・太平洋戦争の実相 −8・15を機に−  (2004/8/15)

今夏も8月15日が過ぎて行く。
終戦記念日を避け今年は既に1月に参拝を済ましたため、靖国神社に小泉首相の姿は
ない。

さて、小泉首相の事はともかく、我が国の歴代首相等の靖国参拝の是非に対しては、
A級戦犯合祀や政教分離等を論点として内外で論争が絶えない。
しかし、靖国参拝に関連するより根本的な問題は、歴史の総括がなされていない事に
ある。

太平洋戦争とそこに至る過程を近代世界史の中に位置付け、現在のように表面的な反
省の表明を繰り返すのでなく、総括された歴史観を内外に明示する事が、8月15日
に靖国参拝を行うか否かという形態的な問題以前に本来日本の首相がするべき事であ
る。
また、筆者はそれが国家のために死んで行った英霊を安んじるに不可欠であると考え
る。

◆開戦の背景
太平洋戦争開戦に至る流れを述べるためには、1868年の明治維新以前から辿らな
ければならない。
15世紀の大航海時代を経て欧米列強は帝国主義に基づき、世界各地の植民地化を進
めてきた。
アメリカ等の圧力によって為された日本開国もその一環である。

幕末の志士と明治の元勲達の巧みな舵取りに加え、アメリカが南北戦争で身動きが取
れない等の当時の国際情勢の僥倖が重なり、開国後日本は富国強兵、殖産興業を図
り、日清、日露の戦争を勝ち抜く事によって植民地にされる危機から次第に脱した。

これらは、日本をロシア等による侵略の脅威から防ぐと共に、列強の植民地主義勢力
の側に加わった事も意味した。
帝国主義の時代においては、弱肉強食がルールである以上、地勢学的条件によっては
防衛と侵略は明確には区分し難い。

遅れてきた帝国である大日本帝国と、同様に遅れて来て西部開拓の延長として西進を
図るアメリカ合衆国は、中国等の権益を巡り必然的にぶつかり合う事になる。

そして、アメリカに強いられた1922年の日英同盟解消が、日本がアングロサクソ
ンと覇権をかけて対立する外交上のターニングポイントとなってしまった。
また、1928年のケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)は侵略戦争を否定した
進歩的なものだったが、これによって欧米列強が既存の植民地主権を固定化しようと
いう流れが固まりつつあった。

特に、1929年の世界大恐慌後は、先進する欧米列強がブロック経済等で守りの体
制に入る事に対して、既に27年に金融恐慌に見舞われていた日本は、治安維持法の
強化や31年の満州事変の様に、全体主義体制と侵略的要素を強めて対抗しようとし
た。

これまでの帝国主義に基づく列強間のロジックによれば、満州事変による日本の満州
(中国東北地方)の植民地化は、産まれたばかりのケロッグ=ブリアン条約はあれど
滑り込みセーフだったのかもしれない。事実リットン調査団による「侵略」認定を聞
き流しても当時の国際連盟は現在の国際連合以上に微力であり、満州の実効支配を続
け日本の大陸進出をそれに止めれば、やがて国際的認知を得られたとの観測は近代史
学者の中にも少なくない。

◆開戦と敗戦
しかし、日本はその道を選ばなかった。
内外の曲折を経ながら、32年の松岡洋佑外相による国連脱退、37年の盧溝橋事件
に続く日華事変、40年の日独伊三国軍事同盟、大政翼賛会発足、仏印進駐、41年
の日米交渉、ハルノート通告と受諾拒否と続き、同年12月8日の真珠湾攻撃による
開戦に至る。

その後、日本軍はマレー沖海戦のイギリス東洋艦隊の主力を全滅させ、香港・マレー
半島・シンガポール・フィリピン・オランダ領東インド・ビルマなど西太平洋および
東南アジアのほとんどの地域を占領する破竹の進撃で緒戦を制した。

だが、42年6月のミッドウェー海戦での敗北を契機に、日本は制海・制空権を失い
戦局は逆転。同年後半からアメリカ軍を中心とする連合国軍が本格的な反攻を開始
し、翌年以降、ガダルカナル島・アッツ島からの撤退、44年6月マリアナ沖海戦で
海軍の空母・航空機の大半の消失、インパール作戦失敗、サイパン島の陥落、グアム
島陥落、フィリピンのレイテ沖海戦での日本の連合艦隊壊滅、アメリカ軍のフィリピ
ン上陸、同年11月からのB29による日本本土空襲本格化と敗戦色は決定的となっ
た。

45年3月東京大空襲、日本の主要都市は空襲で焼け野原と化し、硫黄島の戦での玉
砕、4月アメリカ軍沖縄本島上陸、5月ヨーロッパでのドイツ降伏、7月米英ソ3カ
国首脳が日本の無条件降伏をもとめるポツダム宣言を発表、2月ヤルタ会談でソ連の
対日参戦等が密かに決定された。
日本のポツダム宣言拒否を理由に、アメリカは同年8月6日に広島、ついで9日に長
崎に原子爆弾を投下、日本政府と軍首脳部は天皇の聖断によってポツダム宣言の受諾
を決定、14日に連合国側に通告、15日には天皇が玉音放送を通じて国民に知ら
せ、約4年間にわたる太平洋戦争は日本の敗戦で遂に終結に到る。

