雑記帳・かつおの尾

有間皇子の歌

 

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・19歳(3/6)

4年ほど前に書いたものである。

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19歳

先日,本を見ていて,
有間皇子が処刑されたのは19歳の時だったと知りました。
有間皇子は処刑される前に歌を2首詠んでいます。

   磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまたかへり見む

   家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

19歳といえば
今でもりっぱな大人ですが、当時は今よりももっと「大人」だったのでしょう。
今まで,処刑は若い時だったという事は知っていたのですが、
あらためて19歳だったと聞くと
「それにしても若い」と思ってしまいます。

有間皇子の処刑は絞首だったということで
うーむ、なんとも
いっそう
あわれであります

私の19歳の頃といえば,死についてはもちろんの事
なーんにも考えるという事をしていませんでした。
ただただ、毎日毎日,工場と寮を往復していただけでした。
工場では間抜けな仕事をして周りの人に迷惑をかけていたことを思い出します。

有間皇子がこの歌を作ったのは,658年です。
今から1300年くらい前ということになります。

1300年前の歌を
現在を生きている私達が
歌を詠んだ人の息づかいが聞こえてくるように
近くに
感動を持って
感じとれるということは
本当にすばらしいことだと思います。
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・有間皇子(ありまのみこ)(3/8)

有間皇子は謀反、反逆者として捕らえられ,処刑された。疑いがあっただけとも,
そそのかされたのだとも言われているが,本当のところはわからない。権力者は
地位を守ろうとするし、不満のある者は代わりにふさわしい者を担ぎ,権力の側
に付こうとする。今も良くあることだ。
斉明天皇一行は牟婁(むろ)の湯(紀伊)に行幸中であり、捕らえられた有間皇子は
牟婁の湯に送られて、皇太子中大兄(なかつおほえ)の裁きを受けて帰路につくが、
帰途,紀伊の藤代(ふじしろ)の坂で絞首刑にされた。裁きを受けてから二日後の
ことであるらしい。
万葉集の巻第二,挽歌に
 有間皇子の自ら傷(いた)みて松が枝(え)を結べる歌二首
の詞書きとともに皇子の歌二首が載っているのである。
まさに万葉集中の絶唱である。
(つづく)

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・有間皇子,結び松の歌(3/13)

 磐代(いわしろ)の浜松が枝(え)を引き結び
  真(ま)幸(さき)くあらばまたかへり見む

有馬皇子の歌は二首とも、大和から牟婁の湯に送られる途中で詠まれた歌である。
磐代(いわしろ)は地名。松が枝(え)は松のえだ。枝を「え」とするのは良くある
使い方。たしか「荒城の月」にもあったのでは。真は接頭語。
「磐代の浜松の枝を結んで無事を願う。幸いがあればまた帰って見ることができ
るだろう」というところが大意か。
有間皇子を護送している一行は磐代の浜辺で小休止したのであろう。この時,皇
子は自分が牟婁の湯に連れて行かれることをもちろん知っていたことであろう。
自分の運命,死ななければならない、殺されることになるということも受け入れ
ていたと思われる。
一首は淡々と詠まれてをり、初句も「磐代の」と静かに地名で読み始めている。
しかし,もうここは磐代か、磐代の浜まで来たのか,牟婁の湯までもうあと少し
だという思いが静かな歌い出しの中にも感じとれるのである。
松の枝を結ぶというのは生命の安全や多幸を祈る呪術である。木の枝や草を結ん
で生命の安全や多幸を祈ることは当時普通に行われていたらしい。「結ぶ」とい
う行為が幸いにつながるらしい。
捕らわれの身であった有馬皇子であるが監視付きであっても少しの行動の自由は
あったのであろう。磐代で一行が休みを取った時に浜辺の松の根本で体を休めた
のだろうか。我が身の行く末を思っているうちに,松の枝に目が行き、思い立っ
て松の小枝の先を結んだのだ。結んだ松の枝をじっと見ている若者の姿が浮かん
でくるのである。
(つづく)

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・有間皇子,飯を盛る歌(3/29)

 家(いへ)にあれば笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を
  草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

笥(け)は食器である。陶器や銀器の類ではなく木などで作られた器のこと。
草枕は旅にかかる枕詞。「旅にしあれば」の「し」は強意の副助詞。
意味はそのまま,言葉通りである。
「家にいたら器に盛る飯を旅の身なので椎の葉に盛る」というところか。
旅といっても予定されていた旅ではない。急の旅であり、急いで牟婁(むろ)の湯
に向かっていたと思われる。食事の用意も充分ではなかったろう。ここでの飯は
握り飯のようなものか。護送中の自分の食事の様を詠んだ歌との説もあるようだ
が、結句に「盛る」とあるから,これは自分で盛ったのである。自分で盛って神
に供えたのである。
家に居て平穏な毎日を送っていた時には毎朝器に盛った食事を神に供えていたの
である。習慣、決まり事であって,皇子にとっても毎日の普通の行いであった。

