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朝鮮人労働者の悲劇

 戦後石炭で繁栄した赤平であるがその陰に祖国から強制的に連れてこられ、 炭鉱労働者として過酷な条件化で働かされた朝鮮人がいたことを忘れてはなら ない。北海道のほぼ中央部に位置する赤平は、大正期に開坑した茂尻炭礦のほか、 増産体制の非常命令の時期に開坑した住友赤平炭鉱、赤間炭鉱、豊里炭鉱の四山がある。 いずれの炭鉱も大量の朝鮮人・中国人の強制連行労働者の使役がなされところである。 なお赤平の地は労働力不足を補うための外国人労働者が、朝鮮人・中国人・米英等の 俘虜すべてにわたっている希少なところである。

 朝鮮人強制連行の背景
  日本が韓国併合の意図を示しはじめるのは1873(明治6)年の征韓論議からである。 西郷隆盛の征韓論が主観的意図としては日朝の友好を目指したものであったとしても、 二年後の1875年に起こった江華島事件がその企図を明確に証明した。すなわち隣国中 国等を侵略している列強と同様の態様を韓国に求めたものである。韓国はかつての日本と同 じく鎖国政策をとっていた国であったが、列国とくに日本の強硬な要求によって開国のやむなきに いたる。そして日本は韓国を自国の利益のためのみに、軍事力を背景に暴力と恫喝によって支配・収奪し、その後の兵站基地としていくのである。

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住友泉町の朝鮮人収容施設
 

 外国人労働者の強制連行とは、日本帝国主義の軍事力を背景にした暴力と恫喝による植民地獲得と、 果てしなき戦争の泥沼化が進行する中で、戦争の激化による軍隊への大量徴用による労働者不足を埋めるため、 植民地等から形式は別として朝鮮人・中国人等を強制的に連行し、過酷な労働条件や民族的差別のなかで強圧的 に働かせたものである。
   日中全面戦争の開始とともにすべての社会運動は戦争協力体制に組み入れられ、議会と政党が無力 の存在となるなかで、1938(昭和13)年、戦時または事変に際し、国防目的のために人的・物的資源 をすべて国家が統制・動員できる「国家総動員法」が施行される。翌1939(昭和14)年、9月に独軍が ポーランドに侵攻して第二次世界大戦が開始され、東南アジアへの進出をもくろむ日本は、ドイツ、 イタリアと三国同盟を締結する。これは日本がアジアでの盟主、イタリア・ドイツがヨーロッパでの 指導的地位につくための軍事同盟であった。結果としてこのことが1941年12月、日米開戦へと進むこ とになり、日本は世界戦争の泥沼へとはまり込んでいく。
 日中戦争が始まった1937(昭和12)年、石炭鉱業連合会は商工省燃料局の指導により、石炭需給5ヵ 年計画を答申する。これによって石炭鉱業連合会は出炭規制時の罰則規定を撤廃して増産奨励に転じ、 昭和石炭も統制委員会を増産委員会に切り替え増産割当を行うに至る。これによって自主規制のカルテル機関 は国策機関へと転換した。  「国家総動員法」を受けて次々と打ち出される各種の規制法によって、各炭鉱は労働力確保と増産 の狭間で奮闘を余儀なくされる。そして最後に行き着くのが1939(昭和14)年の朝鮮人労働者の移入 である。

 炭鉱における労務管理の特質
 石炭産業は典型的な労働集約型産業である。それゆえに質の高い労働力を必要とした。しかし、戦争の長期化は炭鉱から熟練労働者を次から次へと多数召集した。その結果長時間労働、女性労働者や年少者の坑内労働、そして朝鮮人や中国人の強制連行が行われたことはすでに述べた。また朝鮮における皇民化政策は、併合の翌年に朝鮮教育令が公布されることに始まるが、それが学校教育の範疇から社会・家庭にまで広がるのは日中戦争以後であり、日本に強制連行された朝鮮人労働者に対しても「指導訓育」として行われたのである。
 「国家総動員法」が公布された1938(昭和13)年4月頃からの各炭鉱における労務担当者の仕事の最たるものは、労働者確保のための鉱員募集であった。赤平の各山も労務者確保は増産体制維持の観点からも重要なものとなっていく。茂尻炭礦では、昭和14年に入るや、人員充足は次第に困難となり、季節労務者の帰農等もあって、9月末には遂に1,370人と約200人の減少となってしまった。この大勢は、戦争の進展とともに坑夫の応召がようやく激しさを加え、他の労働力もまた軍需工場に吸収されるなど、全国的な労働力不足の兆しでもあった。

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 朝鮮人・中国人収容施設、手前は赤平公園で中央の二階建の建物が収容施設だった。
 

 戦局の逼迫は開坑したばかりの住友赤平炭鉱でも、増産への要求は早期出炭と、さらなる新規開坑を迫ったのであるが、戦争の激化は物資、動力、労務等一段と厳しさを増し、一部の開坑は一時中断するのやむなきに至るのであった。特に労務にいたっては起業着工直後の1938(昭和13年)年12月には早くも東北募集を開始しているが、軍需産業への優先的配置のため国内での労務者確保は困難を極める。加えて応召、入営などが減員に追い討ちをかけ必要な労働者の確保ができなかった。1941(昭和16)年に入って勤労報国隊186人の入山があるが、これは滞在期間60日、80日という短期のため重要作業である採炭には不向きであった。そして敗戦近くになると、「不足を訴えるよりもこれを克服して増産をはかるというトーンに変ってしまう。もはや充足など諦めて、『挙国石炭確保運動』により現有の不十分な労力資材で『活用ニ万遺憾ナキヲ記シ』、『一段ト重点起業ニ集中』するという精神運動を叫ぶにいたる」のである。
 労働力確保が困難な状況を呈してくる一方では、太平洋戦争突入により労働者の不足は、強制徴用となり労働時間の延長、極端な労働強化となって現れ、機械の様に働かない坑夫には、外勤の竹刀、柔道の稽古台の苦しみが待っていた。

