは空いているだろう、朝ならば少しは空いているだろうとの推
測通り、自由席はまだ空席を残したまま青森を出たのだ。

電車は駅に止まるたびに乗客が増え、立つ人が目立ってくる。二戸駅を出た時に
はデッキ、通路にも立っている人がたくさんいた。二戸を出ると、次は終点盛岡
である。立っている人も盛岡までもう少し我慢をすれば、盛岡からの新幹線では
指定席を予約していたり、自由席でも座ることができるかもしれない。

二戸駅を出た電車がほんの6,7分走っただけで、一戸駅で停車した。停車して
動かなくなってしまった。少しして、前の区間で貨物列車の機関車が故障して止
まっていると放送がある。少し遅れることになるかなと思っていたが、時間はそ
のまま過ぎていき、電車は動かない。

そのうち、故障している貨物列車のところに新しく機関車を付けるために機関車
が向かっていると放送有り、1時間かかるという。車内に「えぇー」などと声が
あがり、あちこちで携帯電話で連絡を取る人が多い。電車のドアは閉まったまま
である。ホームにも出られずに、乗客のいらいらが増していく。

また放送があり、盛岡までバスで代行するという。八戸、三戸からバスがこちら
に向かっているとのこと。10台バスが到着したら、乗り換えて盛岡に行くとい
う。盛岡まで1時間2,30分かかるとのこと。放送では故障した貨物列車の話
は無い。新しい機関車が着いても故障した列車を移動させるにはまた相当時間が
かかるのだろう。

各営業所から使っていないバスを集めたのだろう、バスが到着して、やっと電車
のドアが開かれる。やれやれである。みなぞろぞろと外に出てバスに乗る。ずう
と立っていた人はお疲れ様である。ここまで、電車が止まってから1時間40分
くらいか。10時15分くらいに止まって、もう12時近い。

バスでは最初、補助席は使わないで、座れない人は他のバスに移ってくださいと
言ってたが、結局、補助席を使って、全員が座れたようだ。12時に一戸駅を出
る。高速を使って盛岡まで1時間10分ほどで着く。途中、岩手山を間近に見る
ことができたのが嬉しい。

盛岡駅に着いたバスから降りてそのまま駅の新幹線乗り場に行く。切符の確認な
ども無く、駅にも横の入り口からそのままぞろぞろと入っていく。新幹線ホーム
ではちょうど1時15分の新幹線が出るところだった。盛岡駅はそんなに混雑は
無く、次の1時45分のやまびこに乗る。このやまびこは停車駅の多いやまびこ
で、結局大宮に着いたのが5時になってしまった。

青森発8時45分のスーパーはつかりは普通は盛岡着10時56分、そのまま盛
岡発11時4分のやまびこに乗ると大宮着1時14分。思わぬ長時間の旅になっ
てしまった。が、JRの対応は慣れているせいか、まずは良かったと言えるだろ
う。途中、ウオークマンタイプのカセットプレーヤーを持っていたので、ずうと
音楽を聴いていた。昔、ラジオから採った小椋圭、中島みゆき、サンタナ、ビー
トルズである。

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父の記憶(8/4)

父が死んだ。81歳だった。

父は船乗りだった。引退するまでにいろいろな船に乗っていた。私が小さい時に
は、父が家に帰るのは年に二度だけということもしょっちゅうだったらしい。

最初の父の記憶がある。私の家だろう。部屋の奥で満面の笑みで私に何か話しか
けている。あぐらをかいて座っている父がなんと言っているのかはわからない。
この記憶には言葉、声は無い。父は手をこちらに差し出して私を呼んでいる。 
だが、私は人見知りをしているのである。ちょっと離れたところで、はにかんで
父のほうを見ている。少し懐かしい感じはあるのだが、父というよりは馴れない
「大人の男」の存在感があったようだ。

母が私の後ろを通りかかる。笑いながら何か言っている。「父のところに行け」
と言ってるのだろう。私には兄と姉がいるのだがこの記憶には出て来ない。

結局、私は父の膝の上に抱かれたようだ。記憶はおぼろである。

この父の記憶は小さな記憶の断片から新たに作られた記憶かもしれない、とも思
う。


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