護送の一行は食事のため小休止を取った。皇子は自分のために出された握り飯様
の食事をしばらく見ていて、立ち上がる。
捕らわれの身で護送中であっても休息の時などに辺りを歩くくらいの自由はあっ
たと思われる。松の枝も結んでいる。この時も道脇にあった椎の木のところに行
き,葉か、あるいは葉の付いた小枝の先を折り取る。それを道端に置き,飯を盛
ったのである。自分のために用意された飯の全部であったか、一部であったかは
想像の外である。あるいは自分は食べることをしなかったかもしれない。

結び松の歌と同じように淡々と詠まれた一首である。神への思いが察せられるが、
もちろん神への命乞いでは無い。皇子はまもなく自分に訪れる死を受け入れてい
たのである。しかしながら,死への思い、生への思いに幽かに揺れる心の様をそ
のままに歌に残した。千数百年の時を経て,今を生きている私たちもその歌に触
れ哀切の思いが禁じ得ないのである。
(つづく)

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・有間皇子,結び松の歌 その後(4/6)

万葉集には有間皇子の歌二首のすぐ後に,結び松を後の人が見て作った歌が四首
続けて採られている。

長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ),結び松を見て哀咽(かな)しめる歌二首
この詞書きが付いた歌が二首

 磐代(いわしろ)の岸の松が枝結びけむ
  人は帰りてまた見けむかも

 磐代(いわしろ)の野中(のなか)に立てる結び松
  情(こころ)も解けず古(いにしへ)思ほゆ

一首目は「磐代の岸の松の枝を結んだという人は無事に帰ってまた松を見たので
あろうか」
二首目は「磐代の野の中に立つ結び松 結んだ枝も解けずにあり、私の心の悲し
みも解けずに昔の事が思われる」
というところが大意か。

続いて次ぎの詞書きのある歌が一首
 山上憶良の追ひて和(こた)へたる歌一首

 天翔(あまがけ)りあり通(かよ)ひつつ見らめども
  人こそ知らね松は知るらむ

初句の読みかたには異説がある。原文は 鳥翔成
つばさなす と読む人もいる。
意味は「皇子の魂は天空を通いつつ結び松を見ているだろう 人間は皇子が松を
見ていることは知る由もないが、松は知っているのであろう」

三首とも事件後三十二年,持統天皇が紀伊に行幸したときの歌である。

続いてもう一首。こちらも詞書きがある。
 天宝元年辛丑(しんちう),紀伊国に幸(いでま)しし時に結び松を見たる歌一首
(柿本朝臣人麿歌集の中に出づ)

 後(のち)見むと君が結べる磐代の
  子松が末(うれ)をまた見けむかも

人麿歌集は万葉集中に名前と一部作品が出てくるが現存していない。作者は必ず
しも柿本人麿ばかりではなく,多くの人の作がある。この歌も人麿の作ではない
と思われる。
こちらは事件後四十三年の歌。意味は「後でまた見たいと思ってあなたが結んだ
若い松の小枝をあなたはまた見たのであろうか」というところか。

四首ともに行幸の途中に詠まれたものである。一行は旅の途中,磐代の浜で有間
皇子が結んだという松の前に来て、これがあの松であるかと有間皇子に、また
有間皇子の歌に思いを馳せたのであろう。

有間皇子の歌は事件後すぐに多くの人に伝わっていたことがわかる。
罪人、謀反人、反逆者の歌である。全く無視されていたとしても何の不思議も無
いのだが、事実は多くの人の間に広まり、悲哀の情を覚えさせていたのである。
なぜ皇子の歌が残ったのか少し考えてみたい。
(つづく)

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・有間皇子,結び松の歌 その後の後(5/11)

有間皇子の歌はどのようにして伝わったのか。興味深いところである。歌を作っ
た皇子は死ぬ前にその歌を誰かに委ねたと思われる。誰であろうか。自分を処刑
する側の人たちとは考えにくいのだが、どうだろう。あるいは護送の役人,責任
者か。あるいは一行の中に皇子の従者が,身の回りの世話をするために同行して
いて、その従者に託したか。いずれにしても、その歌は皇子の最後の様子ととも
に語られて、短い間に多くの人に広まっていった。
有間皇子の作った歌ではあるが、歌は作者から少し離れて、力を宿した。言霊と
いうのか、言葉のもつ力がそのままに歌に現れた。その歌に接する者は少しの畏
れをもって対したのである。
言葉に力があり、言葉に畏れを持って接した時代である。





   ┣ 舒明天皇  ━┳ 天智天皇(中大兄)              
   ┃        ┣ 天武天皇                  
   ┃                           
   ┣ 茅淳王 ━━━┳ 斉明天皇(皇極天皇)(舒明天皇后)       
   ┃        ┃                       
            ┗ 孝徳天皇 ━━━ 有間皇子         




     舒明天皇     ┓
              ┣ 天智天皇(中大兄)
              ┣ 天武天皇
     斉明天皇(皇極天皇)┛



三十五代 舒明天皇
三十六代 皇極天皇(斉明天皇)
三十七代 孝徳天皇
三十八代 斉明天皇 (皇極天皇)


(おわり)

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