 強制連行の実態
 1939(昭和14)年以降、朝鮮人の強制連行が開始され、赤平の各鉱業所にも多くの人々が続々と着山する。強制連行の形態は@集団募集期(1939年7月以降)A官斡旋期(1942年2月以降)B徴用期(1944年以降)の三期に区分されるのは広く知られるところである。当初の「募集」方式は、事業場の申請数決定〜府県長官宛募集申請〜厚生省査定〜総督府の募集すべき道の割当〜厚生省〜府県長官〜事業場許可書受領〜募集員朝鮮渡航〜総督府〜指定された道庁〜指定郡庁〜指定面事務所〜面事務当局、区長、警察署という手順により行われた。官斡旋は総督府の行政機構を通じての割当動員方式で、これ以降強制力が強化され暴力的手法が増加する。1944年以降の徴用期は「国民徴用令」によるもので、各事業所が朝鮮人労務者の「徴用」を県知事に申請し適当と認められると、県から厚生省へ、厚生省から朝鮮総督府へと手続きがなされ、ようやく「朝鮮人徴用労務者使用許可書」が交付される。そこで各炭鉱の労務担当者がそれぞれ朝鮮半島の現地に出張し、総督府道庁官吏(警務部労政課員)の指示に従い、ようやく「徴用」された朝鮮人の引渡を受けることができた。

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 朝鮮人労働者の収容施設。手前は空知川、右側奥に赤間炭鉱のズリ山が見える。
 

 募集・官斡旋・徴用と言葉をならべれば、1939年〜1942年の募集期は自由な募集にみえるがそうではない。「朝鮮労務者募集要項」(1939.7実施)では、労務動員計画に基づく移入朝鮮人労務者は、朝鮮総督府令第6号の「労働者募集取締規則」にもとづき行われるもので、到着後は渡航者名簿と旅行日程・乗船地・就業地を管轄する各警察署、職業紹介所長、関係協和事業団体に送付し、異動があるときはその都度報告することになっている。朝鮮総督府、警察当局、職業紹介所、協和関係団体との緊密な連携・綿密な計画によるものであることがわかる。また、この募集要項には移住労務者に承知せしめておくこととして、@時局産業に従事し以て家に貢献せんと自覚すること。A職場の変更は之を為さざること。B協和団体に加入し其の会員章を所持すること。C住所を変更したるときは五日以内に協和事業団体に届出ること。D言語は国語を使用すること。Eその他協和事業団体幹部、警察官および職業紹介所職員の指示に服することなど、強権的な統制が行われているのである。  そして1939年度の労務動員計画による朝鮮人労務者の割当を受けた石炭山、金属山、土木建築業関係は、南朝鮮の七道の地域(京畿道、忠清南北道、全羅南北道、慶尚南北道)へ、事業主の代理人を出張させ大々的な動員を実施したのである。

 強制労働と反抗
 強制連行は国家権力と企業による一種の拉致である。しかも自由を束縛された日常生活、粗末な食事に長時間労働、落盤やガス爆発と背中合わせの不安、労務の非人間的な強制労働は、契約期間を満了して帰国することが唯一つの希望であったであろう。しかしそれすらも思うようにならないとすれば、積もり積もった不満、怒りは必然的に暴動事件として顕在化する。  朝鮮人・中国人の強制連行のあった所では戦後、多くの暴力・暴動事件が発生している。

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 昭和41年9月赤平公園展望台で赤平炭鉱殉職者慰霊塔「黎明の像」の 序幕式が行なわれた。
ここには345人の外国人殉職者も祀られた。

 四大炭鉱が赤平という狭い地域に、最大で5,000人以上の朝鮮人・中国人労働者を働かせていたのである。当然結束のための情報交換、事件の伝達は容易であったと思われる。そのことが会社・官憲にとっては恐怖となり、その反動として監視や各種制約が強化されることになる。そのことは強制連行されたすべての朝鮮人労働者に、その重石をかけることになり怠業、暴動、騒擾となって返されたのである。それは単に付和雷同というべきものではなく、朝鮮人労働者の激しい怒り、深い悲しみの表現なのである。 

 赤平における事件について分類すると、第一に食料・待遇改善問題が挙げられる。食料の枯渇は極みに達していたし、戦時中の食事内容からも当然のことであろう。この種の要求について、赤間・豊里両炭鉱についての記録はないが、同様のことが起こっていたことは想定できる。第二は、朝鮮人・中国人の対立があげられる。赤平以外では北炭真谷地鉱の事件が記録されているが、両事件とも真の原因は分らない。同じような状況に置かれた者同士の対立は不可解であるが、お互いに民族の誇りを傷つけるような何かがあったのではないだろうか。第三は、個人に対する報復暴行事件である。この種の事件は、記録として整理されたものは見あたらないが、ほとんどの地域・事業所等で起こっている。 戦時中の騒擾事件は会社には収拾能力がなく、もっぱら警察力に頼らざるをえなかった。戦後はそれすらもなく警察は完全に機能不全に陥っていた。そのため連合軍の進駐部隊の出動による鎮圧しかなかったのである。

参照・参考文献
『茂尻炭礦五十年史』 136頁 雄別炭礦株式会社茂尻礦業所1967.6
『わが社のあゆみ』 158頁 161頁 住友石炭鉱業株式会社 1990.11
『豊里炭鉱労働者の記録』 3-4頁 岡田知冶 1968.9
『岩波講座日本通史19』 372頁 岩波書店 1995.3

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