◆歴史的位置付け
このように、太平洋戦争は英米に対しては、アジア、太平洋の覇権を賭けての戦いで
あった。

同時に、東南アジア諸国に対しては、この覇権戦争のための物資供給を主目的とした
侵略戦争であった面が強い。
戦争目的としてのアジア開放は、これを純粋に考えていた者もいるが、八紘一宇の言
葉が開戦後に初めて唱えられたことに示される様に、少なくとも体制的には後付けで
考えられたものである。

なお、敗戦の原因として、物量面で元々勝てない戦いであった事以外に、日本軍の
数々の作戦の失敗を見るに当時の日本の全体主義が米英の民主主義、自由主義に較べ
てシステムとして著しく合理性を欠いていた事も否定できない。

太平洋戦争が起こり、日本が緒戦に勝利し、そして引き続き大敗した。
この事が、結果として欧米列強による植民地支配体制を終焉させる発端となった。
敗戦により日本が去った後に戻ってきた旧宗主国は、東南アジア諸国を再び同じよう
に植民地化する事は出来なくなった。
この連鎖反応として、アフリカ諸国等でも民族意識が高まり、植民地支配を難しくし
た。
なお、もし日本が太平洋戦争を勝ち抜いていれば、日本によるアジアの植民地支配が
形を変えて続いていた可能性は否定出来ない。

植民地主義は、数世紀スパンで歴史の流れを俯瞰すれば、先進国の文化文明、産業が
植民地に移植され世界に広まるための器であったとも言える。
しかし、同時にそれは現地民に流血や服従、搾取を強いた。
この両者の矛盾は、最終的には植民地支配の開放により解消され、世界がトータルで
発展の方向に向う事になる。

これを角度を変えて、歴史を「自由を目的とする絶対精神の自己展開」として捉える
19世紀の哲学者ヘーゲルの世界史観に則せば、仮に欧米による植民地支配=「正」
として、日本の進駐=「反」、これらを止揚する日本の敗北と解放戦争の勝利等によ
る植民地支配体制の終焉=「合」との弁証法的展開の見方が大局で成り立つ。
(なお、「正」「反」はヘーゲル哲学の用語であり、何らの価値判断を含まない。)

筆者は、太平洋戦争は様々な要素を含むが、その実相、本質を短く述べるとすれば上
記のような事だと考える。

◆通過儀礼としての総括
「戦争責任」という言葉がある。しかし、負けた責任なのか、侵略した責任なのか、
米英に刃向かった責任なのか、固定化しつつあった列強の権益を覆し当時の世界秩序
を乱した責任なのか、極東軍事裁判の判決内容はともかく、この言葉は渾然とした使
われ方をしており元々曖昧な概念ではある。
しかし、敢えて「戦争責任」について以下考察して見たい。

太平洋戦争については、米英に刃向かった事等は戦の習いで「勝てば官軍」の世界に
過ぎず、そもそも日本が倫理的に責任を負う負わないの類の話ではない。
しかし、合理的に見ても元々勝てない戦争をして国民が苦しんだという失策の面と、
結果的な植民地体制終焉は在れど侵略により少なくとも一時的にはアジア諸国に流血
と服従の苦しみをもたらした事実がある。

この2点に限定しての「戦争責任」が日本政府にあるとの前提に立てば、A級戦犯等
の戦争指導者は指導者責任としてより重い責任を負うべきだが、翼賛体制以前は実質
的に普通選挙制に基づく国民主権が成り立っていた事を考えると日本国民全体も分有
すべきである。
天皇の「戦争責任」については、当時の曖昧な体制を読み解き、旧憲法上は大元帥で
あった天皇に実質的に権限があったかどうかで判断されるべき問題であるが、軍部大
臣現役武官制や帷幄奏上権の存在等も含めて権限の実態を考えれば、直接的な指導者
責任は希薄だったと見るのが妥当だろう。

なお、日本国将兵が国家意思としての戦争に従事し、国家という「公」のために命を
賭して任務を遂行した事自体は、国家の「戦争責任」の有無とは切り離すべき別次元
の問題である。

また、現在もアジア諸国が国により違うが、全体的に欧米よりも日本に反感を持って
いる一因として、日本が植民地主義末期に参入して植民地経営のノウハウが稚拙だっ
た事が挙げられる。
加えて、「赤き清き心」と「祓いと清め」の他は理論的、構造的な教義を持たない日
本神道は、現地人を皇民化、日本人化する以外に教化する方法が無く、物理的にはと
もかく欧米によるキリスト教化より現地の文化、習慣を変更する精神的苦痛を感じさ
せた面も否めない。

日本を含む近代以降の列強による植民地主義、帝国主義は、欧米諸国も総括出来ては
いない。
しかし、日本は過去の失敗を反省し教訓としつつも、単なる反省に止めず開国後から
太平洋戦争までの歩みを近代世界史の大きなパースペクティブの中に位置付け総括
し、内外に向け表明すべきである。

筆者は、それが日本がアジアのリーダーとして再び立つための通過儀礼と考える。

 

                       以上

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